夏輝(なつき)

 記憶の中でずっと君を探している。
 記憶の君は一瞬、泣き出しそうな表情を浮かべたあとに微笑んだ。
 
 さめない夢のようにこの7年で君のことをよく思い出してしまう。
 もう、7年も前のことなのに俺は記憶の中の君に溺れるんだ。
 20歳を超えた今でも、君の憂鬱そうな表情を思い出してしまう。

 だから、俺は今日も雨の中、ビニール傘をさして、地下鉄の駅まで歩く。



燈花(とうか)

 頭の中で言われたどうでもいい言葉が響いている。別に私だって、やりたくてやっているわけじゃない。
 そう思ったあと、ため息を吐き、私はもう一度、ローテーブルに置いたグラスを手に取り、レモンソーダを一口飲んだ。私しかいないワンルームのこの部屋は私だけのものなのに、人の言葉で戸惑う私は、どう考えても不毛に思えた。
 閉じたカーテン、朝、整えてそのままのベッド。背伸びして買った間接照明の電球色、白いローテーブルに置き、画面が消えたままのiPad。
 私のすべての要素がこの狭い部屋に集約されているように感じる。

 大学に入ってから2年。
 住み慣れたワンルームは寂しさの砂を積み上げた城みたいに感じる。iPadをタップすると、23:53と表示されていた。

 呼吸が浅くなったのはいつからだろう。
 レモンソーダに溶けていた二酸化炭素は2時間後には簡単に空気に戻ってしまった。そんな2時間前にグラスに入れた炭酸飲料を飲んで無性に寂しさを感じた。
 もう取り返しはつかないのは知っている。

 「何がしたいのかわからないや」
 そうぼそっと、呟いてみたけど、ただ、虚しく部屋に響くだけだった。

 私はいろんなことを結局自分でコントロールできていないような気がする。
 大学に入れば、簡単に恋人なんてできるだろうと思っていた。だけど、私の淡い恋は簡単に終わった。その理由は単純で、友人と同じ人のことが気になり、そして、かぶった事実を知ったからだった。
 期待した恋の終わりは、その友人から恋愛の相談を受けて知ったという、ありきたりなことだった。
 そして、私は友人にこう言った。

「いいと思うよ。ふたりが付き合うの似合ってると思う」
 本当は私が友人に言われたかった。だけど、その気持ちに私は簡単に蓋を閉めた。私のそんな心の中なんて知らない友人の無邪気な相談は続いた。
 その相談の中で友人が気になっていた男子に言い寄られていることも知り、すべてが嫌になった。そして、その友人は無事にその男子と付き合い始め、それは今でもたまに夜のスタバの中で聞く近況報告で、上手くいっていると聞いている。
 そのことから、すでに2年以上も経ってしまった今、別に私はその男子のことなんて後悔もしてないし、気にもなっていない。

「恋したほうがいいよ」
 屈託のない友人の顔が嫌になる。私はそのことがあってから、恋に臆病になってしまった。

 そして、今年から始まった就活。
 周りはインターンにしっかり行っているなか、私は新しい人と会うことや、新しい環境に身を置く勇気なんてなかったし、なにより、20歳を超えても私自身、一体、何をしたいのかまったくわからなかった。
 みんなはあれがやりたいとか、ここに入って、こんなことやってみたいとか、そんな夢でキラキラしている話をただ、コーラで濡れた床を舐めるように、いいなと私は甘さとビニールの苦味を感じることしかできなかった。
 自分がないまま、ここまで育った私にとって、自己分析することは苦痛でしかなかった。



 転勤族だった私が学んだのは、期限付きだということを意識することだった。
 どうせ、2年~3年もしないうちに築いた人間関係は消えてしまうんだ。だったら、自分が傷つかないで、無難に過ごしたほうがいいという考えが自然に身についてしまった。

 中学2年生のとき、忘れ物を取りに放課後の教室に行くと、ばったり町田(まちだ)くんにあってしまった。
 町田くんは私の隣の席で、なぜかわからないけど、話が合うところがあり、私が朝の読書時間で読んだ本の話になり、町田くんに本を貸したこともあった。
 そんな町田くんは教室の窓際の席に座っていて、窓から差し込む11月の秋の終わりを告げているかのような、濃くなったオレンジ色に照らされていた。
 そして、こんなことを言われた。

「橙花って、自分の意志でしっかり、息できてる?」
「えっ、なに言ってるの?」
「たまに苦しそうに見える」
「そんなことないよ」
 私は動揺を隠そうとしながら、後ろのコート掛けにかかったままだったジャージが入った袋を取り、そう返した。

「タイプ違いそうな女子たちと、あわせているように見えるよ。本当は今週の土曜、プリなんか撮りたくないんだろ」
「いや、勝手に決めつけないでよ」
 私はムキになりそう強めに町田くんに返したけど、内心は私、そんな素振りあったのかなと不安になった。本当は行きたくなんかなかったけど、これを断ったら仲間から外されそうな気がしたから、今週の土曜日は我慢することに決めていた。

「ありのままって難しいよな」
 そう町田くんがぼそっと言った声がやけに教室の中で響いた。
そのあと、町田くんとの話をどうやって終わらせたのかは、もう忘れてしまったけど、ただ、私の内面をなぜか見抜いていて、そう言った町田くんは20歳を超えても、なぜか印象に残ったままだった。

 たぶん、その理由は初めて下の名前で私を呼んだ男子中学生だったからかもしれない。なんであのとき、町田くんが私のことを下の名前で呼んでくれたのかよくわからない。だけど、それは自然で、嫌な感じはしなかった。

 そのあと、町田くんと一緒に歩いて帰り、夕日のオレンジに染まった公園で少しだけ話した。だけど、その時のことはもう覚えていない。町田くんと話すことなんてあったんだろうかって、たまに考えこんでしまうくらい、何を共有したのか覚えていなかった。

 ただ、何かを約束した指切りの感触だけはしばらく経っても忘れられなかった。

 そのときのことを思い出すと、自由に空を飛べない2匹のペンギンが群れから離れて、2匹で飛ぶ練習をしているような不器用で緊張して揺れた気持ちを思い出す。
 そんな淡い青春は風のように簡単に通りすぎ、それ以来、町田くんと私はあまり接点がなく、そのまま中学校を卒業した。

 結局、私の転校は高校生まで続いた。
 せっかく受験で行きたかった高校に入れて、それなりに楽しい時間を過ごしていたのに、高校2年生になる前に転校することになった。そもそも、お父さんが予想外に偉くなったから、このまま私が高校卒業までないと思ってた転勤が発生してしまった。
 本社は山奥の地方都市だったから、私もそこに行くことになった。お父さんが偉くなって本社勤務になった以上、おそらく定年まで、その地方都市で住むことが決まったようなものだから、単身赴任するほうが、よくわからなくなるという結論になり、私は泣く泣く転校することになった。

 だから、転校はすごく嫌だった。だけど、私は親にこう言った。
「いいよ。一緒に過ごせるのも高校までだもんね」

 そして、元々受験で入った学校よりも学力が2ランクくらい低い高校しか受け入れてくれるところがなく、私の残りの高校生活の色は簡単にグレーになった。
 そんなボロボロの精神状態だったのに、そこの学校の学年で一番顔が整っていて、女子人気が高い最低な男子から、転校して2ヶ月が過ぎたときに告白を受けた。別に男子とは友達付き合いの延長だったのに、私のことをどういう思考回路で告白しようと思ったのか、わからないけど、私のことを勘違いしたらしい。

 だから、私にはその気はないから、そのことをそのまま伝えたら、
「つまらない人だね」って告白したときと、さっきまでの親密さとは真逆の冷たい声でそう言われた。

 その次の週から、最低な男子が私が振ったことを言いふらしたらしく、私は女子から、告白断るなんて信じられないとか、自分のこと高く見積もりすぎじゃないと、いろんな人から文句をつけられて、転校してたった2ヶ月で居場所を失った。

