目を開けて、今朝も途方に暮れる。
変わらない日常、昨日の続き、あの日の続きの今日だから。

今日は由衣人の命日。
5年前のあの日、由衣人の温もりは空へと昇って、もう2度と私と触れることがない。

冷たく動かない由衣人の姿ははいつでも瞼の裏に張り付いている。車にぶつかって吹き飛ばされた身体は、だけど見える損傷は少なく、もう動かないなんて嘘みたいに穏やかな顔だった。

でも、彼はもう私の名前を呼ばない。
笑いかけない、触れない、動かない。

全部全部私のせい。

あの日から私の何かが止まってしまって、なのに歩みを止めることができないから、今日も必要なことをこなして息をしている。

あれからずっと、いつも願っている。何かの拍子に私も由衣人のところへ行けたらいいのに。
例えば今、外へ飛び出して駆けて行って、道路の真ん中に寝そべったなら、私も彼の元へいけるのだろうか。

だけどこんな思いは、由衣人が、由衣人が喜ばないだろうと思うから、私は今日も息をする。本当は吐きたくないけれど、吸うために息を吐く、吸う、吐く。

「おはよう……」
どこまでも回るように止まらない思考を制止して動くために、誰もいない部屋に挨拶をした。

布団から身体を起こしてスマホの画面を確認すると、まだ朝の6時半だった。
今日は休日で、大学は休み。昨日の夜はお弁当の準備で寝るのが遅くなったからもっと寝ていたいのに、いつだって目が覚めてしまう。もうずっと眠りが浅い。

お弁当箱におかずを詰める。唐揚げにポテトサラダ、ミニトマトに、ウインナー、おにぎり。我ながら、丁寧な出来だと思う。盛り付けも綺麗だ。自分のためだけじゃないお弁当には、自然と力が入る。

コーヒーを入れて、パンをかじる。顔を洗って、丁寧にスキンケアをして、しっかりと、でも濃くは見えないようにメイクする。
風に揺れるベージュのスカートに、白のブラウス、白のニットを羽織って、少し髪を巻く。
最後に香水を少しだけふりかけて、準備が整った。

鏡を見て口角を上げると、形を整えた私が笑っていた。チークは頬を紅く染めているのに、私からは何も立ち昇ってこない。
装いは春なのに、暦も春を宣言したのに、私の身体はずっと寒い。ずっとずっと寒い。

今日は自分ができる最高のおしゃれをして、私は向かう。あの日に向かうのだ。

「8時か。まだ全然早いけど、行こうかな」
水筒にお弁当、レジャーシートを持ち、スニーカーを履いて家を出た。

向かう先は公園。あの日待ち合わせた公園。
由衣人が来なかった公園。

一歩一歩、決意を踏み固めるように道を歩いていると、途中に花屋があった。5年前はなかった花屋。店先に並ぶ大きな葉のついた鉢植えや観葉植物を眺めていると、
「大切な人へ、感謝の気持ちを形に」というポップのついた小さな花束が置いてあるのを見つけた。

白のラナンキュラスに、霞草と黄緑の葉をあしらったミニ花束を手に取って、レジに持っていき、お会計をした。
「これ、ブートニアみたいに胸ポケットに刺しても素敵ですよ。男女関係なく。」
お花屋さんがそう言うので、ありがとうございます、と伝えて店を出た。
ブートニア。結婚式に新郎が胸に刺す小さな花束。私と由衣人には、縁のないアイテムだ。

私は今も、お墓にも事故の場所にも見舞えていない。お供えの花すら買えなくて、こんな風に用途の違う花束を買っては、どこにも供えずにただ持っている。生きている由衣人に贈れたらいいのにと思って、そんなの無理な願いだと否定して、今日もまた贈ることも見舞うこともできない。

公園に着いた。今にも咲こうとその身を膨らませた蕾をたくさんつけた桜の木が、いくつもある大きな公園。

5年ぶりに、足を踏み入れる。最初の一歩にしりごみをする。何かが変わってしまいそうで、怖い。いや、変えるために来た。これ以上の悲しみも不幸も寂しさも、あるわけがない。それが起きた私に、もう失うものなんかない。その現実を、受け止めに来たのだ。

まだ人が少なくて、場所は選び放題だった。
大きな欅の木の下の芝生にレジャーシートを敷き、荷物を置いて、座る。
春の暖かな日差しと、スッキリと麗らかな風が頬を撫でた。

あの日もここで待っていた。

一緒にお弁当を食べて、バドミントンをして、お昼寝をして、何時間でも2人、くっついて話をする。そんなデートをするんだと、気持ちを弾ませながら待っていた、5年前の今日。

今日は一日、由衣人を待ってみようと思っている。由衣人と待ち合わせたあの日を、もう一度最初から最後まで、やり直すのだ。

やり直すと言ったって、きっと、いや絶対に、由衣人は現れない。
だって由衣人はもういないのだから。そんなことは嫌というほど分かっている。分かっているのに、もう5年も経つのに、分かりたくないのだ。今もまだ由衣人がひょっこり現れる世界線を探している。

捨てきれない。あの日からずっと、嘘だと思いたい気持ちに捕まって、私はそこから逃げられない。逃げたくない。由衣人の不在をいくら頭で理解しても、受け入れられない。
私の生がそれを拒否する。

由衣人のいない世界を生きる意味が、ずっともう最初から見つからない。だけどいい加減、受け入れないといけない、その事が私をじりじりと追い詰める。

誰かを巻き込んで、私も由衣人のところへ行きたくなってしまう。

だから待つ。今日はずっと。
由衣人はもう、どこにもいない。そのことを私の身体中の細胞に刻みつけるために。由衣人の死を受け入れた私は、どうなってしまうんだろう。もうどうなったっていいとも思う。息の根が止まるくらい苦しむとしても。いっそ止まってしまえたならと静かに願いながら、私はあの日を再現する。

「ごめん遅れる!急いでいくから!」

することがなくて、最後に由衣人から来たメッセージを、スマホの画面に映して眺めた。消せなくて、履歴に残しているのを見返しては、もう何度目か分からないくらいの、同じ後悔が始まる。

また遅刻。少し怒っていた私は、既読だけ付けて返信をしなかった。いつも待たされて寂しかった。返信をしないことで由衣人に伝わる小さな怒りに、彼が焦ればいいんだとすら思っていた。どれだけ贅沢で、傲慢で、自分勝手な彼女なんだろう。

由衣人が生きて会いに来てくれるだけで、そんな素晴らしいことはないのに。

どうして、「いいよ、焦らずゆっくりきてね」と一言、送らなかったんだろう。電話をかけて、「慌てないでね、時間なんて気にしないで」と言わなかったのか。

少しでも早く、由衣人に会いたかった。少しでも長く、由衣人のそばにいたかった。私が私の気持ちばかり優先するから、由衣人は痛く辛い思いをして、この世から消えてしまった。

