「おはよ~」
天音はあくびをしながら教室に入った。
「あれ? 珍しいー。邪馬斗君と一緒に登校して来なかったのね」
席につこうとした天音に、咲が声を掛けた。
「まぁーねー。寝坊しちゃってさー。遅刻するかと思ったよー」
天音は椅子に座ると同時に、机にへばりつきながら言った。
「時間に余裕もって起きたらー?」
「咲まで邪馬斗と同じこと言うわけ?」
「邪馬斗君にも同じこと言われたんだ……」
苦笑いしながら、咲は言った。
まもなくすると、猿田先生が教室に入ってきて、ホームルームが始まった。
天音は、斜め前に座っている邪馬斗がイライラしているのに気づいた。
よく見ると、小さい男の子が邪馬斗に突っついたりしてちょっかいを出していた。
男の子は保育園児くらいに見える。
周りが男の子の存在に気づいていないことに分かった天音は、その子が霊であることを確信した。
昼休み。天音は邪馬斗に声を掛けた。
「邪馬斗、ちょっといい?」
「ジュースなら一人で買ってこい」
「そんなんじゃないって! いいから来て!」
天音は、邪馬斗の腕を強引に引っ張って中庭まで連れて行った。
「ここならあまり人居ないから大丈夫そうね……」
「なんなんだよ、急に」
「今朝のホームルームの時のことなんだけど……」
「あー、こいつのことだろ」
「へ?」
邪馬斗の視線を追うと、朝のホームルームで邪馬斗にちょっかいを出していた男の子が、邪馬斗の背後からひょっこりと出てきた。
「こんにちは」
天音はしゃがんで男の子の視線に合わせ、笑顔で声を掛けた。
「邪馬斗君、このオバちゃん誰?」
「お……オバ……オバちゃんっ!?」
天音は引きつった笑顔になって言った。
「このオバちゃんはな、俺の家の隣に住んでいるオバちゃんだ。天音って言うオバちゃんだ」
邪馬斗は面白そうに、天音のことを何回もオバちゃんと言いまくる。
「ちょっと邪馬斗! そんなに何回もオバちゃんって言わなくても良くない!? ほんと失礼しちゃうわ!」
「オバちゃん、オバちゃんって言われるの嫌らしいから、お姉ちゃんって言ってあげてくれ」
「分かった! オバちゃん! じゃなくて、お姉ちゃん!」
「んで? その子は? なんで邪馬斗にピッタリついているわけ?」
まだオバちゃんと言われたことに対して傷つきながら、天音は邪馬斗に聞いた。
「こいつの名前は翔《しょう》。五歳だが、生きていれば俺達と同じ高二だ。天音は保育園が別だったからわからないと思うが、俺と同じ保育園に通っていた子だ」
「あー、だから見たことなかったんだ」
「うん。翔は、車で両親と一緒に買い物から帰ってくる途中で事故にあって、両親と一緒に亡くなってしまったんだ」
「そうだったんだ……。邪馬斗あまり友達のこと話さないから初耳だったよ」
「まーなー」
「翔君がこの世に居るってことは、未練があるってことだよね」
「そうだ。でも、まだ聞いてないんだよ」
「なんで?」
「翔とは今朝教室で会ったばかりなんだ。教室に入ったら俺の席に座っててさ。周りに人も多いし、話すタイミングがなかったんだよ」
「そうだったんだ。まあ、そうだよね」
周りには見えていないのに霊に話し掛けてしまっては、独り言のように見られてしまい怪しまれる。
そのことを分かっている天音は邪馬斗に同情した。
「翔、何か後悔してることとかある?」
邪馬斗は翔の顔を見て言った。
「あのね、ボクもう一度邪馬斗君と一緒に遊びたいんだ。ボクが死んじゃった次の日、邪馬斗君と遊ぶ約束をしていたんだよね」
「確かにそうだったな」
「ねー、遊ぼう!」
「学校が終わったらな」
「えー! いまー!」
翔がダダをこね始めた。
「まだ午後の授業もあるから、終わったら遊ぼう。な」
「……わかった。あ、お姉ちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
「良いよ。楽しみにしてるね」
「うん!」
こうして天音と邪馬斗は、放課後に翔と遊ぶ約束をしたのであった。
その後、三人は教室に戻った。
午後一発目の授業は国語であった。
「えーっと、次のページを……。巫山天音さん、読んでください」
猿田先生が天音を指名した。天音は椅子から立ち上がり、教科書を持って音読を始めた。
しかし、天音は文の初めの漢字が読めず、教科書を持ったまま固まっていた。
「えーっと……うーんと……」
「お姉ちゃん、漢字読めないの? もしかしておバカ? オバちゃん、なんとか言ったら?」
翔にからかわれ、天音のこめかみに血管が浮かぶ。
しかし、ここで声を出すと周りに気づかれると思い、顔を引きつらせながら耐えた。
それでも、何も言ってこない天音に対し、更にしつこくからかってくる翔に対して、口をモゴモゴさせながらも喋らないように我慢をしていた。
「天音さん、体調悪そうですね。大丈夫ですか?」
その様子に不審に思った猿田先生が、心配そうに天音に声を掛けた。
「いえ、大丈夫です……。ただ」
「大事を取って今日は早退してください」
「え? いや、大丈夫です! ただ私は……」
「邪馬斗君、天音さんを家まで送って行ってあげてください」
天音は漢字を読めないだけであることを言おうとするも、猿田先生は心配そうに天音の話を遮りながら言った。
「えー! 何で俺が……」
「だって、大事な将来のお嫁さんでしょ?」
「はあー!?」
「えー!?」
猿田先生はニコニコとした顔で言った。
それに対して天音と邪馬斗は盛大に嫌そうな顔をする。
「ヒューヒュー!」
「いよっ! おしどり夫婦!」
「お幸せにー」
猿田先生の余計な一言で、クラスメイト達は盛り上がり、歓声が教室中に響き渡った。
天音と邪馬斗は、余計なことをと言いたそうに猿田先生を睨む。
「さあさあ。気をつけて帰ってねー」
天音と邪馬斗が余計な一言のお陰で気を悪くしているというのに、猿田先生はニコニコしながら言った。
「邪馬斗、部活には休むこと言っておくから、天音ちゃんを家まで送ってきな」
隣の席に居る幹弥が邪馬斗に言う。
「……。しゃーねーなー」
邪馬斗はそう言って、荷物をまとめて天音の所まで行く。
「帰るぞ」
「あ……。うん」
「天音、部活には私から伝えておくから。お大事にね」
「あ、ありがとう……咲」
天音は教科書を閉じ、荷物をまとめてカバンを持った。
準備ができると、天音と邪馬斗は教室を後にした。
「もう、あんたのせいで赤っ恥かいちゃったじゃない!」
天音は後ろをついてくる翔に言った。
「だってお姉ちゃん、漢字読めないんだもん」
「あれは読めて当然だよな」
邪馬斗も翔に同情して言った。
「邪馬斗までそんな事言うの!? もう信じらんない。でも、私のお陰で早く帰れて遊べるんだから、感謝しなさいよね」
「そうだな。良かったな、翔」
「うん! お姉ちゃんがバカで良かったよ!」
「バカは余計でしょ!」
靴を履き替え校舎を出ると、翔は楽しそうに飛び跳ねる。
「ところで、翔君は何をして遊びたいの? それによっては行く所が決まるんだけど……」
天音は翔に問いかける。
「シャボン玉やりたい!」
「シャボン玉? そんなのでいいの?」
思わぬ答えに、天音は思わず聞き返した。
「うん」
「シャボン玉かぁー。懐かしいな。昔よくやったなー」
邪馬斗が懐かしそうに言った。
「んじゃー、神社のところでも良いな。家近くだから、すぐに道具準備できるし」
「そうね。じゃーみんなで神社に行こうか」
「うん!」
三人は巫神社へと向かった。
「んじゃー俺、道具準備してくるから天音と翔は先に神社に行ってて」
「うん!」
「わかった」
邪馬斗はシャボン玉の道具を取りに行くため、一度自宅に帰って行った。
天音と翔は巫神社に行き、ベンチに座って邪馬斗が来るのを待った。
「また邪馬斗君と遊べるなんて嬉しいなー」
足をぷらぷらさせながら、翔は楽しそうに言う。
「そんなに仲良かったんだー」
「うん、そうだよ。いつも一緒に遊んでた! ボクね、3歳の頃からピアノ習ってたんだ。それで、いつもボクのピアノと邪馬斗君の笛に合わせて演奏したりして遊んでいたんだよ」
「笛?」
「うん。神社のお祭りで邪馬斗君がいつも吹いているあの笛だよ」
「ピアノと笛って……。あまり見ない組み合わせね……」
天音と翔が話していると、シャボン玉の道具を持った邪馬斗が走って来た。
「おまたせー。ほら、翔」
邪馬斗はシャボン玉の道具を翔に手渡そうとした。
しかし、シャボン玉の道具は翔の手に触れることもなく、すり抜けてしまった。
霊体で体が透けている翔には、邪馬斗の手に触れることも、物を掴むことも出来ないのであった。
「あれ? ……あー、お前、持てねーんだったな……」
「えー。やりたいやりたい!」
「と言われても。どうすれば……」
その時であった。神社の本堂の中が光った。
「邪馬斗! 本堂が!」
天音が本堂を指差しながら叫んだ。
その光が翔に向かって飛んできた。
「翔!」
「翔君!」
天音と邪馬斗が叫んだ。
一瞬光に包まれたがすぐに消え、翔が呆然と立っている。
「あー、びっくりしたぁ~」
翔は目を大きく開き、驚きながら言った。
「大丈夫か!?」
邪馬斗が翔に駆け寄った。
「うん……。でもなんか不思議な感じがするー。……もしかして」
翔はそう言って、シャボン玉の道具に触れた。
すると、さっきまで持つことが出来なかった道具を持つことが出来るようになっていた。
「やったー! 持てたよ、邪馬斗君!」
「なにが起こったんだ……」
邪馬斗は呆然としていた。
「本堂に何か秘密でもあるのかしら?」
そう言って天音は本堂の中を覗き込んだ。
「邪馬斗! 見て!」
