演技が怖くなったのは、いつからだろう。
 演技とは怖いものだっただろうか。
 いつかドラマを見て、家族に誘われて実写映画を見て、舞台を見て、ミュージカルを見て。
 そんな役者という職がかっこ良く見えたのはどの地点からだろう。一体、僕はその地点から何を見て、なりたいと思うようになったんだろう。
 答えはわからない。時間が経過するごとにそのかっこよささえ忘れていく。
 サブスクもあってなんでも月額で見れる時代でも、思い出はすぐに見返せるわけもない。
 なのに、かっこいいと思えたその瞬間は続いていた。この瞬間だけは何度も思い出す。
 あのドラマに出ていた役者が、演技が、アクションが。
 そして、そんな思いを抱いたまま高校二年生になって南沢に出会った。
 今まで、桜はずっと本当ドラマ好きだよね、映画また見にいくの!?なんて驚いているくらいだったのに。
 同じ夢を持つ驚きとはこれほどまでに運命を感じてしまうのだろうか。
 南沢はどこまでやるのだろう。どんな位置にまでいきたいのだろう。脇役も主役も全部やり倒して行きたいのだろうか。僕はそうだ。そして、売れたい。それとも彼女は程よくやって終えたいのだろうか。違うだろう。
 話題が尽きることはなかった。部活がなく空いた日は、近くのファストフード店に行ってドリンクバーを頼んで条例の補導時間ギリギリまで会話していた。
 役者の話だけじゃない。最近の話題も流行も恋愛も。
 桜はあまりドラマや映画に興味がないから、話題として振ることはなかった。だからこんなにも自分は語りたいのだと客観的に気づいた時は、僕もオタクなんじゃないかと錯覚するほどで、なぜだか恥ずかしかった。
 南沢にならドラマの話もできる。それが、何より仲間という気がして嬉しかった。
 桂は、まぁ、あいつは部活仲間ってことで。男友達を友達だと断言するの恥ずかしいし。
 映画も一緒に行きたい気持ちはあったけど、そこまでするとクラスメイトに勘違いされそうでやめた。南沢に勘違いされたいわけでもなかったから。
 ただ友達としていたい。
 桜と少し距離を置きたくなったタイミングもあって南沢は、同じ話題が尽きることなく語り尽くしあえるタイプだから余計に意識が行ってしまった。
 桜にちゃんと話さなきゃいけないと思う一方で、わかってくれないと思う自分もいた。
 部活のない日に桜にちゃんと伝えようと声をかけに向かった時。
「おーい、葉!ちょっと、相談!」
 桂だ。よりにもよって桂が邪魔をする!
「何?ここじゃダメ?」
 すると近くにいた南沢がダメに決まってるでしょと、廊下に出してきた。
 これ桜の前でするなよ。僕が桜のこと嫌っているように見えるじゃないか。
「桂が、末永さんのこと好きなんだって」
「……」
 笑えないジョークだと小馬鹿にしてやりたいのに、桂とくれば真剣な眼差しで「俺、嘘ついているように見えますか?」なんて言いかねないせいで言い返せなかった。
「てことで、相談乗ってください!南沢もいるから!」
「南沢がいればついてくると思うのかよ」
「ちょっと?」
「あ、わかった。行きます。はい、行きます」
 結局、桂のクソどうでもいい恋愛相談、恋バナに付き合わされるようになった。
 それだけならいいものなのに、女子がいるせいかやたらと僕の恋愛対象者は誰なのか聞こうとする。いいじゃん、別に今まで通り好きな仕草とかセリフとかそんなもので。
