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「あ、降ってきた」

 日が暮れるのと同時に、空中に白いものが舞い始めた。
 微かに、雪の匂いがする。

 一瞬で全身が凍り付くような風が吹いて、震えながらコーヒーの香りが漂う店内へと戻った。



「──三吉(みよし)さん、外どうですか?」
「寒い寒い、風もあるし息真っ白だし めちゃくちゃ寒いよ。降ってきちゃったねえ」
「えーーやだ、ホワイト大晦日ですね~。せめて家に帰るまでは降らないで欲しい」
「ね、積もりはしないと思うけど……。今日はもうあまりお客様来ないだろうし、さくさく閉店作業終わらせて帰りましょう」
「はいっ」


 十二月三十一日 午後六時二十分。

 日中は客が途切れず忙しかったけれど、夕方くらいから少しずつ人が引き始めた。
 レジに立つアルバイトの大学生が、「今日一日、三吉AM(エリアマネージャー)に店にいていただいてほんとに良かったです。今年も無事に終わりそうですー」と、ホッとした様子で微笑んだ。
 年末年始の営業時間の変更により、今日はあと四十分程で閉店となる。今夜はなるべく早くスタッフの皆を帰した方が良さそうだ────。


 大学卒業と同時に某コーヒーチェーン店に就職して、彼是十年近くになる。
 本社勤務、新店舗の立ち上げや店舗改修、数店舗の店長業務を経て、今年の春からはA地区を担当するエリアマネージャーとして働いている。
 担当する地区の店舗を管理する立場であり責任者であるため、やらなければならない事は数多くあり、特定の店舗のオペレーションをサポートするような事は通常はないのだが、この年末 私が担当している五店舗のうちの一つ、S田南中央店で異常事態が起きてしまった。




「──インフルですか。……え、四人!?」
『──はい、そうなんで、すっ、すみませゴオほっ、ゴホゴホッ』

 スマホの向こうから、盛大な咳と共にその店の店長の悲痛な声が聞こえる。いつも聞き慣れている朗らかな彼女の声ではない。熱もかなり高いらしく、完全にアウトだ。



 店長や副店長だけでなく、主力であるベテランのスタッフ数名が同時にインフルエンザに罹ってしまった。
 余力のあるシフト組みはしていない。そうでなくても人の足りない年末年始のこの時期に、全体を任せられるリーダー的存在の人達が全滅……おおう、マジか。

 そんな事ってある? と言いたくなるが、クリスマス前後は激混みで、今月の売上高は十二月としては過去最高を記録している。
 休めずに無理して働いていたのかもしれない。疲れが溜まって免疫力が落ちて、結果的に感染が広がってしまったが。……仕方がない、と、頭の中で今後の事を組み立てる。

「大丈夫ですよ。今日から数日間は 私が店にいるようにしますから」

『三吉AMが、ですか? そんな……』

 ええ、通常はあり得ないんですけれど、
 致し方ない。背に腹は代えられない。

「今回は緊急事態なので そうします。何人かヘルプで来てもらえるかもしれませんし、こちらのことは心配しないで、ゆっくり休んで身体を治してください。スタッフにも私から連絡を入れますので」
『ず、ズみまぜん、ミヨシさん忙しいのに、申し訳ないでゴホッゴホッ──』
「店長、声がもう掠れて全然出てないもの。大根蜂蜜とか飲んで、あ、家に蜂蜜とか食べるものとかある?」
『……食パン、一斤は、あります』


 笑っている場合ではないが笑ってしまった。とりあえず、頼れる人が身近にいるようなので安心する。
 店長も副店長も、熱が下がれば来年の二日から働けると言う。これ以上感染者が出ないよう注意喚起をし、私がS田南中央店のヘルプに入ったのが、二日前のこと。

 私自身は、年末年始を家でのんびり過ごすことなど、社会人になってからはほとんどない。毎年大晦日も元旦も店に出ていた。
もう何年もやってきた年末年始の過ごし方は身に沁みついていて、正直苦にならない。
 大晦日は、実は私にとって特別な日でもあるのだが……。とはいえこの十年、例外なく仕事で埋まっていた。




 裏で、少しだけ他の店舗の状況を確認するなど事務作業をしてから、再び店のカウンターへ戻った。

 閉店まで残り二十分。
 予想通り客の出入りは少なくなってきて、いないわけではないが人は疎らだ。

 店内をぐるりと見渡し、窓際のカウンター席に何気なく視線を向けたところで、思わず目を見張った。

 ────ん?

 スーツ姿の、サラリーマン風の男性客が一人、こちらに背を向けて座っている。顔は見えない。
 その後姿を見て、信じられない気持ちで、ひゅっと息をのんだ。


「……」

「……三吉さん? どうかしました?」

「あの男性のお客様って、いつからいた?」

「え? 男性のお客様……ああ、カウンター席の? 十分くらい前ですかね。三吉さんがちょうど裏に入ったタイミングで入店されましたけど、なんでですか?」


 ウソでしょ、ちょっと待ってよ、
 心臓がバクバクする。

 いやいやいやいや…………なんで、え?
 そんな事って、ある?


「……ああうん、もしかしたら知り合いかもしれなくて」

「そうなんですね。……あ、わかった、三吉さんの元彼さんですか~? なんて」

「違うよ。ただの大学の同級生」


 動揺を悟られないようにして、ニコリと笑った。冗談で適当なことを言っているだけだろうが、鋭い。
 ちょっとだけ挨拶してくるから閉店準備を進めててねとスタッフに声を掛け、その人が座っている場所へ向かった。


 話し掛けるつもりで平然とした歩調でスタスタと近づいたのはいいものの、緊張なのか興奮なのか、なぜか身体がガクガクしてきて 頭の中が真っ白になる。

 どうしよう、掛ける言葉が見つからない。
 だって何年振り? 
 卒業以来会っていない。
 八年、九年……いや、十年近くなるんじゃないか。
 本当に彼なのかな……振り返ったら別人、違う人かもしれない……いや、多分本人で、間違いない。

 気づいてるのにスルーするような関係ではないし、十年も経って私たち、お互いにいい大人なのだから挨拶くらいはね、


「──加納君?」


 九割九分本人だろうと確信しながら、
 懐かしい名前を呼んだ。

 コーヒーカップを口に運ぶ手がピタリと止まり、一呼吸置いた後、ゆっくりとこちらを振り返った。

 やっぱりそう、確かめるまでもなく。

 私が大学生活の半分以上を一緒に過ごした元彼、加納 綾人(かのう あやと)、その人だった。