天音は驚きながら邪馬斗を呼んだ。邪馬斗は言われるまま本堂の中を覗き込んだ。
「これは……。今までこんなのあったか?」
「なかった」
本堂の中を見ると、神鏡があった台に神鏡の破片と思われるものがキラキラと光って浮かんでいた。
まるで、その部分のパーツであるかのように破片がまばらに浮かんでいる。
「もしかして、今まで魂送りしてきたから神鏡の破片が戻って、同時に神社の力も戻ってきたからその力で、翔君が物に触れることが出来たのかも」
「翔の願いが神社に伝わったってことか……。この神社にこんな強い力があったとは……」
天音と邪馬斗が真剣な顔をしながら言っていると、
「冷た!」
と、邪馬斗が飛び跳ねた。
「なんだ!?」
邪馬斗が振り向くと、翔が邪馬斗に向かってシャボン玉を飛ばしていた。
「すきありー!」
「やったなー!」
邪馬斗はシャボン玉の道具を手に、逃げる翔を目掛けながらシャボン玉を飛ばし始めた。
無邪気に走り回りながら、シャボン玉を吹き飛ばし合っている邪馬斗と翔。
「ほんと、男子ってわんぱくよねー」
その様子を眺めながら天音が言った。
「おバカなお姉ちゃんもやろうよ!」
「だから、バカは余計だって言ってるでしょ! もう! こらしめてあげるんだから!」
天音も道具を持って、シャボン玉を翔に向かって吹き飛ばした。
神社には三人の楽しそうな笑い声が響き渡っていた。
「あ、なくなっちゃった……」
「俺もだ」
「私もー」
あっという間に三人のシャボン玉液が底をついた。
「あー! 楽しかったー!」
「うん。保育園の時を思い出した」
「こんなに……シャボン玉で遊ぶのって……ハードだったっけ?」
満足している邪馬斗と翔をよそに、天音は息を切らしながらベンチに座って言った。
「お姉ちゃんバテてるー」
「オバちゃんだから体力ないんだよ」
「そっかー」
「こら! あんたたちのシャボン玉の遊び方が激しいんだよ!」
「俺ら、シャボン玉で遊ぶ時、いつもこんな感じで走り回りながらやってたぞ」
「はいはい、そうですか……」
天音が呆れながら額に流れる汗を拭う。
「邪馬斗君」
「なんだ?」
「最後にもう一つお願いいいかな?」
「いいぞ」
翔はモジモジしながら言った。
「お姉ちゃんと話してて思ったんだけど……。また邪馬斗君と一緒に、ボクのピアノと邪馬斗君の笛で演奏したいな」
「懐かしいな……。確か、家にキーボードあったな。今持ってくるから待ってて」
邪馬斗はそう言って家に向かって走っていき、キーボードを抱えてきた。
「ありがとう!」
翔はキーボードの電源を入れて、試しに音を鳴らした。
「わーい、こっちも音が出るー。久しぶりだなー」
「翔、何やるー?」
「シャボン玉!」
「いいよ、お前この曲好きで演奏する時は、必ず演奏してたもんなー」
「うん! じゃー、準備はいい?」
「あ、私歌いたい!」
「良いよー! じゃーいくよー。……いちにのさん、はい」
翔の合図で演奏が始まり、天音はそれに合わせて歌った。
ピアノと笛の音に合わせながら、神社の木の葉も風に揺れて音を立てていた。
「翔君、ピアノ上手だね」
演奏が終わるとすぐ、天音は感動しながら翔に言った。
「お母さんがピアノの教室の先生だったから、お母さんに教わったんだー」
「そうだったんだ」
翔は大きく深呼吸をして、青い空を見上げた。
「ボク、そろそろお母さんとお父さんの所に帰らなきゃ!」
「……そうか……そうだもんな。ご両親が天国で待っているんだもんな……」
邪馬斗も空を見上げ、言葉を詰まらせながら言った。
「邪馬斗君、おバカなお姉ちゃん。一緒に遊んでくれてありがとう! 楽しかったよ!」
「それは何より」
「だーかーらー、おバカは余計だっての!」
天音は苦笑いを浮かべる。
「邪馬斗君。ボクのこと覚えててくれて嬉しかったよ! 元気でね。笛、続けてね! 邪馬斗君が吹く笛、ボクすんごく大好きだから!」
「あぁ……続ける。翔もピアノ続けろよ。また一緒に演奏しような」
「うん!」
「じゃー、天音。やるか」
「うん。じゃーね、翔君」
「うん!」
邪馬斗の笛に合わせ、天音は鈴を使って舞い、魂送りをする。
『彷徨える御霊よ、安らかに眠りたまえ。幽世へ行き来世の幸を祈ろうぞ』
淡い光に包まれた翔は、舞が終わると天に向かって行った。
「ありがとうな、天音」
「何よ、急に。いつものことじゃない。何、改まってさ」
「まーな……」
邪馬斗は翔が向かって行った空を見上げて言った。
すると、空から光の玉が降りてきた。
その光の玉が本堂へと入って行くのを見て、邪馬斗は追いかけるように本堂へと向かった。
「ちょっと、邪馬斗!」
天音も邪馬斗を追いかける。
二人は本堂の中を覗いた。
すると、神鏡の台に浮かんでいた神鏡の破片が一つ増えていた。
「魂送りすると、こうやって破片が戻るんだな」
「なにげに普通の神社だと思っていたけど……。不思議な神社なのね。謎だらけ」
「そうだなー。神鏡が元に戻るまで頑張らないとな」
「そうだね! てか、邪馬斗。笛、上達してない?」
「そうか? てかお前だって踊り、上手くなってないか? 気持ちが入っているように見えるような……」
「そう? 実感ない。さー、帰ろっか。いくら早退してきたからとは言え、宿題はやらないとね。ということで、宿題教えて!」
「漢字検定五級レベルの漢字も読めないもんなー」
「いやいや。五級は合格してるから! 三級は落ちたけど……」
「翔と遊んでくれたお礼もあるから良いぞ。その代わり、スパルタな」
「えぇー! どうか優しくお願いします! 邪馬斗先生!」
先行く邪馬斗を、天音が慌てて追いかける。
翔との再会で、懐かしい幼少時代の思い出に浸ることが出来た邪馬斗であった。
「えーっと……小麦粉とお砂糖、あとは卵……」
とある休日。
天音は家の台所で趣味のスイーツ作りをしていた。
材料はきちんと揃えるが、分量は目分量で作るのが天音流。
そして整理整頓をせず作るため、台所は材料と調理器具で散乱しており、とても綺麗と言えない状態であった。
そこに鈴子が台所に入ってきた。
「天音、少しは片付けながら作りなさい。シンクには使った調理器具が溜まってるし、テーブルは粉で白くなってるし……」
「あとでちゃんと片付けるってばー」
ガチャガチャと材料を混ぜながら、天音は忙しそうに言う。
明日、クラスメイトのために手作りのマドレーヌを持っていこうとしていた。
そして、一時間後。
「うん! うまく焼けた!」
美味しそうに焼けたマドレーヌを、天音は綺麗にラッピングする。
「明日が楽しみだなー。あまりの美味しさに、みんなビックリするだろうな~」
クラスメイトが喜んでいる顔を想像しながら、天音は上機嫌でニヤニヤして明日の登校を楽しみにしていた。
翌日。いつものように放課後になると、天音はクラスメイトらに声を掛けた。
「みんな! 今度はマドレーヌ作りに挑戦してみたんだけど、食べてみてよ!」
「あぁ……。部活に遅れちゃうからまた今度ね!」
「俺も……ゴメンな!」
「私は委員会の仕事あるから……またね!」
クラスメイトらは各々の適当な理由を喋り、小走りで教室を出て行ってしまった。
例の如く、教室に残っていたのは邪馬斗ただ一人であった。
マイペースで帰る準備をしていた邪馬斗に、天音がルンルン気分で話しかけた。
「ねーねー、邪馬斗ー。邪馬斗なら食べてくれるよね?」
天音は、絶対に食べてもらうんっだと言わんばかりのような、まるで獲った獲物は逃さないという目つきで邪馬斗に言った。
しかし、邪馬斗は落ち着いた様子でいた。
「そんなに自信があるのであれば食べてやってもいいけど。今度こそうまく出来たんだろうな?」
「もちろん! さあさあ、食べてみてよ!」
邪馬斗はマドレーヌを一口食べた。
「うん」
「ね? 今度こそ美味しいでしょ?」
「不味い。見た目はいいけど、全然甘くないし、なんか粉っぽいぞ」
「うそー!」
「そう言うんだったら食べてみろよ」
邪馬斗に勧められ、天音はマドレーヌを一口、口にした。
「んー! 確かに美味しくない……。全然甘くない!」
「だろ? てか、なんでいつも味見しないで持ってくるんだよ」
「えー、だって私が食べちゃうと少なくなって、みんなの口に入らなくなるじゃん!」
「よくこんな不味いもの作っておいて……。その自信はどっからくるんだよ」
邪馬斗は呆れながら言った。
「邪馬斗、よく顔色一つも変えないで食べてくれるよね」
天音は眉間にシワを寄せながら言った。
「今までどんだけ不味いものを食わされてきたと思ってるんだ? あんなに食べてきたら自然と慣れてくるよ。たまに上手いお菓子作ってくるくせに……。あれは何なんだ?」
「自分でもよく分かんないんだよねー。それにしてもマズ過ぎる! 帰りにケーキ屋さんに行ってこよーっと。口直ししないと……」
「お前、お詫びに俺にも口直しのケーキ奢ってくれ」
「えー!」
天音は心の底から不服そうな声を出す。
「えー、じゃねーだろ! いつもマズイお菓子食わされてる身にもなってくれ!」
「はいはい、わかりました! じゃーさー、駅前のケーキ屋さんに行こうよ!」
「あー、あのケーキ屋か……。気になってた店だけど入ったこと無いんだよなー」
「めっちゃ美味しいお店だよ! じゃー、早速行こう!」
天音と邪馬斗は学校を出て、駅前のケーキ屋に行った。
すでに、お客さんが店の前に並んでいて賑わっている。
「人並んでるなー」
「ここ、美味しいからいつも夕方になると混んでるんだよねー。今日はそこまで行列作ってないし、並んで待っていよーよ」
「そうだな」
天音と邪馬斗は、最後尾に並んで順番を待つ。
