登校して朝一番、職員室のドアを開け担任に用紙を手渡すと、用紙をじっくり見つめたあとひどくがっかりした様子になった。
 それ以上私は言うこともすべきこともなくて、「それでは、失礼します」と職員室を立ち去った。

 そして教室へと赴き自分の場所へ着席すると、朝からほんの少しだけ、いつもより騒がしいことに気付く。

 私を通り越して注がれる視線の先に原因がある、ということにも気が付いた。
 その原因となっている人物はそのことに気付いているのかいないのか、例のごとく窓の方を向いている。

 私からは後ろ頭しか見えなかったけれど、普段とは違う彼の姿が窓に反射して映っていた。

 みんながひそひそと話している内容を代弁してぶつけたのは、真結だった。

「大溝くん、マスクやめたのー?」

 SHRが始まる前、私の席に集まって三人で喋るのが日課になっていた。

 今日もいつも通りに凛花と話していると、少し遅れて来た真結が真っ先に大溝くんの変化に気付いて、私たちの会話そっちのけで大溝くんに話しかけた。
 真結のその大きめのひとことに教室が一瞬静かになって、だけどはっとしたかのようにすぐに日常を取り戻す。

 それでもやっぱり気になることに変わりはないみたいで、みんながみんなこっちの方を遠巻きに見ているのがなんとなくわかった。

「……マスクしてなかったらなんかおかしいか?」

 こっちをゆっくりと振り返った大溝くんは机に肩肘をついた横柄ともとれる態度で、その口調も相まって機嫌が悪いように見える。

 薄めの唇は真一文字を描いていて、昨日までの私だったら「感じ悪い」って思っていたはずだ。
 まあ、昨日会話したからそういうわけじゃないってわかるけど。

 それを知っているのは、きっとこのクラスで私だけだろうな。

 大溝くんの口元をよく見れば、口の端がひくひくして震えているのがわかるし、ただ緊張しているのだろう。

 これまでと違ってマスクがないことに違和感を覚えているからか、大溝くんは口元を気にしている様子だったけど。

 それでもやっぱり、マスクはしない方がいいなって感じた。

 意外と男前な顔してるんだから、いままでもったいなかったんじゃない?って思う。

 とりあえず、昨日の今日でマスクを外して来たその行動力には称賛を送りたい。

 それにしても、真結ってほんと物怖じしない性格だ。
 誰に対してもこうだから、本当にすごいなって感心してしまう。

「ううん、マスクしてない方が断然いいと思うよー!」

 真結はきらきらしたまあるい瞳で身を乗り出しながら、大溝くんにそう言った。

 戸惑ったように唇を震わせた大溝くんは小さく「……あっそ」って返事をして、またぷいと窓の方を向いてしまった。

 けれど、後ろから見える耳が薄っすら赤くなっていたから、きっと照れ隠しなんだろう。

 ……マスクない方がいいじゃん、って、私が一番に言いたかったな。

 そんなふうに湧き出た気持ちに、そっと静かに蓋をした。







 東階段、四階の踊り場。

 たまにそこで喋ろうと言ったはいいものの、具体的にいつ話すかなんて決めてなかった。
 たまに、の頻度ってどのくらいなんだろう。

 気晴らしにもなるし、トイレに行くと真結と凛花に告げてから、一応踊り場に向かった。

 いなかったらいなかったで、別にいい。
 私のほんの一時の自由時間になるだけだ。

「よお」

「あ」

 四階への階段を上っていると、大溝くんの声が降り注いだ。

 手すりから上半身をのぞかせて、片手を上げている。
 その姿に、少しだけほっとした。

 ……来てたんだ。

 少しだけ駆け足で階段を上ると大溝くんがまた「よお」と言うから、私も「どーも」と返事をする。

 人ひとり分の距離を空けた、階段の一番上の段。
 そこになんとなく隣り合って腰かけて、沈黙。

 話す練習をしたいって言ったのは大溝くんなのに、一向に話し出す気配がない。
 仕方がないから、話題を振ってあげる。

「マスク、外したんだね」

「おー、昨日言われてたしかにって思ったし。どう?」

「どうって言われても、前よりマシかなーってくらい」

 いいじゃんって言ってあげたかったけど、二番煎じの言葉に意味なんてない。
 私がそっけなくそう言うと「だよなー。やっと人並くらいだよなー」と、口をへの字に曲げてしまった。

 素直にいってあげればよかったと、少しだけ後悔する。

「そういえば、あれ出した?」

 ふと思いついたように大溝くんが言うけど、あれがなんのことだか抽象的過ぎてわからない。

「なに、あれって」

 首を傾げながら聞けば、「ほら、あれだよあれ」なんて名前が出てこないのか延々と唸っている。
 そうかと思えば急にひらめいたらしく「三者面談のやつ! 香坂も紙持ってたじゃん」とこっちを見ながら呟いた。

