昨日とは打って変わって晴天の空なのに、朝から私の心には暗雲が立ち込めていた。
目の前にいる、担任のせいで。
「香坂、おまえ本当にそれでいいのか?」
聞き覚えのあるその言葉。
顔を覗き込みながら心配そうに眉を下げた担任が、私の目を射抜くようにまっすぐ見てくる。
「はい。私は進学ではなくて、卒業後は就職したいと思っています」
負けじと私は、決意がぶれないようはっきりとそう告げた。
時刻は八時十分で、普通なら朝活の時間だ。
朝活とは、SHRが始まるまでの二十分間に、読書をしたりまたは勉強したりする時間のことだ。
本当なら、一限にある数学の予習をしているはずだった。
それなのに私はいま、こじんまりとした生徒指導室に担任と一緒に詰め込まれている。
ここに来たのは、入学してから二度目だ。
右側にある本棚には、びっしりと進路に関係する資料が詰め込まれている。
その多くはほこりをかぶっていて、到底役目を果たしているとは言い難い。
そして、私と担任を遮るように置かれている机の上には、『三者面談の日程について』という用紙がぴしっと並べられていた。
面談を申し込むかどうかの設問と、希望日程に丸をつけるだけの簡単な内容だ。
その紙に視線を落とすとため息が出てしまいそうになるから、あえて担任の目を睨みつけるがごとく、まっすぐと見返してやった。
そんな私の様子に担任は小さくため息を吐く。
いやいや、ため息吐きたいのは私だってばと、心の中で愚痴をこぼした。
「……香坂の家庭の事情はよくわかっているよ。でも、きちんと親御さんと話して決めたのか?」
「はい、もちろんです」
間髪入れずに答えたけれどそんなのは嘘で、私の独断だ。
提出期限はとうに過ぎたというのに目の前に再度この紙が置かれているのはなぜかというと、最初に提出した内容が担任には不服だったかららしい。
大学にしろ専門学校にしろ、この学校に通う生徒の大半は進学希望で、特に進学を希望する生徒には三者面談を行うことになっている。
つまり、進学を希望する者は必然的にこの用紙の『三者面談を希望する はい・いいえ』の欄の『はい』の方に丸をつけることとなる。
私は、『いいえ』に丸を付けた。
それがなにを意味するかというと、最初に述べた通りのそのままの意味だ。
そもそもお母さんとじっくり話し合う時間なんてないし、あったとしても、お母さんは私の進路になんて興味ないだろう。
第一、大学に通うのに十分な学資金がうちにあるとは到底思えない。
私のバイト代なんてたかが知れているし、卒業後は就職一択だと思ってこれまで過ごしてきた。
母親の意見なんて必要ない。
いい加減、諦めてくれないだろうか。
「……うーん、どうしたものか。香坂は本当に進学の希望はないのか?」
そう聞かれて一瞬だけ言葉に詰まるけど、でもそれは本当に瞬きをする間の僅かな時間。
「ありません」
またさっきと同じように間を与えず答えれば、困ったように苦笑いで返された。
以前もこうして押し問答が続いた。
私には進学を選択できる余地がないのだ。
それだけぎりぎりだということを、どうしてわかってくれないのだろう。
「前にも話したけれど、香坂は勉強を頑張ってて成績もいい。高校の勉強だけで終わるのはもったいないと思うんだ」
その言葉に、黙ったまま膝の上でこぶしを握る。
期待されるのは、素直に嬉しいことだった。
「……もしも、香坂に進学したいという気持ちが少しでもあってそれを自分で言い出せないのなら、そういうのも込みで親御さん含めて相談に乗ることもできる」
そんなふうに言ってもらえるとは思わなくて、さらに強く拳をぎゅうと握った。
なにも言えず黙っている私の態度を見てそれを肯定と取ったのか、担任はさっきと違う意味合いでため息を吐いて、「とにかく、もう一度親御さんと話し合って、再度提出するように」と、私に新しい用紙を渡してきた。
……こんなふうに渡されても、きっとまた『いいえ』に丸を付けるだけなんだろうけれど。
そう思いながら指導室を出て教室へと向かった。
◇
手元にある一枚の紙にため息交じりで視線を落とす。
そこには『三者面談の日程について』と記されていた。
何度見ても変わらないその文字に、何度頭を悩ませればいいのだろう。
「三者面談? 詩央、まだ提出してなかったの?」
自分の席に座りながら振り返った凛花が、私の机の上に置かれているそれを見て驚いたように呟いた。
「あー……うん」
提出はしていた。
再提出になっただなんて言えなくて、嘘をつく。
「詩央が提出物忘れるなんて、よっぽどじゃない? らしくないなー」
「あはは、ちょっと最近ぼーっとしてたかも」
「まあ、たしかに今って気が緩むよね」
そう言って凛花は椅子の背に肘を乗せて頬杖をついた。
五月の体育祭が終わった後すぐに実力テストがあったかと思えば、その一週間後には中間テスト。
それが終わって特別大きな行事のないいまは、たしかに気が緩む。
期末試験までのほんの気休め程度の短い期間だけど。
「まあ、なんにせよさっさと提出しちゃいなよ。どうせ進学でしょ? 詩央、頭いーもんね」
「あはは。だねー」
凛花の言うようにさっさと提出できるなら、苦労しないんだけどな。
私が進学すると信じて疑わない凛花の言葉は、じわじわと私を崖っぷちに追い詰めていくようだった。