「ここのケーキ屋さんね。甘さ控えめだけどちゃんと素材の味を生かしていてすごく美味しいんだよねー。ここのケーキ屋さんみたいな、美味しいお菓子作りに憧れてマネしながら作ってるんだよねー」
天音がワクワクしながら言った。
「だからお前、いつも味気ないお菓子ばっかり作ってるんだな」
「甘さ控え過ぎてるのかな?」
「かなりな。あとちゃんと分量計れよ!」
「えー、面倒くさい」
「まったく……」
「あ、もうそろそろ玄関の前まで来るよ」
まもなく店の前まで列が縮んできたその時であった。
「……天音」
邪馬斗が急に小さい声で天音の名前を呼んで引き止めた。
「なに急にヒソヒソ声になって」
「店の戸口の影、見てみろよ。誰か居る」
「え?」
天音は邪馬斗に言われた通りに店の戸口をじっと見た。
すると戸口の影から、男性がひょっこり現れたのであった。
男性はパティシエの格好をしている。
「店の人……じゃなさそうだね」
「元店の人かもな」
「どうする、邪馬斗。あの人、きっと霊だよね?」
「たぶん霊だな。でも周りに人多すぎるし、とりあえず知らないフリでもしてるか」
「うん。ケーキ買ってから話しかけても良いかもね」
「そうだな」
天音と邪馬斗は、なるべくパティシエの霊と目を合わせないように店の中に入った。
「どれにしよーかなー」
たくさんのケーキがずらりと並んでいる光景に、キラキラと目を輝かせながら天音は言った。
「俺、ガトーショコラにしようかな」
「えー! 私も食べたい!」
「シェアすればいいだろ」
「あー、そういう考えもあるか。んじゃー、もう二個頼んでも良いかな~」
「お前、どんだけ食べる気でいるんだ?」
「よし! 決めた! 店員さーん! ガトーショコラ一つとモンブラン一つとチーズケーキ一つとショートケーキ一つとパウンドケーキ一つ下さい!!!」
「……」
予想以上に注文する天音に、邪馬斗は開いた口が塞がらなかった。
「ありがとうございましたー! またのお越しをお待ちしております」
「また来ます!!!」
天音は満足そうな顔で定員さんから受け取ったケーキが入った箱を大事そうに抱えながら店を出た。
「どんだけ食うつもりだよ。太るぞ」
「大丈夫! 部活で発散するし! それにいつも魂送りを頑張っている自分にご褒美を!……あ! そうだった! あの男の人は!?」
「お前、ケーキ買えたことに満足してて忘れてただろ?」
「えへへへ……」
「酷いな~、忘れてただなんて。でもうちの店のケーキ買ってくれてとても嬉しいよ! まいどあり~!」
天音と邪馬斗の後ろで、ハキハキとした大きな声で話す男性の声が聞こえた。
「ぎゃぁあああ!!!」
男性の声に驚いた天音は飛び跳ねて、奇声をあげて驚いた。
天音が後ろを振り向くとそこには、あのパティシエの霊がニコニコと笑いながら立っていた。
「何びっくりしてんだよ。気配分かってただろ」
邪馬斗はパティシエの霊の気配を感じていたため、まったく驚いてはいない。
「ビックリさせちゃってごめんね。君たち、ぼくのこと見えてるだろ? 目を合わせないようにしていたようだけど、なんとなく分かってたんだよねー。気を使わせてしまったようだね」
馴れ馴れしく話してくるパティシエの霊。
天音は息を整えると、おそるおそる話しかけた。
「いえ……。びっくりしてしまってごめんなさい。ところで、うちの店って言っていましたけど……」
「あー、そうなんだよ。ボク生きていた時、あの店で働いていたんだよ」
「そうだったんですね」
「ところで、彼女が持っているその袋。もしかしてお菓子入ってる?」
「そうですけど……。私が作ったんですけど、不味くて……。失敗作です」
しょんぼりしながら、天音が言った。
「ちょっと見せて欲しいんだけど」
「良いですけど……。ここではなんなんで、人気の無い所に行って良いですか」
「いいよ」
「天音、巫神社なら良いんじゃないか?」
「そうだね、家も近いし」
そう言って、三人は巫神社に行った。
巫神社のベンチに座り、天音の手作りのマドレーヌを広げて見せた。
「おおー、美味しそうだな」
「見た目はそうなんです。でもこいつ、いっつも分量測らないで作るし、甘さを気にするあまりに砂糖の量をケチるので不味くなるんですよねー」
天音のお菓子作りについて、邪馬斗はパティシエの霊に説明した。
「そうなのか! 見た目がとても美味しそうに見えるのに勿体ないなー! ……よし! 分かった! 僕がスイーツ作りを伝授してあげよー!」
「え! 良いんですか!?」
「良いとも! スイーツを作る者同士、スイーツに対しての気持ちは一緒だからな! そう言えばまだ名前を教えていなかったな! 僕の名前は崚平。みんなからりょうさんって呼ばれていたから、君たちもりょうさんと呼んでくれ!」
「りょうさん!!!」
天音はキラキラとした目で、崚平の名前を言った。
「あ、そういや俺達も名乗っていなかったな。俺の名前は邪馬斗って言います。そしてこいつが……」
「巫山天音と言います! 宜しくおねがいします、りょうさん!」
「こちらこそよろしく! 天音ちゃん!」
こうして、天音とパティシエの霊、崚平とのスイーツ作りの特訓をすることになった。
二日後。休日にスイーツ作りをすることを約束していた天音と崚平。
毒味をさせるために、天音は邪馬斗を自宅に呼んでいた。
「さて、この前天音ちゃんがうちの店で買っていたパウンドケーキの作り方を教えてあげよー」
崚平は腕まくりをしながら言った。
「え? 良いんですか!? あーゆーのって企業秘密じゃないんですか?」
天音は心配そうに言った。
「まぁー、別にいいよ。あのパウンドケーキは僕が生きていた時に制作して販売させたやつだし」
「そうだったんですか!? シンプルだけど、しっとりしていて甘すぎず、とても美味しかったです!」
「そう言ってもらえると作ったかいがあって嬉しいよ! さ、早速取り掛かろうか」
「はい! 宜しくおねがいします!」
天音が張り切って敬礼をしながら言った。
「ちゃんと分量は計ること!」
「はい!」
「容器に生地を流したらしっかり空気抜きをすること!」
「はいッ!」
崚平に手取り足取りパウンドケーキの作り方の手ほどきを受けながら、天音は作業に没頭する。
「はあ……。暇だなー」
毒味のためだけに呼ばれていただけあって、完全に放置されてしまった邪馬斗。
「邪馬斗君、こっちでお茶でもどうかね?」
暇そうにしている邪馬斗に、鈴子が話しかけてきた。
「んじゃー、お言葉に甘えて……」
邪馬斗は鈴子に案内されて居間に向かった。
「いつも迷惑かけて申し訳ないね~」
鈴子は邪馬斗にお茶を出しながら言った。
「いえ、別に慣れてるし、大丈夫ですよ」
「これ、私が作った大福。良かったら食べてみー」
「ありがとう。巫山のおばあちゃんが作った大福美味しいんだよなー。じいちゃんも大好きでいつも黙々と食べてたなー。俺の口に一個も入らないことが多いんだよな」
「オホホホホ。では、包んであげるからお土産に持っていきなさい」
「ありがとう」
邪馬斗が美味しく大福を頬張っている様子を見ながら、優しい微笑みで鈴子が話し始めた。
「この大福の作り方はね、邪馬斗君の死んだおばあちゃんから教えてもらったものなんだよ」
「え! 初耳!」
邪馬斗は口から大福をこぼしそうになりながら驚いて言った。
「そうだよ。何回も巫川の家に通って教わったのよ」
「……あぁ、だからじいちゃん、巫山の家から大福もらうといつも仏壇に備えてから食べてるのか」
「そうだったのね。嬉しいね~」
そう言って、鈴子は照れながら茶をズズッとすする。
すると、バタバタと音を立てて走ってくる音が聞こえてきた。
「邪馬斗! おまたせ! 出来上がったよ、パウンドケーキ!」
襖を思いっきり開けて、息を切らしながら天音が言った。
「やっとか」
「さ、台所に来て! 先に行ってるね! 待ってるから!」
「はいはい」
天音はひと足早く台所へ走って戻って行った。
邪馬斗は腰を上げて居間を出ようとすると、鈴子が話しかけてきた。
「邪馬斗君、はいお土産の大福」
「ありがとう。ありがたくいただきます」
「忙しない子だけど、これからも天音と仲良くしてね」
「はい。危なっかしいやつで、いつも苦労してるけどね」
邪馬斗は笑いながら言って、台所へ向かった。
焼きたてのパウンドケーキが食べやすいようにカットされて、皿に盛り付けてあった。
「いい匂いがするなー」
台所に入るやいなや、甘くて香ばしい香りに気づき邪馬斗が言った。
「匂いだけじゃないよ! すんごく美味しいよ! ねー、食べてみてよ!」
「ちゃんと味見したのかよ」
「したよー! だから、早く食べてみてよ!」
天音に焦らされながら邪馬斗は、焼きたてのパウンドケーキを一口かじった。
「美味い! え? 本当にお前が作ったのか?」
「私もやればできるのよ!」
天音が威張りながら言った。
「いや~、天音ちゃんは教えがいがあって楽しかったよー」
崚平は満足そうに言った。
「りょうさんの教え方がすごく分かりやすかったお陰ですよ!」
自分が作ったパウンドケーキを、モグモグと食べながら天音が言う。
すると、崚平がパウンドケーキを見つめながら話し始めた。
「そうだなー……。実は俺、製菓の学校の先生になって子供達にお菓子を作る楽しさを教えたかったんだ。そして、未来を背負う子供達と一緒にお菓子作りをしたかったんだよ」
「そうだったんですか……」
崚平の思わぬ告白に、天音はパウンドケーキを食べる手を止める。
寂しそうな顔をしながら、崚平は話し続けた。