 グラスを手に取り、ソーダ水を一口飲むと、炭酸が抜けたレモンソーダには期待した刺激はなかった。




 今日も朝、ローソンで買ったクリームパンを食べるために、学食まで来た。
 ここ最近はよく冗談を言い合う友達の多くは、インターンに行ってたり、私と違って、教育課程を受けている友達は実習に行き始めたている。だから、ここ1ヶ月くらい、仲がいい友達とタイミングがあわなくて、一人でご飯を食べることが多くなった。
 多くの学生でごった返しているなか、窓際の席でひとりでご飯を食べるのは少しだけ寂しく感じた。ひとりでいることにだんだん慣れてきたけど、やっぱり、仲間と一緒にダラダラと他愛のないことを話していたほうが気楽な気がする。
 一通り、iPhoneでインスタのDMを確認する。

「まただ――」
 DMの内容を見て、思わず誰にも聞こえない声でそう呟いてしまった。
 このアカウントの男子とは同じゼミで知り合った。そこから仲良くなって、色々話して、夕食も2人きりで食べに行った。私に対して、好意があることはわかっているけど、あの呪いの言葉が頭の中で響く。

『つまらない人だね』 
 制服姿の私が、あのとき何も感じなかった言葉が、勝手に自分の心を刺す。

《また、バイトでなくちゃいけなくなってさ 明日も悪いけど、お願いします この埋め合わせでまた飲みに行こう》
 返信をし終わり、iPhoneをテーブルに置いた。

「恋に臆病だってことわからないのかな。ただ、誘いたいだけじゃん」 
 そして、を食べようと、クリームパンを手に取ったとき、急に話しかけられた。

「空いてる?」
「えっ」
 私はまだ返事なんてしてないのに、セミロングの男の子が私の向かいの椅子を引き、そして座った。そもそも、さっきの独り言を聞かれてたら最悪だ。

「昨日もこの席で一人で食べてたから、空いてるんだろ。あ、安心して。俺、会ったことあるから、初対面じゃないよ」
「えっ、何者?」
 また、面倒なことに巻き込まれた――。
 センターパートの前髪は口元で内巻きになっていた。二重でくっきりとした目。黒い瞳に吸い込まれそうになるくらい、黒目が大きくて、印象的に見えた。小ぶりですっとした鼻、薄い唇。なんでこんなにバランスが整った男の子が私なんかに話かけてきたんだろう。そういう目的なら、もっと、違う人だっているし、そもそも、まだ昼間のこんな学食の中でそんなことするくらい貪欲なの? なんなの?

 私がそんなことを考えているうちに、男の子は財布を取り出し、何かを取り出した。そして、私の方に向けて、免許証をテーブルの上に置いた。そこには、昔、見たことがある名前と住んだことがある街の住所が書かれていた。
 
 私は驚いて、男の子を見ると、男の子は微笑んでいた。
「ありのままって難しいよな」
 わざとらしく、そんな格好つけたこと言ってるのか、なんなのかわからないけど、その言葉で、中学校のとき、夕日のオレンジの中で同じように微笑んだ表情を思い出し、私はその言葉で心の奥を一気に掴まれたような感覚がした。



夏輝2

 学食で座っている姿を見た瞬間、奇跡だと思った。
 だから、俺は躊躇なく彼女の前に座った。さっき通りがかりにちらっと見た通り、彼女の右目尻には、ほくろがあった。それで俺の心拍数は少しだけ上昇し始めた。

「空いてる?」
「えっ」
 彼女は怪訝そうな表情をしているけど、俺にはわかる。窓側の席で、窓からはお昼の柔らかい春の日が白く射していた。窓の格子の影が、白いタイルに3倍くらいの長さになり、斜めにマス目を作っていた。
 丸テーブルの上には、コンビニのレジ袋とペットボトルのカフェラテ、そして、まだ開けていない菓子パンが置いてあった。

 彼女の怪訝そうな表情は変わらなかった。きっと、俺のことに彼女はまだ気づいていなさそうだった。その所為で、またさらに胸の奥がうるさく、100BPMくらいの遅くもなく、早くもないリズムを淡々と刻んでいる。

 だから、俺は免許証を出すことにした。きっと、向こうも俺のことを覚えていたら、高校卒業前に取った免許の住所と、俺の名前で気がつくかもしれない。そして、ただ単に思いつきで話しかけたなんて思わないはずだ。
 免許を彼女に見せるとやっぱり、俺のことを知っていて、驚いているような表情を浮かべて、俺のことを見てきた。
 少女だった彼女はすでに大人っぽくなっていた。だけど、メイクをしても、右目尻の特徴的なほくろは隠しきれていなかったから、頭の中の記憶と簡単に結びついた。

「ありのままって難しいよな」
 俺はあのとき、言ったことをそのまま言うことにした。こんな奇跡をより印象的にしたいから、格好つけることにした。なんで3年も同じ大学にいたはずなのに、今まで気が付かなかったんだろう。というか、それ自体が奇跡だよなって、すぐに言いたくなった。
 やっぱり、セミロングを好むんだ。その髪の長さが君の印象のままだったから、少しだけ嬉しくなった。ただ、中学生のときと大きく違うのは、黒髪ではなく、透明感のあるベージュに染まっているところだった。

「――町田くんだよね?」
「やっぱり会ったことあったでしょ」
 そんな俺のウザ絡みに彼女は小さくうんと頷いてくれた。そして、君の名前を俺は久々に呼んでみることにした。
「――穂波橙花(ほなみとうか)だろ?」
 もう一度、橙花は頷いた。頷くたびに毛先のベージュが窓越しの日差しで輝き、そして小さく揺れた。

「上京してたんだ」
「穂波さんこそ、上京してたんだ。同じ大学だったんだね」
「気づかなかった」
「俺も。気づいてたらもっと早く話しかけてたと思うよ。マジで奇跡じゃない?」
 そう言うと、ようやっと橙花は笑ってくれた。その笑顔を見て、俺はようやっと安心できた。



橙花2

 恋に臆病になったのはいつからだろう。
 そんなことを考えながら、私は町田くんの隣をゆっくりと歩いている。本棟の自動ドアを抜け、正門までつながる並木道に入った。道の両脇は新緑色した木々が並び、昼過ぎの柔らかい春の日差しが揺れていた。5月なのにまだ春が抜けない冷たい風が心地よく感じる。

 突然の出会いの所為で私は、とっさに嘘をついてしまった。
 本当は午後だって講義はあるのに、町田くんと話がしたくて午後、休講になったって言った。すると、町田くんはじゃあ、行こうよと私のことを簡単に誘った。きっと、女慣れしてるんだろうなって感じの誘い方に感じた。
 だから、お昼を学食で食べたあと、こうして大学を抜け出した。
 
「こういうのさすがに初めてじゃないだろ?」
「そうだけど――」
 さすがにいきなりそんなこと、言われるのは少しだけ嫌だった。別に彼氏がいないことをコンプレックスには思ってない。ただ、私は傷つくのが嫌なだけだ。なんてこと、町田くんに言えるわけがないから、私はこれ以上、何も言わないことにした。

「悪い。こういう聞き方じゃなかったかもな」
 まるで私の気持ちを読んでいるかのように町田くんがそう言ったから、思わず町田くんを見た。町田くんは目を細めて微笑んでいた。
「――町田くん、モテそうなのに」
「俺はバンドで忙しいからさ」
「バンドやってるの?」
「そう。ドラムやってるんだ。こう見えても、TikTokでバズってるんだよ。まだメジャーデビューはしてないけどね」
「へえ。すごいね」
 素直にそう返すと、町田くんはまた柔らかく微笑んだ。そうしているうちに、私たちは並木道を抜け、駅前通りにぶつかった。本当は町田くんにすごく関心があるのに、聞くことが思いつかずに話が途切れそうになっているような気がした。それで頭のなかで少しだけ焦り始めて、どうしようと思ってたら、町田くんは話を続けてくれた。

