「ただいまー」

二回電車を乗り継ぎ片道一時間半かけて着いた自宅は、茶色と白を基調とした二階建て一軒家。
 
玄関で靴を脱ぎ、そのまますぐに一階の洗面所で手を洗う。

「おかえりー。遊ぶ前に宿題やりなよー!」
 
姿は見えないけれど、一階にあるキッチンのほうからいつもと変わらないお母さんの大きな声が聞こえてきた。
 
炒めた玉ねぎの匂いから察するにカレーか、それとも私の好きなタコライスかな。

「はーい!」
 
夕飯の予想をした私は、負けじと大きな声で応えて二階に上がり、廊下を挟んで左にある部屋のドアノブに手をかけた。ちなみに右側は、ふたつ下の妹、()(おん)の部屋だ。閉められたドアの中から微かに()()りの音楽が聞こえてくる。
 
部屋に入り、(かばん)をベットの上に置いた私は、Tシャツとジャージといういつもの部屋着に着替えた。

「さてと」
 
勉強机の前に座った私は、三段ある机の引き出しの真ん中から、一冊のノートを取り出した。なんの変哲もない大学ノートだけれど、これは私の目にしか映らない感情の色について書き記した、秘密のノートだ。
 
最初のほうのページは殴り書きばかりで、自分で書いておきながら解読不可能な文字が乱雑に散りばめられている。でも真ん中くらいからは色の違いがだいぶ分かってきたのか、きちんと線に沿って箇条書きにしてある。
 
一ページずつ見直しながら、最後のまとめのページを眺めた。
 
赤の感情について〝怒り〟だけでなく、〝不満〟や〝悔しさ〟〝不機嫌〟、今日のような〝嫉妬〟など、赤に属する感情が書いてある。

【青 悲しい・つらい】、【オレンジ 楽しい・喜び】、【灰色 不安・心配】、【紫 疑い・不信】、【緑 安心・平穏】など、他の色も同様に細かく書き分けられている。
 
それを見つめながら腕を組み、「ん~」と(うな)った。
 
感情色別ガイドブックと密かに呼んでいる、私の最強の武器。これさえあれば、誰からも嫌われることなく楽しい高校生活を送れると思っていたのだけれど。

「どうするかな」
 
里美くんの色について、どうにかして見えるようにならないかなと思い続けて五ヶ月が過ぎてしまった。
 
そもそも、なんで里美くんは見えないのだろう。見えないのはお母さんとお父さんと妹、つまり家族だけだと思っていたのに。

「ご飯だよ!」
 
ドアを閉めていてもよく通るお母さんの声に、私は組んでいた腕を解いた。
 
係を遂行するための里美くん対処方法を考えていたら一時間も過ぎてしまったけれど、どれだけ考えてもやっぱり分からない。
 
閉じたノートを引き出しに戻して一階に下りると、美音がキッチンからダイニングテーブルに夕食を運んでいた。

「花蓮も早く手伝って」

「はいよ~」
 
気の抜けた声で返事をした私は、お母さんと美音の分もコップにお茶を入れて運んだ。お父さんは仕事で帰りが遅いので、夕飯は三人で食べることが多い。

「お姉ちゃん、何ニヤニヤしてんの? 怖いんだけど」
 
隣に座っている美音が、不審そうに私を見た。

「今日のメニュー、当たったなーと思ってさ。玉ねぎの匂いだけでタコライスって分かったの、すごくない?」

「別に、すごくはないでしょ」

「だって玉ねぎ炒めるメニューなんて、世の中に何品あると思う? そんな中でカレーかタコライスの二択まで絞ったんだよ? やばいでしょ」

「何がやばいのか分かんない。お姉ちゃんの話ってくだらないこと八割だよね」

「そう? 八割は言いすぎでしょ。せめて七割にしてよ」

「くだらないってことは認めるんだ」

「まぁね」
 
美音がどんなにクールな反応をしても、私は気にせずご機嫌でタコライスを口に運ぶ。チラッと横を見ると、美音の膝の上にスマホがのっていた。

「あっ、美音てば、またご飯中にスマホ見てる」

「美音、食事中は駄目だって言ったでしょ」
 
お母さんに注意された美音はムッと口を尖らせ、私を睨んだ。

「だって、会話に入らないと明日の話題についていけないじゃん」

「クラスのグループメッセージでしょ? そういうの、面倒じゃない?」
 
私が聞くと、美音は何も答えずに不貞腐れたままタコライスを口に運んだ。
 
幸い今のクラスにグループメッセージはないけれど、もしあったら、返さないと嫌われると思って、私も美音と同じようにずっとスマホを見ていたかもしれない。だから、美音の気持ちはよく分かるけど……。

「そうやって、自分の時間とかご飯の時間とかを割いてまで返事を送る必要ないと思うな」

「お姉ちゃんには分かんないんだよ! 返さなかったら嫌われるかもしれないじゃん」

隣にいる私にだけ聞こえるような、すごく小さな声で美音が呟いた。

なんだか学校での私を見ているみたいで、胸が痛くなる。

「でもさ、本当は疲れるでしょ? 嫌なら無理してやらなくていいと思うけど」

「うるさいな! 何も考えてないお姉ちゃんには言われたくない」

美音がドンとテーブルを叩くと、お母さんが呆れたようにため息をついた。

「いい加減にしなさい。食事中にスマホは禁止。守らないなら没収するよ」

お母さんにそう言われ、美音はしかたなくスマホをポケットにしまう。そして、もう一度私を睨んだ。

「クラスのグループメッセージなら入らないわけにはいかないと思うけど、ひとつアドバイスすると、そういう時は一番

最初に『うちはスマホ使える時間が決まってるから、あんまり返せないけどごめんね』って言えばいいんだよ。そしたらしょっちゅう気にしてスマホ見る必要もなくなるでしょ。次のクラス替えの時にはそうしなね」