「そんな夢も叶わず、仕事で配達の為にバイクを運転してたら、事故にあってさ。それの事故で俺は死んじゃったってわけ。でもさー。今日、天音ちゃんにこうしてスイーツ作りを教えてあげることが出来て楽しかったよ! ありがとう!」
「こちらこそ、ありがとうございました。こんなに美味しいパウンドケーキの作り方を教えて頂けて嬉しかったです!」
天音は涙ぐみながら言った。
「そう言ってくれて嬉しいよ! 教えたかいがあったよ!」
崚平がそう言うと、淡い光に包まれ始めた。
「未練がはれたんだな……。天音、送ってやろう」
邪馬斗が天音に声を掛けた。
「うん」
邪馬斗が笛を吹き、天音は笛に合わせて舞を踊り始めた。
そして、神歌を歌う。
『彷徨える御霊よ、安らかに眠りたまえ。幽世へ行き来世の幸を祈ろうぞ』
神歌を歌うと、崚平は「ありがとう」と言い、光となって天へと登って行った。
「夢か……」
「どうした、急に。あまりにも美味すぎるお菓子作ったからおかしくなったか?」
「なにそれ、ダジャレ?」
「そんなつもりでいったんじゃねーよ! 天音が急に夢かーってつぶやくから!」
頬をふくらませる天音に、邪馬斗は少し慌てる。
「私の夢ってなんだろーって思ってさ」
「そういや、俺もあまり将来の夢のこと考えたことなかったなー」
「私、巫神楽を守りたい。神楽を踊ることで安らいでくれる霊が居て、来世への一歩を踏み出すための力になってくれるのであれば、その力になれるのであれば……」
天音は、天を見上げて言った。
「そうだな。この神楽は俺達にしか出来ない。だからこそ守って後世に継いでいく……。頑張ろうな、天音」
「うん! 相棒!」
天音と邪馬斗はハイタッチをして、新たな夢を誓うのであった。
崚平を魂送りして数日後の放課後。
「みんな~! パウンドケーキ、作ったから食べてみてー! 自信作だよー!」
天音はそう言って、クラスメイトにパウンドケーキを配って歩いた。
「なー、どうするよ……」
幹弥は引きずった顔をしながら邪馬斗に言った。
「これ、この前食べてみたけど美味かったぞ」
「まじか! じゃー、食べてみようかな。いただきまーす」
邪馬斗の一言を聞いたクラスメイトたちは、安心してパウンドケーキを食べた。
すると、次々と嗚咽のような声が聞こえ始めた。
「おい、邪馬斗。本当に美味かったのかよ! いつもどおりのマズさだぞ!」
「え? そんなはずは……ん!? なんでだ!? 何でこんなに不味くなってるんだ!?」
邪馬斗は天音を問い詰めた。
「この前に食べた時はあんなに美味かったのに、なんでこんなに不味くなってるんだよ!」
「ん? そんなはずは……マズイ。アレンジしたのが失敗だったか……。料理の本には隠し味で入れるといいって書いてあったのに……」
「なんで無駄にアレンジしてんだよ! 教えてもらった通りに作れよ、バカ!」
「はぁ~? バカは余計よ! このバカッ!」
教室にはあまりの不味さに苦しむクラスメイト達の声と、天音と邪馬斗が喧嘩している声が響いていた。
青空が広がる朝。
天音は学校の玄関で靴を履き替えていた。
「おはよーっす」
あとから来た邪馬斗と幹弥が、天音に声を掛けてきた。
「おはよー」
「もう少しで校内マラソンの時期ですな~」
幹弥が言った。
「あー。もうそんな時期かー」
天音は驚いて言った。
そこに咲がやってきた。
「おはよ。ダルいよねー、マラソン大会」
「おはよー、咲。やだねー、マラソン」
マラソンが嫌いな天音は、咲と一緒に肩を落とした。
「俺は別にダルくねーけどな! 授業潰れるし良いじゃん!」
幹弥は張り切って言った。
「俺も別に苦じゃねーし」
邪馬斗も幹弥に続いて言った。
「男子達は呑気でいいよねー。しかもうちのクラスの男子は運動神経抜群な奴らが多いし」
咲が口を尖らせながら言った。
天音たちのクラスの男子は運動が得意な者ばかり。
とくに運動部に所属している生徒は、地区大会はもちろん、県大会や全国大会にも出場できるほどの実力者が多い。
「私、長距離を走るの苦手。嫌だな……」
天音はため息まじりに言った。
「キーンコーンカーンコーン……」
「やべ! チャイム鳴ったよ! 早く教室に行こうぜ、邪馬斗!」
「そうだな」
チャイムが聞こえると、幹弥は邪馬斗に声を掛け、二人は教室に走って行った。
「私達も急ごう、咲」
「そうだね」
天音と咲も、急いで教室に向かった。
席に着くと同時に、猿田先生が教室に入ってきた。
「は~い、みんな席についてね~。おはよ~。朝のホームルーム始めま~す」
いつも通りの気の抜けた挨拶し、ホームルームを始める猿田先生。
「いよいよ一週間後に、毎年恒例の校内マラソン大会がやってきまーす。みんな、当日まで怪我をせずに元気に過ごして、大会に参加して下さいねー。あと、当日は運動着を忘れずに持ってきてねー」
猿田先生が校内マラソン大会の説明をしていた。
窓際の席の天音は、ダルそうに聴きながら外の景色を眺めていた。
雲ひとつ無い、綺麗な青空。吸い込まれそうなくらいの青い空。
ふと下に視線を向ける。
ぼーと校庭を見ていると、男性が校庭のトラックを走っているのが目に入った。
「ん?」
天音は思わず声に出す。
マラソン選手が身につけているようなユニフォームを着ている、明らかに場違いな男性がトラックを走っていたのだ。
見るからに、男性は霊であると確信する。
「じゃー、そういうことで当日はみんな頑張ってねー。これで朝のホームルーム終わりまーす。日直さん、号令お願いしまーす」
「起立、礼、着席」
天音は日直の号令に我に返り、慌てて起立しお辞儀をする。
ホームルーム後、天音は邪馬斗を呼び出した。
「邪馬斗! ちょっと私の席まで来て!」
「何だよ、急に……」
邪馬斗は天音に腕を引っ張られながら、天音の席に案内された。
「邪馬斗、校庭見てみ!」
「は? 校庭?」
邪馬斗は天音に言われるまま校庭に目を送った。
見るやいなや、邪馬斗はすぐに男性の霊が校庭で走っているのに気づいた。
「何だ? あの人……。ずっとトラック走ってるな」
「ホームルーム中、ずっと走ってるのよ! エンドレスに! あれ絶対に……」
「確定だな……。授業中に抜けることは出来ないから、放課後、校庭に行ってみようぜ」
「そうだね。一応、部活休むことにするよ」
「俺も部活休むわ」
放課後に男性の霊に会うことにしたが、授業中も男性の霊が気になり、天音は頻繁に校庭を眺めていた。
その間も、男性の霊はずっと休むことなく校庭のトラックを走っていた。
なんとも言えない、爽やかな笑顔を浮かべて。
そして放課後、邪馬斗が声をかけてくる。
「天音、行こうか。まだ居るかな?」
「うん。授業中、気になって見てたけど、男の人、ずっと走っているんだよねー」
天音は、校庭に目をやりながら言う。
「あ、ほんとだ。とりあえず、行ってみよう」
「そうだね」
天音と邪馬斗は校庭に向かうと、男性の霊は元気良く、そして清々しく走っていた。
男性の霊に近づいて見てみると、三十代くらいの見た目で、タンクトップに短パンという、マラソンのユニフォーム姿。
「あのー! すみませーん!」
天音が男性の霊に声を掛けた。
すると、男性の霊に声が届いたようで、きれいなフォームで方向を変えて走ってきた。
「おー! 君達! 俺のことが見えるんだね! こーんにーちわー!」
男性の霊は両手を広げ、元気良く挨拶をしてきた。
「あ、こっこんにちは……」
あまりの元気の良さに圧倒されて、天音はぎこちない挨拶を返した。
「こんにちわ。えーっと、何をされているんすか?」
邪馬斗が男性の霊に聞いた。
「なんか、この学校でマラソン大会があるようでね。校舎に貼っていたチラシを見て知ったんだけどさー。それに出たいなーって思って練習していたんだよ!」
「そうなんですか……」
あまりの熱量に、天音は言葉もない。
「いやー、誰も俺のこと見える人が居なくて……。でも、君達に声を掛けてもらえてとても嬉しいよ! 君達も出るんだろ? マラソン大会!」
「はい。校内のマラソン大会は全校生徒対象なので」
「んじゃー、ライバルだな! 共に頑張ろー! ん? そこの彼女! 何かノリ気じゃないよーだな!」
テンションが低い天音に、男性の霊は不思議そうな顔をする。
「私……マラソン苦手で……」
「そうなのかい!? うーん……マラソンは楽しいのにな。よし! それなら、一緒に特訓しないかい!? みんなで練習した方が楽しいしな!」
「えぇ~……」
天音は心の底から嫌そうに言った。
「そうですね、お願いしても良いですか?」
邪馬斗は男性の霊に同調する。
「えー! 邪馬斗、本気なの?」
「おう。なんか、この人、マラソンに慣れていそうな人に見えるし、コツ教えてもらったほうが当日楽に走れそうじゃね?」
「まあ確かに、マラソン選手っぽいユニフォーム着てるけどさあ……」
天音が横目で男性の霊を見た。
「マラソン選手っぽいって……。俺、生きていた時は、本当にマラソン選手だったんだよ」
男性の霊が笑いながら言った。
「そうだったんですか」
邪馬斗が言った。
「そうだよ。全国大会にも出てたんだよ。メダルも取ったことあるし! そうそう! 俺の名前教えていなかったね。俺、飛翔の翔と書いて、翔っていうんだ。よろしくな!」
翔は笑顔で言った。
「俺は邪馬斗と言います。小さい頃の友達と同じ漢字ですね」
「私は天音です。よろしくお願いします、翔さん」
「よろしく! 邪馬斗君に天音ちゃん! あ、明日は土曜日で学校休みだよね? 早速明日から練習でもどうだい?」
「分かりました!」
「明日から……マジですか……」
即答した邪馬斗に対して、ダルそうに天音は言った。
「完走できるように頑張るぞ! おー!」
