夏休みが明け、今日から九月だ。
いつも検索するハッシュタグをタップする暇もないほど、あっという間に長いはずの夏休みは駆け足で通り去っていった。
教室にはいつもと少しだけ違う風景が広がっている。
私の席の横、いつもはひとりで座っている大溝くんの周りに数人、クラスメイトがいるからだ。
「大溝がこういうやつって知ってたら、もっと早く話しかけたのにな」
「案外普通だよな、顔面は普通じゃねーけど」
「あ? 怖いって意味かよ?」
「違うわっ! 顔面偏差値高いって言ってんの!」
「よくわからんがありがとな」
「うっわ、ストレートに受け取るのかよ!」
そんな風に軽口を叩き合っている。
夏休みの間に数度あった試作という名のクラスの集まりすべてに参加した大溝くん。
容姿が変わったのも相まって、クラスメイトから話しかけられることが増えたみたいだった。
最初はぎこちなかった受け答えも随分上手になり、二か月前とは見違えるようにクラスに溶け込んでいた。
そして、彼が馴染む極めつけになったのは、あれだろう。
その時のことを思い出して、くすりと笑ってしまう。
試作一回目のあの日、泣きはらした目で戻るわけにはいかなかったから、だいぶたった後に調理室へふたりで戻った。
調理は既に終わっていて、ちょうど試作を食べようというときだった。
私たちに気付いた凛花が私の体調を心配して声をかけてくれて、できあがったベビーカステラとたこ焼きを渡してくれる。
それは同じように大溝くんにも渡された。
それをひとつ、大溝くんが口に放り込んだあとだった。
「あ! それハズレのやつ!」
と、クラスの誰かが叫んだ。
大溝くんに渡されたのは遊びで作った罰ゲーム級のたこ焼きで、ワサビとタバスコが入ったものだったらしい。
別でよけてあったはずなのに、間違って大溝くんに渡したらしかった。
一歩遅く口に含み咀嚼したあとだった大溝くんの顔は、辛さで瞬く間に真っ赤になり、のたうち回っていた。
「誰だよ、こんなからし爆弾作ったやつ!」
「いや、ワサビな」
反射的に言ったのだろうその言葉に突っ込み返され、あっという間に室内は笑い声で満たされた。
「大溝の顔、赤すぎだろ!」とか、「おまえって澄ました奴だと思ってたけど、めっちゃおもろいじゃん」とか。
そんな言葉をかけられていた気がする。
きっかけは本当に些細なことだった。
そんなんでいいの?って思ってしまうくらいあっさりと、彼はそこからあっという間にクラスに溶け込んだ。
私としてはそんなゲテモノを食べさせられた大溝くんがかわいそうだったけど、結果としてクラスメイトと話せるようになったのだからよかったなと思うことにした。
あの日から彼はすこしずつ普通の会話ができるようになり、今ではもう立派なクラスメイトの一員だ。
そんなことを思いながら隣りに腰を下ろすと、私に気付いた大溝くんが「よお」と片手を上げて挨拶してくるから、私も「おはよ」と返した。
「なあ、香坂さんは知ってたの? 大溝がほんとは『怖くない』って」
そう言ったのはクラスの男子。
私は「うん、たまたまね」と、さらっと返した。
あの日、大溝くんと一緒に調理室へ戻ったこともプラスされ、私もなにかと大溝くんのことで話しかけられることが増えた。
興味なさそうに「へえ~」と彼は返事した後、しきりに大溝くんに話しかけている。
それを見て、心から「よかった」と思った。
◇
「まだ冷戦中?」
「……そうだけど、なにか」
「いや、なげーなと思って。俺はそんな喧嘩、親としたことないからさ」
九月も下旬に入ったというのに、いまだ私を取り巻く環境は変わらないまま。
「……大溝くんはいいよね、いま楽しいでしょ」
自分ばっかりいい方に変わっちゃってさ。
それはいいことだし、喜ばしくもある。
けれど、私には眩しすぎた。
どんどん大溝くんに置いて行かれてる気がして。
大溝くんは変わった。
変わらないのは、私だけ。
というか、クラスに馴染んだ今、もうここで話す必要もない。
大溝くんにとって、私はもう必要なくなったのだ。
喜ぶべきことなのに素直にそうできないのは、この時間が私にとって大事なものになっていたからだろう。
そして、思ってしまったのだ。
大溝くんのいいところを知るのは私だけじゃなくなったんだな、なんて。
それをさみしいと、思ってしまったんだ。
まるで、大溝くんを独占したいみたいじゃない。
……ないない、そんなこと。
あるわけがない。
喋るようになってたった数か月だ。
恋をしたことがないから、勘違いしているだけ。
……そうだよね?