 なんで、踏み込んで来るんだお前。
 悪態をつきたいところだが、我慢して話を聞く。
 要は、あまり話したことのない桜とどう距離を詰めればいいですかということだ。
「末永さんってさ、彼氏いたことあるのかな」
「ないでしょ。聞いたことない」
「……じゃあ、初彼氏」と、桂。
「黙れ」
「え、なんで?付き合ってないんでしょ?」
 南沢の綺麗なカウンターに血が出そうになる。
「まぁ、そういうの本人からしたら嫌だと思うから」
「嫌って……、自分の気持ちくらい素直になりなよ」
 見透かされているような気がして居た堪れない。
 やっぱり誘いに乗るべきじゃなかった。
「え……、やっぱ葉って」
「黙れ、引っ叩くぞ。あいつはただの幼馴染だ」
 本気でそう思っているなら今の流れはなかっただろうし、下手な発言もしなかったはずなのに。
 腐れ縁なのかもしれない。
 それは答えのような気がした。
 いや、それが答えだった。
 この時から決定的に距離が遠くなっていた。素直になればよかった。桂にも南沢にも本音を言えばよかった。
 相談していればよかった。桜の発言に悩んでいるんだと、伝えたいことをどう伝えればいいのかと聞けばよかった。
 できなかった。桂と桜が付き合うだなんて想像したくもないくせに、僕は南沢と同じように普通の顔して恋愛相談に乗っていた。
 そして、桂は告白した。
 距離ができてしまっていた僕にはどうして振ったのかなんて聞けない。
 間違いなく歯車はズレていた。
 彼女が時折、教室で僕に目を向けている時があった。
 視線というのは気づきやすくて、桜のあの純粋に苦しそうな目を無視し続けた。
 ある時、南沢に指摘された。末永が相川を見ていると。
 知っているとだけ答えた。
 ここでも間違えたんだ。相談すればよかったのだ。「仲直りしたい」とただ言えばよかった。南沢に悩みを打ち開ければよかった。
 本当は、わかっていたはずなのに。
 しかし、そんな時に南沢が言う。劇団所属のためのオーディションがあると。なりたかった役者に近づける。その思いと今の苦しさを紛らわすために受けた。純粋な気持ちなんかじゃなかった。
 部活もあったために忙しく時間は過ぎていった。
 同時に桜のことを考える時間も減っていった。心のどこかで安心した自分がいた。それに驚いたことをよく覚えている。
 だけど、知らない誰かが僕の脳に何度も声をかける。最低だ、と。

 人の記憶というのは残酷だ。その出来事に対して強い拒否反応を示すとその出来事の記憶が消えたり、人格を一つ形成する原因になり得る。
 僕の場合は後者だ。そして、特殊だった。憑依型の演技と言えばわかりやすいのかもしれない。
 僕にはある意味人格というのが二つあった。
 悟と愛斗だ。
 しかし、それは稽古時であってそれ以外はなかった。問題などなかった。ただ一つ取り上げるなら自分に戻ることが難しいという点だ。そして、自分が消えるという漠然とした感覚があり、確実に侵食していた。
 自分でもどうやって普段戻っているのかわからない。
 言うなれば、演技をしている時は俯瞰的に物事を見ている。自分が自分ではない。誰かの記憶を見ているよう。戦闘モノのゲームでたくさんのキャラを自分で操作しているよう。役の声音も表情も自動操縦されている感じ。
 そう、だからスッと現れる死神はずっとそこにいて、俯瞰しているーーそれは死神ではない。
「君は、相川葉だね」
