二月にしては穏やかな天候で、窓の外には青空が広がり 光が射し込んでいた。

 誰もいない教室の中に二人。
 彼の正面に立って顔を上げると、綾人は、あまり見たことのないような憮然とした表情で、私を見ていた。


「無理やり連れてきて悪かった」
「……怒ってるの? なんで、」
「怒るとか、そういうことじゃなくて」
「どう見ても怒ってるじゃん」


 押切先輩とごはんを食べていたことがまずかったのだろうか。……多分、それだよな。
だけど先輩のことは、私を信用しているから 何も無いなら構わないって、言ってたのに。
 何も無くはなかったけど、私は線を引いたつもりだし、ふらふらと浮ついたことをしていたわけじゃない、誤解だ。

 そもそも、怒られるのは私だろうか。
 香坂さんの綾人への好意は遠くから見ていても明らかで、どちらかというと私の方が、彼女達から値踏みされるような目でじろじろ見られて とても不快だった。
〝あの子のどこがいいんだろうね? 香坂の方が加納君と合うよね?〟って、言われてるみたいで、居た堪れなかった。
 実際そうかもしれないと、私も思ってしまったし、今こんなに、劣等感の塊のようになっているのに。


 ところが綾人の口から出たのは、思いも寄らぬ言葉だった。


「雪妃と俺が会うの、結構久々だって、雪妃 気づいてる?」
「え?」
「何日くらい会ってないか、わかる?」

 一瞬意味がわからず、きょとんとする。
 何日って……久々なのはわかっているが。

「一週間は、会ってないか。なんか久しぶりだよね」
「十日間、会ってない」
「十日……そっか 先週会えなかったもんね」

 たった十日だけど、こんなに会わないことは、たしかにあまりなかった。
 そうはいっても今月は、綾人が忙し過ぎて会えなかったんだからね?

 春休みに入って、綾人は春のインターンと通常のバイトを掛け持ちしていて、とはいえ本業は学生で、休みに入ってからも大学にも行く用事があり、とにかく時間がなかった。私も綾人ほどではないが毎日予定が詰まっていたし、お互いにそういう時期だと思っていた。
 大変そうと心配はしていたけど、無理して会おうとしなかっただけ。わざと避けていたわけではない。
 まさかそれで、不機嫌になってるの?


「……でもそれは、仕方ないじゃない。以前のようにはいかないよ。来月からはますますそうなるだろうし、お互いに時間を調整するとかして会う努力をしないと とは思ってて」
「〝会う努力〟ね」
「え、なに?」

 先程からずっとスンとしていた彼が、歪んだ顔をして笑う。なにか、言いたげに。

「……会うのに、努力がいる? 会いたいか会いたくないかじゃない? 雪妃の顔が見たければ俺は、数分だけでも会いに行くよ」

「……」

「雪妃は、俺と会えなくても平気なの?」

「……そ、」

 そんなこと、言われても…………


「平気だよな、雪妃は」

「平気だなんて言ってない、綾人大丈夫かなって 毎日思ってた。だからラインもしてたし、そういうものじゃない? 無理して会うより身体を休めて欲しいって考えるよ」


 だけど言われてみれば、忙しさに(かま)けて、綾人と会うこと自体 後回しになっていたのも事実だった。
 これまでも各々忙しいという時期はあったけれど、綾人が定期的に会いに来てくれるから、買い物や何かにつき合ってくれるから、忙しい中でも会えていたと、思い返す。


「久々に見つけたと思ったら、押切さんといて、楽しそうにしてるし」
「ち、ちがう、楽しそうになんかしてない。たまたま、偶然会って、もう大学にもあまり来なくなるからごはん食べないかって言われたら断れなくて。疚しいことなんてなにもない。それに綾人だって、いちいち妬かないって言ってたじゃない」
「そうだね、まあ、押切さんは関係ない」
「……うん、だから、そうだよ……」


 綾人は無言になり、肩に掛けていたトートバッグの中からA4の封筒に入った何枚かの用紙を取り出して、それを私に手渡した。

「これなに?」
「見ればわかる」

「……」

 それは、いくつかの不動産会社の物件情報を印刷したものだった。
 単身者用とは思えない 二人で住むくらいの広さの物件ばかりが、何件もある。
 パラパラと目を通して、彼が何を言いたいのかを理解する。

「引っ越しするの?」
「俺だけじゃない。雪妃も」

 やはり、そういうことだ。


 なんで?

「私 前に、学生の間は一緒に住むのは無理だって言ったじゃない。綾人も冗談だよって言ってたよね?」
「学生の間が無理なら、一年後の、社会人になる時ならいいのか?」
「それは……」


 私には、四歳上の姉がいる。
 三吉家はそれほど厳格な家ではないが、ずっと実家に住んでいる姉にはいまだ門限があった。
 以前、彼氏と一緒に住みたいと言った姉と父の間で一悶着あって、ああこれは、余程の覚悟があればだが、軽い気持ちで同棲したいなんて絶対に言えない、と思った。
 だから私は、恋人がいることも伝えていない。言えば、連れて来いとかどんな男なんだとか、面倒になるのは目に見えているから。


「秋くらいから、雪妃との時間がかなり減ったと思ってた。今でこの状態で、今後はどうなるんだろう、って。でも一緒に住めば、帰る家が同じならそれは解消される。毎日顔は見れるしお互いにサポートできる」

「それは、そうだけど……うちは、三吉家は無理なの。古くさいかもしれないけど一緒に住むのは親が絶対に許さない」

 綾人は男兄弟だけだし、その価値観はわからないかもしれない。もうまもなく結婚するとかそういう条件があるなら別かもしれないが、そういう訳ではないんだし。


「軽い気持ちではできないの、同棲なんて」

「軽い気持ちで言ってない、ちゃんとする」

「は?」

「挨拶に行くよ、雪妃の実家に。それで お願いする、ご両親に」

「……」

「ちゃんと真面目に話をすれば、わかってくれるかもしれないし、それに、昨日今日のつき合いじゃないんだ、雪妃がどんな男といるのかぐらい、知ってもらってもいいだろ?」

「挨拶……」


 どうして綾人はそんな風に、先に進もうとするのだろうか。なんでなんだろう。

 私がおかしいのかな、
 おかしいのかもしれないね。
 でも私、それに ついていけない。


「なんか、めっちゃ嫌そうだな」
「……嫌っていうか、びっくりして」

 もう、一緒に住みたいなんて冗談だよと、誤魔化してはくれない。


 息を飲むような静寂があり、「ダメか?」と、真面目な顔で綾人に聞かれる。

 私はすぐ顔に出る方だから、
 今多分、嬉しい顔はしていないと思う。

 もう、曖昧に答えることはできなかった。