日増しに肌寒さを感じるようになった頃、北日本でその年の初雪を観測した。
 去年よりも十日ほど遅いらしい。
 加納君を含むサークルの仲間たちは、冬シーズンの到来を、テンション高くとても喜んでいた。
 当然である、そういう目的で集まっている人達なのだから。


❄️

 一緒に授業を受けて食事をして、帰る方向も一緒。お互いの一人暮らしのアパートは、そう遠くなかった。
 二人ともアルバイトでいくらか生活費を補てんしなければならない身。多忙だが自然と休みを合わせるようになり、二人で過ごす時間も徐々に増えていった。

 加納君の、一人暮らしの自宅に寄るようになったのもこの頃だ。
 最初は正直 少し緊張したけれど、加納君はいつもと変わりなく、ただ淡々と課題を纏めるために手伝ってくれただけで、甘い空気にはならない。なんだ、変な心配をしたりして恥ずかし過ぎる……。と拍子抜けしてからは、身構えなくなった。



 本格的なドリップコーヒーを淹れてあげると言って、いつものように彼の部屋に寄る。
 お気に入りの店の焙煎仕立てのコーヒー豆、中心部に細く湯を注ぐと粉がふっくらと膨らんだ。新鮮なコーヒー豆の証である。

「加納君、コーヒーを入れるマグカップ二つここから出していい?…………え?」

 すぐ近くに影。
 顔を上げ斜め上を見上げると、思っていたよりも近い距離に、彼が立っていた。

「なに?」
「キスしていい?」

 脈略もなくそう聞かれ、目を見開いた。

 一応、恋人同士になって二ヶ月以上経った私達。二人きり、誰も見ていない彼の部屋。

 なに急に、コーヒー淹れたところなんですけど──と思ったけれど、自分の彼氏の家にのこのこ上がり込んでおきながら、なんで? はない。接触ゼロの方がおかしい。



 返事をする間もなく彼の顔がスッと近づいてきたので、急いで目を瞑ると、むちゅっと唇が触れ合った。
 一瞬で離れたが、キスだ、紛うことなく。
 手と手が触れ合うことも稀なのに、抱きしめられたこともないのに、変なの。


「雪妃ちゃん、はじめて?」
「……うん」
「俺もですけど」
「つき合うのも はじめてだもんね?」
「……なんか、全然平気そうだな……。俺は心拍がやばい。あと手汗掻いてる」
「手汗……冬なのにね」

 そうは見えないかも知れないが、私だってやばい。いつもと違って、加納君が男みたいで。彼の中にそんな欲求が存在したのかと。まともに顔を見ていられなくて俯くと、突如身体を引き寄せられた。

 淹れたてのコーヒーの香りの中、これまでで一番、距離が近い。密着している状態で、頭と頬と唇と、順々に撫でられる。

「え、ちょっと待って加納くん、」
「もう一回」
「……んっ」

 だから、せっかく、コーヒーが────。




──その翌週、いろいろあって私は、ロストバージンに至った。相手は勿論加納君。
キスをするまでそんな素振りは一切見せなかったというのに、いつから男スイッチが入っていたのやら、そういうことになった。
 
 言うまでもなく初心者同士、お互いに何もかもがはじめてで 全然スムーズにはいかず。でも加納君は 終始優しかった。


 一通り事が終わり、裸のまま二人、抱き合って眠る。
 はじめて繋がった部分は、まだじんじんと痛みがあったけれど、人肌の温もりが心地よくて、安心して彼の胸に顔を(うず)めた。加納君の匂いに包まれるのは、わるくない。
 世の人々は、この温かさと安心感を求めて恋人と肌を重ねるのか。わからないが、知らなかった頃には戻れないかもしれない。



 大学やバイトの時間以外は、当たり前のようにお互いの部屋に入り浸るようになって、大学生の都会の一人暮らしの、小さなワンルームだから常に視界に加納君がいる。
 彼の部屋には、私の部屋着や化粧品の類いなど私物が増えていった。同じ様に私の部屋にも。



 クリスマス直前に行われる 一泊二日のボード合宿は、毎年そんなに人が集まらないと聞いていたのだが、蓋を開けてみたらそれなりの人数になった。インストラクターの資格を持つOBの先輩が急に何人か参加することになり、その影響かもしれない。

 加納君や麻衣子に誘われて、私も参加することにした。
 スキーやボードを目的に雪山に向かうのはいつ以来か、果たして滑れるのか。



 麻衣子と共に初心者グループに入れられて、私はボードデビューを果たす。
 スキーとは勝手が違うが、インストラクターの先輩からは 筋がいいと褒められた。
 麻衣子は案の定何度も転び、お尻が痛くて冷たいと弱音を漏らしながら頑張っていた。


