(基紀さんは、本当に彼女が好きなのね)

 千花は了承の返事をして応接室を出る。

 そして翌日。
 出社時間よりも三十分以上遅刻して店にきた希美を、更衣室に呼びだした。

「仕事だという自覚があるなら、始業時間には遅れないように」
「私は将来の社長夫人よ! なんなの三十分の遅刻くらいで!」
「社長夫人だろうがお客様を待たせるわけにはいかないわ。お客様がいるから、基紀さんは社長でいられるんだってわかってる? 働く気がないなら、基紀さんに生活の面倒をみてって言えばよかったじゃない」

 千花が窘めると、希美はきっと目を吊り上げて叫んだ。

「基紀さんって言わないで!」
「……ごめんなさい」

 八年も一緒にいたのだ。彼の名前を呼ぶのはもう癖みたいなもの。どうして自分が彼女に謝らなければならないのだろう。
 彼女の感情は部屋に入ってきてからずっと喜びに満たされている。おそらく、怒った振りをしつつ、元妻である千花を遣り込めることを楽しんでいるのだろう。

「基紀に未練があるんでしょ」
「未練なんて……」
 ないとは言い切れない。言葉を濁す千花の思いを察したのか、希美が苦々しい表情でこちらを睨みつけた。

「基紀と私は運命の番。あなたの出る幕じゃない! さっさと消えてよ! あなたが一緒に働いてるのも私は不快なの!」
「消えたら仕事も教えられないんだけど」
「ほかの人に聞くからいい。あなたとなんて喋りたくない!」

 希美にそう言われたら、千花にはどうすることもできない。
 それに、スタッフへの紹介だけは千花がしようと思っていたが、はなから彼女への研修を担当するつもりはなかった。後輩の一人に頼むつもりでいたのだ。その方が千花にとっても希美にとってもいいと思ったから。
 まだ希美が来てから一時間も経っていないのに、千花はすっかり疲れ果ててしまっていたのだった。