「おー!」
「……おー」
気合を入れて拳を上に掲げて、大声を上げる翔と邪馬斗。
それとは対照的に、気が乗らず小さく拳を上げる天音。
こうして、マラソン大会へ向けての特訓の日々が始まる。
次の日、ジャージ姿の天音は、巫神社前で邪馬斗と翔のことを待っていた。
少しすると、邪馬斗と翔が楽しそうに話しながらやってきた。
「あれ? 邪馬斗、翔さんと一緒に居たんだ」
「あー。待ち合わせだった巫神社の場所が分からないって言ってたから家に泊まってもらっていたんだよ。ついでに俺らのことも言っておいた。そしたら、翔さん自身のことも教えてくれたんだよ」
「そうだったんだ」
「いや~。なんで俺の姿が見えていたのか分かったよー。俺も次の人生のためにもいつまでもこの世に居座っているわけにもいかないからねー。よろしく頼むよ、お二人さん」
ニコニコしながら翔が言った。
「こちらこそ、ご指導お願いします」
天音は色々と諦めて、精一杯の笑顔で翔に言った。
「じゃー、軽くウォーミングアップでジョギングしようか」
「はーい」
三人は走り出した。
「邪馬斗君にも言ったんだけどさー。俺、プロのマラソン選手を目指してたんだよー。いろんな大会に出場していたんだ。だけど、大会に出場している最中に、突然目の前が真っ暗になってさ、倒れちゃったんだよ。そしたらそのまま死んじゃってさー。自信があった大会だったから、完走できなかったのが悔しくてさー! そう思っていたら、君達の学校の前に立ってて、校内を歩いていたらマラソン大会のチラシを見つけて……。大会に出て、もう一度走って、今度こそ完走しよう! そう思いながら練習していたら君達に会ったってわけ」
翔は堰を切ったような早口で話す。
「そういうことだったんですね。私、翔さんのことを見つけて、ずっと見ていたんですが、休まないで走り続けていましたよね? 疲れませんか?」
天音が翔に問いかけた。
「走ることが楽しくてさ。それに幽霊になってからあまり疲れを感じなくなったんだよねー。それで休まないでずっと走ってたんだ。こんなに走り続けられるなんて、幽霊も悪くはないよな」
「そ……そうですか……なるほど……ポジティブですね……はぁっ……はぁっ……」
話しているうちに、天音だけが遅れ始める
「あれ? 天音。まだウォーミングアップだぞ? もうへばったのか?」
先を行く邪馬斗が、振り向いて声を掛けた。
「ウォーミングアップって……走る距離長くない? どこまで走るのよ~」
更に距離を離され、天音は息切れをしながら言った。
「ちょっと、一休みするか」
翔は天音のことを気遣って言った。
ちょうど近くにあった、公園のベンチで休憩をとる。
「あぁー! しんどい!!!」
持ってきたスポーツドリンクを飲みながら、天音が叫ぶ。
「なんか、話に夢中になりすぎて結構な距離走っちゃったな。ごめんね」
翔が天音に話した。
「もう疲れました……」
「ほんと、お前スタミナ無いよな。よくそれで激しいダンス踊ったりしてるよな」
邪馬斗は呆れながら天音に言った。
「走るのとダンスじゃ全く違うし! もう、短距離なら得意なのになあ」
「はっはっは!」
天音と邪馬斗とのやり取りを見て、翔が大笑いする。
「翔さん、何がそんなにおかしいんですか!?」
天音が頬を膨らませた。
「ごめん、ごめん。仲が良いね、息も合ってそうだし。天音ちゃんは短距離ならいけるんだね。長距離のときは走り方が違うから、長距離用のフォームを教えるよ」
その後、天音と邪馬斗は、翔からフォームやマラソンの走り方を教えてもらった。
休みの日はもちろん、放課後も翔の熱血指導の元、天音と邪馬斗はマラソン大会に向けて特訓に励んだのであった。
そして、校内マラソン大会当日。天音と邪馬斗、幹弥、咲はマラソンのスタート地点に立っていた。
「あ~、とうとうこの日が~」
咲がソワソワしながら言った。
「そうだね。でも、私、今日楽しみかも」
「え? あんなに嫌がっていたのに!? 何があった! 裏切り者ー!」
「別に~」
ふふんと笑う天音の隣に、翔がやってきた。
「おはよう! マラソン日和って感じのいい天気だねー! たった一週間の練習でなかなかの上達ぶりだったよ。二人とも、今日は思いっきり楽しんで走ろう!」
暑苦しくも爽やかな翔に、天音と邪馬斗も満面の笑顔でうなずいた。
「位置について、よーい……スタート!」
スターターの合図で、全校生徒たちが勢いよく走り出した。
「おい、あいつら、速くね?」
「置いて行かないでよ~」
天音と邪馬斗が勢いよく走り出したことで、幹弥と咲との距離に大きな差を作っていた。
二人の前方を走る翔に、必死に食いついているのだ。
「二人ともいいペースだ。そう、腕はあまり振らず……」
翔は天音と邪馬斗の方を振り向きながら言った。
「本番となると、翔さん早いですね」
邪馬斗は言った。
「目標は完走することだけど、やっぱりさ、せっかく走るなら、一番になりたいじゃん!」
翔はそう言って、ぐんぐんと天音と邪馬斗との差を大きく広げ始めた。
「私、もうついていけない……無理ぃ……」
先にペースダウンしたのは天音だった。
「俺も……もう……ついていけない」
まもなく、邪馬斗も翔についていくことが出来なくなる。
「一位はもらったぁー!」
翔は次々と他の生徒達をも追い越していく。
走ることを心から楽しんでいる、最高の笑顔だった。
そして、堂々の一着でゴールを果たしたのであった。
「やったー! どんなもんだい! やっぱ、走るって気持ちいいなぁ~」
翔は天を仰ぎながら言った。
「ん?」
大きく深呼吸をしていると翔は何か気配を感じた。
強いオーラを感じさせる男性が目が入る。
翔が目を細めて見ると、男性の横に女の霊が居るのに気がついた。
「なんだ、あの二人は……」
一方、天音はようやくゴール地点に近づいてきていた。
「はぁ……はぁ……やっとついたぁ~」
天音はヘロヘロになりながら、やっとゴール地点にたどり着いた。
「おつかれ」
一足早くゴールしていた邪馬斗が、天音にタオルを持ってきた。
「サンキュー。ふぅ……翔さんは?」
「ん? あそこに居るよ」
そう言って、邪馬斗は翔を指さした。
清々しい顔で喜んでガッツポーズをしている翔は、二人の元に駆け寄ってきて言う。
「いや~。完走おめでとー! ビリじゃなかったね!」
「翔さんの特訓のお陰ですよ。去年よりも早くゴールできたかも」
「俺も自己ベスト更新できました」
「それは良かった! 俺も一位でゴール出来て良かったよ!」
「さすがですね……」
天音と邪馬斗は、口を揃えて言った。
「まだまだ戻ってきていない生徒も多いし……。マラソン大会が終わる前に魂送りしようか」
「そうだね……。とりあえず、人気のいない所に移動しよう」
三人は体育館裏に移動した。
「じゃー、始めますね」
「うん。天音ちゃん、邪馬斗君。ありがとうね」
天音と邪馬斗は魂送りを始めた。
『彷徨える御霊よ、安らかに眠りたまえ。幽世へ行き来世の幸を祈ろうぞ』
天音が神唄を歌った瞬間、翔が思い出したように口を開いた。
「そう言えばゴールした時、学校の先生みたいな男の人が俺のことをじっと見ていたんだよね。なんか俺のことが見えているような感じがしたんだけど……。あと、その男の人の隣に羽織姿の女の人が居た。その人俺と一緒で霊だった。あの二人からすごいオーラを感じた。もしかしてこの学校には、天音ちゃん達と同じく、霊が見える人が居るのかもね……。最後に目一杯走れて楽しかったよ。ありがとう!」
「……え? その人って……どんな人でした!?」
天音が急いで聞くも、翔は光に包まれて消えてしまう。
「天音……翔さんが言ってたこと聞こえたか?」
「うん。霊と一緒にいる先生って誰だろう?」
「てか、霊の気配も、そのすごいオーラも何も感じなかったぞ」
「私も……。もしかして、意図的に気配を消せる人なのかな?」
「そうだとしたら……。天音、警戒しなきゃいけないかもな。味方なのか、敵なのか分からないし」
「そうだね……。おばあちゃん達にも報告したほうが良いかも。何か分かっていることあるかもしれないし」
「そうだな……」
翔からの思わぬ情報に、天音と邪馬斗は動揺しながらも、気を引き締めた。
よく晴れた休日の朝。
天音は巫神社の掃除をしていた。
神社の掃除は、巫山家と巫川家が交互に行っている。
普段は鈴子と義興が掃除をしているが、部活がない休日は天音と邪馬斗の担当だ。
部活のある日が多いため、天音と邪馬斗は月に三回ほどしか掃除をすることが出来ない。
天音は本堂の掃除をするため、扉を開けた。
中に入ると、神鏡を奉納している台がある。
神鏡の破片が半分以上戻ってきていることに、天音は気がついた。
「結構集まってきたねー。でも元通りになるまで、まだかかりそう……」
天音は不完全な神鏡を眺めながら言った。
神鏡の破片は大きいものもあれば小さいものもある。
破片の大きさが不揃いであるため、あと幾つの破片を集めれば良いのか定かではない。
「もう一踏ん張り。破片が全部集まるまで、精一杯頑張ろう!」
天音はささっと本堂の掃除を済ませ、巫神社を後にした。
「おかえり、天音。神社の掃除お疲れ様。帰って来て早々に申し訳ないけど、お母さんが作っておいてくれたカレー、巫川家に持って行ってちょうだい」
「あー、そうだった。分かった」
天音は台所に行って、カレーを小鍋に分ける。
このカレーは天音の母が作ったものだ。
天音の両親は大手企業の社員で出張が多いため、家にいることが少ない。
そのため、母は家に帰ってくると大量の料理を作って天音と鈴子が困らないように作り置きをしていく。