誰も私を責めない。原因は車の信号無視だった。由衣人は完全に巻き込まれてしまった。
不幸にも、と当時誰かが言っていた。だけど考えずにはいられない。

あの日、約束なんてしなければ。
普段から、遅刻を責めたりしなければ。
私が家まで行っていれば。
私が一言、由衣人のための言葉をかけていれば。
どうすれば由衣人を失わずに済んだんだろう。
どうすれば由衣人はあんな目にあわなかった?
考えるほどに自分の行いに罪がつく。
やり直したい思いが募る。
だって由衣人は不幸に見舞われていいような人ではなかったから。

だけどどんなに自分を罰しても、私の願いは叶わない。あの日からずっと、由衣人に会えない。会いたい。会いたい、会いたい、会いたい。

キャハハっと子供の笑う声がして、ハッと我に変える。呼吸が浅くなっているのに気付いて、吸うために吐く。吸う、吐く。
ふと、公園に高く立っている丸い時計を見ると、その時刻は8時59分。

約束の時間。待ち合わせの時間は9時だった。
由衣人が遅れる連絡をくれたのは8時52分で、
由衣人のお母さんから私のスマホに連絡が入ったのが、11時37分。由衣人が事故に遭ったのは9時3分頃だと言う。

もうすぐその時刻が来る。心臓がバクバクしてきた。由衣人はもういないのに、それを受け止めるために待ち合わせをやり直しているのに、もう一度由衣人を失う心の錯覚が起こる。

あの日から今日で5度目。
私は毎年この日のこの時刻に由衣人を失う。心の中で絶望を繰り返す。そして自分を責めて、だけどやっぱり受け入れられなくて、見舞うことも出来ず、毎年何度でもまた喪失を繰り返している。

妄想でも、錯覚でも、もう由衣人を失いたくないのに。私の身体が勝手に辿る。あの日の感覚を繰り返してしまう。

時計の針が9時2分を指して秒針が9のところに来ていた。またこの時がくる。また身体中を引き裂かれるような悲しみに襲われる。もう由衣人を失いたくない。怖い。嫌だ、嫌だ、嫌だ、由衣人、行かないで、嫌だ……!

秒針が12へ飛び込む直前に、両手で胸を押さえ目を閉じる。呼吸が止まるーー。

「お待たせ、美織」

閉じられた暗い視界に、聞き慣れた低い声が溶けた。脳の処理が追いつかなくて、だけど誰の声だか一瞬で分かって、何も考えられない。顔を上げて目を開けると、そこには由衣人がいた。

パーマをかけたみたいにふんわりした、だけど本当は癖っ毛を生かした茶髪、両耳にはシルバーのフープピアス、よく履いていた黒のカーゴパンツに、大きめの白いロングTシャツ、首には誕生日に私が贈ったシルバーのネックレスをつけた由衣人が、目の前に微笑みながら立っていた。

「なんで……?」

何が起きたのか分からない。立っている場所がぐにゃりと歪んだように、身体の重心がグラつく。これは現実なのか夢なのか、飛び込む映像にどこから手をつけて処理したらいいのか分からない。だけど、夢ですら会えなかった由衣人が、ずっと会いたかった由衣人が、私の目の前に立っていた。

「由衣人…!」

現実であってほしい……!痛いくらいの望みを込めて叫んだ声は届いて、由衣人は泣きそうな顔で笑うと、真っ直ぐこちらへ進んできて私は彼の腕にぎゅっと包まれた。

「美織、会いたかった。美織、美織、美織……」

温かかった。温かい腕が、涙の滲む声が、本物の由衣人だなんて信じられなくて。でもそんな思考はお構いなしに、私の全ての感覚が、すべての細胞が、喜びに震える。悲しみと喜びがぐちゃぐちゃに連なって涙になって流れてゆく。

「私も、私も会いたかった。ずっと会いたかった。由衣人、ごめんね。ごめんね私。助けられなくて。ごめん。由衣人、ごめんね……」

どろどろに泣きながら、由衣人にしがみつく私の口からは、謝る言葉しか出てこない。謝るたびに、私を抱く由衣人の腕にぎゅっと力が入る。

休日のまだ早い午前中、公園の片隅、きっと側から見たら大げさに見えるだろう様子で、私たちは再会をした。今自分に何が起きているかなんてもうどうでも良かった。だって目の前に、由衣人がいるんだから。

どれくらい時間が経ったか分からない。
私たちは公園の片隅で、ずっと抱き合っていた。立つのに疲れて腰を下ろした後も、私は由衣人にしがみついたままだった。もう離したくない、離すものかと思っていた。

やっと掴んだ由衣人の温もり。これが現実でも夢でも、私はもう絶対に由衣人を掴んで離さない。力強くしがみつく私の手を、ゆっくり片方ずつ手に取り、その上から包み込むように由衣人が手を重ねた。そして私の目をしっかりと見つめると、由衣人が言ったのだった。

「美織の願いを叶えにきたんだ」

「私の願い……?何それ」

「うん。ね、でもまずは、食べよう?
俺美織のお弁当楽しみにしてたんだ」

どういうことだろう、私の願いって何だろう。さっきからの由衣人の口ぶりは、まるで由衣人があの世から私のために戻ってきたような背景を嫌でも思い浮かべてしまう。
戻ってくるのは、いい。だけどもういなくならないで欲しい。願いなんてそれ以外ない。

「美織。俺、ここにいるよ。考え事しないで。今日を楽しもう?やり直すんでしょう?」

なんで?何で知っているんだろう、夢を見ているのだろうか。目の前の奇跡をどうにかとどめておきたくて、今度は思考が止まらない。どうすればこの夢から覚めずにいられるんだろう。

固まって動かなくなってしまった私に、長い腕が伸びてきた。いつの間にか由衣人の顔が目の前にあって、あっという間に唇が重なっていた。温かい。身体から力が抜けて、感覚が唇に集まる。さっきまで存在の消えていた愛する人の温もりが、唇から伝わる。由衣人は今ここにいる。私の前にいる。
このままくっついて、離れずにいられたらどんなにいいだろうと思った。

唇が離れて、由衣人がふっと笑った。
「やっと俺を見た。どうだった?」

キスをした後に、どうだったなんて聞くのは
どうかと思う。だけどいつも私を見抜いて、甘く揶揄ってくる由衣人らしい。
「温かかった。由衣人だった。生きてるんだね、由衣人」
「うん、生きてるよ。まさか幽霊だと思ってた?」
「だって……」
「ちゃんと、説明する。ね、でもまずは予定通りデートしよ?お腹すいた」
由衣人が首を傾げて笑顔で言うので、可愛くて私も笑顔で頷いた。こんな風に笑ったのはいつぶりだろう。

「この唐揚げ、めっちゃうまい。ポテサラも最高。美織、お弁当の腕爆上がりしてない?お弁当屋さんできちゃうよ」
「できないよ、さすがに」
「いや出来る。毎日買いに通うわ。やって」
「やらないよ」
「やってよ」
「もう」
2人、どうでもいいようなやり取りをして笑う。私たちのいつもの会話だ。