「嫉妬深い彼氏にぶっ飛ばされない?」
「友人だから大丈夫って言いたいけど、私になんて、そんな相手いないよ」
「じゃあ、気になってたバナナジュース飲むの付き合ってよ」
 いいよと言うと、町田くんは、またにっこりと微笑んだ。それとあわせて、センターパートの前髪がかすかに揺れ、右耳のシルバーのピアスがキラリとした。



夏輝3

 久々に女の子にジュースを奢った気がする。俺は穂波さんとプラスチックカップに入ったバナナジュースを持ったまま、ジューススタンドの店の近くにある比較的大きな公園に入り、噴水が見えるベンチに座った。
 お互いの黄色くなっているプラスチックカップをあわせて乾杯をしたあと、赤いストローを咥え、バナナジュースを一口含むと、予想した以上にふんわりとした食感とあわせてバナナの香りと甘さが口いっぱいに広がった。

「おいしい」と俺より先に穂波さんがそう言った。俺の左側に座る穂波さんを見ると、ちょうどストローから唇を離したところだった。さすがに身長は中学生のときより少し伸びているように感じた。だけど、さっき、横並びで歩いたときの印象は昔と変わらなかったように思えた。
 160センチいかないくらいの平均的な身長、こぶりな鼻、薄い唇。そして、二重まぶたに右目尻のほくろ。
 すべての要素が記憶のときに比べて大人っぽい印象になっていた。だから、俺は少しだけ、ドキドキしていることに気がついた。

「おいしいって、しっかり言える人って、素直だと思うんだ」
 俺はさりげなく、すでに穂波さんのことを、意識しているという意味を含めるためにそんなどうしようもなくダサいことを言ってしまった。言ったあとすぐに後悔したけど、穂波さんはそんなことなんて気にしていないみたいに、
「へえ。じゃあ、今度から意識的に言ってみようかな」と言ってくれた。
 そして、穂波さんは今日初めて、微笑んでくれた。笑って細くなった目尻の所為で、右目尻のほくろが、笑った影に隠れた。
 
「意識しなくてもすでに言ってそうじゃん。普段から」
 変わってないな、昔から。って続けようと思ったけど、そう言うと引かれるような気がしたから、やめることにした。

「ううん。私、つまらない人だから、たぶん言ってないと思うよ」
「なんだよそれ。穂波さんが”つまらない人”だったら声なんてかけてないよ」
「たぶん、この7年で私、つまらなくなってると思うよ」
 そう静かな声で言ったあと、穂波さんは赤いストローを咥えて、バナナジュースを一口飲んだ。だから、俺も同じようにストローを咥えて、バナナジュースを飲んだ。俺はまた一つの言葉がトリガーになり、あのとき手痛い目にあったときの光景を鮮明に思い出してしまった。風でかすかに揺れる白いワンピースの裾、相手の冷たい目、雨が降り出しそうな灰色の空。

 俺は過去に意識が取られそうになり、慌てて再び、穂波さんのことを見た。
 穂波さんはまた、唇をストローからそっと離した。そのあと、ぶわっと強い風が吹き、周りの木々がざわめき、目の前の噴水のしぶきが白く左に流れた。穂波さんの肩にかかった髪の毛の先も揺れ、午後の光でかすかにピンクが透けていた。

「――それじゃあ、俺もつまらなくなってるよ」
 じゃあ、お互いにつまらない人同士ってことかもしれないなって思いながら、俺は中学生のとき、たった一度だけあった淡い時間をふと思い出した。



橙花3

 弱気なペンギンみたいに、町田くんについてきた公園は午後が始まったばかりの時間の所為か空いていた。強い風で町田くんの前髪が揺れるたびに、なにかに一気に引き込まれそうな錯覚がした。久々に冷静に感じる程よい緊張は、病でトラウマで固まった胸の奥を締めつけてくる。
 右手に持ったままのバナナジュースは程よく冷たく、プラスチックカップが気持ちよくかいた滴が人差し指に落ちるたびに、人差し指を冷たく伝う感触がした。

「ドラムだってやってるんだから、つまらないわけないじゃん。町田くんは」
 さっき、町田くんに本音をこぼしてしまったことに私は少しだけ動揺していた。そんなこと言うつもりなんてまったくなかったのに、なんでかわからないけど、町田くんにそんなことを言ってしまった。というか、言ってよかったのかもしれない。私はどうせつまらない人間なんだから、町田くんに先に知らせておいたほうが、お互い無駄に傷つくことなんてないかもしれない。

「そう見えるかもね。だから、そのまま穂波さんにその言葉返すよ。今日はずっとできなかったお礼みたいなもんだから」
「お礼?」
 中学生以来の再会なのに、いったいなんのお礼なんだろう――。
「キャラメルキャンディのお礼」
「私、そんなのあげたっけ?」
「そう、もらったんだよ。公園で話してるときに。11月の公園で」
「あー、あのとき」
 私はまた反応に困ってしまい、こんな薄いリアクションしかできなかった。人に言われて、忘れかけていた思い出の欠片をようやっと思い出した。イチョウの木々は鮮やかな黄色で、公園の地面も黄色に包まれていた。その中にあるベンチにふたりで座り、沈んでいく夕日を眺めていた。
 隠し持っていたキャラメルキャンディを町田くんに渡すと、町田くんはすごく嬉しそうに微笑んでくれた。そして、キャラメルキャンディの包み紙を取り、それを口に入れると、ごくごく普通のキャンディなのに、町田くんは無垢においしいって言ってくれた。

「そう。結局、キャラメルのお返しできなかったから。まさかのバナナジュース返し」
「――いいのに。そんなこと覚えててくれたんだ。義理堅いね」
「俺も今、思い出したんだけどな」
「え、そしたら今、こじつけたってこと?」
「ま、そういう細かいことは考えないでさ、飲もうぜ」
 二杯目のカルアミルクを進めるみたいに町田くんはそう言って、バナナジュースを一口飲んだから、私も同じようにバナナジュースを飲んだ。

「恋に臆病なんだろ?」
「えっ」
 やっぱり、食堂であったとき、私のひとりごと聞いてたんだ――。

「恋に臆病な穂波さんの病気治してやるよ」
「――どういうこと?」
「変なのにつきまとわれてるんだろ? なら、俺が友達だけど、彼氏のフリして、そいつ追い払ってやるよ」
 そう得意げに言いきった町田くんの所為で私の心臓は激しく音を立て続けるだけだった。
 町田くんに言われたことはわかるけど、恋に臆病な私の病気を治すということはよくわからなかった。



夏輝4

「変なの。よくわからないけど」
 穂波さんにそう言われて、俺は急によくわからなくなった。そして、そう言った自分が恥ずかしくて、それを誤魔化すためにバナナジュースをもう一口飲んだ。
 もう、なんだよ――。
 
 食堂で穂波さんに声をかけたとき、穂波さんのiPhoneの画面が見えてしまった。そこには、《また飲みに行こう》と書かれていた。そして、穂波さんは『恋に臆病だってことわからないのかな』って言っていたのが聞こえてしまった。
 声をかける前に彼氏がいるのか、それともまだ付き合ってない状態の気になってる人がいるのは、その2つの情報で確定してしまった。だけど、それ以上にずっと会えるはずがないと思っていた穂波さんと、7年ぶりの再会のほうが俺の中でインパクトが強くて、俺は穂波さんに声をかける直前にわかった情報を無視することにした。
 