 気付けなかった理由は、一つ。
 僕と相川は似ているから。
 愛斗である僕は、恋愛劇の主役だ。ファンタジーでもないし、活気溢れるキャラでもない。
 相川を同じだ。だから、本来ありのままで良かったところを本人は憑依型の演技で僕を呼び出した。
「正解。まぁ、それは本題でもなんでもないけど」
「わかってる。君は、花火祭り以降僕が怖かったんだろう?自分が愛斗と同化していくようで」

 花火祭りのあの日。桜がいたような気がした。桜に見られている気がしてならなかった。
 そしてふと思った。このまま愛斗でいられたら僕は桜に素直に謝る時、必要以上に傷つかなくて済むのではないかと。
 でも、それは常に演技をすることになってしまう。
 演技は体力勝負だ。
 スタミナが持たなければ動けなくなるように。南沢に対して演じた時と同様に僕は一時的に動けなくなった。
 機械と同じように少し誤作動があり動けなくなると本来直してから動かす方がいい。故障しかねないからだ。
 しかし、僕は無理やり動かした。気持ちもテンポも役の入りもグダって故障した。
 家に着くと玄関でぶっ倒れるように寝た。
 起きるとベッドにいた。父が運んでくれたそうだ。
 ぶっ倒れている僕を見て必死に声掛けをしたらしいが僕が発したのは「桜……」の寝言だそう。
 寝ぼけているだけだと気づいたそうだがわざわざ寝させてくれたらしい。
 それにしても寝ていても桜を想うなんて残酷だ。
 それほどまでに僕は桜に伝えたいことがあるんだと自覚した。
 もうこれ以上逃げてはいけないのだと悟る。
 桜の笑顔をまた見たいのかもしれない。
 泣きたくなった。こんな最低な自分でごめん。
 どうか許さないでほしい。文句を言って不平不満を口にしてドスドスと近づいてビンタなり拳を振るうなりしてほしい。
 本当にごめん。
 スマホを開く。「会って話したい。連絡を無視してごめん。その理由も話したい。今の気持ちを伝えたい」
 すぐに既読はつかなかった。ベッドから上がろうと上体に力を入れるがなぜだか力が入らない。
 電話が来た。桜だと思いすぐに出たが全く違う声だった。
「今日、稽古の前に会わない?」
 南沢だった。こんなにも力が入らないのにどうして会おうなんて思えるのだろう。
 日にち画面を見れば、花火祭りから二日が経っていた。どれだけ寝ているんだと心の中でツッコミを入れる。そりゃ起き上がるのも大変だわな。
「わかった。どこに行けばいい?」
「うちに来れる?ちょっと寄り道するくらいだから大丈夫」
 地図のURLが送られてくる。
 確かにあいつの家は高丘町だから寄って行くとは言え遠回りになるどころか少し近くなる。
 実際、高岡町は通り道だ。帰り道だけは一緒に帰っていたけど。
「行くよ」
 けれど、彼女はこの日ただ一緒にいきたかっただけだと言った。
 会いたくて、話したくてそれで電話したと。
 もっと鈍感ならよかった。南沢はきっと僕を友達だと思っていない。好きな相手だと思ってる。
 しかし、それ以上に酷いことがあった。演技ができなくなっていた。
 その日は悟を演じなければならなかった。愛斗ではない分何かと運が良かったと思っていたけど、そんなことはなく散々な演技になってしまった。
 流石の三島も心配している様子。
 なんで?疑問が頭を埋め尽くして行く。
 鏡に映る自分の姿がどうも醜い。
 お前は悟じゃない。
 お前は誰だ?お前は、相川葉なのか?