由衣人が目の前で、私の作った唐揚げをほおばり笑っている。嬉しいという気持ちが受け止めきれなくて、涙が出てくる。由衣人にバレないように、髪を耳にかけるふりをして涙を拭った。

聞きたいことがいっぱいある。だけど由衣人が話し始めるまでは、目の前に起きている奇跡をただ享受することに専念しようと思った。

「ああ美味しかった。美織、ありがとう。美織のお弁当食べられて、俺めちゃくちゃ幸せだわ」

何でもないみたいに、だけどしっかり私を見つめて由衣人が言った。そんなのは、こっちのセリフだ。お弁当なんて、いくらでも毎日でも作るから、だから、ずっと側にいてくれないだろうか。

大切なものが手の内にある時、人はその幸せを守ることばかり考えて、浸ったり感じたりすることになかなか集中できないものなんだな。幸せすぎて、また失うのが怖いのだ。

「私も由衣人がお弁当食べてくれて幸せ」
精一杯の笑顔で、由衣人の言葉を受け取った。

「おいで美織、膝まくらしてあげる」
「え……、私がしてあげるんじゃなくて?」
「そう、今日は俺がしてあげる。おいで」

由衣人が笑顔で両手を広げるので、戸惑いながら彼の膝に頭を下ろした。
想像より固くて、正直寝心地はいいとは言えない。

「どう?」
「かたい……」
「あははっ。俺、筋肉ついてるからねぇ。美織の膝はさ、めっちゃ柔らかかったよ、膝まくらしてくれた時。ふわふわ。超気持ちいい」
「やめて。恥ずかしい……。太ってるって言われてるみたいだし」
「え、みたい?みたいじゃなくて……」
「もう!」
「あははっ」

私が膝まくらされる側だなんて恥ずかしくて緊張したけれど、由衣人がからかってくるので力が抜けた。彼はいつもいつも、私を楽にしてくれる。
彼の大きな手が、ゆっくりと私の頭を撫でて、髪をとかした。筋の通った腕、骨ばった大きな手に、すらりと伸びた長い指。腕ごしに見える首は太く長くて、喉仏の膨らみが美しかった。

付き合っていた時から、いつも見とれていた。男子という生き物はこんなに直線的なのかと、男子への興味とすり替えていたけれど、今なら分かる。いつもすぐ見つけては目で追ってしまうのは、由衣人だからだったんだろうと。

目立つグループだったけれど、特別派手だったわけじゃない。いつも人に囲まれていたけれど、リーダーシップをとっていたわけでも、ムードメーカーだったわけでもない。普通すぎる私が言うのもなんだけれど、少女漫画に出てくるようなスペックNo.1男子とかじゃないと思う。成績だって、私の方が良かった。

だけどいつも、由衣人だけが光って見えた。他の誰より惹かれて、目を奪われて、ずっと見ていたくなる人だった。その由衣人が、今ここにいて、私に触れている。温かさを宿して。そのことに浸って見とれていると、由衣人と目が合った。

その瞳があんまりにも優しくて、さっきまでとは裏腹に鼓動が早くなった。顔が熱くなる。

私を楽にする彼は、簡単に私を苦しくもする、胸いっぱいにもする。彼の一挙一動に振り回される。願わくば、どうか、ずっと振り回されていたい。

降り注ぐ視線に耐えられなくなって、両手で頬を押さえて隠すと、少しだけ鼓動が落ち着いた。
「なんで隠すの」
「見るから」
「見るでしょ」
「見ないで」
「ふ。見るよ。見たいんだから」
「ふふふっ。あの時と一緒だね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ。忘れない」

私たちの出会いは、膝まくらから始まったといってもいいかもしれない。高校1年生の春、同じクラスの私と由衣人は席が隣になった。
毎週月曜日、お昼休み後の5限目の授業を由衣人はいつもサボっていた。

5限目は英語のコミュニケーションの授業で、由衣人がいないので私はいつも先生とペアを組む羽目になっていた。先生と組むと、前に立たされてみんなのお手本として披露させられることがとても多い。私はうんざりしていた。高橋くん(由衣人の名字)さえ授業に出席してくれれば、毎回こんなに晒し者にならずに済むのに。

小さな恨みを募らせていたある昼休み、裏庭の芝生で昼寝をしている由衣人を見つけた。
この人のせいで……!文句を言いに行こうと近づくと、由衣人がパッと目を開けて、私は彼と目が合った。びっくりして固まっていると、
「なに?」
と由衣人が言った。その声が普段教室にいる彼のイメージからは想像できない冷たさで、ものすごく警戒されているのを感じた。

普段教室にいる彼は、真面目って感じではなかったけど、柔らかくて優しい雰囲気を纏っていた。誰とでも話して、打ち解けている感じ。いつも明るく、時には騒いでだっているのに、静かにしているのが似合って、それはきっと優しい人だからなのだろうと思っていた。その雰囲気に惹かれてもいた。だからサボりなんて意外だったし、文句を言うのだって簡単だと思った。

その彼が発した「なに」がとても冷たく聞こえた。たった2文字の言葉だけど、近づいた私を怖がらせることなんて簡単にさせてしまえるくらい、拒絶の意思を感じた。彼の纏う優しさは、この拒絶で守られた一線を越えては受け取れないのだ、きっと。踏み込むことを禁じられたその場所以外ならば優しくしてくれるけれど、一線を越えたら噛みつかれてしまう。
ただただ優しい人なわけではない、高橋くん。私はそれを肌で感じて、簡単に怖気付いてしまったのだった。

「あの時はちょっと、怖かった」
「ごめん……」
「ううん。びっくりしたんだ。こんな面もある人なのかって。だけどあれがなかったら、私たち仲良くなってなかったと思うから」
「うん。可愛かったなぁ、あの時の美織」
「うそ。そんな感じじゃなかったじゃん、怖かったよ」
「……そんな感じだったんだよ。可愛くて。なんか意地悪したくなっちゃって。男の悪い癖だよな」

由衣人に拒絶された私は、だけど怯まなかったのだった。
「ごめん起こして。だけど、5限、出てほしいんだよね。困るの私。隣の席だから。あなたがいないせいでいつも先生と組んでお手本にされて……昼休み終わる頃起こしに来たりとか、何かできることあるならするから。 5限、出て……!」

怖気付いたへっぴり腰で、震えた声で、言うべきことを言った。ここで舐められては、私の月曜5限は1年間晒し者ポジションで終わってしまう。それに、嫌われてしまったとしても、踏み込んでみたい好奇心もあった。本当の高橋くんに触れられるなら怖くってもいいかもって、自覚できないくらい一瞬、思ってしまった。思ったらもう、口に出ていた。もうとっくに惹かれていたんだと思う。
「ふ。」
っと寝転んでいた由衣人が笑っておきあがった。拒絶の糸がほどけた気がした。