「変なのってなんだよ」
「てか、私のひとりごと聞いてたんだ。そっちのほうが恥ずかしいんだけど」
 穂波さんの頬はすでに顔が赤くなっていた。
「ひとりごとにしては声、大きかったよ。というか、油断しすぎだよ」
「だって、あんなにガヤガヤしてる場所でまさか、私に関心がある人が急に後ろにいるなんて思わないじゃん」
「そうだけどさ。さっき彼氏もいないって言ってたから、変な人につきまとわれてるのかなって思ったんだよ」
「へえ。そうなんだ」
 穂波さんの頬はまだ赤いままで、赤みがそのままチークに溶けてしまったら、きっと頬はりんごのように甘酸っぱいんだろうなって思った。そして、穂波さんはきっと、キャラメルキャンディを俺にくれた日、交わした約束のことなんか忘れてしまっているのかもしれないと俺はふと思った。

「別にね、変な人になんてつきまとわれてるわけじゃないよ。ただ、ゼミで一緒ってだけで馴れ馴れしい人のことが嫌になっただけだよ」
「じゃあ、恋じゃないじゃん」
「あ、それは相手が私のこと意識してるからなの」
「どうして?」
 俺は《飲みに行こう》と書かれていたメッセージを思い出した。だけど、そこまで言ったらさすがに引かれると思ったから、そのことは知っていないことにした。穂波さんは小さくため息を吐いたあと、またストローを咥えて、バナナジュースを一口飲んだ。そして、唇からそっとストローを離した。

「――対価の変わりに誘ってくるからかな」
「なに? なにかお願いされたとか?」
「いや――」
 穂波さんはそう言ったあと、困ったような表情を浮かべた。そして、次の言葉を探しているように見えた。だけど、その言葉は俺たちが座るベンチと噴水の間になんて漂っているわけでもなくて、ただ、噴水のしぶきがタイルに落ちていく光景が広がっているだけだった。
 そんな穂波さんの言葉を待っている間、俺は穂波さんをじっと見つめた。中学校のとき、穂波さんはよく、今みたいな表情をして日々、息苦しそうに過ごしていたことを思い出した。

 ――7年も経ってるのにそういうところは変わってないんだ。

「ただ、私って元々、人間関係とかそういうの作るの苦手だからさ、たまに自分のことがわからなくなることがあるんだ。ただ、それだけだよ」
 そう言い終わると、穂波さんは再びストローを咥え、残りのバナナジュースを一気に飲み干した。



橙花4

 右手を胸に当てると、鼓動が騒がしかった。
 安全基地のはずのワンルームに戻っても、未だにドキドキは取れなかった。いつものようにベッドを背もたれにして、ローテーブルとベッドの間に座っている。開いている窓から、風が吹き込み、レースカーテンが揺れいている。射し込んでいる午後の日差しの中をレースカーテンの影が涼しそうに泳いでいるように見えた。

 結局、町田くんと公園でバナナジュースを飲んだあと、駅で別れた。
 そのあとからはいつものようにひとりぼっちになり、スーパーで夕食と炭酸水を買って帰ってきた。胸から右手を離し、ローテーブルに置いていたペットボトルを手に取った。そして、キャップを開けると炭酸が抜ける涼しい音がした。これだけであと少しで夏が始まるなってふと思った。
 そして、ペットボトルに口づけると、予想した通りの刺激が口の中に広がり、そして、飲みこむと喉がわずかな刺激で痛んだ。ペットボトルをローテーブルに置き、右手の小指をじっと眺めた。

 あのあと、町田くんのインスタのアカウントを教えてもらい、それをフォローした。そして、私のアカウントを町田くんもフォローしてくれた。そして、LINEも交換して、私と町田くんはオンラインになった。

「不思議なことってあるんだ」
 小さい声でそう言っても、中学校のとき、町田くんと何を約束したのか思い出すことはできなかった。町田くんは私が知らないうちに垢抜けているように感じた。あの軽い雰囲気は、きっと女慣れしてるんだろうし、バンドだって結構上手くいってるらしいから、きっと、今、ものすごく充実してるんだろうなって感じた。

 中学のとき、同じ場所にいたように思えた同級生が7年越しの再会をしたら、片方はしっかりと大人に向けて歩み始めていた。
 だけど、私は、この7年の間、自分のことなんてよりわからなくなり、季節は何度も巡り、そして取り残されている。
 20歳になって、大人になっても、私は未だに子供っぽさが抜けていないように感じる。それなのに、季節は平等に進んでいくし、そして置いていかれるしで、だったら私は少女のままでいいよって言いたいけど、そんな希望なんて受け付けていない。

 モヤモヤを誤魔化すために私はローテーブルに置いたままのiPhoneを手に取った。そして、TikTokを起動し、町田くんのバンドの名前を検索した。




夏輝5

 昨日と同じ場所でランチしてるんじゃないかと思い、昨日、穂波さんが座っていた席まで行ってみたけど、そこには穂波さんはいなかった。だけど、その席の数席奥で穂波さんと他の女子2人の3人でテーブルを囲んでいるのが見えた。
 
「当たり前か」と誰にも聞こえないくらいの声で呟いたあと、奇跡は2日連続は続いてくれないかと思った。
 本当は昨日、駅で穂波さんとの別れ際に誘おうかと思った。だけど、穂波さんの性格的にぐいぐい行くと、引かれるかなと思って、俺にしては珍しくためらってしまった。
 結局、ためらったまま穂波さんと別れてしまったから、俺は少しだけモヤモヤしながら電車に乗り、アパートに帰った。
 
 穂波さんはまだ、俺に気づいていないみたいだ。話すことに一生懸命って感じで、また中学生のときみたいに余裕のなさそうな表情をしていたし、笑う時、目尻のほくろが隠れてなかった。
 その表情を見て、俺は虚しくなり、俺は仕方なくカウンター席の方へ向かった。

 
 
橙花5

 なんで必修なのに、7限にあるんだよって愚痴る声が前のほうから聞こえる。きっと、私と同じ講義室まで向かっているんだと思う。私は廊下の端に寄って、バッグを開けた。そして、ファイルを取り出し、カードくらいの大きさの3枚の黄色い紙を取り出した。
 右手に持ったそのカードを数秒見つめている間に、私の横を複数の足音と、雑談が通り過ぎた。

 別になんてことない。もう、何度も頼まれてきたことだ。
 ――こんなの誰だってやってる。
 そう思うとなぜか胸が黒いなにかに締め付けられるような感覚がした。その感覚はしだいに胸のなかでじわっと溶けていくように熱さを感じた。本当はこういうことはしたくない。
 人間関係のためだ。ゼミで上手く過ごすためにも、女友達に外されないために私は言われたことをしなければならない。
 
 だけど、なんで私だけ――。
 
 急に右手首に熱を感じて、私は思わず顔をあげた。
 私の目の前に町田くんがいた。町田くんは力強い目つきの怖い顔で、私のことをじっと見つめてきた。手首は町田くんの左手に握られたままで、強い力を感じる。

「つまんねーことするなよ」
 低い声で町田くんはそう言った。町田くんのシルバーのピアスが白い蛍光灯を反射した。そして、町田くんは講義室とは反対側を向き、みんなが歩いていく方向の反対側へ歩きはじめようとした。だから、私は無言のまま、何度か腕を振り払おうとしたけど、町田くんに強く掴まれたままの私の右腕はしなるだけだった。
 