量が多いため、いつも邪馬斗の家におすそ分けしているのだ。
「じゃー、邪馬斗の家に行ってくるねー」
「お願いねー。巫川さんの爺さんにもよろしくね」
「はーい」
天音はカレーが入った小鍋を持って玄関を出る。
邪馬斗の家に着くと、天音はインターホンを押した。
「ピンポーン……」
まもなくすると、ジャージ姿の邪馬斗が出てきた。
「なんだ、天音か」
「なんだって何よー! ごめんね私で! はいこれ、お母さんが作ってくれたカレー。おすそ分け」
「お、いつも悪いな。ありがとう。おばさん帰ってきてたんだ」
「うん。お父さんも一緒に帰ってきてたんだけど、お仕事忙しいみたいで一晩泊まってまた仕事に行っちゃった」
「そうだったんだ。実はうちでも親父とお袋が帰ってきてたんだけど、今朝早くまたアメリカに戻っていたんだよなー」
「おじさんとおばさんも帰ってきてたんだー。邪馬斗の両親も忙しそうで大変だね」
「まぁ、いつものことだし。お前んちも変わんねーだろ。あ、そうだ。親達から預かっていたのあったわ。ちょっと待ってて」
邪馬斗はそう言って、天音から受け取った小鍋を手にしながら、家の奥へ小走りで戻った。
まもなくすると、大きな紙袋を持って戻ってきた。
「はい、これ。アメリカからのお土産だってさ。いつもご飯もらってて申し訳ないって言ってた」
「そんなことないよ。お母さん、食べきれないくらい作っていくから、大変なんだよねー。お互い様だよ。こちらこそいつもお土産もらってごめんね」
邪馬斗の両親は海外で仕事をしている。
月に二、三日しか家に帰ってこない。
いつも巫山家からご飯のおすそ分けをもらっているので、邪馬斗の両親は家に帰ってくる時、巫山家に海外のお土産を大量に買ってくるのだ。
お土産はお菓子系が多く、甘いもの好きの天音はいつも美味しく食べている。
「そういや、天音はおばあちゃんに、あのこと話したのか?」
「あのこと?」
天音は首を傾げて言った。
「マラソン大会で魂送りした霊から言われたことだよ!」
「あー、学校に霊が見える先生がいるかも知れないってこと?」
「それもだし、その先生に羽織を着た女性の霊が憑いていることもだよ」
「あー! そうだった! まだ言ってない!」
「俺もまだじいちゃんに言ってないんだ。ちょうどじいちゃん家にいるし、巫山のばあちゃんも含めて四人で話さないか?」
「そうだね。ちょっとおばあちゃんのこと呼んでくる!」
天音は一度家に帰り、鈴子を巫川家に呼びに行った。
そして、邪馬斗の家の居間で四人が集まったところで、翔からの情報を報告した。
「……てな感じで、学校に気配も消せるような、強い霊気を持った人間と霊が居るみたいなんだけど……。何か知ってることない?」
天音は鈴子と義興に伝えるも首を傾げる。
「ワシは聞いたことないな~」
「私も無いですね」
「そっかー」
邪馬斗は残念そうに言った。
「今はその件については何もわからないが、取り敢えずお前らは今まで通り、人気のいない場所を狙って、気をつけて魂送りをするように」
義興がキリッとした表情で天音と邪馬斗に言った。
「はい」
天音と邪馬斗は、姿勢をピシッと整えて返事をした。
「私達はあなた達に継承した事によって、後継者の力も失くなってしまって何もしてあげることも出来ないしこれ以上の知識も分からないので教えることが出来ないの。ごめんね」
鈴子が寂しそうな顔で言った。
鈴子の言葉を聞いた義興がハッとした表情になり、なにか思いついたように口を開く。
「そう言えば、邪馬斗。お前、さっきまで蔵の片付けをしておったな」
「あぁ。埃がすごくて大変だよ。完全に片付けが終わるまで時間かかるけどな」
「確かあの蔵に巫神社と巫神楽に関連する書物があったな……。もしかしたら何か分かるかもしれん」
義興が考えながら言った。
「そんなのあったっけか? あったとしたらもっと奥の方に置いてあるかもな」
「だったら、私も手伝うよ!」
「じゃー、早速探してみるか」
天音と邪馬斗は居間を出て、庭にある蔵に向かった。
「改めて見ると、やっぱりこの蔵大きいよね~」
天音は蔵を眺めながら言った。
「散らかってるから、足元気をつけろよ」
「はいは~い……イテッ!」
邪馬斗に忠告もむなしく、天音は床に散らかっていた箱につまずいて転んでしまう。
「お前な~……」
床に倒れる天音を見て、邪馬斗は呆れながら言った。
「あーもー最悪! 埃、服についちゃったじゃない!」
「お前、ジャージだから少し汚れても支障ないだろ」
「てかあんた、レディーに対して大丈夫かくらい声かけてくれたって良いでしょ!?」
「何がレディーだよ……。冗談言ってないで書物探せよ」
「もう……いっつもそんな態度。たまには労ってよね」
天音は頬を膨らませ、邪馬斗に文句を言いながら書物を探した。
「ん~と……。物が多すぎてどこに何があるのかさっぱり分からん」
邪馬斗は、箱をを一つ一つ確認しながら探した。
「それにしても、埃ヤバ過ぎる! ……ん?」
埃を払いながら探していると、天音は棚の上に古い箱があるのを見つけた。
その箱は、更に紐でグルグルと頑丈に縛られていた。
「邪馬斗隊長! この箱、誠に怪しいであります!」
「なんの探検ごっこだよ……。持ってこいよ」
「あまりにも怪しすぎて触りたくないのであります! ここは隊長にお任せするのであります!」
「埃が凄すぎて、触りたくないだけだろ」
「違うって! 重そうだし、それに高い所にあって届かないだけだってば!」
天音は地団駄を踏みながら言った。
「蔵壊れるから地団駄踏むの止めてくれます? 怪獣」
「いいから、早くその箱取ってよ!」
「はいはい」
邪馬斗は棚から古い箱を取り、床に置いて埃を払った。
蓋には、古びた御札が貼ってある。
「この御札、巫神社の御札じゃない?」
御札を見るやいなや、天音がハッとした顔で言った。
「もしかして、神社に関係した物が入ってるかもな。結構重かったし」
「開けてみよーよ!」
天音ははしゃぎながら言う。
「そう焦らせるなよ」
邪馬斗はそう言って、紐をハサミで切って箱の蓋を開けた。
蓋を開けると、巻物が一つ入っている。
「……え? これだけ?」
目を点にして、天音は気が抜けたような声を出す。
「重さの割にはこれだけだったのか」
邪馬斗もあまりの期待外れに呆然とした。
「取り敢えず、読んでみようよ」
天音はそう言って、巻物の紐と解いた。
「えーっと……。なんて書いてんの?」
「ほんと、お前頭悪いな」
「いやいや、こんな汚い字読めるわけないじゃん!」
「んーと、巫神楽の歴史……?」
「読めるんかいっ!?」
邪馬斗は解読しながら、巻物に書いてある字を読み始めた。
思わず、天音はツッコんでしまう。
邪馬斗は成績優秀な文系でもあるため、巻物に書いてある昔の字でもなんとなく読めるのだ。
「これかも……じいちゃんが言ってた書物って……」
邪馬斗が、巻物を床に広げて読み始めたその時。
「この時代の者でも、この巻物を読める者がいるとは……」
「誰ッ!?」
その声に天音と邪馬斗は、驚いて身を起こした。
二人は辺りを見渡した。
すると、前方に巫女姿の女性が立っていた。
「あなたは……」
邪馬斗がそう言うと、天音が、
「邪馬斗! この人の服……。私が例祭の時に着ている神楽の衣装と全く一緒だ!」
「なんだって!?」
びっくりしている天音と邪馬斗に、その女性は微笑みながら、ゆっくりと話し始めた。
「流石は巫神楽を継ぐ者……。我が名は巫山みよ」
「……巫山?」
突然現れた巫山家の名を名乗る女性に、ただただ呆然と驚いている天音と邪馬斗であった。
「我が名は巫山みよ」
突然現れた女性の霊は、そう言って二人を見つめた。
三十代半ばぐらいの、きれいな女性だ。
「……巫山?」
「巫山って……お前んとこじゃん」
邪馬斗は呆然としている天音をゆっくりと見て言った。
「そう……だね。でも、聞いたことない名前だし……」
天音がそう言うと、みよは小さく笑った。
「分からないのも無理はない。我はもう死んでしばらく経つからのぅ。なにせ、江戸初期の時代を生きていたからのぅ」
「江戸!? そんな前の人が何で成仏されてないんだ」
邪馬斗は驚きながら言った。
「まぁまぁ、落ち着くがよい。少し話をしよう。もしかしたら、お主らが知りたいことも話せるかもしれないしの。その巻物を広げたということは、巫神社、もしくは巫神楽のことについて知りたいことがあるからであろう?」
みよは天音と邪馬斗と向かい合わせになり正座をしながら言った。
「確かにそうね」
「まず、お主らが知りたいことを聞こうか。その方が話が早いかもしれん」
「んじゃー、遠慮なく……」
邪馬斗は巻物を巻き戻しながら言った。
「実は、俺達が通う学校で気配を消せるくらいの霊力を持った人間とその人間に憑いている羽織を着た女性の霊について知りたくって……」
「ふむ……。実は我は神鏡が割れてしまってから、お前達のことをずっと見守ってきていた。しかし、我もその者たちの気配を感じていなかったのだ。多分、あの時魂送りした霊に不意に見られて、我が気づく前に気配を消したのだろう。だから、我もお前達も気づくことが出来なかったのだろう。すまんがこの件については我の口からは何も言えん。力になれなくて申し訳ない」
「いえいえ。大丈夫です」
天音は少し残念そうに言った。
「それで、あなたはなぜ今の時代まで、この世にいるんですか?」
邪馬斗は真剣な顔で言った。
「そうだな。その事も含めて、我が知る限りのことを話してやろう……」
みよは少し深呼吸をしてから話し始めた。