周りの雰囲気がふわっと軽くなって、彼がいつもの優しい微笑みを浮かべる
「じゃあ、膝まくらして?」
いつもの優しげな表情とは裏腹に、飛び出た言葉の内容にびっくりした。こんなこと言う人だったの……!?想像もできなかった見たことない高橋くんに、私の気持ちはなんでか、ドキドキしながら弾んでいた。

言われるまま膝枕をしてしまった自分も、膝まくらしてなんて言い出す由衣人も、今はちょっとどうかと思う。
だけど湧き出る気持ちを頼りに、一歩一歩手繰り寄せるみたいにして近付いたあの頃。不恰好だけど眩しくて、思い出すだけで胸に甘くときめきが広がる。

忘れていた感覚。あれからずっと後悔と罪悪感ばかりで、固く閉じて開くことのなくなっていた大切な思い出。私の宝物。

「あの頃は膝まくらしてもらってたから、いつも美織を見上げてたな。俺が見ると、見ないでって真っ赤になるのが可愛くてさ……」
「膝まくら、逆になってもおんなじこと言い合ってるね、私たち」
「俺が見ると、いつでも赤くなるよね」
「そりゃ、なる……」
「ふはは。かわいい」

由衣人が、彼の膝に寝ている私に覆いかぶさって、ぎゅっとする。由衣人の服の匂いがした。由衣人のうちの洗濯洗剤の匂い。忘れたくないな、と思った。そう思って、この時間は終わる前提なんだと思っている自分に気付く。幸せで、だけど続かない予感しかない。

「はぁ。ずっと、こうしていたいな……。離したくない。連れて行けたらいいのに」

由衣人が絞り出すような声で、私の胸にうずくまりながら言った。
私は咄嗟に起き上がって、由衣人の手を強く握る。

「連れてってよ。嫌だよ。由衣人のいない世界なんて。寂しいよ。何しても楽しくない。いる意味ない。一緒にいたい。もう離れたくない。ねぇ由衣人、連れてって。ずっと一緒にいよう?そのために戻ってきてくれたんじゃないの?お願い。地獄でもどこでもいいから、私を一緒に連れてってよ」

私は強くまくし立てた。涙もいつの間にか流れていた。この5年間何度も何度も思ってはどこにもぶつけられなかった思いが、溢れる。どんなに願っても叶わない願い。今起きているのが奇跡なら、どうか私の願いを叶えてほしい。そのために何かを失っても構わない。由衣人を失うより辛いことなんてない。

由衣人は静かに私を見つめる。懇願する私を優しく抱き留め、だけど何の希望も口にしてはくれず、静かに、目に涙を溜めていた。
由衣人の手が近づいて、涙で濡れた私の頬を優しく拭う。
「美織。美織の願いを叶えに行こうか」


「二つ、行きたい場所があるんだ」
そう言って歩く由衣人について、公園を後にした。2人、手を繋いで歩いていく。
あの頃当たり前だったその行為が、どれだけの奇跡の上に成り立って受け取った幸福なのだろうと思う。由衣人を失ってから、私は自分がいた過去の尊さを浴び続けている。そしてあの日に途切れてしまった、由衣人との日々。今日の私に起きていることは、あの日続きである奇跡なんだろうか。

このまま、奇跡の中にいたい。それが無理なら、あの素晴らしい過去に戻って組み込まれたい。何度も巻き戻しては繰り返し、過去にだけ住むことが出来たらいいのに。
由衣人はさっき、私の願いを叶えると言ってくれた。この手を離さずにどこまでも付いていったなら、本当に叶うだろうか。もう由衣人を失いたくない。

連れられるままぼんやり歩いていると、少ししか歩いていないのに、あたりは全然見覚えのない景色になっていた。いつの間にこんなところに来たんだろう。公園へ行くのに使ういつもの道とは反対側の道だろうか。
「ここ、どこ…」
「うん。もうすぐ着くよ」
そう言って突き当たった道の角を右に曲がると、道の壁沿いにコンクリートの階段が続いていた。階段が続くその先を見上げると、木々が鬱蒼と茂っていた。神社でもありそうな気配だ。

階段を登って上に辿り着くと視界が開けて、そこに広がるのは墓地だった。
「ここ……」
「うん。お墓。俺の」
「なんで……」
嫌だ。なんで。由衣人が眠る場所だなんて、来たくない見たくない。その存在を認めたくない。今、由衣人は私と手を繋いでいて、ちゃんと温もりを感じるのに、目を合わせて、会話だって出来るのに、どうして灰になった由衣人のところへ来なければいけないの。

「別に、お墓に見舞ってほしいとかじゃないんだ。死んだって別に、ずっとここに眠ってるわけじゃないんだよ?骨はあるけどさ。ただ、美織、ここくるの怖かっただろ?」

「……」

さっきからずっと、由衣人を失った後の私を、由衣人はとてもよくわかっているような口ぶりだ。何もかも見えていたんだろうか。彼を失って、1人のたうち回っていたけれど、その姿すら、本当はずっと見ていてくれたんだろうか。

由衣人は私の手を引いて墓地の中を進んでいき、突き当たりにあるお墓の前に立った。
「ここだよ」

そう言って視線を向けたお墓の石はピカピカで、まだ建ててから日の浅いような新しさを感じた。白の百合と菊の花が美しく開いた供花が、墓石の前の花瓶に生けられている。石の側面に、平成三十一年 十七才 高橋 由衣人 と掘られていた。

これは本当に由衣人のお墓なんだ……。由衣人の一部だったものはここに眠っている。ゆっくりと首を動かして、横に立つ由衣人を見た。眉を下げて、困ったみたいな顔で、由衣人は微笑んでいた。

実感が、湧かない。いや、違う。もっと怖くて不快な気持ちが奥深く、固く埋まっている。
これは由衣人のお墓で、彼はもうこの世界にはいなくて、動かなくなった身体は焼かれ、残った骨がここに埋まっている。由衣人が亡くなった後の一連の全ては当時からずっと、頭に入っている。

だけど信じたくなかった。認めたくない。認めるのが怖い。由衣人が死んだなら、私はこれから先どうすればいいの?残りの人生、由衣人の思い出を胸に、お墓参りを生きがいに生きればいいのだろうか。決して会えない相手を思い続けて。そんな孤独が、私に勤まるのだろうか。そんな未来を受け入れたくない。もう会えないなんて、決めてしまいたくない。

由衣人が死んだことを私が受け入れてしまったら、本当にもう二度と会えなくなってしまう気がした。私が諦めなかったから、由衣人はこうして戻って来て、会いに来てくれたんじゃないの?