 そのまま右腕を掴まれたまま、私は講義室の方へ歩こうとしたら、町田くんが急に逆方向に走り始め、私は引っ張られるように町田くんの後ろを走り始めた。
「えっ。待って」
 そう言ったけど、町田くんは私のことを無視して、私のことなんて待ってくれなかった。だから、私も町田くんに腕を引かれながら走るしかなかった。
 廊下ですれ違う人たちの視線を感じながら、白く一直線に伸びる蛍光灯が次々に流れていく。町田くんの横髪が揺れ、そのたびに髪の間から、チラチラと見える耳元が光っていた。

 反対側からの人の流れが切れ、私と町田くんは走ったまま、自動ドアを抜けて外に出た。並木道がLED街灯で闇の中に浮かんでいるけど、その心細い白い光じゃ、並木道は薄暗かった。その中も町田くんは構わず、走り続けているから、私はただ、腕を引かれて、町田くんに置いていかれないように走るしかなかった。

 まだ、夏が始まりそうもない冷たい風をどんどん切っていく。そのたびに、だんだんと私の息が切れてきた。
「待って、きついって」
 そう言ったけど、町田くんは走る速さを緩めてなんかくれなかった。だから、私は手を繋がれたまま、簡単に大学の正門を抜けて、そして、駅とは逆の路地に入っていった。目の前のローソンの青白い光や、向かいから来た車のヘッドライトもすべて無視するように私と町田くんは走り続けた。
 
 そして、小さい橋に入った。そこで私は限界を感じ、
「もう無理」
 と言ったあと、走るのを緩め、そして、橋の真ん中で立ち止まった。私の右腕は伸び切ったあと、町田くんは私に引っ張られるように立ち止まった。
 私は左手だけ左肘に当てて、前かがみになった。小刻みに呼吸を続けると一気に汗が出てきた。遠くから救急車のサイレンの音がしている。
 浅い呼吸をするたび、黒い地面が揺れているように感じたけど、それはただ単に私の呼吸で揺れているだけだった。

「歩こう」
「待って。まだ、息整ってない。それに――」
「それに?」
「これじゃあ、私もサボりじゃん」
「いいよ、そんなの。頑張り過ぎなんだから、今日くらいみんな道連れにして、休んじゃえ」
 ようやく息が整い、顔をあげると、町田くんは弱く微笑んでいた。もしかしたら、こんな私に愛想つかしたのかもしれないって思い、余計、自分が嫌になった。

「てか、ここちょうどいいな」
 そう言いながら町田くんは橋の手すりの方まで歩き、両腕を手すりにつけ、もたれかかった。だから、私も町田くんの右隣に行き、町田くんと同じように両手を手すりにつけ、もたれかかった。
 両岸がコの字のコンクリートで固められた川の水面は揺れていた。水面は、右岸の等間隔の街灯を青白く反射していて、闇が少しだけ柔らかく感じた。
 
「それ、もう意味ないだろ」
 そう言われて、私は右肘を手すりにつけたまま、右腕を川の方に伸ばした。右手に持ったままだった、3枚の黄色い出席カードはぐちゃぐちゃのしわくちゃになっていた。

「弱いんだ、私。断れないの」
「知ってるよ。昔から」
「えっ」
「中学生のときだって、顔色あわせて生きてきただろ」
 思わず、町田くんを見ると、町田くんも少し前のめりになり、私を覗き込んできた。暗くても、その大きな黒い瞳に引き込まれそうな気がした。また、徐々に心拍数があがるのを、胸に当たったままの左腕で感じる。

「今日、食堂で見ちゃったんだよ。穂波さんが中学生のときと同じ表情してるのを」
「変わらないでしょ」
「悪い意味で、変わってないなって思った。俺、すごいがっかりした」
 やっぱりそうだよね。やっぱり、走る前のあの怖い表情をしていたのは、私に対して呆れてたんだね。いいよ。私はこういう人間なんだから、この沼からたぶん、脱出するのなんて厳しいんだろうから。

「だけど、すごい嬉しかった」
「えっ、意味わからないんだけど」
 私がそう言うと、急に町田くんは笑い始めた。何に対して笑っているのか、わからないから、私は町田くんが笑い終わるまで待つことにした。

「あーあ、ホント、変わってないよな。自分の意志でしっかり、息できてないじゃん。20歳超えたのに」
「私はそういう人間なんだよ。だから、私、諦めてるの」
「そんな寂しいこと言うなよ」
 そんなこと言われて、私はなぜかわからないけど、そう言われたことに少しイラッとした。私だって、それなりに考えて、自分自身をわかろうとしてるけど、自分が一体、何がしたいのかわからないんだから。

「――彼氏面しないでよ」
 私は思わず攻撃的な言葉で返すことにした。そして、少しだけ後悔したあと、なんでこんな内面的なことを町田くんに言ってるんだろうとふと思った。
「俺はまだ、彼氏じゃないし。俺はただ、恋に臆病な穂波さんの病気治してやってるだけだよ」
「だから、私、恋愛なんかしてないし、恋に臆病なわけじゃな――」
 私がそう言っている途中で、町田くんは私が持っていた出席カードを取り上げた。そして、一枚ずつ何かを見た。

「これが彼氏?」
 そう言って、一枚の出席カードを私の方に差し出してきたから、私は黙って一枚の出席カードを受け取った。
「ゼミで一緒で、口説かれてる男の子」
「へえ。付き合わないの?」
「別に好きでもない」
「まだ飲みに行ってないのに?」
「――1回だけ行った」
「へえ。いいじゃん。相手がその気なら付き合っちゃえばいいのに」
 私は黙ったまま、川の水面を眺めることに集中した。弱い光を反射している水面は時折吹く、冷たい風で静かに揺れていた。



夏輝6

「追われる恋って、いいと思うんだけどな」
 俺は自分の今の気持ちと真逆なことを、なぜかわからないけど穂波さんに言ってしまっていた。本当は穂波さんに恋愛のアドバイスなんてしたくはない。俺の右横で橋の手すりに頬杖をついている穂波さんはまっすぐ向いたまま、浮かない表情をしていた。

「飲んだとき、別に楽しいって思わなかったし」
「へえ。それなのに連絡取り合ったり、代返してあげたりしてるんだ」
「これは私を守るためなの」
「守る?」
「――ゼミが一緒だから、人間関係こじれたら大変じゃん。だから、言い寄られてる間は、普通を装うほうがいいかなって思っただけなの」
「それじゃあ、相手からしたら思わせぶりじゃん」
 俺がそう言うと、急に沈黙が流れた。あーあ、余計なこと言っちゃったかもしれない。だけど、どこか嬉しい気持ちを感じている自分もいた。だから、その気持ちを冷静にするために、俺はもう2枚の人たちのことも聞くことにした。

「そしたら、この2枚の女の子たちは?」
「これも、人間関係維持のためにやってるの。この子たちは1年生のとき、ちょびっと入ってたサークルで一緒になった子たちのカード。一人は明日、企業訪問するらしくて、もう一人は急にバイト入ったんだって」
「へえ。みんな忙しいんだね。俺もレコーディングのとき、代返してもらおうかな」
「怒ってここまで連れ出した癖に」
 そう言って、穂波さんはふふっと優しく笑ってくれた。そのあと、俺たちの後ろを一台の車が通り過ぎる音がした。そして、車が通り過ぎた風圧で、穂波さんの毛先が川の方へ流れた。そして、穂波さんが笑い終わると、また中学生のときみたいな自信のなさそうな表情に戻っていた。

「また、その表情してる」
「えっ」
「無理に人にあわせようとするなよ。本当は代返なんかしたくないんだろ」
「――だって、ずるいじゃん。だけど、断れないんだ」
「昔からだろ、優しいのは。だから、断れない」
「――私だって、断りたいよ。だけど、なぜか断れないの。いいように利用されてるのだって自分ではわかってるのに」
 今にも泣いてしまうんじゃないかってくらい、穂波さんは静かにそう言った。頬杖をついた穂波さんは昨日よりも、小さく見えた。
 だから、俺は急に強く君の名前を呼んでみたくなった。