わけもなく自問自答する。
いつも通りあっという間に予鈴が鳴る。
これが聞こえたら立ち上がる、それはもう慣れた動作になっていた。
「……大溝くん、もうここに来る意味ないでしょ」
いつもなら黙ってお互い反対側に歩き出すけれど、なぜだか今日は名残惜しい。
どうしてか言葉を紡いでしまう。
「意味?」
「だって大溝くん、もうクラスで普通に喋れるじゃん……」
なに拗ねたようなことを言っているのだろう。
自分でもおかしいと思う。
「でも、香坂のはまだ終わってないじゃん」
「え……?」
「素直になる練習」
それができるようになるまで延期と、大溝くんは笑った。
……まだここでふたりで過ごせるんだと思うと、私の胸はじわっと熱くなっていく。
大溝くんは私の冷えた心を温める、カイロみたいな存在だと思う。
「言えるのが一番いいけど。チケットだけは置いといてやれよ」
「うん……」
大溝くんは、私がこの場所を卒業することを望んでいるのだろう。
もう少しこの時間が続いてもいいと思っている私に気付かずに。
◇
「やっぱり詩央ちゃんって、大溝くんの秘密知ってるよね」
「え……?」
驚く声が口から漏れた。
あのSNSに上げられる写真の秘密をもここで突然知ることになるのだから、無理もないことだ。
今日の放課後時間ある?と真結にたずねられ、二十分だけならと答え、その時間がやってきた。
教室内にまだ何人かクラスメイトが残っているけれど、彼女たちは盛り上がっていて、こちらを気にする素振りはない。
戸惑う私に真結は笑って、困らせるつもりはないのと謝った。
「どうして……?」
どうして、そんなことを聞くのだろう。
どうして、そう思ったのだろう。
思いつく言葉はいくらでもあるのに、そのどれも口に出すことができなかった。
そんな私の様子に、真結は思いがけない言葉を紡いだ。
「大溝くんがああなったのは、わたしのせいだから」
悲し気に目を伏せた真結が、次にスマホを開いて私に見せてくれる。
「え、これって……」
開かれたそれを見ると、映っているのはいくつもの写真。
どれも全部、私には見覚えがあった。
あのハッシュタグで投稿されていた写真が一覧となって、いま目の前にある。
……けれど、その写真のいくつかを、私は違う場所でも見ている。
そう、大溝くんが撮ったのと同じ写真だ。
切り裂かれた雲の隙間に見える真っ青な空の写真、最近見たばかりの、木々の隙間から落ちてくる木漏れ日の写真。
なぜそれがここにあるのだろうと、心臓が歪な音を立てた。
私がそれを一通り見たことを確認した真結はスマホを閉じ、丸い目を細めて言った。
「……私が『ダンデ』だよ、詩央ちゃん」
告げられた言葉に、大きく目を見開いた。
獅子王の獅子からライオンを思い浮かべ、タンポポを英語でダンデライオンということから、そうつけたそうだ。
「詩央ちゃんのこと、仲間だと思ったんだ。周りに合わせるように相槌だけ打って笑うのが、昔のわたしみたいだって思った」
私の隣りにある大溝くんの席にしれっと座るその仕草。
平然と話しかける真結の姿。
それらが一連の流れとなって、私の中で繋がっていく。
……そっか、大溝くんと真結は、元々顔見知りだったんだ。
それも、だいぶ仲のいい。
大溝くんが以前言った『昔のあいつ』は、真結のことだったんだ。
その事実は私の心を鉛のように重くした。
「詩央ちゃんがスマホを忘れていったあの日……、ごめんね。画面が見えちゃって。それで、やっぱり詩央ちゃんはわたしと同じだって思ったの」
静かに真結は話し続ける。
「大溝くんはね、なんて言えばいいのかな、わたしの憧れなの。きっと詩央ちゃんは知ってるよね。大溝くんの、額のこと」
「うん……」
私はいまから、なにを聞かされるのだろうか。
そう身構える私とは裏腹に、真結は足をぷらぷらさせながら、普段彼がそうするように窓の外を見ながら話し始めた。
「わたしと大溝くんは小学校から一緒で、傷は、その時のなの。わたしって、こんな感じでしょ? 詩央ちゃんは優しいから、そんなことは思わないかもしれないけど、聞いてね。わたし小さい頃は自信過剰でね。かわいいかわいいって育てられたから、ほんと素直にそう思って育っちゃって。クラスの子たちに疎まれてたんだよね。ぶりっ子だとか、男子にだけ媚び売ってるとか」
たしかに真結は自分のかわいい部分を生かすのがうまいと思う。
化粧も髪型もネイルも、その全部が彼女に似合っていて、真結の元々のかわいさを引き立てているからだ。
それを媚びを売っているとは私は思わない。
いつも可愛く着飾る真結を羨ましいと思っていたくらいで。
そして『そう思って育った』の部分には、私と似通ったものを感じ取った。
「でも、わたしも負けん気が強かったから言い合いになって、しまいには取っ組み合いの大喧嘩になって。で、わたし、つきとばされちゃったんだよね。止めようとしてくれた大溝くんにぶつかって、私を受け止め切れなかった大溝くんも一緒に転んじゃって。大溝くん、思いっきり棚の角におでこをぶつけたの」