手を合わせることも出来ずに立ち尽くしていた。行きに買って袋に入れてもらった花束も取り出すことができない。だってこれは、お墓参りのために買ったのではないし。生きている由衣人に、贈りたかったものだ。

私の手を握っていた由衣人が、手を離した。そして目を閉じて、お墓に向かって手を合わせる。
「自分のお墓に手を合わせるとか、なんか変な感じ」
目を閉じたままそう言って、ふふっと笑った。
「美織も、合わせてみてよ、手」
目を開けると、由衣人は私の方を見て言った。
「え……」
「大丈夫。手を合わせた瞬間に俺、消えたりしないし。まだ美織といるし。別にお墓に手を合わせたって、何も変わらないよ。何かを失ったり、崩れたりしない。お墓で美織の人生変わったりしない。大丈夫」
「でも、怖い……」
立ったままうなだれて、身体に力が入らない。周りに立ち並ぶたくさんの石たちのように、固くなって動かない私を、由衣人は後ろからそっと抱きしめた。

その時、風が吹いた。墓地を取り囲む木々がザワザワと揺れ、おろした髪は頬にかかり、落ち葉や小石がカラカラと転がって、私は由衣人の腕をぎゅっと掴んだ。

「ねぇ分かるかな。この風は俺なんだ。風に揺れる木々も、転がる枯葉も石も、差し込む日の光も、全部。死んで身体を失うとさ、魂は一度世界に溶けるみたい。だからこの風も、ていうか全部、俺なんだよ。美織。分かる?」

由衣人が耳元で伝える言葉は、私をなだめるためだけの御伽話みたいで、今さらこんな言葉を使うのも変だけど、現実味がない。だけど救われる。本当にそうならいいと、身体が温かくなる。

「でも……」
「うん。大丈夫。今全部を受け入れなくてもいいよ。知ってて欲しかったんだ。お墓だってさ、特別じゃないよ。俺が溶けた世界の一部なだけ。かつての身体の欠片があるから、繋がる拠り所にしてくれたっていいけど、でも別に俺は、何だっていいんだよ」

風が止み、伴って鳴る音も止んだ。私は由衣人に抱きしめられながら、由衣人の欠片が眠る石の前で、そっと手を合わせた。
想像していたような恐ろしさも孤独も喪失も、何もなかった。手を合わせている間、私は由衣人を内側から感じることができた。私を抱きしめる由衣人から離れて向かい合うと、自分の胸に手を当てた。

「由衣人って、私の中にもいたんだね」
そう呟く私に、由衣人が嬉しそうにあははっと笑った。
「うん。そりゃあ、美織だって大切な世界の一部だからね」
これ以上ないってくらい口角を上げて、由衣人が微笑む。
そして私の両手を掴んで
「じゃあ、次の場所へいこうか」
と言った。そして私の目を真っ直ぐ見て微笑むと、また風が起こった。それが目も開けていられないくらい強くなって、身体が中に浮いた。
「手を、掴んでて」
由衣人に言われ、握る手に力を込める。由衣人と繋がりながら空へと舞い上がって、空高く昇っていく。起こる事柄がいよいよ現実では説明がつかなくなってきて、なのにどうしてなのか、受け取る感覚は全てリアルだった。

空に舞い上がって浮いた私たちは、風に乗って移動する。まるで自分が凧にでもなったみたいに、身体が軽く、風を味方につけていた。どんどん上昇していくのに、手を繋いでいるからか、怖くない。風を切る頬や身体が気持ちがいい。だんだんと、遠く小さくなっていく地上と、普段生活している街、人、自然。
「綺麗……」
地上を見下ろしつぶやいた。
「でしょ。俺も、いつも見てるんだよ。すごく愛しい景色だよ」
由衣人はそういうと、ぐわんと方向転換をした。
「わっ」
「離さないでね」
大きな風の流れに乗ったのか、ビュンビュン進んでいく。しばらく進んで、止まったかと思うと、私の手を握る由衣人の手に力が入る。と、ヒュッと落下した。
「きゃっ」
身体が高速で落下していく感覚。怖い、止まって。このままじゃ地面に……。目をぎゅっと閉じて身体を小さく固める。
そうしないと、身体の落ちる速さに中身が置いていかれてしまうーー。
恐怖心が頂点に達した時、突然また身体がふわっと浮いた。映画「天空の城ラピュタ」でシータが空から落ちてくる時みたいに、私と由衣人はふわふわとゆっくり地上に向けて落ちていった。次々と起こることに驚きが忙しくて、さっきまでの怖さがもうどこかにいってしまっている。地上に足を下ろすまでのところにくると、由衣人は手を離して先に立ち、両手を広げて落ちてくる私を優しく受け止めた。

私の身体が由衣人に触れた瞬間、この世の重力が起動したみたいにズシンッと私の身体が重くなって、受け止めた由衣人は尻もちをついた。
「大丈夫……?」
「ふははっ。全然大丈夫。超楽しい」
由衣人が笑って、はしゃいでいる。私もつられて愉快になって、2人くっついて、ケタケタと肩を揺らした。

降り立った場所を見回すと、目の前に赤い鳥居が立っていて、奥は神社のようだった。ここも周りは木々が茂っていて、風が吹くたびザワザワと音がする。
「神社……?」
「うん。俺のさ、産土神社なんだ。ここ」
「うぶすな神社、って?」
「うーん。俺も死ぬまで来たことなくてさ。なんか自分と縁の深い神様なんだって。ずっと守ってくれてるらしい」
「そう、なんだ」
「うん。中に入ろう」

私たちは、赤色の禿げてきている大きな鳥居の前で礼をして、進んだ先の手水場で手を洗って口をゆすいだ。由衣人がハンカチを持っていなくて手をパタパタして乾かしていたので、私のハンカチを貸してあげた。さっきまで空を飛んでいたのが嘘みたいに、すごく人間的な行為だと思った。

「じゃん。はいどうぞ」
得意げに2枚の5円玉を見せると、彼は私に1枚渡して、2人お賽銭箱にそっと5円玉を入れる。由衣人が鈴緒を持って私の方を見て、私も鈴緒を持って由衣人の方を見た。カシャンカシャンカシャン、カシャン。揺らして鳴る音には、軋むような雑音が混ざっていて、でも最後に響く音はスッと響き空気を切って消えていく。
私たち2人、世界から切り離されたように静かだった。由衣人が目を閉じて手を合わせたのを見て、私も目を閉じて手を合わせた。

由衣人を、守っていてくれた神社。でもじゃあどうして、由衣人をあの事故からは守ってくれなかったの……。手を洗い清めて、手順を踏んで、由衣人の大事な神様の前で手を合わせて。なのに浮かぶのは責める言葉だった。神様をなじるなんて、罰当たりだ。だけど、言わずにいられない。
じわっと、閉じた瞼の隙間から、涙が浮かぶ。ザワッと木々が鳴って、頬に柔らかな風が通る。涙を拭いてくれているみたいだと思った。
お参りを終えると、私たちは境内の隅に座って、肩を並べた。

身体を向けた先にある鳥居を眺めながら、由衣人がゆっくりと話し始めた。

「今ここに俺がいるのも、この神社の神様のおかげなんだよね。俺、余命を残したんだ」
「余命……?」
「うん。事故に遭って、意識が遠のいて、どんどん自分が身体から離れていってさ。ああ、俺もう死ぬんだなって、驚きもなく悟った。あれは、すぐさま悟るくらい、強烈な感覚だった。身体が、自分のものではなくなっていくんだ。有無を言わさず。手と足の先から冷たくなっていく」

