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走り、踊り、毎日怠らない自分磨き。一分一秒とて無駄にしないよう全力で励んで来た。後は今日、本番での成果を見せるだけ。
私こと夏木愛は鏡の前で一人、己を鼓舞していた。
「大丈夫、自分の実力をそのまま出せば成果なんてついて来る。そうでしょ?夏木愛」
ベッドで眠る仮初の王子様を叩き起こす、本当は誰かに私の晴れ舞台を見て欲しい。もし、この物語が少女漫画ならばヒロインのキスで王子様は大人の姿へと様変わりする事だろう。しかし、夏木愛はただの小学生。そしてづつうも小さい頃にお父さんが買ってくれた何の変哲もないサイのぬいぐるみだ。
「行ってきます、づつう。帰ったらいっぱいお話し聴いてね?」
私は仮初の王子様にお別れの、優しいキスをした。
「ららら発表会~今日は私の~晴れ舞台~」
カーテンレールの幕を開けるご機嫌な私、階段を下りる足取りも軽い。キッチンに置かれたポスターと五千円を、弧を描くような手捌きで掬い取る。
「今日は~私の~晴れ舞台~。誰かに見られたかった。晴れ舞台~」
軽快な自作ソングを歌い演目を披露する。まるで我が家が専用のコンサートホールかのよう。主演は私一人、そして観客も、私一人。
「今日は~私の~ は れ ぶ た い !」
玄関を飛び跳ねた私をスポットライトが照らし続ける。一足だけ並んだ靴を履き、扉を引くも鳴り響く拍手など一つもない。舞台の幕引き、この家には私しか居なかった。
「いってきます」
ライト一つ灯らない我が家に別れを告げる。無意識のうちに早足だった事に私は気が付きもしなかったのだった。
「さーいーたー。さーいーたー」
コンサートホールへはバスを乗り継ぐ必要がある、発表会までに歩き疲れてしまわないか、一人か細い私の心に不安が募る。
「こんな時に翼でも生えていたら、何の苦労もなく先生の所までひとっ飛びなのにな」
私の心に芽吹いた小さな願望は、脳腫瘍の入院時病院内で良く流れた曲を思い出させる。
「今~私の~、願い事が~叶う~な~らば~…」
「やっぱり願い事が叶うのなら翼よりも先生と完璧な演技を踊りたいな」
重い足取りを軽くしてくれたのは先生を思う「純愛」の力。不安だった手術も塞ぎ込んでいた苦悩も全て、私を外の世界へと導いてくれた先生とバレエのお蔭だ。
「最高の演技を見せるから、もしも完璧に踊れたら私の初めて受け取ってよね。先生」
バスへと乗り込む乙女の背中は翼が生え大人びて見えた事だろう。私は他の子供とは違う、夏木家の一人娘なのだから。
「夏木ちゃんおはよう、結構時間ギリギリだね」
「えへへ…ごめんなさぁい」
到着までの時間を逆算していなかった私は遅刻寸前、主役の重役出勤だ。
ここからメイクと衣装を纏い控室でのリハーサル。心が休まる暇もない。私は戦う女性の仮面を装着する。
「それじゃあ先ずはメイク室でメイクして貰って、着替えが終わったら控室に集まってね」
「『は~い』」
引き立て役達を導きメイク室へ、子供の顔から少しずつ艶めかしい大人の顔へと変貌を遂げた私は今から凛としたヒロインの仮面を身に纏うのだ。
「愛ちゃんってメイクすると色っぽいわね、メイク映えする顔付きなのかしら」
「えぇ~そうですかぁ~?」
人に褒められ気が緩む。凛とした大人の顔が崩れ、ヒロインの仮面が剥がれてしまう。
「いけないいけない、気を引き締めて油断しない事…」
バレエの笑むは微笑みであり、このだらしない笑顔ではない。凛としたクールな微笑みを観客に届ける事が、表現者として重要なファクターなのだ。
「は~い出来たよ~?後は着替えて最終チェックだっけ、頑張ってね」
「ありがとうございま~す」
先生に早く見て欲しい。大人びた色香とスタイルで、私の虜になって欲しい。
「先生、おまたせ!」
「おっ、夏木ちゃん大人びて見えるね。凄く綺麗だよ?」
「で~~しょ~~~??先生女を見る目ある~~!」
女性として扱われた事に思わず胸が「キュン」と鳴る、今の私は少女漫画のヒロインとは無縁の顔をしているだろう。しかし先生に褒められた今、そんな事はどうでも良くなった。
「よ~し!やる気出てきた!本番まで突っ走るぞ~」
「そうだね、みんなも発表会に向けてラストスパート頑張ろうね?」
「『えいえいお~』」
主役の二人が引き立て役達を控室へと導く。本番前の最終チェック、先生の隣に並ぶのはこの私。何故ならこの物語の主役はヒロイン役である「夏木愛」なのだから。
「1、2、3、4、回転ターン!回転ターン!!」
私達の歩幅に合わせ、引き立て役が舞い踊る。主役は演技の軸であり、全ての視線を釘付けとする。
「目線は前、顎を引いて、手足は伸ばす。呼吸は常に乱れないように意識して…っと」
一つ一つの演技を呟きながら確かめる。失敗は、許されない。
「考えるな…自然と身体が動くようにしないと」
先生ほど上手くは踊れない、私に出来る事は楽しむ事。そして反省と後悔をしない事。観客席へと私の微笑みを、この気持ちを差し伸べる。
「…はいストップ!皆よかったよ。夏木ちゃんも完璧じゃないかな?」
「でしょ~私もそう思う!この調子で本番もがんばるからね?」
最終チェックを終え、私の心に自信が溢れる。一歩前へと踏み出す足は力強い。会場のボルテージは最高潮、私達の踊りが観客席を釘付けにするのだ。
「ねぇ、先生?」
「どうしたの?夏木ちゃん」
「もし私が完璧に踊れたら、ファーストキス。貰ってね?」
「えっ、急に何を…」
狼狽える先生を見上げ、夏木愛は優しく微笑んだ。
「返事は全て踊り終えたら教えてね?私の相方!」
絶対に失敗できない人生初の大勝負、物語の幕が上がった。