窓辺に映る真結の表情ははっきりと読み取ることはできない。
「血だけになってね、それでも喧嘩なんてやめろって大騒ぎするから、そのうち先生が来てね。……誤解、されたんだ。わたしも大溝くんと同じで棚にぶつかってておでこから血が出てたんだけど、それを見た先生が大溝くんが問題起こしたって、早とちりしたの。クラス内で誤解は解けたけど、結構大きな騒ぎになったから、隣りのクラスまで聞こえててね。それに尾ひれがついて回って、いつの間にか大溝くんは孤立したの」
そこでやっと、真結はこっちを見た。
彼よりだいぶ小さなおでこに残る小さな傷跡を、真結は見せてくれた。
「わたしのせいなんだ。大溝くんが孤立したの」
その声はひどく悲し気だ。
「大溝くんの様子が変わっていったことは、気付いてた。でも、その騒ぎがあってから、わたしも今まで以上にクラスの女子にいろいろ言われるようになっちゃって。わたしも同じように孤立した。そのまま中学に上がったけど、噂ってどこまでもついてくるんだね。わたしたちずっと、孤立してた。事情を知らない誰かに話しかけられようものなら当たり障りなく笑い返して、いつしかそれが癖になった。きっかけなんて些細なくだらないことだったのに、たったあれだけのことでこんな風になるなんて、思ってなかったの」
それは私にも身に覚えがある。
同じような時期に同じような経験をしていたんだと知り、急に真結が自分に近い位置に降りてくるような感覚がした。
「ふたりで喋る機会があって、そのときに、大溝くんは大溝くんのまま変わらないと思ったの。そのときからなんだ。こうして空の写真を送ってくれるようになったの」
あの日から大溝くんは、欠かさず写真を真結に送ったらしい。
元々空を見るのが好きなんだそうだ。
「『毎日同じ空はない。だから、この空みたいに明日はなにか変わるかもしれない』って。まるでおまじないみたいだよね。それをね、毎日投稿してたの。わたしは高校に入って運よく凛花ちゃんと友達になれて、二年生になって詩央ちゃんとも友達になって。もう大丈夫って思えたから、写真、もう終わりにしようって言った」
見てみてと言うから、自分のスマホでSNSのアプリを開く。
忙しさから開けてすらいなかったそこを開くと、だいぶ前から更新が止まっていた。
「やめてもらおうと思った理由はもうひとつあるけど、知りたい?」
「え、うん……」
戸惑いそう尋ねると、真結は口を開く。
「だって詩央ちゃん、大溝くんのこと好きでしょう?」
「……っ!」
自分でも整理のつかない感情に突然名前を付けられたその瞬間、私の頬は燃え上がるように熱くなった。
それを見て真結は笑う。
「詩央ちゃんのそんな顔、初めて見た。でも、大溝くんと関わるようになってから詩央ちゃんの雰囲気が少しだけ変わったから、そうなんじゃないかなって思ってたよ」
くすくす笑う真結に、私の心臓はどこどこといつもより早いリズムを刻む。
……好きって、私が、大溝くんを?
何度頭で反芻してもうまく馴染まないその言葉についてよく考える。
たしかに大溝くんは私にとって大切な人だ。
今まで誰にも言えなかった気持ちを吐き出せる、唯一の人。
でも、これを恋と呼ぶには、なにかが足りない気がしてしまうのだ。
「わたしの話は、それだけ。ごめんね、時間取っちゃって」
そう言った真結は「また明日ね、詩央ちゃん」と、何事もなかったかのように帰っていった。
いつの間にか教室には誰もいなくなっていて、少し乱れた大溝くんの席に、そっと触れてみた。
『大溝くんのこと、好きでしょう?』
その言葉を、頭に浮かべながら。
◇
すき、スキ、好き——。
どう変換してみてもこの言葉の響きには慣れなかった。
でも、いままでを思い返してみると、そうなのかもしれないと思えることもいくつかあった。
大溝くんとの時間が名残惜しいと思うこと、この時間がまだ続いてほしいと思ったこと。
大溝くんの笑顔を眩しく思うこと、それを素敵だと思うこと。
それはきっと、私の独占欲の表れだ。
クラスに馴染む彼に嫉妬してしまうのも、そうなのだとしたら……。
大溝くんに対する私の思いは『恋』だと言えてしまう気がする。
恋をしたことがない、そもそも考えたことのない私には正解がわからなかった。
けれどこれが恋だと言うのなら、恋っていうのは本当に突然自覚するもので、落ちる瞬間なんてわからないほど無自覚のうちなんだなと、他人事のようにそう思った。
文化祭まで一週間を切り、私の心はごちゃごちゃだ。
お母さんのこともあるのに、真結に言われたせいでなんでもないときにでも大溝くんの顔がちらついてしまう。
教室で彼の声がすると、思わずそっちを見てしまう。
そんな私の様子に凛花は気付かないけれど、真結は小さく笑いながら私を見る。
まるで『やっぱり好きだよね?』と問われているようで、恥ずかしい。
どきどき鳴る胸が恋を告げるのなら、そうなのだろう。
私の心臓は大溝くんを見ると、早鐘を打つのだから——。