聞きながら、胸が痛くて、息が詰まる。たったひとり、由衣人は最後を迎えた。抗えない自分の運命を、突然の終わりを、受け入れられるはずがない。それでも受け入れなきゃいけない。どれだけ無念で、悲しくて、痛かっただろう。私が由衣人を失ったように、いやそれよりも遥かに大きな喪失として、由衣人は自身の身体と人生を失ったのだ。その戸惑いや悲しみは、どれほどのものだろう。由衣人だけが引き受けた剥奪と喪失が、由衣人の言葉から、その測り知れなさとともに迫ってくる。

彼は、自分の運命をずっとひとり受け止め続けていたのだ。私はずっと逃げていた。力無く泣いて、ただ息をするだけ。受け止めるなんて、出来なかった。悲しいのは、苦しいのは、私だけじゃないのに。そんなはずがないのに。由衣人が一番辛いのに。どうしてそんな当たり前のことに、私は今まで気づかなかったんだろう。

聞きながら、涙を流す私の背中を、ポンポンと由衣人があやすみたいにたたく。
「私、自分のことばっかり……。由衣人の方が何倍も、辛いのに。私は自分が寂しいとか、なんでこうなったとか、どうすればとか、本当にずっと、自分のことばっかりで……」

言いながら涙が溢れて、何度も手で拭うので、目が痛い。メイクも剥がれてしまった。いよいよ手では拭いきれなくなって、ハンカチを探していると、由衣人がスッと彼のハンドタオルを手渡してくれた。

「俺は、美織が泣いていても、涙を拭いてあげたり、抱きしめたり、慰めたり、もう出来ないんだ。そのことが、すごい嫌だった。本当に残念で、心残りで……」

言いながら、由衣人は私の頬を親指で撫でて、切ない目つきで微笑んだ。

「だからさ、神様と取引して、余命を残してもらった。1日だけ。本当はもう1日、生きられるはずだったんだ。だけど、あと1日生きられるなら……ていうかあと1日で死ぬなら。その1日は美織のために使いたいって思ったんだ。これから先、美織が生きていく中で、最大のピンチの時に駆けつけられるように、俺の余命を残しておいてくれって、お願いしたんだよ」

「最大のピンチ……」
「うん。ピンチだったでしょ?美織、もうダメそうだった。ごめんね。ずっとひとりで悲しませて。辛い思いをさせて」

そんなの。そんなのは私の台詞だ。

あの日、約束なんてしなければ。
普段から、遅刻を責めたりしていなければ。
私が家まで行っていれば。私が一言、急がなくていいからねって言葉をかけていれば。

ううん。もういっそ、由衣人と付き合ったりしなければ。彼を好きになったりしなければ。私が由衣人に、出会ったりしなければ。私なんて、いなければよかったのに。そしたらこんなに悲しい出来事も起こらなかった。私が由衣人を不幸にした。
全部全部私のせい。私の罪。私は、自分を許せない。この5年の苦しさは、由衣人のいない悲しみと、それを招いた自分への憤りと絶望の5年間だった。私の命を由衣人にあげられたらいいのに。私の寿命までの期間が、そのまま由衣人の余命となればいいのに。こんな私が生きるより、その方がずっと世界のためだ。

「全部全部私のせいだよ……ごめん。ごめんね。」

綺麗な由衣人の瞳に自分を映すのが嫌になる。このまま消えてしまいたい。私なんか、消えればいい。そう思う衝動が私の内側を切り刻む。苦しくてどうしようもなくて、由衣人から目を逸らすと、由衣人が私の顔をそっと掴んで、キスをした。

唇が、優しく触れ合う。ゆっくりと離れて、もう一度重なる。由衣人は私の頭を撫でて、頬を撫でて、慈しむような目で私を見つめると、もう一度キスをした。荒ぶっていた呼吸と気持ちが凪いでいく。

「美織のせいなんて、そんなわけないだろ」
とても悲しそうに由衣人が言った。

「私のせいだよ。私が、約束なんてしなきゃ。私が、いつも遅刻を怒るから。私が、由衣人と付き合ったりしなきゃ……私たち、出会って一緒になんかいちゃダメだった……私がいなきゃ、こんなこと起こらな……」
「美織がいたから、俺の人生、幸せだったんでしょ」
遮るみたいに由衣人が強く言った。
「美織のおかげなんだ。こんなの、寿命だよ。誰かのせいなんて、ない。ていうか、俺のせいだよ。急いでたのは、俺なんだから。全部全部俺のせい。美織のせいなんて、そんなこと言うなよ。美織がいたからずっと、幸せだったんだよ」

由衣人の声には、憤りと悲しみが滲んでるみたいだった。言いながら、歯を食いしばって苦しそうに、目から涙をひとつ、またひとつとこぼしていく。
眉を歪ませたその下で目を閉じて、はぁっと息を吐き出すと、彼ははぐいっと私の肩を抱き寄せた。

「ずっと、抱きしめていたかった。ずっと、そばにいたかった。ずっと、美織と生きていきたかった。ずっとずっと、俺が美織を助けたかった。でも……もうできない。ごめん。
俺が美織と出会わなければ、こんな、寂しい思いをさせずに済んだのに。何度も思った。不甲斐ないよ……苦しませてばっかりだ。でも、でも俺は、こんな風に離れることが最初から決まってたとしても、それでも近づきたかった。美織に出会わなければなんて、思えないよ、どうしても。出会いたかったんだ。俺のわがままなんだよ。ごめん」

抱きしめられた身体の中心から、重い鉛のような物が、溶け出して抜けていく。由衣人が、抱きしめる腕の力を強くするほどに、嗚咽を押し殺した声を漏らすほどに、私を縛っていた鎖がほどけて消えて、軽くなっていく。

「もう、ごめんって言わないで」
思わず、私は由衣人に声をかけていた。
由衣人の顔を覗き込み、瞳を見つめる。瞳の奥に後悔と悲しみがゆらめいているのが見える気がした。涙で揺れて、美しい。だけど冷たくて、痛々しい。それが由衣人の瞳のものなのか、私の瞳が映ってしまっているのか、もう全然わからなかった。

私たちは相手を想いあって、自分を罰していたのだ。血の流れる傷を塞がないまま、それが自分にできる唯一のことだと信じて、相手だけを想いあってきた。こんなのは、もう終わりにしなきゃいけない。私が自分を許さない限り、由衣人まで悲しみに縛り付けてしまう。この出会いが、ダメなものなはずがないんだから。そんなこと、あってたまるか。
鎖が外れて鉛の抜けた私の身体に、小さく熱い火が灯ったような感覚が走って、私の背筋が少し伸びる。