「――なあ、橙花」
「――えっ」
「破り捨てちまえよ。こんなエゴの塊」
 俺がそう言うと、橙花は両手で黄色い出席カードを持ち、じっと眺め始めた。だから、俺はじっと、そんな橙花のことを眺めながら、次の言葉を待った。

「――ねえ、夏輝くん」
「なに?」
「破り捨てたら、新しい自分になれるかな」
「なに当たり前のこと言ってるんだよ」
 そう返すと橙花はゆっくりと微笑んだあと、ジリジリと四等分に3枚の出席カードを千切り、そして、12枚になった黄色の紙切れを川へ落とした。
 かすかな光が揺れる水面へ、黄色の四角が散り散りに闇に消えていった。



橙花6

 なんで、急に夏輝くんのことを下の名前で呼びたくなったのかわからなかった。だけど、そうしたいと初めて自分の内側の意思が働いたような気がした。

 出席カードを千切ったあと、夏輝くんと、走ってきた路地をさらに進み、噴水がある公園まで歩いた。公園の入口にある自販機で、夏輝くんはアイスのカフェオレの缶を2つ買って、1つを私にくれた。そして、昨日と同じように噴水の向かいにあるベンチに座った。昨日と同じように夏輝くんが私の右側に座り、そして、私は夏輝くんの左側に座った。
 すでに噴水の水は止まっていて、辺りは静かだった。そして、等間隔に噴水の広場を照らす街灯が空を見上げても、都会の明るさの所為で、一等星しか見えなかった。
 
「飲もうぜ」
「お酒みたいな言い方だね」
 少しだけ茶化し気味にそう返すと、夏輝くんはいいんだよそんなことは。と言いながら、缶を開けた。だから、私も同じように缶を開けた。すると、昨日バナナジュースを飲んだときと同じように夏樹くんは私の缶に缶を軽くあて、そして、カフェオレを一口飲んだ。
 私も一口、カフェオレを飲むと、想像した通りの冷たさと甘さ、そしてほろ苦さが口いっぱいに広がった。

「なあ、少しだけ重い話してもいい?」
 夏輝くんからそんなこと言われると思わなくて意外だった。だけど、さっき橋で私のことを聞いてくれたから、今度は私が夏輝くんの話を聞いてあげないといけないなって思ったから、私は頷いた。

「2こ上の兄貴がいるんだけどさ、その兄貴が去年の秋から、調子悪くなったんだ」
「そうなんだ」
 どういう風に調子が悪くなったんだろう――。
 夏輝くんの話題に深く踏み込めず、私はためらってしまった。下唇を弱く噛んでも、どうやって話を聞けばいいのか思いつかず、ただ、会話の中で妙な間が流れてしまった。

「それで、年末に帰ったとき、もう実家に兄貴がいたんだけど、心ぶっ壊れたみたいでさ、全然ベッドから起きれなくて、ご飯で起きるのがやっとって感じだったんだ」
「大変だね。お兄さん」
「こないだ電話したら、ちょっとはよくなったみたいだけどさ。ブラック企業に捕まって、一回、壊されたらシャレにならないよなって思ったんだ」
 夏輝くんはそう言ったあと、小さく息を吐き、カフェオレを一口飲んだ。だから、私も夏輝くんの真似をして、カフェオレを一口飲んだ。

「それが虚しくてさ。あんまり人に優しすぎるのも良くないよな。つけ込まれる」
 まるで私のことを言っているみたいで、少し嫌な気持ちになった。ただ、夏輝くんのお兄さんがそうなったのは、気の毒に感じる。
 
「少しは良くなったんだ」
「少しはね、マシになったらしいよ。なんか、その兄貴の姿見て、嫌だなーって思っちゃんだよ」
「嫌なの?」
「だってさ、社会に無事でて、これからやっていくぜって真面目にやってたら、不当な扱い受けて、ボロボロになるんだよ。そんなのバカらしいじゃん」
「え、だけど、夏輝くんはバンドで上手くいきそうでしょ」
 私より、夏輝くんはずっといいじゃん。だって、夢も目標もあるんだから。

「それがさ、バンドマンって売れたら天国らしいけど、売れるまでが安定しないんだよ。それに俺、ドラムだけだし、曲とか、詞書いてるわけじゃないから、もし、曲がメジャーでリリースできたとしても、どうなるかわからないな」
「そうなんだ。もっと、キラキラしてるのかと思ってた」
「もちろん、バンド成功させたいけど、現実的にバイトと両立しながらタフにやれるかって考えると、普通に不安だな」
 あーあ、大変だぁ。と少し大きな声で夏輝くんはそう続けて言ったあと、またカフェラテを飲んだ。

「だから、俺がなにを言いたいのかって言うと、自分のことは自分でしか守れないらしいよ」
 夏輝くんが憂鬱そうな声でそう言った所為で、今日、私のこと、助けてくれた癖にそう言うこと言うんだって、思わず言いたくなったけど、私はそれを我慢して、カフェオレを一口飲んだ。

「なあ、橙花」
「なに?」
「中学生だったときのことって覚えてる?」
「ううん。あんまり覚えてない。もう、高校生のときすら、だんだん遠く感じているのに」
「普通、そうだよな」
 私は少しだけ、夏輝くんのその言葉に傷ついたような気がしたから、カフェオレをもう一口飲んだ。たぶん、転勤が多すぎた所為で深くて心地よい思い出なんてあまり覚えていない気がする。
 きっと、すぐに終わる人間関係を意識して、あまり思い出とかに深入りしないように浅く広い交友で淡々と過ごしていたからだと思う。特別、部活だってやらなかったし、時間があるのにバイトも短期バイトくらいしかしなかった。
 ただ、適当に今だけ居心地がいい友達と遊んでいただけだ。

「それって、普通なのかな」
「普通だと思うよ」
 夏輝くんは私の気持ちを置いていくかのようにそう軽く返してきた。夏輝くんもカフェオレを一口飲んだあと、わかりやすくため息を吐いた。

「俺、結構、そう言うところ普通じゃないんだよね」
「えっ、どう言うこと?」
 そう聞き返して、私は思わず夏輝くんを見た。夏輝くんは弱く微笑んだあと、目を細めた。いつものようにシルバーのピアスが髪と髪の間でかすかに街灯の光を反射していた。

「俺、昔から記憶力がよくてさ、印象に残った記憶の場面をありありと頭の中で再生できるんだ」
「それって、どれくらい正確なの?」
「本当に現実かって思うくらい正確だよ」
「それ、すごいね」
「だから、橙花のことも見つけ出すことできたよ」
 そう言って、夏輝くんは微笑んでくれたから、私は急に照れ臭くなった。一体、私のどこを見て、私だってわかったんだろう――。

 夏輝くんは、ゆっくりと頬を緩め、そして真剣そうな表情になった。
 だから、ただの頭いい自慢ではなさそうに思えた。なんで、夏輝くんは急にそんなことを言い出したのかよくわからないけど、大事なことのように思えたから、私はそうなんだと小さな声で相槌をうった。
 そして、昨日、食堂で話しかけられたとき、言われた言葉を思い出した。

『ありのままって難しいよな』
 ボールの中で湯煎されて溶け切ったチョコレートにミルクとゼラチンを入れて、冷蔵庫に入れて完成させるチョコレートムースを取り出すように、記憶の奥で冷やしていた、凝固した言葉をかけられていたことを不意に思い出した。
 


夏輝7

 そうなんだと言われて、やっぱり優しいんだなって俺は思った。普通、こういう話をしたら、大体、茶化した返しをされるに決まってるから、俺はこんな自分の特殊な部分なんてカミングアウトしない。
 だけど、橙花には言ってもいいかなと思ったから、素直に言ってみることにした。