 違う。僕はいらないじゃないか。じゃあ、誰?そこに映るお前は誰だ。
 広丸が肩を揺する。
 努めて明るくしてみると運が良いのかいつも通りの返しをされた。
 ドッと汗が流れていた。
 それはどう見ても相川葉だった。
 家に帰る前高丘の公園で演技の練習に付き合ってもらった。でもやっぱり。
「……南沢、僕、もう演技ができない」
 スランプのようなものでありたかった。少し落ち着けば演じられると思いたかった。少しの休みがあれば大丈夫だと思った。
 だけど、こういう時直感は働く。
 もう、無理だ。
 演技から一旦距離を置こう。
「相川……」
 震える体が呼吸を薄くさせる。
 そっと抱きしめられるとその温かさに甘えてしまいそうだった。
 自分を立することさえできなかった。されるがままになっていた。
 そして、彼女は言った。
「見学するだけにしようよ。今すぐ決断するのは判断が早い。迂闊だよ」
 明日も一緒に行こうと彼女は付け足す。
 もう少しだけ頑張れそうだとは思えなかった。
 だけど、言い返すこともできなかった僕は頷くことで南沢の言葉に賛成してしまったのだ。
 できるだろうか。
 演技を、上手に今まで通り、いいじゃんと良い評価を得られるだろうか。
 演技の評価を下げたくない。
 これ以上、三島たちに迷惑かけたくないし、何よりこのまま演技を続けて足を引っ張りたくない。
 三島は今回劇団で初めての主演だ。邪魔はできない。
 だめだ。考えれば考えるほど苦しくなる。
 出ない方がいいんじゃないだろうか。
 せっかく、オーディションで勝ち抜いたのだ。評価してくれたのだ。ここで折れてしまっては結果は出したことにならない。
 舞台に出て演技をして最後までやりきって、やっと、評価されるんだ。
 結果がものを言う世界だ。結果が全てだ。
 過程なんてどうでもいい。
 僕が出て、僕が魅了してその場にいることが大事なんだ。
 個人練習とか稽古とか客からはどうでもいい。
 いかにどれだけのパフォーマンスを、心を揺さぶられる演技ができるかなのだ。
 それを見せたい相手がいる。
 伝えたい相手がいる。
 傷つけてしまった大切な人へ。
 ただ家が近くて幼少期から一緒で仲がいいあの人に届けたい。
 でも……。
「今更、僕を許してくれるだろうか」
 日が明けて、今日の夜会えないかと、LINEを送った後で思う。
 桂のインスタのストーリーには桜と一緒に花火祭りに行ったことが載せられていた。
 もう、桂へいってしまうのだろうか。
 このまま桂にいったら、付き合ったら僕は、素直におめでとうと言えるだろうか。
 言えないだろう。
 こんな中途半端な僕を見て、好きになってくれるわけがない。
 だから、こんな中途半端な自分を好きになっている桜の夢を見たんだ。現実逃避だ。
 理想的だ。こんな奴を好きになってくれるバカがどこにいるんだよ。
 それでも、僕は考え続けた。
 何度も練習する。演技をしようと覚えている台本を置いて立ってみる。
 何もない空虚に向かって深呼吸をする。
 セリフを言う。
「……」
 言えなかった。言えるわけ、なかった。
 なぜなのかもわかっていた。
 もし、演技をしてその後自分自身を忘れてしまったら?
 それが何より怖かった。歯止めが効かなくて、いつまでも愛斗を演じた自分がとても怖かった。
 南沢のあの恐れた表情を思い出す。
 役者としては満点なのかもしれない。僕が考える演技に対しても満点だったのかもしれない。
 しかし、それが怖かった。
 自分が怖くなった。
 納得いく演技ができたはずなのに、それが今できない。
 継続的に演技ができないように思えた。
 だが、それも違うということくらいよくわかっていた。
 セリフじゃなくて、アドリブだ。
 それは、演技と言えるだろうか。僕自身だと言えるんじゃないだろうか。
 おかしくなり始めていた。
 僕が、僕であると思えなかった。愛斗という僕なんじゃないかと。
 僕は愛斗で、愛斗は僕。
 その構図が恐ろしい。
 やめるべきかもしれない。人に迷惑かけるのならやめた方がいいんじゃないだろうか。
 嫌だと思う自分がいるのに、結局自分は自分がどうするべきか理解できていない。
 答えは出ていない。
 自転車にまたがり南沢の家に向かう。もうそんな時刻だ。
 考えていただけなのに。時間の経過は恐ろしい。
 怖い。僕が、僕じゃないみたいで怖くて震える。
 視界がぼやける。どうして?
 自分の感情さえ把握できていないのかもしれない。
 自転車のバランスが崩れる。
 ブレーキをかけて止める。が、止められない。
 力が入ってない?
 信号が青に見える。いや、青だ。
 自転車は前を進んだまま。ペダルは踏んだまま。
 横から自動車がやってくる。しかも、速い。
 なんで?青じゃないのか?
 わかんない。頭がパンクしそうだ。どうしたらいい?