「単刀直入に言うが、お主らは、これまでにないくらいの巫神楽の存続危機を生んでいる。その危機と我にまだ残っている後継者としての力が影響しているため、こうして我が霊となってこの世を彷徨っているのだ。さっき、神鏡が割れた時からお主らを見守っていたと言っただろう? 我はあの神鏡が割れた例祭の日からこの世に居るのだ」
「そうだったのか……」
邪馬斗は信じられない表情をしながら言った。
「巫神楽の存続危機ってもしかして、神鏡が割れたことと関係があるんですか?」
天音が言うと、みよは静かに頷いた。
「そうだ。神鏡は後継者の心の鏡でもある。永るる時代の中、幾度となくお主らと同じく、神楽に関心がない後継者達がいた。それでもなんとか現代まで巫神楽は後世に継承されてきた。しかし、時代の流れは厳しく、流れに比例するかのように力が弱くなり、後継者の巫神楽への意識も薄れてしまった。そのような中、現代のお主らが再び巫神楽への関心を失くしてしまったことで、神鏡が割れてしまったということだ」
「そのことは重く受け止めています。神鏡が割れてしまった時、じいちゃんが書物を読んでくれて……。その時に、俺らに要因があることを知りました」
邪馬斗はうつむき加減で言った。
「そうだったな。そこで改めて我からお主らに頼みがある。どうか、この巫神楽の舞と笛を継承し、巫神社を守って後世へ残してほしい。毎年、例祭があり、楽しみにしてくれている人々がいる。それだけではない。巫神社の例祭の本当の意味は、御霊を鎮めること。御霊を鎮めることで、霊達が安らかにあの世に生き、次の人生を歩むことができる。霊達にも来世での未来があるのだ……」
みよは悲しそうな顔をしながら思いを語った。
その顔を見て、天音は言った。
「私達は、神鏡が割れてしまったあの日から、沢山の人達の魂送りをして霊達をあの世に送ってきました。魂送りをしてきた中で知ったのは、霊達にもあの世で待っている大切な人がいるということ……。私達が神鏡を割ってしまう原因を作ってしまったことによって、あの世に行けずこの世を彷徨っている霊がいた……。霊の中には私達の巫神楽継承を願っていく人もいました。私と邪馬斗は、あの例祭の日とは違う巫神楽への強い思いを持つようになりました」
天音は手に強く握りながら言った。続けて邪馬斗も言った。
「俺達が神鏡を元に戻して、巫神楽を次世代に継承することによって御霊への鎮魂を捧げ、霊達もあの世に行くことができる。未来のためにも……」
天音と邪馬斗の意欲的な目を見て、みよは肩を下ろして微笑んだ。
「お主らが魂送りをしているのも見てきた……。魂送りをする毎にお主らの巫神楽への関心、思いが強くなってきているのが分かっていた。そして、霊力も強くなっている。今のお主らの霊力は先代の持っていた霊力に近いものではないかと思っている。少なくとも我が生きていた時に見たことがないくらいの強い霊力をお主らは宿っている」
「そうなのか?」
「全然、実感がない……」
天音も邪馬斗も霊力が向上しているのは自覚ないようだ。
「お主らの意欲しかと受けた。ありがとう。感謝する」
みよはそう言って、天音と邪馬斗に深く頭を下げた。そして、考え深そうに言った。
「それにしても、後継者の力が後世に継がれるたびに弱くなってきているというのに、これほど魂送りができる霊力があるとは……。お主らは何か特別なものを持っているのかもしれない。もしかすると、先代でも経験したことのないことが起きるのか定かではないが……。その霊力がある人間と羽織姿の霊のこともある。今まで以上に心して魂送りの儀を執り行うように」
「はい!」
天音と邪馬斗は声を合わせて返事をした。
「大丈夫だ。どんな困難があっても巫山家と巫川家の両家の者が力を合わせれば、きっとどんな困難があろうとも乗り越えられることであろう。お主らと話ができて安心した。さあ、我を送っておくれ。まさか、我が継いできた舞で子孫達にあの世に送られるとは夢にも思っていなかったがな」
みよはふと笑いながら言った。
「はい。さ、天音」
「うん。みよさん、私必ず神鏡を元通りにしてみせますね。先代の思いも一緒に後世へ巫神社と巫神楽を継承していきます。なので、安心して休んで下さい」
「ありがとう、我が子孫よ。巫川のものよ。お主もありがとう」
邪馬斗はその場で静かに会釈をし、笛を吹き始めた。
天音は鈴をシャンシャンと鳴らしながら、優雅に舞を舞った。
『彷徨える御霊よ、安らかに眠りたまえ。幽世へ行き来世の幸を祈ろうぞ』
天音が神唄を歌うと、みよは消えていってしまった。
「ふぅ……」
「大丈夫か? 天音」
「うん。まさか、先祖に会えるとは思ってもいなかったなー」
「しかし、きれいな人だったな……お前、本当に遺伝子受け継いでい……」
ドスッ!!!
「イッテー!!! なんでどつくんだよ!」
「ふん! ほんと、女子に対してデリカシーないね、邪馬斗は! ほんと、こんな男のどこが良くてファンレターを毎日下駄箱に入れてるんだか……。確かに綺麗な人だったけど……」
天音は口を尖らせながら言った。内心、天音はなぜ先祖の美貌が自分には一欠片もないのか気になっていた。
「それにしても、結局学校にいる男の人とその人に憑いている女の霊についてわからずじまいだったな」
邪馬斗はそう言いながら床に広げた巻物を拾って、巻いて片付けた。
「そうね……。でも今のところ、私達に害ないようだし、取り敢えず、今は神鏡をもとに戻すために、魂送りを頑張ろう!」
「そうだな」
「あ、そうだ。今日神社の掃除した時に確認したら、神鏡半分以上戻ってたよ」
「本当か! もう少しだな……」
「そうだね……」
先祖の願いを胸に巫神楽の後継者として、気を引き締める天音と邪馬斗であった。
今日もこの世を彷徨っている霊を魂送りしている天音と邪馬斗。
霊は日中も夜も関係なくいる。部活もない休日であったため、この日は朝から夕方にかけて魂送りに励んでいた。
「ふぅ……。これで何人目?」
天音は額に溜まった汗を拭きながら邪馬斗に聞いた。
「えーっと、四人目かな?」
「もう夕方だし、今日はこの辺にして帰ろうか」
「だな。さっき送った霊も無事にあの世に行ったことだし」
邪馬斗はそう言って笛をケースに入れようとした。
すると、パキッと何かが割れるような音が聞こえる。
邪馬斗が手元を見ると、笛が真っ二つに割れてしまっていた。
「え!? なんで!?」
邪馬斗は、あまりの出来事にショックを受けていた。
「何で急に……」
「って、おい! 天音! 鈴!」
天音が邪馬斗の折れた笛に気を取られていると、邪馬斗が天音が持っていた鈴を指差して叫んだ。
「え?」
天音は自分が握っている鈴に目を向けた。その瞬間であった。
カラーン……
鈴の柄がポッキリと折れてしまい、折れた柄の下の部分が地面に落ちてしまった。
「なんで私のまで!?」
「なんか、ヒビはあるなって思ってたら……。てかどうすんだよ! これじゃあ、魂送りできねーし!」
「えー! もう少しで神鏡が元に戻りそうだったのに……。とにかく早く家に帰って、おばあちゃんに報告しなきゃ!」
「俺もじいちゃんに言わないと!」
天音と邪馬斗は急いで家に帰った。
「とにかく、また集まってじいちゃん達と話し合いすることになると思うけど、取り敢えずまたな!」
「うん! またね!」
天音と邪馬斗は急いで家の中に入った。
「おばあちゃーん! おばあちゃーん!!!」
「な~に、帰ってきたと思ったら大声なんて出して……」
鈴子が台所にから呑気に歩いてきて姿を見せて言った。
「大変なことになっちゃったんだってばー!!!」
「何事?」
「これ見てよ~」
天音は泣きながら、鈴子に真っ二つに柄の折れた鈴を見せた。
「ど~したの! 何をしたら折れちゃうの!?」
「魂送りしてたら急に折れちゃった~。どうしよ~。おばあちゃ~ん」
「どうしようって言われてもねぇ……。神楽の道具が壊れただなんて聞いたことないもの」
「嘘でしょ……。いつかは一回ぐらいは壊れて修理ぐらいしたことあるでしょ!?」
「いや……。無いはずよ。巫神楽が始まってからずっとこの鈴を使っていたと代々言われてるのよ」
天音はポカーンと口を開けて固まってしまった。
「……そんなバカな」
「バカなのはあなたよ」
振り絞ってやっと口に出した孫の言葉に、容赦ない一撃を食らわせる鈴子。
「バカなの私だけじゃないし! 邪馬斗だって笛折れちゃったんだもん!」
「なんですって!? それは大変なことになってしまったのかもしれない……。天音、巫川家に行くわよ!」
「なんで邪馬斗の笛が折れたことに関しては、そんなに心配すんのよ! 私のことも心配してよ!」
「邪馬斗君はあなたと違って落ち着いて行動できるし、大切な物はちゃんと管理できる子だと思っていますからね」
「理不尽な! 自分の孫のことぐらい信頼してよぉ~!」
「いつまでも泣き言言ってないで、さ、急いでお隣さんの所に行くわよ!」
鈴子はそう言って、戸締まりをしっかりし、身支度をさっとして玄関へ急いだ。
「えぇ~。ちょっと待ってよぉ~、おばあちゃーん!」
天音も鈴子の後を追うように急いで邪馬斗の家に向かった。
ピーンポーンピーンポーンピンポンピンポンピンポン……。
「御免くださいませ。巫山です!」
鈴子は邪馬斗の家に着くやいなや、インターンフォンを連打して言った。
「おばあちゃん……邪馬斗の家のインターンフォンまで壊れちゃうよ」
天音は呆れながら言った。まもなくすると邪馬斗が玄関の戸を開けて出てきた。
「こんばんわ。さっきじいちゃんに言ったばかりで、呼びに行こうかと思っていたところだったよ。どうぞ」