「それで昔、言ってくれた言葉、わざわざかけてくれたんだ」
 ようやっと、気が付いてくれてよかったと思った。久々の再会で、そんなこと言うのはやっぱり俺だって照れ臭かった。
「そう。思い出した?」
「ずるいよ。そういう記憶力の使い方」
 橙花はそう言ったあと、ふふっと優しく笑ってくれた。

「だから、こういうこともできるけど、当然、つらいこともしっかり映像で自分の記憶の中で生き続けるんだ」
「よかったことだけ、思い出せたら最高なのにね」
 橙花にそう言われて、俺はまたこっぴどく振られたときのことを思い出した。『つまらない人だね』と元カノが冷たい目でそう言ったのをありありと思い出した。
 
「そうかも知れないな。思い出に溺れるだけかも知れないかもしな。だからつまらない人って言われるのかも知れない」
「えっ。今のもう一回言って」
 目を見開いて、大きくて丸い目で橙花が俺のことを見つけてきたからびっくりした。てか、どこで食いついたんだろう。

「思い出に溺れるだけ――」
「違う。その次」
「――つまらない人って言われる」
「私と同じ呪いにかかってるんだね」
 橙花はまだ俺のことを見つめたまま、そんなことを言ってきたから、俺はよくわからないまま、よくわからない運命を感じた。




橙花7

 夏輝くんをじっと見つめていると、夏輝くんはそっと、下を向いて視線を逸らした。そのあと冷たい風が後ろから吹き、夏輝くんの横髪が揺れた。
 やっぱり、何かあったんだと私はそんな夏輝くんの様子を見て思った。今まで何度も、つまらない人ってことを言っていたような気がする。まだ、再会して2日しか経ってないけど、私からしてみたら十分、面白い人なのに。 

「夏輝くんは誰にそんなこと言われたの?」
「――2年前付き合ってた彼女」
「そうなんだ。かわいそう」
「いや、俺が悪いんだよ。バンドに集中しすぎて元カノのこと、ほったらかしたから」
「だけど、それは夢があってのことでしょ」
「そうだけどさ、まだバンド結成したばかりだったし、今より、全然有名じゃなかったし。そう言われて当たり前だよ」
 夏輝くんは唇に缶を当て、首を傾けて、カフェオレを一気に飲み干した。そして、飲み終わったあと、両膝に両肘をついて、前かがみになり、前を見つめ始めた。

「恋愛って大変だね。夢中になることがあって、相手をほったらかしたら、そんなこと言われるんだ」
「俺が悪いんだよ。寂しい思いさせたのは俺の所為だし。だから、こんなに会ってないし、連絡もあんまり取ってないのに、私たち付き合ってる意味ある? って言われるんだよ」
「セリフの再現度高そう」
 私がそう言うと、俺、記憶力いいから。と言って、夏輝くんが弱く笑ったから、私も同じように笑った。

「私なら、そんなこと思わないのに」
「えっ」と夏輝くんが驚いたような表情で私を見てきたから、私は何も考えずに言ったことが、実はアプローチみたいになっていたことに気が付いて、急に恥ずかしくなった。
 だから、カフェオレを飲み干して、空になった缶に重さを右手でしっかりと感じることに意識を向けた。それでも、一気に体温が上がり、顔が一気に熱くなるのを感じた。

「なあ、橙花」
「――な、なに?」
「まだ、出会って2日だけどさ、俺たち、やっぱり気が合うような気がするんだ」
「――うん」
 心臓が一気に音を立てて、胸が壊れるんじゃないかってくらい、バクバクとし始めた。私はもう、なにも考えられなくなっている。

「橙花のことが好きです。付き合ってください」と言われた瞬間に、私は思わず立ち上がってしまった。夏輝くんは私を見たまま、なにが起きたのかわからなさそうな表情をしていた。
 この状態にわかっていないのは私の方で、私は本当によくわからなくなり、気がつくと私は走り始めていた。

「橙花」
 うしろから、夏輝くんの声が聞こえるけど、それを無視して私は自分でも訳がわからない混乱した頭のまま、薄暗い夜の公園を走り続けた。



夏輝8

 最悪だ。
 運命だと思ってたのに。
 
 LINEでメッセージを入れたけど、結局、既読がつかないままアパートまでたどり着いてしまった。
 細長いワンルームの部屋は、電子ドラムセットと、ベッド、そして、ローテーブルでぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 俺は、ベッドに仰向けに寝転がりながら、橙花とのトークが表示されているiPhoneを右手に握ったまま眺めていた。
 そのうちに腕が疲れてきて、俺はトーク画面を見るのを諦めて、右手をベッドに戻した。

 やっぱり、早すぎたな――。
「たった2日でなに、わかった気になってたんだよ」とぼそっと言うと、白色の天井や、スタンドライトの電球色に笑われているような気がした。
 惨めな男って。

「やっぱり、つまらない男だな」
 恋に臆病なのはよくない。そんなのわかってるから、ただ、想ったことを橙花に伝えただけだ。
 だって、こんなに素直に自分の話を自然にできた女の子は、橙花が始めてだったから。

 俺はダサいセンチメンタルを発散するために、ベッドから起き上がり、電子ドラムセットに向かい、ヘッドセットをつけた。


 
橙花8

 最悪だ。
 運命だと思ってたのに。

 私は自分の部屋にたどり着き、玄関のドアを閉めた瞬間に力が抜けて、ドアにもたれながら、座り込んでしまった。
 背中にドアの冷たさを感じ、私はまだ、生きているんだって思った。

 いや、恋はもう死んだかも知れない。
 意識した瞬間、呼吸が止まりそうだった。 
 昨日まであまり意識してなかったような気がするのに、どうしてだろう。一緒に夜の淵を手を繋いで走ったからかな。

 右腕を前に伸ばし、そして、じっと見つめた。まだ、右腕には夏輝くんの感覚が残っているような気がした。夏輝くんのうしろ姿が、残像的に思い浮かんだ。
 
「どうして逃げちゃったんだろう」

 恋に臆病なのは私だ。
 高校生のとき、こっちに好意がないのにいきなり告白されて、『つまらない人だね』って言われたことや、DMで代返の依頼とお礼、そしてしつこく口説かれから嫌とか、そう言うわけじゃなかったんだ。
 だから、大学に入って、友達と同じ人が気になって、友達に譲ったとか、そう言う所為じゃなかったんだ。

 私が恋に臆病だっただけなんだ。
 
 そんな自分に急に悔しくなり、バッグからiPhoneを取り出すと、夏輝くんから新着メッセージが入っていると通知が書いてあったから、私はすぐにそれをタップした。
 メッセージを見たけど、どう返せばいいのかわからず、iPhoneを持っている右手を、そっと下ろした。
 ぐちゃぐちゃした感情が頭の中で一気にミキサーでぐちゃぐちゃにされて、水色の悲しみのスムージーが出来上がり、頬を涙が伝う感触がしたと思ったら、すでに私の涙は止まらなくなっていた。
  
 
 
夏輝9

 別に振られるのには慣れているつもりだった。だけど、朝から胸の奥の鈍さが取れないまま、一日を過ごした。6限が終わり、講義室の中はザワザワしていた。バッグを開き、机に広げていたものをすべて片付けたあと、バッグからiPhoneを取り出し、LINEを起動し、橙花のトークをタップした。
 
 トーク画面には、
 《穂波橙花さんが参加しました》と
 《悪かった 通話したい》の二つのメッセージしか、表示されていなかった。ただ、俺のメッセージの横には既読がついていて、橙花は読んでくれているんだと思った。もしかしたら、何か返信あるかなって思ったけど、結局、19時をすぎても変化はなかった。

