「わ、私はなんの関係もないんです! あの、紫藤グループって……あの紫藤ですよね! 私、町田希美って言います」

 希美はまったく空気が読めていないのか、隼人の腕に自分の腕を絡ませた。その瞬間、空が輝き、どんっと雷がビルに直撃した。

「きゃ……っ」

 隼人は小さく舌打ちをして、希美を突き飛ばす。
 軽くとんと肩に触れただけに見えたが、希美は本社の自動ドアに背中からぶつかった。がしゃんと大きな音が立ち、自動ドアが割れる。

(え、今……そんなに強く押してないわよね……)

 隣の隼人を見ると、怒りを抑えるかのように厳しい顔をしている。空を見れば、ざぁっと激しい雨が降り注ぐ。警備員の一人が、隼人と自分が濡れないように傘を差してくれたが、雨も風もひどく一分も経たずにびしょ濡れだ。

 まさか、と千花は青ざめた。彼が言っていたではないか。
 紫藤一族は力の強弱はあれど感情が荒ぶると海が荒れ、この国を沈めるほどの力を持つと。あれは本当のことだったのか。
 千花は自分を落ち着かせて、隼人の腕をそっと掴んだ。
 すると隼人が我に返ったような顔をして、こちらを見る。

「ごめん……ありがとう」

 隼人は肩で息をしながらも、呼吸を整えた。そして、千花を引き寄せ腕の中に抱き締める。彼の荒ぶる気持ちを抑えるように千花は背中をとんとんと叩いた。
 するとあれだけ降り注いでいた雨が止み、風が穏やかなものに変わったではないか。

「どういうことだよ、千花!」
「千花の名前を呼ぶことを許した覚えはない」

 基紀がこちらを見るが、千花は基紀を見なかった。彼への感情はもう整理できている。あれだけ愛していたのに冷たいかもしれないが、先に千花を裏切ったのは基紀だ。

「職も住むところも奪ったが、命までは取っていない。いくらでも再起できるだろう。千花、なにかある? 俺としては君がこの男に視線を向けるのもいやなんだけど」
「ふふ、なにもないわ。元夫ってだけだもの」

 隼人の言葉を聞いて、千花がやられたことをやり返してくれたのだと気づく。
 基紀は縋るような目を向けて叫んだ。

「千花がこいつに頼んだのか? 謝るからやめさせてくれ。住むところもないんだ。何日も風呂にも入れてない。助けてくれ……俺が悪かった。だから」
「許すわけないでしょ、バカじゃないの」

 ぴしゃりと言うと、基紀が固まった。

「だって、そんな……紫藤が出てくるなんて……俺はこれからどうすれば……」

 彼はその場に膝をつき、崩れ落ちた。
 千花はそれを見ても、なにも思わなかった。


 紫藤家に帰ってきた千花は、自室として与えられた部屋でぼんやりと考えていた。
 番なんているわけがない、と千花も思っていたが、隼人の持つ力の一端に触れた今、信じざるを得ない。
 あのあと、希美は救急車で運ばれていき、基紀は警察に連れていかれた。
 そもそもどれだけの権力があれば、人の不動産や会社をさらりと奪えるのか、千花には見当もつかない。
 隼人は、千花が傷つけられたという理由だけで、それをしてしまったのだ。

(愛が重いわよね……)

 それなのに、隼人の愛を嬉しいとも思う。自分の感情が恋愛感情なのかはまだわからない。もしかして、どうにもならない現状を救ってくれた吊り橋効果で惹かれているだけなのかもしれないとも思う。

「ちゃんとお風呂入った?」

 部屋に隼人がやって来て、千花の髪に触れた。

「うん、入ったわ。紫藤さんは?」
「入ったよ。ね、その紫藤さん、もうやめない?」
「え?」
「名前で呼んでほしい」

 懇願するように言われて、千花の頬に熱が籠もる。

「は、隼人さん?」
「千花、どうしたの? いつもの勢いがないね」

 隼人が揶揄うような口調で言った。

「仕方ないでしょ! 恥ずかしいの!」
「なにが仕方ないの? 俺たち、夫婦になるんでしょ?」
「だって……これ以上、あなたに惹かれると困るもの」

 約束だから結婚はする。だが本当はまだ、誰かを好きになるのが怖いのだ。
 自分が本当に隼人の番だなんて信じられないのに、どっぷりと彼の愛に溺れてしまって、本当は違ったと言われたら。
 隼人に惹かれ始めているからこそ、その愛を享受するのが怖い。

「あ~、可愛いなぁ」

 隼人はそう言って、千花を抱き締めた。
 風呂に入ったばかりだからか、頬に触れる彼の髪が冷たい。

「冷たいわ」
「ごめんごめん」
「全然、そう思ってないでしょ」

 千花が拗ねた口調で言うと、もう一度ごめんと返される。そして、彼は耳の近くで「いいんだよ」と呟いた。

「なにが、いいの?」
「そんなに急いで俺を好きになろうとしなくていい」
「結婚するのに?」
「いいよ、俺が千花を大好きだから、それを知っていてくれたらいい」

 大好きだという彼の言葉が心に染みた。その言葉にうそがないのは、相変わらず赤色に覆われているオーラでわかる。
 いつだって隼人は言葉でその色で千花に想いを伝えてくれていた。

「俺は君を離すつもりはないから、逃げても捕まえるけどね。初めから同じだけの愛情が返されるなんて思ってないよ。それに……こうして抱き締めさせてくれるだけで、かなり進歩したんじゃない?」
「あ……」

 慌てて離れようとするが、強く抱き締められ離してはもらえない。しかもそれがいやではないのだから、彼と同じだけの愛情を持つ日もそう遠くないような気がしている。

「結婚しよう、千花」
「最初から、そういう約束だったでしょ」
「そうだね。でも、ちゃんと伝えたかった。ね、結婚したら、一緒になにをしようか」
「そうね……海に一緒に行きたい、かな」

 隼人と目が合い、そうすることが自然であるかのように千花は目を瞑った。
 唇に温もりが触れると、胸が詰まるほどの幸福感に包まれる。