「──雪妃」
ずんずんと早足で先を行く私を、綾人が呼び止める。
「どうしたんだよ そんなに急いで。用事ってなに? 今日、なんか予定あった?」
「……」
ないよ。
今日はめずらしく、何の予定もない。
綾人も今日は空いているはずで、一緒に過ごすつもりでいた。
「……あ、ごめん。先輩たちと食事に行きたかった? いいよ 行ってきても。私は、遠慮するけど」
「……いや、特に行きたかったわけじゃないよ。雪妃が帰るなら 俺も行かない」
「……ごめん、少し面倒だった」
「うん」
どうしてこんなにも、心が波立っているのだろう。今日の私は、というより最近の私は少しおかしい。早足を止めて、綾人と並んでゆっくり歩き出した。
「どうした?」
「……どうもしないよ」
「そう? 怒ってるように見える」
「……何も、怒ってない。……ただ、綾人はいつも、どーんと構えてるなあって、思っただけ」
「どーんと構えてる?……ああ、押切さんのこと?」
やはり綾人は何も気にしていなくて、なぜか私の方が憂鬱になって悶々としている。
ただの冗談なのはわかっているけれど、なんかちょっと変な感じで煽られてたし、私が彼の立場なら 気分は良くないと思う。
「ロックオンされてるって 言われてたな」
「されてない そんなの。押切先輩はいつも誰にでもあんな感じだもん、揶揄ってるだけ」
「揶揄われたんだ?」
そう言って、呆れた様に苦笑する。
「何を言われたのか知らないけど、雪妃は、押切さんには靡かないだろ。気になるの?」
淡々と、よくそんな風に言える。
わかっていても嫉妬で嫌な気分になるとか、感情がコントロールできなくなって苛々するとか、そうはならないのかな。私が、「気になる」とでも言ったら、どんな反応をするのだろう。見てみたくなるけれど、勿論そんな気持ちは欠片もないので、首を横に振った。
「じゃあ、別にいいじゃない。雪妃のことは信頼してるから、いちいち妬かない」
「……そうね」
当然のように私を、これからもずっと一緒にいる大事なパートナーのように扱うくせに、焼き餅の一つも焼かない。
このアンバランスはなんなんだろう。
お互いに、恋焦がれてつき合ったわけではないから。成り行きで〝まあいいか〟って、お試しのように始まった関係だから。
だけど綾人は そんな過去は忘れたかのように、私とは、互いに唯一無二のふたりであるかのように振る舞う。なんでなのよ。
大学の初期の頃に仲良くなって、一緒に過ごした時間はそれなりに長い。彼に対する〝愛着〟のようなものは間違いなくある。
でも私は 相変わらず温くて、綾人との温度差を感じる度に、どうしたらいいかわからなくなる。綾人に信頼を寄せられるほどの揺るぎないものが、私の中にあるのか。
隣を歩く人の横顔を見た。
「──あ、そういえば、M山ゼミの才女って 誰のことかわかる?」
「Mゼミの、才女?」
「うん、すごく綺麗な人、って」
「綺麗な人……?」
綾人は少し首を捻りながら、
「……香坂さんのことかな」と答えた。
「香坂さんっていうんだ。名前まで綺麗ね」
「香坂さんがどうかした?」
「綾人も その人と仲いい?」
「……まあ、普通に話すけど」
「綾人はその綺麗な人に、好かれているんだって 聞いたよ」
「…………ハア、それどこからの情報」
溜息を吐くが、否定はしない。
多分、身に覚えがあるのだろう。
「美人なだけじゃなくて、明るくて気さくで性格も頭も良くて、いい人なんだってね」
「……まあ、そうかもね」
「そんな人に好かれて、どうするの綾人」
「どうするもなにも、どうもしないよ」
「男だったら誰でもコロッといくって。告白 されたりでもしたら……」
「……何が言いたいの?」
「え、なんていうか、勿体無いなって」
めちゃくちゃなことを言っている自覚はあるが、他人事のような言葉が口を衝いた。
綾人のことを試したくて言ってるわけではなかった。勿体ないって、本気でそう思ってしまうから。
だけど綾人もまた、ムッとすることなく、先ほどと同じ様に淡々と返してくる。
「香坂さんじゃなくても、俺は誰から何を言われても断るよ。彼女いるからって」
「彼女が、いるから」
「そうだよ。雪妃がいるんだから、他の誰かとなんて どうにもならない」
彼氏にそんな風に男気のある台詞を言われたら嬉しいに決まっているのに、どうしても拭えない気持ちがある。
じゃあ、私がいなければ?
気さくで性格も良くて綺麗な人で、あり得ないなんて言わずに、その人となりをちゃんと見ようとするのでは? 話しているうちに仲良くなって、恋に落ちるかもしれない。
今も私が綾人の隣にいるから、香坂さんに限らず 彼の近くにいる女性達が簡単に対象外になる。可能性の芽を摘んでいる気がする。
綾人に好意を持つ魅力的な人は沢山いるんだよ。それは事実で、私なんかよりもずっと彼のことを想って、大切にしてくれる人がいるかもしれない。
綾人は私でいいの?
私は、綾人でいいの?
歩きながら、いつの間にか手は繋がれていて、その手は綾人のコートのポケットの中にあった。肩は寄せられ 身体の半分はピタリと密着している。とても歩きにくい。
「雪妃さんさ、それちょっと酷くない?」
「酷いかな……酷いですね」
「勿体ないとか全然意味がわからん」
「すみません、全然意味がわからなくて」
「……押切先輩とか香坂さんのことは、正直どうでもいい。こんなことで気まずい感じになるのはおかしいよ、止めよう。俺は雪妃が、ここに居てくれればいい」
街中の、建物の間の死角になる場所で立ち止まったかと思うと、私は綾人に、ぎゅっと抱きしめられていた。いつもはこんなことはしないのに、どうしたのと言ってもなかなか放してはくれなかった。
寒いけど温かい……でもやっぱり寒い。
「……買い物して帰ろ? 今日は綾人の家でいいの?」
「……うん。夜、鍋にでもするか」
私を心から想ってくれている人に遠慮なく気持ちをぶつけて、言わなくてもいいことを言う。要するに甘えていた。
友達よりも親よりも誰よりも彼には、自分の思っていることを素直に吐き出せたから。
恋も愛も人の真心もわからずに、幼くて、目に見える表面的なものがすべてで、物事を立体的に捉えることなどできなかった。
自分の気持ち以上に、綾人の気持ちを全く理解していなかったし、理解しようともしていなかったと思う。
飄々として余裕があるように見えた彼が、あの頃なにを考えていたのか。
きっと、すごく不安だったと思う。
寂しかったと思う。
鈍感で愚か者の私は、大切なことは全て、後から気づく。