 ブレーキ?進む?
 信号は青?赤?
 刹那、体は自動車に飛ばされ大破、飛ばされた体は受け身を取ったのか、腕に痛みがあるだけだ。
 頭は当たっていないだろう。
 安心した。
 なのに、涙が出てくる。
 もう、わけがわからない。
 誰か、僕を進路を選んでくれ。劇に出るべきだろうか。桜にどんな想いを伝えればいいのだろう。
 僕はまだ彼女からの返信も既読も確認できていない。

「僕は、僕になんて言えばいいのかわからない。自分のことなのに。だから、僕は、選べなかった、のか」
「断片的に見れば、戻りたくもなる。夢だけ見ていれば」
 テレビのようにその惨状を見ながら僕が僕と対話している。
「現実を見るべきだった」
「夢を叶えるために早すぎるほどの決断をするのはいいことだと思ってる。ただ、これに関しては判断が遅すぎた」
「桜に謝ること、役について相談するべきだったこと」
「そうだね」
「今から、できるだろうか」
「できないとは限らないんじゃないか」
「どうだろう。わからない」
「わかるはずだよ」
「答えは、すぐに決めるべきか?」
「また、判断を先送りにするのか?」
「……何度も夢を繰り返したのは、この現状を知りながら現実に戻ることが怖いから、か。さくらに対する感情も理解したくなくて」
「判断はできるはずだよ。リスクもわかっているはずだよ」
 この夢を通して何度も考えていたことだ。
 桜が怒ること、悲しむこと、泣くこと幾度となく考えたことだ。
 悟の役はもう演じられないだろう。劇団はそう伝えてくるはずだ。僕はそれを受け入れらないのかもしれない。
 オーディションで勝ち取った役だから。そこそこいい役だから。
 その現実がとても苦しく怖いのだ。逃げ出したいのだ。
 実際、今僕は巻き戻して欲しいと彼の両肩に手を乗せて懇願していた。
 怖いから逃げたい。言えないから逃げたい。演技ができないから逃げたい。
 いつまでも向き合うことをせず逃げていたい。向き合うことは怖い。
 そうだ、まだ高校生だ。逃してくれ。
 許さなくていいから、逃げ続けさせて。
 でも、思いの外、頭は冷静だった。
 全部、言語化できる。今の気持ちも、抱いていた不安も後悔も、人の温もりも優しさも嬉しさも喜びも。
 真面目に向き合ってきた演技だって。真面目に相対してくれた南沢や桂、桜だって。
 誰かが言っていた。逃げるは恥だと。
 そして、また誰かが言った。だけど、役に立つと。
 準備をする期間がある。向かい合うための心の準備ができる。言葉を用意できる。
 さらに誰かが言う。生き抜くことの方が大切だと。
 誰の言葉だっただろうか。ドラマのセリフだろうか。
「君は、一貫して生き抜くことを無意識の中で考えていた」
「だから、生きていけないと怖くなって逃げ出した」
 今のままじゃ生きていけない。直感だったのかもしれない。生存本能なのかもしれない。逃げたいだけじゃ、だめだ。それでも考えなきゃならない。
 そして、大切な人に向かい合わなきゃならない。
 僕は、ドラマや映画で何を見てきた。
 人の人生を見て、生き方を知って、喜びを知って。
 そばにある幸せを喜ぶために。
 劇を好む人だって、ドラマを好む人だって。
 一方、劇に出る人だって、ドラマに出る人だって。
 きっとどこかで人の幸せを願ってる。誰かの笑顔を願ってる。
 誰かの幸せのために生きたいと願ってる。
 エンターテイメントは、その願いをのせているはずなんだ。
 苦しくてもその先にある喜びのために。
「逃げるのは、もう終わりにする」
 それが答えだ。
「まだ問題はたくさん残っているけど?」
「わかってる。でも、伝えたいことは纏まってる。逃げないよ。例え、傷ついてもそれでも、もう逃げたりしない」
 だから。