 共通の話題なんてそれくらいしかないもんね。
 にしても、あまり話題に出したくないものが話題に上がってしまった。

「あー……、出した、けど」

「なにその歯切れの悪い感じ」

 大溝くんって結構、言葉の機微に聡い。
 変に掘り下げてくるから、こっちが誤魔化したのが悪いことのように思えてしまう。

「まあ、出したけど。あんなの、出したって意味ないし」

 吐き捨てるように言った。

「なんで? まあ、たしかに三者面談って面倒だけどさー」

 心底不思議そうな声色で、大溝くんは私の顔を覗き込んだ。
 あまりにもじっと見つめてくるから、たじろいでしまう。

 そして大溝くんのその言葉に、彼は進学するんだと直接言われなくてもわかった。
 当たり前のように進学を考えられるなんて、お気楽で幸せな人生だ。

「……大溝くんは、出したの? ちゃんと」

 これ以上聞かれたくなくて、私は話をすり替えた。
 気にも留めない大溝くんは、あっけらかんとした表情で答える。

「忘れた! 朝すっげー担任に文句言われたわ。後で担任が母さんに電話するって言ってた」

 めんどくせーとぶつくさ言いながらも、なぜか私にはその姿が羨ましく見えてしまう。

 大溝くんと私、似てるところがあるって思ったけれど、根本は全然違う。
 だって大溝くんからは、幸せの匂いがするから。

 そんな自分の気持ちをひた隠しにして、大溝くんに悪態をつく。

「うわ、高校生にもなって親に迷惑かけるとか、ダサすぎ」

「まだ子供なんだから、親に迷惑かけてなんぼだろ」

「……あはは、そうかもね」

 あえてひどい言葉を選んだのに、返り討ちにあったようだ。

 そりゃああんたは、甘えられる環境にいるからそう思うのだろう。
 私は、そうは思えないけれど。

 心が沈みかけたそのとき、予鈴が鳴り響く。
 次の授業まで、あと五分だ。

「予鈴だな」

「うん……」

 十分って、案外短いな。

 同時に立ち上がって階段を下りていく。

「俺、こっちから行くから」

「ああ、うん」

 そう言って大溝くんが歩き出したのは西階段の方。
 教室まで遠回りになる方だ。

 次ここで話すのは、いつになるんだろう。

 そう思いながら私も大溝くんに背を向けると、「また明日、な」と大きくはないけど聞こえる声で、そう言われたのが耳に届いた。







 教室に急いで戻ると大溝くんの姿はまだなくて、次の授業の準備を済ませるために足早に自分の席についた。

「遅かったじゃん」

 凛花が心配そうに「おなかでも壊した?」ってひっそり聞いてくる。

「ごめん。トイレ混んでたから、一階の方に行ってたの」

 それで時間がかかっちゃったと答える。

 大溝くんと喋ってた、なんて言えるはずもない。

 怪しまれない程度の嘘をつくと凛花は特段気にした様子もなく、「ふーん? そっか」と納得して前を向き直った。

 授業開始一分前になると、後ろのドアが開いて大溝くんがやっと席につく。

 よかった、間に合って。
 ほっと胸を撫でおろした。

 大溝くんに目配せすると彼もこっちを見ていた。
 きっと、私と同じことを思っていたんだろうな。







 全ての授業が無事に終わって、今日は愛衣をこのまま保育園へ迎えに行く。

 帰り支度を済ませた真結がこっちへ近づいてきて、いつも通りわくわくした表情でこう言った。

「今日は駅前のマック行ってちょっとだけテスト対策しようよー」

 凛花もいつも通り「いいね」と答えて、その次には流れるように視線が私へと注がれる。

「あー……、ごめん。私、今日も妹迎えに行かないとだから」

 そう言って断るのは、もう何度目だろう。
 きっと片手じゃ足りないくらいだ。

 申し訳なさが胸の内を支配する。

「それなら仕方ないよね」

「また誘うから、次は来れるといいねー」

 凛花と真結はそう言って、さみしそうに眉を下げた。

 私が断ると知っていて、いつも誘ってくれる真結と凛花には頭が上がらない。
 ほんと、誘ってもらえるだけありがたいと思わなきゃいけないよね。
 
「あはは。いつもごめんね。誘ってくれてありがと」

「ううん、お迎え気を付けてねー。また明日ー」

「ありがと、また明日ね」

 笑顔の仮面の裏側で、私はいつも泣いていた。

 手を振りながら、きゃっきゃとはしゃいで教室を出て行くふたりの背中を見送った。

 今日は五限放課だから、時間は十五時半。
 お迎えまで少しだけゆとりがあるから、自分の席に座り直して、今日はまだ開けていなかったSNSアプリを立ち上げた。