 再会してまだ3日目なのに、なぜか俺の心の中はほとんど橙花で埋め尽くされていて、もっと、橙花のことを知りたくなったし、橙花のつまらない人だねって誰かに言われた呪いを解いてみたい。
 昨日、告白なんかしないで、橙花の話を聞けばよかった。

 俺は、諦めて席を立ち、講義室を出た。



橙花9

 お互いに廊下の真ん中で立ち止まると、私の心臓はまた昨日と同じように破裂しそうなくらい派手に鳴り響き始めた。ずっと、クールそうなイメージだったのに、夏輝くんは驚いた表情を浮かべていた。
 蛍光灯が一直線に伸びているこの廊下は他の人はまばらだった。6限が終わって、アパートへ帰ろうとゆっくりと歩いていたら、向かい側から夏輝くんが歩いてきて、そして、目が合い、お互いに向かい合うように立ち止まった。

 しばらくの間、沈黙が流れているけど、一体、なにをどう話せばいいのかわからない――。
 だけど、恋に臆病なのを治したい。
 もう、夏輝くんから逃げたくない。
 
 だから、私は右手を前に出した。だけど、やっぱり恥ずかしくなって、私は反射的に一歩後退りをした。
 ダメだ。やっぱり、逃げたいかも――。
 すると、ふっと夏輝くんは笑ったあと、微笑みを浮かべ、左手で私の右手を繋ごうとした瞬間、お互いの人差し指に静電気が走った。



夏輝10

 昨日、走った路地を、橙花の手を繋ぎゆっくり歩いている。すっかり暗くなった世界はまだ夏は近いようで遠いような、冷たい空気に満ちていた。

 左側にはローソンの青白い看板が闇を照らしていた。静電気で笑い合ったこと以外、ここまでお互いに無言のまま来てしまった。話したいことはいっぱいあるけど、俺は昨日、橙花のペースを乱してしまったから、橙花のペースに合わせたい。俺はふと、中学生のとき、橙花と小指同士を結んだことを思い出した。

 だから、俺は昨日のお詫びをすることにした。

「ハーゲンダッツ買おう」
 左横にいる橙花を見ながらそう言うと、橙花は小さく頷いた。



橙花10

 3日連続で同じベンチに座った。目の前の噴水はまだしぶきを闇に向かって上げていた。19時をすぎてもまだ、しぶきをあげていることが少しだけ意外に感じたけど、今はそんなこと、どうでもよかった。
 私は、昨日、一昨日と同じように夏輝くんの左隣に座っている。昨日、立ち上がって、逃げた場所。
 そんなジンクスなんて、構う様子なんて見せずに夏輝くんは、ためらわずにまたこのベンチを選んだ。

「橙花のハーゲンダッツ」
 そう言いながら、夏輝くんは白いビニール袋からハーゲンダッツのグリーンティーと、プラスチックスプーンを渡してくれた。
 ありがとうと言って、私はそれを受け取った。夏輝くんの手元を見ると、袋から、ハーゲンダッツのストロベリーとプラスチックスプーンを取り出していた。そして、袋を縛り、それをバッグの中に入れた。

「食べようぜ」と言われたから、私はまた頷いた。
 右手の親指で、恋色みたいな赤のプラスチックの蓋を静かに開けると、いつも通りの柔らかく反発する蓋の感触がした。カップから取った蓋を左膝の上に乗せ、白いビニールをゆっくりとカップから剥ぎ取ると、想像した通りの緑色の冷たくて甘そうな世界がカップの中いっぱいに広がっていた。
 ビニールの裏には、甘い緑の痕跡が残っていて、家だったら、そのまま指で掬って食べてしまうところだけど、きっと、それをやったら、夏輝くんに引かれると思うから、当たり前だけど、今は我慢して、ビニールを蓋の上に乗せた。

「やっぱ、うまいな」
 そう言われて、思わず夏輝くんの方を見ると、夏輝くんはすでにスプーンでストロベリーピンクを削っていた。

「え、早いよ」
「だって、橙花、蓋開けるの慎重そうなんだもん」
「そんなに開けるの遅かったかな」と私は言いながら、ビニールに入っていたスプーンを取り出し、緑色を掬って、それを口の中に入れた。
 入れた瞬間、抹茶の香りと、ほんの少しの苦味、そして90%の甘さが口いっぱいに広がった。
 夜の公園でハーゲンダッツを食べているだけで、十分甘いのに、気になっている男の子とふたりきりで、ハーゲンダッツを食べていると、この世界がもっと甘くなったような気がした。

「なあ、昨日、聞き忘れたことがあるんだ」
「――なに?」
「橙花は誰に『つまらない人』って言われたの?」
 そっか、昨日、言ったつもりでいたけど、私は何も夏輝くんに伝えてなかったんだ――。

「高校2年生のとき、転校してすぐに男子に告白されて、断ったら、そう言われた」
「そうなんだ。付き合おうとは思わなかったの?」
「性格が合わないと思ったから、断ったんだ」
「確かに優しい橙花とは合わなそうだな」
「だから、つまらない人認定されたんだ、私」
「かわいそうだね」
「でしょ。転校したばかりで、私なりに人間関係壊さないように努力したつもりだったのに、このことがあってから、上手くいかなくなったなぁ」
「――頑張ったんだね」
 そう静かに言われたから、私って、今まで頑張ってたんだって、よくわからないけど、しっかり認識できたような気がした。それはもう一口、ハーゲンダッツのグリーンティーを口に含んでも変わることはなかった。

「だけど、もう頑張らなくていいよ」
「えっ」
 私は夏輝くんがそう言った真意がわからなくて、思わず間抜けな声を出してしまった。そして、目の前でしぶきをあげていた噴水が静かに止まり、辺りはより静かになった。

「十分、頑張ってるよ。だから、もう、人に合わせなくていいし、断るべきところは断ればいいよ。――昨日、それを伝えたかったんだ」
 夏輝くんは白いスプーンでストロベリーを掬いそれを口に含んだ。

「だけど、違う方向になぜか話が行っちゃったんだ。――中学生のとき、指切りして、約束したの覚えてる?」
 そう言われた瞬間、私は思わず、右手の小指を見た。だけど、もう小指には7年前の感触なんて残ってなかったし、どんな約束をしたのかも残念だけど、忘れてしまっていた。

「やっぱり、そのときのことも思い出せるの? 鮮明に」
「記憶力いいからね。無駄に」
「無駄ってことはないでしょ。――ごめん、手の感触は覚えてたけど、なんて約束したか忘れちゃったんだ」
「いいんだよ。忘れてくれて。それだけ、前向いて新しい生活に順応しようとしていたってことだと思うから」
 夏輝くんは微笑んだあと、またハーゲンダッツを一口食べた。私もハーゲンダッツを食べながら、次の言葉を待ったけど、一向に答え合わせをしてくれなさそうだったから、思い切って聞くことにした。

「ねえ、気になって眠れなくなると思うんだ」
「え、どういうこと?」
「あのとき、なんて約束したのか」
「そうだよな。――これからも約束は有効だと思うし、俺は再会できて、この約束通りできるチャンスが来たから嬉しいよ」
「ねえ、教えてよ」
「――ただ、君を守るって約束しただけだよ」
 そう言った夏輝くんの柔らかい表情を見て、あの日、オレンジの中で約束したあの瞬間をようやっと思い出した。
 私は、あの日もドキドキしていたんだった――。

 夏輝くんはあの日のことをずっと鮮明に覚えててくれてたんだ。そして、何度も私を記憶の中で生き続けてくれてたんだと思うと、夏輝くんの記憶力の良さが羨ましくなった。

 このまま、お互いに見つめあったままでも、恋に臆病な病気なんて忘れてしまうことができるかもしれないってふと思った。