「うん、それは、ダメだな」
「一緒に住みたいと思うことが?」
「……うん」
あなたとは本気でつき合ってるわけじゃないのと言っているようで、ものすごくバツが悪い。真正面にいる綾人の顔を見て話すのが辛い。自分が嫌になる。
でも実際 そうなのかもしれない。綾人と私は、違う方向を見ている。
私はまだ、そんな風には思えない。
覚悟も何もない。
「綾人が、私とのことを考えてくれてることは嬉しい。ありがとうって思う。優しいし頼りになるし、ずっと一緒にいるなら綾人みたいな人がいいって、皆に羨ましがられるし」
「……雪妃も、そう思う?」
「勿論思うよ、綾人みたいな人は なかなかいないって思う。私には勿体無いくらいだよ。だけどさ、私達まだ、21だよ?」
溜め息を吐きながら腕を組み替えて、
「……それが?」と言う。
「お互いに初めてつき合った相手で、それも恋愛感情からはじまったわけじゃない、成り行きだったじゃない。なのになんで、私だけって思うの? 世の中には沢山の女性がいて、綾人なんて誰からでも好かれて人気があって選り取り見取りで、私以外の他に目を向けたくならない?」
「ならないよ、全然」
「ならないって、それがおかしい、なぜそう言い切れるの? 男は生物学的にも、普通は思うんじゃないの? 綾人が、私だけでいいなんてあり得ない。これからもっといろんな人と出逢うよ、あー俺早まったなって あとから後悔しても遅い。いろいろ経験して、それでもやっぱりこの人がいいって思ってくれるならわかるけど、そうじゃないもん」
途中からはもう、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
そう、だから私は、綾人を前にするとこうなってしまうんだって。
彼の大らかさと優しさに甘えて、瞬間的に思ったことを 噛み砕くこともせずにぶちまけて、傷つける。
「──綾人とは、もう少し大人になってから出逢いたかった」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だけど」
あまりにも身勝手な言い分が 彼を貫く。
私とのことを真剣に考えて、心を尽くしてくれている人の思いを、踏みにじる格好で。
自分が口にした言葉の意味を、私はわかっていたのだろうか。それを言われた綾人がどう感じるのかを、想像できただろうか。
いや、わかってなどいない、全然。
だけどそれは、誤魔化しようのない本心だった。どうして私は、最初の最初に綾人に出逢ってしまったのだろう──って。
もっと歳を重ねて、様々な人と出会い、
いろいろな世界を知ってから、最後の最後に綾人と逢いたかった。
誰に話してもきっと、勝手なことを言ってると呆れられる。自分でも思うもん。
二人とも言葉を失い、シンと静まり返る。
一瞬の間が、永遠のように感じられた。
綾人が宙を見つめながら、フッと 誤魔化すように笑った。
「早まった 後悔したくないって思うのは、俺じゃなくて雪妃の方だろ?」
「……え」
「……刺激的で魅力的な男なんて、いるからな、周りに沢山。……俺では物足りないか」
「そんなこと 言ってない」
「今の俺ではダメだってことだろう?」
「……ち」
違うよ。綾人がダメなんじゃなくて、私がダメなんだよ、今のままでは。
「俺は、好きなんだよ雪妃が。だから一緒にいたいって思う、ただそれだけ」
「……」
「でも もう言わない。雪妃を困らせたかった訳じゃない。一緒に住むのは無し、これまで通りでいい。もう止めるかこの話、考えてもしょうがないし」
綾人は話を切り替えるように明るい声で、「だからそんな顔しないで」と、私の顔色を窺っている。
これまで通りでって、今の話を無かったことにするの? 無かったことにしてどうするの? そんなの無理だよ、綾人も私も。
〝成り行き任せでいいではないか、なにも今 白黒決めなくても〟大人になった今ならそう思えることも、二十歳そこそこの未熟な私は思えなかった。
頭でっかちで、融通が利かなくて、ほんと嫌んなる。曖昧な自分自身の感情を許容できない。
綾人が、自分の気持ちを抑え込んで我慢しようとしている。私のせいで。
このままでは、遅かれ早かれダメになる、別れることになると思った。
そうならないためにはと考えて導き出した答えは、結果的に間違っていたのだけれど。
「──少し、離れよう」
綾人が、声にならない声で、「は?」と、口を開いたのがわかった。
「一旦距離を置こう、私達。その方がいい」
「なんでそういう話になる?」
「ひとりで少し考えたい」
「なんでだよ、考えるって何?」
「綾人と一緒にいると、自分の気持ちが分からなくなる、有耶無耶になって。だから一度離れたい」
迷いのない態度で綾人の目を見つめながら、きっぱりと言い切った。
常に一緒にいすぎて、綾人の存在があまりにも大きすぎて、一度離れて客観視したい、自分自身を。
だけど当然ながら綾人の方は絶望的な捉え方をしていて、いやいや待って……と、首を横に振る。
「今のままでいいじゃん……」
「それは、無理だよ」
「無理じゃない、二度と言わないって」
いつも穏やかで落ち着いている綾人の声が、少し震えていた。そうさせているのは私なのに、いつもと違う綾人の声に胸が苦しくなる。
「俺のことは 好きじゃなくなった?」
「そんなわけない」
「じゃあなんで 壊すようなことを言うの」
「壊したいわけじゃないよ、お互いのために今はそうした方がいいって、思うから」
綾人の提案から一転、あまりにも残酷。
「そもそも最初から、好きじゃなかった?」
「……」
なんで、そうじゃない、でもわからない。だって、一緒にいるのが当たり前になって、綾人と自分の気持ちの温度差を感じて、自分はこの人には見合っていないと卑屈になって、親に挨拶するとか一緒に住もうって言われても頷けない、このまま流されて 無責任なところまでいくわけにはいかないと思ったんだよ。壊したいわけではない、ただ立ち止まりたいだけだ。
でも何も言えず黙っていることは、綾人にとっては肯定と同じだった。
「── 一度距離を置いて、元通りになれると思えない。終わりにしたいの?」
「でももう こんな話をしてる時点で、今まで通りにはいられないよね」
抑揚のない私の声が、教室内に響いた。
思いのほか冷たい言い方になってしまったと 再び綾人の方を見ると、青褪めて、ひどく悲しげな顔で呆然としていた。
目を伏せて、私からふいっと顔を逸らした時の綾人の表情を見て ようやく気付く。
好き勝手なことを言って、綾人をどれだけ傷付けたか。
「ご、ごめん」
「わかった」
距離を置く云々ではない、もう戻れない。
その瞬間の綾人の辛そうな顔は 私の脳裏に焼き付いて、何年もの間 忘れられなかった。
それから二言三言、綾人と言葉を交わしたけれど よく覚えていない。私がボーッとしている間に、彼は部屋を出て行ってしまった。
綾人の中ではこの時のやり取りが、
〝別れ〟を意味していたのだと思う。
距離を置くということは〝終わり〟だよと言われて、それに頷いたのだから当然か。
涙は出ない。
私が泣くのはおかしい。
でも、ひとり残されて力が抜けて その場にへたり込み、しばらくの間立てなかった。