 慣れた手つきで、いつも通りのハッシュタグをタップする。

 そしてどんどんスクロールしながら、いつもの写真の人の投稿を探して遡っていく。

 ……あ、あった。

 時間はいつも大体同じ、お昼の十二時半くらい。
 『今日の空』といつも通りのひとことに、写真を添えて投稿されていた。

 雲が点々と映る、灰色の空の写真。
 いまは梅雨時だから、自然とこういう写真になるだろう。
 この人が日本に住んでいれば、の話だけど。

 ふと思い立って、その人のアイコンをタップし、個人ページへと飛んでこれまでの投稿を流し読みする。

 私がこれを見始めるようになったのは一年生の終わりくらいからだ。
 この人はいつからこの写真の投稿をし続けているんだろう。

 どれだけ画面をスクロールしても、同じ文面に空の写真が果てることなく続いている。

 こうして見ると、同じ空ってひとつもないんだなあ。

「……まだ帰らねーの?」

「わっ! びっくりしたー……」

 いつから隣りにいたんだろう。

 いつも放課後になると黒いリュックに荷物を詰めて、すぐに教室を出て行くのに。
 隣りには頬杖をつきながら私の方を見ている、大溝くんがいた。

 辺りを見回すと、みんなもう下校したのかはたまた部活へ行ったのか教室内は空っぽで、いつの間にか私と大溝くんのふたりきりになっていた。

 空は陰っていて、いつもよりほんの少し暗い教室の中ふたりでいるのは、少しだけ緊張する。

「大溝くんこそ、帰らないの?」

「いや、いつもならすぐ帰ってるんだけど。今日はなんだろーな、気分?」

「気分って、」

 お気楽だね、と言いかけてやめた。

 なんかそれって余計自分の首を締めそうで。
 言いかけた言葉を飲み込んだから、喉元からぐうっと変な音が鳴った。

「あ、それ」

「え。な、なに」

 急に大溝くんが突き刺すような声で言うから、肩がびくっと上がってしまった。

「練習するって言ったじゃん。その、なんか言おうとして飲み込むやつ? やめろよ、ほんとに」

 そう言われてどきっと心臓が変な音を立てた。
 大溝くんから言われる言葉に、私は何度びくびくすればいいのだろう。

 だってこれはもう染み付いてしまった私の癖で、そう簡単に治るようなものじゃない。

 素直になる練習と言ったって、思いついた言葉をそのまま言うのとはわけが違う。

 けれど大溝くんに指摘されて、私は自分で思っているよりもたくさん、なにかを我慢しているのかもしれないなと感じた。

 私が言葉に詰まっていると、大溝くんは小さくため息を吐く。

「まあそうなった原因はあるだろーけど。あんた見てると昔のあいつ見てるみたいでさー」

 なんか気になるんだよなと、大溝くんは言葉を続けた。

 『昔のあいつ』——?

 その言葉に引っ掛かりを覚えたけれど、その私の知らない誰かと重ねて見られているのは、少し——いや、かなり気になってしまった。
 昔のあいつって?と聞こうとした瞬間、閉まっていた教室の扉が勢いよく開いた。

 視線を向けると、それは不思議そうな顔をした真結で。

「あれ? 詩央ちゃん……と、大溝、くん?」

 私と大溝くんの顔を交互に見ながら、前の方にある自分の席へと近づいて行った。

「ちょっとね、スマホ忘れちゃってー。取りに来たんだよね。……あ、あったあったー」

 真結は私に説明しながら、机をがさごそと漁り、探していたらしいスマホを取り出した。

「……じゃあ、俺帰るわ」

「あ、うん」

 ふたりきりじゃなくなったからか、否か。
 わからないけれど、大溝くんはそそくさとリュックを持って教室を立ち去った。

「……詩央ちゃん、大溝くんとなにか話してた?」

 いつの間にか近くに来ていた真結に見つめられ、返事に困る。

 そういえば、ふたりで喋る練習をしていることは、誰かに話してもいいのだろうか。
 大溝くんのことだから、さほど考える間もなく「いいよー」なんて言いそうだけど。

 それでも、なんとなく言うのが憚られた。

「大したことは話してないよ」

 結局無難に、それだけ返事をした。
 真結は不思議そうな顔で「そっかー」と言った後、時計を見た。

「そういえば詩央ちゃん、お迎えの時間は大丈夫ー?」

「……! やばっ、行かなきゃっ!」

 あらかじめまとめておいた荷物を持って、急いで立ち上がる。

「真結、またねっ」

「うん、じゃあねー」

 ひらひらと手を振る真結を背に、私は教室を飛び出した。

 机の上に放り出したままのスマホを、忘れたまま——。