「……ていうか、そういうの、もっと早く教えてくれる!?」

「やっぱり面倒なんじゃん」

私が笑うと、美音もちょっとだけ笑った。

美音とはこんなふうにしょっちゅう言い合いになるけれど、次の日にはお互いけろっとしていて引きずることはほとんどないので、姉妹の関係は良好だと思っている。それに家族だから、たとえ嫌われたとしても美音のためだと思ったら言いたいことを素直に言える。

鼻を膨らませている可愛い妹を見ながら、私は好物のタコライスを味わった。

「花蓮、そういえば宿題はやったの?」

「食べたらやるよ」

「先にやりなさいって言ったでしょ」

「そうなんだけどさ、考え事してたらご飯の時間になっちゃったんだもん」

お母さんは「まったくあんたはほんとに」と、再び呆れたようにため息をついた。

「お姉ちゃんの考え事なんて、どうせくだらないことでしょ。悩みなんてなさそうだし」

「美音は私をなんだと思ってんのよ。私だって悩みくらいあるんだからね」

それも、恐らくこの世界で私だけが抱えている悩みだ。

家族には気を使うことなくなんでも言えるとはいえ、感情の色が見える力のことは別だ。家族にもさすがに言えない。

「そうそう、そんなことより私さ、体育祭で使うクラス旗の制作係になったんだ」

だから私は、さりげなく話題を逸らした。

「旗って、絵描いたりするの?」

「うん。このくらいの大きな白い布に、クラス旗っぽいデザインを考えて描くんだって」

お母さんの問いかけに、私は旗の大きさを表すように両手を広げながら答えた。

「ちゃんとやれるの?」

「多分ね」

「多分って、クラスのことなんだからしっかりやりなさいよ」

学校ではしっかり者で通っているから大丈夫。なんて言っても、信じないだろうな。美音なんて、『お姉ちゃんがしっかり者? 冗談でしょ?』そう言って丸い目をもっと丸くするはずだ。

「決まったからにはちゃんとやるよ。私、これでも学校ではかなり頼りにされてるんだから」

「嘘でしょ? お姉ちゃんが? いやいや、絶対そんなのあり得ない」

思った通りの反応に、私は思わずニヤリと笑った。

家での私と学校での私は全然違うから、美音が驚くのも無理はない。でも、学校ではみんなの色を見て嫌われないよう、空気を壊さないよう努力しているからすごく疲れるし、家にいる時くらいはありのままでいさせてほしい。

そりゃあ姉妹で(けん)()もするし親に怒られたりもするけれど、家族なんだからあたり前だ。色の見えない家族には自分の気持ちを言えるし、今の私にとって、家の中だけが心の底からリラックスできる場所なのだから。

高校の入学式の日に初めて色が見えてから、どうして家族だけは見えないのだろうと不思議に思っていたけれど、今はそんなことどうでもいい。家族の空気まで読む気はないから、逆に見えなくてよかったのかも。これで家族の感情まで分かったら、息抜きの場がなくなってしまう。そんなの想像しただけで怖い。

「学校だけじゃなくて、家でもしっかりしてほしいもんだわ。漫画読んだりテレビ見たりしてばっかりいないで、ちゃんと勉強しなさいよ。体育祭が終わったらテストもあるんだから」

「はいはい。ちゃんとやるよ」

食器をキッチンに運んでから、私はリビングにある深緑色のソファーにだらりと腰かけた。

「ほらー、言ってるそばからこれだもん。宿題やるんじゃないの?」

「うん、やるよ~」

ソファーの上で横になった私は、テーブルの上に置いてあるリモコンに手を伸ばす。

『花蓮って困ってる時にいつも声かけてくれるよね』

『さすが花蓮、頼りになる』

『マジで花蓮てしっかりしてるわ』

そんなふうに言ってくれるクラスメイトは、知らない。私が本当はまとめ役なんてできない超絶面倒くさがり屋で、怠け者で、ガサツで、子供の頃からわりとなんでもハッキリ言っちゃう性格だということを。

そういう私が本音を隠して学校で上手くやっていけているのは、全部色が見えるお陰だ。みんなの感情が見えるから嫌われないし、しっかり者だと言ってもらえる。

でも、そうなるとやっぱりネックなのは学校の中で唯一色が見えない里美くんだ。しかも明日からは一緒に係の仕事をしないといけない。

ほんと、どうして見えないんだろう。家族との共通点なんて見当たらないし。

色が見えないのなら表情とかで感情を判断するしかないけど、確実じゃない。

「はぁ……どうしよう……」

「ん? なんか言った?」

「なんでもないよ。宿題やってくるね」

思わずこぼしたため息にお母さんが反応したため、私はようやく重い腰を上げた。

明日からのことを考えると憂鬱だけど、なんとか上手くやらないと……。