「美織、俺、美織の願いを叶えにきたんだ。俺に願いを叶えさせて」

そう言った由衣人の瞳は涙でキラキラ光っていて、なんだか、願いを叶えにきたヒーローというよりも、願いに縋ってなんとか立っている子供みたいに頼りなく見えた。

本当は2人、ずっと一緒にいられたらどんなにいいだろう。それ以外の願いなんてない。由衣人に死なないでほしい。生き返ってほしい。それか私が由衣人と同じになって、そっちの世界にいきたい。だけど、それはもう叶わない願いなのだ。叶わない。神様は余命を後に残しておくことはできても、余命の期間そのものを縮めたり伸ばしたりは出来ないのだ、きっと。

だってそれは由衣人だって一番に願ったことのはずだから。だけど、叶えられていないから。
私たちの1番の願いは、叶わない。由衣人は死んでしまう。生き返らない。私も、後を追って死んだり出来ない。私たちはもう、一緒にいられないのだ。見ることも会うことも話すことも触れることも、もう出来ない日々が、ずっとずっと続いていく未来なんだ。

由衣人も私も、そのことを受け止めるために今再開しているんだ、きっと。

自分はなんて力無いちっぽけな存在なんだろう。だけど後悔はもうしない。投げやりになるのももう辞めよう。私が私を否定するということは、由衣人と彼との日々を否定するということだから。

だけど、彼のいない空っぽの未来に何を願えばいいのだろう。由衣人に何を叶えてもらったら、私は彼のいない日々を前を向いて歩けるだろう。由衣人の、心残りを減らしてあげられるだろう。

ぐるぐる回る思考に途方に暮れた気持ちで、返答を待つ由衣人を見つめていると、花束のことを思い出した。

「結婚式の真似がしたいな」
「……結婚式?」
「うん。見てほら、このお花可愛いでしょ。今朝来る時買ったの。ブートニアみたいだなって。由衣人と結婚、したかったな。なんて、あはは。まだそんな歳じゃないけどさ。でも一度は想像するでしょ。真似でいいから。神社だし。神に誓おうよ」

2人、神社の拝殿の前に再び立つ。
私は紙袋から花束を取り出して、由衣人に差し出した。白のラナンキュラスと霞草は、買ってからだいぶ時間が経っているけれど、そんなの全く感じさせないくらい柔らかに瑞々しく咲いていた。

由衣人が胸ポケットに花束をブートニアのように刺すと、どう?といった得意げな表情で見てくる。その表情が可愛くて、笑ってしまう。
「花、似合うね。かっこいい」
「え、うそ。初めて言われた。ありがと。だけど美織の花、俺用意してないな……」
「そんなの、当たり前でしょ。私だってたまたまだよ。私はいいの。あ、でも、そうだな。何か一つ、由衣人の物が欲しい。なくならない物」

「形見?」
その言葉にどきっとする。形見。この奇跡のような現在も、由衣人のいない未来に思い出す過去になってしまう。分かっていても悲しい。
「……うん。そう。そうしたいな」
「了解。ちょっと待ってね」
そう言って由衣人は、肩から下げていた鞄を開け、中から小さな箱を取り出した。まるで指輪の入った箱みたい。ぼんやりそう思っていると、彼は箱をパカっと開き、その中身をこちらへ向けてみせた。中には、小さく光る石をあしらったゴールドのリングが入っていた。

「これ……」
「美織の誕生日に渡そうと思って、準備してたんだ。だけど、渡せなくなってさ。今日も、渡すつもりはなかったんだ。だってもう、一緒にいられないから。なのに、美織が結婚式とか言い出すから……。受け取ってくれる?」
由衣人は微笑んだ。
「うん。嬉しい……」
「じゃあ、これちょっと持ってて」
そう言って指輪の入った箱を私に渡すと、彼は私が贈ったシルバーのネックレスを、付けていた首から外す。そして私が持っている箱から指輪を取ると、そのリングの輪に、ネックレスの端を通した。シャラっと音が鳴って、ネックレスの中央に指輪が通されている。
「美織にもらった俺の一番大事なネックレス。これと一緒にもらって」
そう言うと、指輪の付いたネックレスを私の首に付けようと私に近づいて、首の後ろで金具をカチッと留めた。
「指に、つけて欲しい。指輪……」
首に回る手を彼が戻す一瞬、ボソリと呟くと、由衣人と目が合った。だけど由衣人はにっこりと微笑んで、首を横に振った。
「そこまでは、出来ないよ。美織を俺に縛り付けられない。そんなこと、してほしくない。俺がいなくても、幸せでいてほしいんだ」
「うん……」
さっきまで、私もそう決意していた。いつまでも由衣人に寄りかからず、自分で立つのだと決めた。

つけてもらったネックレスを手で触る。ちょうど鎖骨のところに、指輪がきていて、その輪郭を指でゆっくりとなぞった。この指輪を、由衣人につけて欲しかった。そんな未来を夢見ていた。結婚の真似事をしたって、真似は真似で、どうしたって抗えない真実が、こんな時でさえ私たちを引き裂く。決意が簡単に揺らぐ。怖い、寂しい。私は本当にこの先ずっと由衣人のいない世界を一人生きていけるだろうか。寂しい。離れたくない。ずっとそばにいて。だけどもう、それを言えない。言ったら由衣人がもっと辛くなるから。私たちは神様の前で何を誓えばいいんだろう。

「由衣人、私、どうしよう……」
グラグラと揺れる言葉にならない気持ちを漏らすと、由衣人が私の両手を握って、彼の手で包んだ。

「泣いていいよ。弱音も言って?俺は大丈夫だから。そのために今日美織のところへ来たから。もう何もしてあげられないけど、美織の気持ちは、どんな気持ちだって、全部受け止めるから。たとえ離れても、全部受け止める」
由衣人はもう泣いていなかった。握った手に優しく力を込めて、彼が微笑む。その笑顔と言葉に甘えて、私はわんわん泣いた。ずっとずっと泣いてきたけど、どれだけ泣いても、まだ溢れる。枯れない。きっとこの先も枯れない泉を、私は持ってしまった。

「寂しい。怖いよ、もうずっと由衣人がいないなんて、嫌だ。嫌だよう。由衣人と、ずっと一緒にいたかった。結婚だってしたかった、指輪だってつけて欲しかった。嬉しいことも、悲しいことも、全部一緒に感じたかった。1人は嫌だよ、寂しい。由衣人行かないで。なんで死んじゃうの。なんで私を置いていくの。私が悪いから?いい彼女でいるから、もう怒ったりも、喧嘩もしないから、だから1人にしないで。置いていかないで。どうして由衣人なの。由衣人が、何したっていうの、神様のばかやろう。神様のくせに、どうしてこんなことするの。寂しい、怖いよ、嫌だよう」

泣きながら、出てくる言葉を叫んだ。由衣人を責めて、自分を責めて、神様に噛みついて、自分でも支離滅裂だと思った。だけどこの汚くて自分のことばかりな言葉が、私の本当の気持ちなんだと思った。

