「あの、明日も仕事なのであまり遅くまでは困ります」
「大丈夫。帰りは家までちゃんと送るよ」
「その辺で話をするわけにはいかないんですか? 邸って、あなたの家ってことでしょう?」
「安心して。一人暮らしじゃない」

 隼人の家には行きたくないと言っているのだが、走っている車を停める術はない。彼には押しつけがましい雰囲気はまるでない。
 隼人の声には人を安心させる力でもあるのだろうか。男性への危機意識は人並みに持っているはずなのに、彼がそう言うなら大丈夫かと思ってしまう。
 カウンセリング中もそうだ。エステティシャンなんてしていると男性客に言い寄られることも珍しくない。
 客から、運命の番だなんて言われたら、即チーフに相談案件だ。客を出禁にしてもらうこともあるし、あまりに執拗ならばストーカーとして警察に突きだすことだってある。
 けれど、隼人にそう言われても、おかしな人だと思いはしたが、自分に危険があるとは思わなかった。

(この人の雰囲気のせい……?)

 穏やかで優しい雰囲気を纏っているからか、怖いほどの美形なのに近づきがたさはない。感情の起伏が激しくなく話し方もゆっくりだ。
 千花はしっかりしろと自分に言い聞かせて、警戒を緩めないようにした。

 やがて到着した家……いや、邸の前で千花はまたもやぽかんと口を開ける。
 立派な門を潜った先にあったのは、とても個人の邸宅とは思えないほどの壮大な建物だった。一面に芝生が広がり、木で造ったオブジェがそこかしこに置かれている。庭の中央には大きな噴水があり、その横を車で通り過ぎた。

(この人、紫藤って言ったわよね。紫藤ってまさか……)

 この国には謎に包まれた一族があった。それが紫藤家だ。表には決して出てこず、紫藤の当主には一部の人間しか会うことが許されていないという。
 情報通信に物作りから流通、銀行、不動産、アパレルなど、どの業界のトップにも紫藤の名前がある。政治にも深い関わりがあり、紫藤が関わると経済が大きく動くとまで言われているくらい国内のどの業界にも名を連ねているのだ。
 このホテルと見間違うほどの豪邸を個人宅として持てる人など、紫藤家くらいしかない。

(だからなんでそんな人が私を番だなんて言うのよ!)

 車を降りて、隼人から手を差しだされるとあまりに驚きすぎて、その手を取ってしまった。嬉しそうな顔で微笑まれ、赤いオーラがぶわりと彼を覆う。そこで初めて自分が隼人と手を繋いでいることに気づき、その手を離した。

 また悲しそうな顔をするのでは、と身構えていると、予想に反して彼のオーラは赤から青にはならず、ほっとする。

(だから、どうして私がこの人の機嫌を気にしなきゃならないの!)

 しばらく歩くと、二階建ての横に広い木造住宅の中央にエントランスが見えてくる。
 ホテルのような両開きドアを潜ると、年配の女性が数人出てきて、隼人に向けて深々とお辞儀をした。