凛花はそう言ってくるっと自分の席に向き直り、さっさと次の授業の準備を始めた。
それが終わった途端「時間ギリだけど行ってくる!」と猛ダッシュでトイレへと走り去っていった。
忙しないなあと思いながらそれを見届けて、もう一度視線を落とす。
何度見てもやっぱり変わらないその文字に、ため息が出そうになる。
もう提出するのでさえ面倒だ。
第一もう出しているのに、親と話し合ってもう一度提出しろなんて、傲慢じゃないだろうか。
「あれ。詩央ちゃん三者面談、まだ出してなかったのー?」
そう言ってひょこっと顔をのぞかせたのは真結だ。
さっきと同じ流れに苦笑しながらうなずく。
「大溝くんもー?」
「えっ?」
視線をスライドさせて隣りの机を覗き込んだ真結の言葉に、同じように隣りを向いた。
彼の机を見ると、たしかにさっき受け取ったであろう私と同じ用紙が机の上にほっぽり出されていた。
私が話を終えて教室に戻ると同時に今度は大溝くんが席を立ったのは、どうやらそういうことだったらしい。
ひとりで勝手に納得した。
それにしても、真結には怖いものがないのだろうか。
平然と大溝くんに声をかけるその姿に、内心ひやひやしてしまう。
「……別に関係ねーだろ」
案の定、隣りからは冷たい言葉を浴びせられる。
なんでこんな言い方しかできないのって疑問に思うけど、そんなことを気にも留めない様子の真結は、まだ普通に大溝くんに話しかけている。
「そうだけどー。目に入ってきたからー」
「だからってなんでわざわざ話しかけてくんだよ」
「まあ、いいじゃん。ちょっとくらい声かけたってさー」
むっと口を尖らせながら言う真結。
大溝くんの目は前髪に隠れてよく見えないけど、真結のことを睨んでいるのは声色からして明らかだ。
ここに凛花がいなくてちょっとだけほっとする。
また昨日のように言い争いにでもなったら嫌だから。
「っまあまあ、真結もそろそろ自分の席に戻ったら? チャイム鳴っちゃうよ」
「ほんとだー。またあとでねー」
ひらひらと手を振る真結に私も同じように返して、ふうと一息ついた。
ちらっと大溝くんの方を盗み見る。
「……なんだよ」
げっ。見てるのばれてる。
「……別に、なんでもないですけど」
同級生なのに、自然と敬語が口から出る。
それくらい声が冷たくて怖かった。
「じゃあこっち見んな」
私、大溝くんに嫌われるようなこと、なにかしたっけ?
そう思ってしまうほど、大溝くんの態度はきついと思う。
言い返したい気持ちは大いにある。
だけど、それをうまく言葉にできなかった。
……もう、いいや。
別に大溝くんに嫌われていたって、なにも困ることはない。
いちいち突っかかってくるのは面倒だけど、気にしたら負けだ。
凛花が戻ってきて、私と大溝くんの間にある不穏な空気を感じたのだろう。
「なに、また大溝?」なんて眉間にしわを寄せるから、「大丈夫、なんでもない」となんとか制した。
またひとつ、ため息が出そうになるのを飲み込んだ。
◇
「……気持ち悪い」
「ちょっと詩央、大丈夫? すごく顔色悪いけど」
「ほんとだよー。詩央ちゃん顔真っ青だよ? 色白だから余計そう見えるのかもだけどー」
まだお昼休みだというのに、出そうになったため息をもう何度飲み込んだかわからない。
今日は災難続きだ。
英語の授業ではペアワークがあって必然的に大溝くんとだし、ぼそぼそ喋るから聞こえにくいし。
聞き返すと威圧感のある声で「は?」なんて言われる始末だ。
私と無駄に喋るのが嫌なら、文句言うときみたいにはっきりした声で喋ればいいのにって思っちゃう。
朝のことといい、授業のことといい、ため息を吐きたくなる瞬間が山ほどあった。
きっと空気を飲み込みすぎて、気持ち悪くなっちゃったんだ。
「午後の授業、無理しない方がいいんじゃない? 体育あるし」
「そうだよー。それに今日は長距離測定するって言ってたよー」
「げ、ていうことは休んだら休んだで後日測定じゃん」
「あ、そっかー」
ふたりの会話が耳を素通りしていって、頭には言葉のひとつも入ってこない。
お弁当の中身もまだ半分以上残ったまま、そこから箸が進まなかった。
せっかく早起きして作ったのに、もったいない。
「んー……、ごめん。ちょっと保健室行ってこようかな」
さすがに限界だ。
たぶん連日の疲れも溜まっているんだと思う。
愛衣の熱が長引いていて、夜も様子を見たりで付きっ切りだったから。
立ち上がると頭もくらっとして、具合の悪さが増してしまった。
「ついて行こっか?」
「大丈夫だよー。ごめんね。戻って来られなかったら先生に言っておいて」
「りょーかい。お大事にー」
心配そうに言うふたりに軽く手を振って、スマホだけポケットに突っ込み保健室へと歩き出した。
保健室に着くと先生は不在だったから、利用者表に名前と症状だけ書いて、ふたつあるうちのベッドのひとつに腰かける。
細く空いた窓からは、グラウンドでサッカーをしている男の子たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
ひとつ縛りにしていた髪をほどいて、そのままぼふっと枕に顔をうずめた。
……こんなふうになにも考えずに眠るのは、いつぶりだろう。
遠くに聞こえる誰のかわからない賑やかな声をBGMに、私は目を瞑った。