叫んで大泣きする私を、由衣人が抱きしめる。強く強く抱きしめる。優しく背中をとんとん叩く。そして低く優しい声でゆっくりと語りかける。
「美織、大丈夫だよ。絶対大丈夫。さっき言ったでしょ。俺の身体は消えて、見えなくなるけど、でも何もかも無くなるわけじゃないんだ」

由衣人が離れて、両腕を大きく開き、手のひらを広げる。
「歌にもあるだろ。俺は風だよ。
風に揺れる木だよ、差し込む光だよ。夜の月、星、美織を潤す雨だよ。笑顔を呼ぶ花だよ。そのネックレスも、指輪も、美織を包む優しいものは全部俺だよ。なんて。ちょっと図々しいけど。でも本当だよ。ねぇ美織、笑って。美織の笑った顔が見たい」
「笑えないよ……行かないで。嫌だ。寂しい。嫌だ……」
風が吹く。吹いたがぜが私たちを中心に回り出す。終わりが近づいている。なぜだか直感的にそれが分かる。嫌だ。嫌だ。行かないで。もうそれしか考えられない。

由衣人がもう一度私の手を取って、左手の薬指にそっとキスをした。
「これからずっと、美織を見守るって誓うよ。もうこんな風に、直接会うことはできないけど。だけど絶対守るよ。だから美織、1人でなんて頑張らなくていいから、ちゃんと人を頼って、幸せに生きて。もう自分を責めないで」
私の手を握る由衣人の、身体が段々と透けていく。
「うわ。もう時間切れみたい。ね、美織も誓って。幸せになるって、誓って」
もうだめなんだ。もう本当にお別れなんだ。有無を言わさず、と由衣人が言っていた。人の死はいつも強引で、何の手立てもない。だけど……だけど。

「私、幸せになる。なるよ。約束する、誓うよ。私ちゃんと幸せになるから。だから安心してね。由衣人。大好き。本当に。ずっと大好き。私も由衣人に会えてよかった。後悔なんかしてない。由衣人のおかげで幸せだった。これからだって、幸せだよ……」
涙はこぼれるけれど、精一杯の笑顔で、どんどん身体の色が透けていく由衣人に、言葉を贈る。届いてほしい。ああもっと、もっともっと愛を伝えればよかった。感謝を伝えればよかった。どれだけ伝えたって伝えきれないほど、涙と同じくらい、いつだって溢れているのに。

風がぐるぐる2人の周りを回って、由衣人はもう、うっすらとしか見えない。だけど手の感触は、温もりは、まだ私の両手を包んでいる。
「美織、俺もだよ。ありがとう。愛してる」
ほとんど見えなくなった由衣人が、だけど微笑んでいるのが分かる。
「由衣人、私も、愛してる……」
言い切るより先に、由衣人がパッと消えた。手を包む温もりも消えた。由衣人の余命が切れてしまった。由衣人は、もう本当にいない。
死んだのだ。

頬をパチパチと叩かれて、なんだろうと思って目を覚ます。
「聞こえますか?見えますか?救急隊です。これからあなたを搬送します。年齢とお名前は言えますか?」
「え……と、楢崎美織、22歳です……。あの、私……」
そう言って、身体を起こそうとすると、動かないでください、と灰色の服を着た救急隊員に制された。私はオレンジ色の担架に乗せられていて、目の前には救急車がある。4人の救急隊員が私を取り囲んでいて、せーのっという掛け声とともに、担架に寝かされた私はその体勢のまま持ち上げられた。そしてそのまま、1・2・1・2という掛け声と共に救急車の中に進んでいく。
周りには人が集まっていて、パトカーまで停まっていた。と、目に入った道路に白いものを見つける。あれはーー。

動かないでください。ともう一度制されながら上半身を動かし目を凝らす。あれは私が買った花束だ。白のラナンキュラスと霞草の。由衣人に贈ったブートニア。そうだ。由衣人。私たちは神社にいたはずなのに、どうして道端にいるんだろう。ここはどこ……?
「あの、すいません……っ痛」
「どこが痛いですか?頭ですか?」
「あの、私どうしたんですか?」
「あなたは事故に遭って、居合わせた人が救急車を呼び今搬送されています。どこが痛みますか?」
聞かれるけれど、何か大事なことを思い出さなきゃいけない気がして、きちんと受け答えできない。

ハッとして首に手をやると、ネックレスが手に触った。感触を辿っていくと、丸い指輪もあった。自分の頬を摘む。感覚はある気がする。今のこの状況は現実?でもネックレスをつけているということは、あの時間も夢ではなかった?由衣人は本当に私に会いにきてくれた……?

「あの、目撃した人に聞いたんですけど、この方道路に飛び出して行ったって言っていて……」
もう1人の救急隊員が報告している。
「そういうのは後から警察が聞くからいい。お前はこれを記録しろ」
「はい」
専門用語を並べ出した救急隊の話をぼんやり聞いていると、意識が遠のいていき、私は目を閉じた。

目を開けると、天井が視界に映った。身体を起こして辺りを見回すと、そこは病室みたいだった。腕には点滴が施され、胸やお腹にも何か貼られて線で繋がって、私の身体の何かが測られている。
誰もいない1人の病室で、1人記憶を整理する。
そうだ。私は由衣人がもういないことを受け入れるためにあの日をやり直した。だけど時間になっても来ない現実を受け止められなくて、そのまま道路に飛び出したのだ。由衣人の元へ行きたくて。

だけど、今私は生きている。由衣人の元へはいけなかたということだ。
もう一度、首に手を持っていくと、ネックレスがなかった。確かにさっき搬送された時には着けていたはずなのに。寒気がして呼吸が浅くなる。辺りをキョロキョロ見回して探していると、ベットの横に置かれたテレビ棚の台に、指輪のついたネックレスが置かれていた。ホッとして、はぁっと肩を撫で下ろした。

ネックレスを手に取ると、指輪についた白い石がキラリと光った。
何となく思い立って、ネックレスから指輪を外し、指輪を左手の薬指にはめてみる。だけど、ブカブカで、ちゃんとつけられなかった。サイズが大きすぎたのだ。
「ははっ。サイズ大きいよ、由衣人……」
思わず吹き出すと、窓の締め切った病室にフワリと風が吹いた気がした。
もう一度病室を見渡す。誰もいないし、カーテンも揺れていない。だけど確かにさっき私の頬に風が触ったような感覚があった。
「由衣人かな……」
つぶやいてみる。もう一度風で応えてくれないかなと思ったけれど、今度は何も起こらなかった。
左手を広げて、ブカブカの指輪を眺める。

「美織が生きていく中で、最大のピンチの時に駆けつけられるように、俺の余命を残しておいてくれって、お願いしたんだよ」
由衣人が言ってくれた言葉が、頭をよぎる。
本当に、助けに来てくれたんだ。
「由衣人……ありがとう。大好き」
キラキラ光る左手の指輪にキスをした。由衣人は死んでしまった。だけどもう怖くない。どこにいても彼を感じられるし、私には誓いがあるから。お腹の奥がじんわりと温かくなる。息はもう無理に吐かなくても吸える。大丈夫、そう思った。