「返してくれ。現実に」
 彼が、言い返すことはなかった。
 死神だと思っていた。死神であることに違いはない。
 愛斗の時もあったのだろう。僕である時もあったのだろう。さとるの時もある。
 僕が、僕と向き合う時間をこの夢の中でたくさん費やしてきた。
 死神とは程遠い、ただ知らなかった、ただ弱かった自分だ。
 自分を知ることなんて容易いものじゃなかった。だから、徐々にわからなくなっていった。
 そうだろう。
 そうなんだよ。
 自分が自分を知るまでにどれだけの時間を費やそうともそれは、かけがえのない大切な時間だ。
 誰かと話すことも誰かと笑い合うことも誰かとぶつかり合うことも。
 それは、自分が自分であるために大切な時間になる。
 よかった。このタイミングで、知らない僕を知ることができて。
 人は前に進む。そんな言葉をどこかで聞いたことがある。前を向いて歩いていけと。
 でも、いつだって時間だけが進んでいく。
 変わらない自分が、何気ない毎日が、そこにはあって。
 夢から離れていってしまいそうな自分が、今も変わらずにそこにある。
 それが、僕には息苦しくて、でも、誰かがいるから踏み出せた。
 前を進むとは、時に残酷な選択を迫る。
 どれだけ仲が良くても分かり合えない価値観が目の前にはある。勘づいていた現実が鮮明になる。
 ただ平穏に、大きな幸せもない代わりに大きな不幸もない淡々とした生活を。大きな幸せを得るなら、大きな犠牲も不幸も味わう必要があることを僕は知らなかった。
 桜との関係が離れ離れになるのが怖かった。桜を否定することが怖かった。桜とずっと一緒にいた日々だから。それが枷になってしまいそうで自分から離れた。それが、最終的に大きな溝を生んでしまった。
 自分の気持ちを伝えるだけでよかったのに。
 少しの逃げで向き合う準備をしていればよかったのに。
 しかし、僕はできなかった。
 できないことをそのままに、一歩を進めた。
 直していない部品をそのままに動かしてしまったのだ。
 キャパシティが大きいわけじゃない。容量が多いわけじゃない。
 徐々に膨れ上がって制御できなくなって、壊れてしまった。
 逃げ出すこともやめて無理やり一歩を進めた結果がこれだ。
 だから、目の前にいる彼ーー自分に言うんだ。

「それでも向き合うよ」

 話し合いがなければ犠牲はない。この長い長い夢の中が大きな犠牲だ。不幸だ。しかし、これからも払い続けるだろう。この先にある、話し合う犠牲を僕は選ぶ。
 だから、不幸の先にあるのは幸せだけでいい。僕は、そう思った。僕が望んだ幸せだけがあればいい。
 夢が覚めた。
 まだ記憶はある。
 体は事故のせいで動かない。
 体を起こす力もないのかもしれない。
 感覚はある。手を握られている。……温かいな。
 手を握るその人は、僕に顔を近づけた。
 あぁ、会いたかった。話したかった。
 勝手に流れる涙。体は動かないと言うのに不思議だ。人体はおかしい。泣きたくなんかないのにさ。
 その手が頬を拭っている。
 馬鹿か。やめろよ。
 こんなみっともない姿見せられないだろ。
「おはよ……っ!葉……!」
 そのくせ、涙をボロボロ流すその人は、僕を抱きしめてワンワン泣いている。
 変わらないその人の姿があるのはきっと、桂がずっと一緒にいようと思ってくれたおかげなのだろう。
 クラスでたった一人にさせてしまった彼女へ。
「ごめん……、桜……」
 二人して泣いているのは気持ち悪いだろうか。
 気持ち悪いだろう。
 それでもいいさ。
 まだ伝えたいことは山ほどある。
 これから伝えていくよ。
 この先にある一歩を信じて。
 消えない傷を忘れずに。
 ただ、今はこの時間を大切にしたい。
 傷がまた増えていこうとも。