「お邪魔します」
邪馬斗に案内されながら家の中に入った。そして、座敷の方に通された。
「あれ? いつもは居間に通されるのに……」
天音は不思議そうに言った。
「この前に整理した神社と神楽の書類を座敷に置いてるんだよ。今、じいちゃんが道具が折れてしまった原因と修理方法を調べてくれている」
「そうなんだ。ありがとう、巫川のおじいちゃん!」
邪馬斗から話を聞いた天音は拝みながら言った。
「じいちゃん! 天音達が着たよ」
「おう。こんばんは」
座敷に入ると義興があぐらをかきながら、古い書物を広げて読んでいたところであった。
「こんばんは。何かわかりましたか?」
鈴子は義興の元に駆け寄りながら言った。
「あぁ。わかったよ。原因も修理方法も……。まず、天音ちゃん、邪馬斗。こっちに来て座りなさい」
「はい」
言われるまま、天音と邪馬斗は義興の向かいに座った。
義興は書物をなぞりながら、静かに呟く。
「とりあえず、道具は修理して治すことができるから安心しなさい」
天音と邪馬斗は、安心して喜んだ。
「あぁ~、良かった~」
気の抜けたように喜ぶ天音をよそに、邪馬斗は厳しそうな顔で言った。
「でも修理方法なんて分かるのか、じいちゃん。今まで一度も修理したことがなかったんだろ?」
邪馬斗の話を聴き、天音は一気に喜びの顔から不安な顔になった。
「そうだよ……。そうだった! どうしたらいいの?」
「まぁ、落ち着きなさい。取り敢えず、道具が突然折れてしまった原因から述べよう」
義興は焦る天音を落ち着かせながら言った。
「原因はずばり、魂送りの儀式のやり過ぎじゃ」
「え? やり過ぎって……。だってまだ神鏡の破片が集まりきっていないのよ! それで儀式のやり過ぎとか、あり得ないでしょ」
天音は目と点にして言った。
「確かにまだ神鏡は元通りになっていない。しかし、今までの幾度となくやってきた魂送りは鈴と笛に負担がかかっていたということじゃ。なにせ、神鏡が割れてしまった事自体が前代未聞の出来事。年に一回例祭で使うだけだった道具が、短期間でこんなに使うこと自体負担が大きかったと言うことじゃ」
「確かに多い時で、一日に五回とか魂送りしてたもんな」
邪馬斗は考えながら言った。
「そこで修理方法だが、書物に細かく書いているお陰でワシらでも修理することができそうじゃ」
「え!? ほんとう!? 良かったー!」
天音は一気に晴れた表情になって言った。
「だがしかし、一つ問題がある」
「何だよ、じいちゃん」
「鈴と笛の材料はナギの木であるとこの書物に書いてある。したがって、神社の裏山にあるナギの木から枝を取ってきてほしいのじゃ。なるべく太い枝がほしいようじゃ」
「トキ子おばあちゃんの魂送りをしたところにあった大きいナギの木のこと? そんなのお安い御用じゃん! ね? 邪馬斗」
「そうだな」
「今日はもう遅いから、明日にでも取ってくるがよい」
「うん。分かった」
こうして翌日、天音と邪馬斗は巫神社の裏山のナギの木へ行くことになったのであった。
翌日。神楽の道具の修復のため、材料となるナギの木の枝を収集することになった。
天音は、巫神社で邪馬斗と待ち合わせる。
「おっはー」
鳥居の向こうから、邪馬斗が手を振りながら歩いてきた。
「おっそーい」
「ごめんごめん。昨日じいちゃんが散らかしてた書物を片付けてたら、寝るの遅くなってさー。すっかり寝坊してしまった」
「あー、たしかに、かなり散らかしてたもんね……。お疲れ様」
「ほんとにな。ボロい書物ばかりだから、破れないように慎重に片付けてたからな。だいぶ時間かかってしまった。ボロボロになる前に、保存方法も考えていかなきゃなんねーな……」
「後世に残すためには必要なことだもんね。その時は私も手伝うよ!」
「お前、漢字間違えやすいし、字汚いからなー」
すると、天音はぷくっと頬をふくらませる。
「酷い! ちゃんと読める字書けるんだから別にいいでしょ!」
「まぁ、かろうじて読めるけどな」
「ほんと素直じゃないねー」
「もういいだろ、行こうぜ」
邪馬斗は裏山へと歩き出した。
「あ、待ってー」
天音も邪馬斗の後を追って、ナギの木がある裏山へと入って行った。
「ねー、邪馬斗。ナギの木の所に行くのって、トキ子おばあちゃんを魂送りして以来だよね」
山道を歩きながら、天音が言った。
「そうだなー。トキ子おばあちゃん、旦那さんと無事に会えたかな?」
「きっと会えたよ。私は信じてるよ」
「そうだな」
話をしながら進んでいくと、山頂のナギの木が見えてくる。
「はぁー、もうすぐだー!」
ナギの木が見えてくる辺りからは、注連縄が張られて行く手を塞いでいる。
頂上にぽつんと生えたナギの木の周りには、柔らかそうな草地が広がっていた。
「枝を取りに行くには、この縄の向こうに行かなきゃいけないよね。私、縄の向こう側に行くの初めて」
「そりゃそうだろ。小さい頃から、縄の向こう側に行くのは神様に対して失礼だって言われてきたんだから」
「そうだったねー。縄を潜ろうとしたらおばあちゃんに怒られたなー」
「お前、そんなことしてたのか……」
やんちゃな幼少期の天音の行為に、邪馬斗は呆れた。
「さ、ちゃっちゃと枝を頂いて帰ろうよ。御神木様、お邪魔しま~す」
そう言って、天音は縄をくぐろうとした。
だが縄の向こうに行くことができず、天音は縄の手前でしゃがんだままだ。
不思議に思い、邪馬斗が声を掛けた。
「何やってんだよ」
「入れないのよ」
「は?」
「だから、入れないんだってば!」
「そんなわけ……」
邪馬斗も縄の向こう側へ行こうとするが、そこから先に進むことができない。
「なんだこれ? まるで見えない壁があるみたいだ。これ以上行けない……」
「でしょ? どうしよう。ナギの木の枝がなきゃ、道具を直せないよね」
「困ったな~。まるで結界だよ」
「もしかして、その結界を解かないといけないんじゃないの?」
「そうかもなー。じいちゃん、そういうの一言も言ってなかったのに……。取り敢えず、一回家に戻って、結界を解く方法を調べてみよう」
「その方が良いかもね。あーもー、しゃがんでいたから腰いた~い」
天音はゆっくりと腰を伸ばしながら言った。
「はぁ、やっとここまで来たのにー」
「良かったな、痩せるぞ。いっぱい往復しろ」
「ムカっ」
天音が邪馬斗の嫌味にキレていると、遠くから声が聞こえた。
「ん? 誰かなんか言った?」
「なんか聞こえた?」
「うん。誰だろう?」
天音と邪馬斗が耳をすましていると、その声は段々と近づいてきた。
「近くまで聞こえるようになった!」
天音はそう言って辺りを見渡した。
すると、ナギの木の向こうから人が歩いてくるのが見えた。
「お~い」
「えっ!? 猿田先生だ!」
天音は目を丸くして言った。
「本当だ。猿田先生だ。……ん? 猿田先生? 何で?」
邪馬斗も猿田先生に気づき、天音を見て言った。
「なんで先生がこんな所に?」
「しかも何でスーツ姿なのよ?」
「同感……」
天音と邪馬斗は、顔を見合わせながら言った。
「やーやー、天音さん、邪馬斗君。こーんにーちはー」
いつもどおりの気の抜けた話し方で、猿田先生は天音と邪馬斗に手を振った。
「先生! 何でこんなところにいるんですか!?」
天音は猿田先生に駆け寄った。
「天気良いし、散歩してたんだよー。いや~、三十後半にもなると衰えを感じるな~。途中で足痛くなってさー。でも、杖代わりにぴったりの枝があって良かったよ」
猿田先生は、両手に木の枝を一本ずつ持っていた。
「そうだったんですか。てか、先生、そんな歳だったんですね……。年の差……そういうのもいいわよね。アリよ、アリ……」
今まで猿田先生の歳を知らなかった天音は、意外に高い年齢に驚きながらも、勝手な妄想に浸っていた。
「てか、先生。どこから来たんですか? 俺達、ナギの木が見える注連縄の前にいたんですけど……」
「僕、山の反対側から来たんだ~。あ、お二人さんにお願いがあるんだけど……」
「何でも言って下さい!」
猿田先生のイケメンぶりに惹かれている天音は、勢い良く猿田先生に言った。
「お前、実は先生のことが好きなんだろ?」
バシッ!
「イテッ!」
邪馬斗が余計なことを言うと、天音は邪馬斗のすねを思いっきり蹴った。
「先生、気にしないで下さいね。頼み事ってなんですか?」
痛みに悶絶している邪馬斗をよそに、天音はニコニコしながら猿田先生に聞いた。
「実はさー。この杖を使っても歩くの大変でさー。肩貸してくれないかな?」
「お安い御用です! この下の神社にベンチがあるのでそこを目指して行きましょう! もう少しで神社に着きますし。はい、邪馬斗! あんたも手伝って!」
「……はいはい」
まだ、ズキズキとしたすねの痛みに耐えながら、邪馬斗は渋々猿田先生に肩を貸した。
三人は神社を目指して下山する。
神社に到着すると、猿田先生はベンチに腰掛けた。
「いや~助かったよー! ありがとうね!」
「いえいえ! 無事に下山できて良かったです!」
「主に肩を貸してたの俺だし。お前、先生が杖代わりにしていた木の枝を持ってただけじゃん!」
満足そうに言う天音に邪馬斗はツッコむ。
その時、邪馬斗は天音が持っていた木の棒を見てキョトンとした顔になった。
「……天音。その木、もしかしてナギの木じゃないか?」
「え?」
邪馬斗に言われて、天音は自分が持っていた木の枝をよく見た。
「ほんとだ! 先生! この枝どこで手に入れたんですか!?」
天音は驚いて猿田先生に聞く。
「ん? 山頂のナギの木の近くに落ちてたよー」
「え?」
思わぬ回答に天音と邪馬斗は呆然とした。