「──あ、A山君と、加納君だ」
「…………あ」


 上級者向けのコースを、危なげなく軽快に滑り降りてくる加納君たちの姿を見つける。
 うわ……なにあれ、すごい。
 遠目でもわかる。加納君、すごい上手じゃない。そっか、だよね、昨日今日始めた人の滑りとは、レベルが違う。


「……なんか二人、めちゃくちゃ上手いね」
「うん」
「格好良いんですけど」
「……そうだね」
「A山君やば、惚れ直しちゃうわ」
「……ゲレンデマジック、あるかも」
「え? ちょっと、雪妃ちゃん? そんなに見つめないでよA山君を。間違って好きになっちゃうじゃない、ぶっぶー」
「あは、ごめんごめん、ならないって」

 ちがう──。
 見ていたは別の人。

 雪山で見る加納君はとにかく格好良くて、オーラがすごくて、輝いて見えた。


 今回、加納君に教えてもらえるとは思っていなかったけど、グループが違うと思いの外話す時間は少なくて、関わりがない。
 私もいつか、一緒に滑れるくらいになるだろうか。……まだ全然無理そう。
 けど、なんだろう? このもどかしい気分は。なんかちょっと、すごく不自由だ。


 その日の夕食時に食堂で、加納君のいるグループとすれ違う。彼らはもう食事を終えて部屋に戻るところだった。
 食堂の端と端、数メートル離れたところでお互いの存在に気づき、目が合う。


 このサークルの合宿は、以前からの暗黙のルールで、アルコールと不純異性交遊は禁止とされている。いつの時代の話だよと裏では皆がブーブー文句を言っているが、たしかにアルコールが入り、あっちでもこっちでも(さかり)がついてしけこまれては、収拾がつかなくなる。健全で、真面目なサークルであることをアピールしたいらしい。大学生らしく(?) とはいえ密会しているカップルも、中にはいそうだった。

 私は、加納君とつき合っていることは麻衣子にも言いそびれていて、結局まだオープンにしていない。
 最近は二人だけで話をしていても、色恋で見られることはなくなっていた。



 食堂で彼が居ることに気づいて目が合い、なぜかそのまま 視線を外せなくなった。

〝お疲れさま~。今日滑ってるところ見たよ、すごいね〟って、駆け寄って話せばいいんじゃないの? でもできない。
その不自然さに耐えられなくなり、私の方が先に目を逸らした。


 話さなくても感じる、顔を見ただけで。
 二人とも、似たようなことを考えていた。

 こんな非日常的な場所にいるのに、どうして一緒にいられないのだろうね。


✉️

《もう寝た?》
《寝てないよ》

 ベッドがそれぞれ四台ずつ設置されている四人部屋には、麻衣子や先輩方も一緒にいて、電話すら儘ならない。
 できるのは、布団に包まってメッセージのやり取りをするだけ。
 すぐに既読が付いた。



《綾人先生、今日滑ってるところ見たよ》
《俺も誰かさんが転んでるところ見たよ》
《はあ?滑ってたでしょちゃんと。なかなか筋がいいねって褒められましたから~ 筋肉痛になるかな。とりあえず明日も頑張る》
《楽しいでしょ?程々に頑張って。でもあのOBの○△さん、雪妃と距離近すぎない?》

 距離? ○△さん? 全然普通、初心者に丁寧に教えてくれていい人だけど。
 いつそんなのを目撃したのだろう。と、
 首を傾げていると、

《雪妃のボードデビュー、俺が教えたかっただけ》

 連続で届いたメッセージに、顔が綻ぶ。
 それは、なんか嬉しいよ、加納君。
 でも何となく、電話の向こうで焦っている気がする。

《焼きもちですか? そういうのいいから》
《ところで誕生日のプレゼントの件ですが、なにがいいか決まりました?》
《あ、話変えたーー》
《🎁》
《誕生日プレゼントは、加納君が選んだものがいいです》
《それはそうだけど、今年はまだちょっと、難解すぎるから。じゃあヒントだけでも》

 真面目だなあほんとに。難解すぎるって、きっとすごく考えてくれているんだろうな。
でもたしかに、まだまだお互いのことを知らな過ぎる。私が今本当に欲しいものなんて、思いつかないよね。

《じゃあ お言葉に甘えて、リクエストしちゃおうかな》
《いいよ。なに?》