物語を綴るというのは、途方もなく壮大なくせに、呆れるほど地道な作業だ。
 彼女の隣の椅子に腰かけ、原稿用紙にペンを走らせる。目に映る景色を写し取り、遠い彼方に思いを馳せる。それはもう、すっかり僕の日課になっていた。
「遥。桜が咲いたよ。外の景色は春一色だ。ほんのり薄紅に色づいた花びらが、風に揺らいで静かに落ちていく。羽衣を纏った天女が舞うように、春の優しい風に乗ってひらひらと。それが、空の抜けるような青さによく映えてね――」
 彼女は今日も、穏やかな表情で僕の話を聞いている。
 これは何の変哲もない、僕と彼女の話。
 平凡な僕と彼女が、ハッピーエンドにたどり着くまでの話。

 初めて遥に出会ったのは、高校に入学した夏の頃だった。
 僕は父さんに言われて、月に一度の高校生ボランティアとして金倉医院に通っていた。
 専門知識のない僕にできることは、ちょっとした整理整頓や、患者さんとの話し相手くらいだ。初めは気乗りしなかったけど、歳を取った患者さんたちに孫のように可愛がられると、悪い気はしなかった。
 春から何度か回数を重ね、院内にもそれなりに詳しくなった。入院患者さんたちがいる病棟には、僕の入ったことのない部屋が一箇所だけある。そこには「特殊な機器を使用しているため、立ち入り禁止」と張り紙がしてあった。
 あれ、なんだろう。
 好奇心に駆られながらも、深く突っ込んで調べることもなく過ごしていた、そんなある日。その一角の近くをたまたま通りかかった僕の鼓膜を、聞き覚えのある旋律が震わせた。
「ん? あれ……」
 初めは聞き間違いかと思ったが、確かにそれは誰かの鼻歌だった。立ち入り禁止区画の中から、病院内の静寂に溶けても消えない、透明感のあるメロディが響いている。豊かな情感に満ちた音色が耳に心地よくて、僕は思わず目を閉じてしばらく身体を揺らした。
 こうなると、いてもたってもいられない。頼まれていた備品整理を急いで終えた僕は、その日の午後、とうとう金倉先生に訊いてみることにした。
「ああ、彼女か」
 白衣をまとった初老の男性は、白髪交じりの頭を軽く搔いた。
「うーん……、確かに拓くんにも話す頃合いかもしれないな」
「何か事情があるんですか?」
「治療法が見つかってない難病で、長期入院中の患者さんなんだ。ちなみに君の二歳年上」
「ああ、先生を頼ってきた人ですか」
「そんなところかな」と先生は頷いた。黒縁の眼鏡の向こう側から、理知的で柔和な眼差しが僕を見ている。
 父さんの友人である金倉先生は、僕にとっては気のいい親戚のおじさんみたいなものだ。だから、患者さんたちと話す中で、彼が名うての名医らしいと知ったときは驚いた。
「まあ、彼女の症例は私の手にも余っているけどね。身体の機能が低下する奇病なんだ。手足が麻痺して、自力だと全く動かせない状態でね」
 先生は確かめるように手を開いてはゆっくり閉じた。
「今は呼吸も消化もできているけど、身体につけている機器の都合で、病室に電子機器の持ち込みができない。開かずの間の理由はそれだ」
「なるほど。……いや、それってすっごく退屈じゃないですか?」
 デジタルネイティブ世代の端くれとしては、ネット環境から隔絶されて過ごすなんて耐えきれない。テレビもラジオも封じられている上に手足が動かせない状態でできる暇潰しなんて、かなり限られているだろう。
「そうだと思うよ。二年前から入院してて、元々住んでた場所からも遠いせいで、知り合いもほぼ来ないしね。根はいい子だけど、流石にちょっとナーバスになっちゃってる。そんなわけで気軽に頼めなかったんだけど……、まあそろそろ大丈夫だろう。拓くん、他の患者さんからの評判もいいし」
 先生は大げさにしかめつらしい表情を作って、僕の肩をぽんと叩いた。
「というわけで、君に特殊任務を命じる。彼女の話し相手になってやってくれ」
 僕は笑みを零しながら、敬礼してみせる。
「謹んで拝命します」
 そうして、僕は病院の受付にスマホを預けてから、その部屋に足を踏み入れた。
 芹沢、というネームプレートがさがった扉を、軽く二回ノックする。
「失礼します」
 最初に目に飛び込んできたのは、部屋中にたくさん置かれたぬいぐるみだった。クマ、リス、ウサギ、犬、猫……。色んな動物が大集合だ。
 窓もテレビもない部屋の中、肝心の人間の姿はベッドに横たわっている。入り口から顔は見えないが、その身体は布団越しにも細いことがわかるくらい華奢だった。
 ひょっとして、眠っているかもしれない。そんな懸念を吹き飛ばしたのは、細い声だった。
「誰ですか?」
 薄い硝子のように透んでいて、触れれば割れてしまいそうな声。あの時はもっと感情豊かで楽しそうだったけれど、聞き覚えがある。やはり、あの鼻歌は間違いなく彼女だ。
 明らかに歓迎されていない声音に少しひるみながらも、僕はベッド脇まで足を進める。しゃがみ込んで、横向きに寝そべる色素の薄い少女と目を合わせた。ミルクをたっぷり入れた紅茶のような色のショートヘアが、枕と頭のあいだでくしゃりと乱れている。その肌は、長く日に当たっていないせいか白く透き通っていた。どこか虚ろな無表情は人形のように作りものめいていたけれど、それでも飛び抜けた美少女だとわかる。
 僕はよそ行き用の笑顔を作って、丁寧に頭を下げる。
「初めまして。高校生ボランティアで来た――」
「内申稼ぎか何かのためなら、帰っていいよ。とっても素敵なひと時だったって報告してあげるから」
 僕の名乗りを遮ったのは、棘がある拒絶というより、どこか諦めたような声だった。
「私みたいな病人の相手なんかしても、つまんないでしょ。時間はもっと有意義に使った方がいいよ」
 淡々と突き放すような口調から、心底そう思っていることが伝わってくる。その投げやりだがはっきりとした線引きに、先生がすぐには会わせてくれなかった意味がわかった。
 ……でも、そっちがそう来るなら、僕にも考えがある。
 僕は独り言のようにぼそっと呟く。
「……『夜闇に舞う』」
「!?」
 僕がその曲名を口にした瞬間、彼女は明らかに表情を変えた。それに気をよくした僕は、続きをまくしたてる。
「映画『夢見る蝶の夜想曲』の主題歌だよね。演出もメインどころの演技も最低で、まったくもって原作の魅力を活かせてない駄作としてドマイナーに終わっちゃったけど、原作者の神崎朱火自ら歌詞を書き下ろしたこの主題歌だけは最高だった。あれ、リュウ視点に見せかけて、全部知った上で聴くと実はミズキの曲だってわかるのが本当に心憎い」
 金色の瞳が驚きの色を含んでまるく見開かれ、ようやくまともに僕のことを映したのがわかる。そうやって生気の光が宿っただけで、別人のように人間臭く感じられた。
 この反応は間違いない。確実に同好の士だ。
 二年前から入院していて、知り合いも滅多に来ないと聞いた。おまけにネットから隔絶されているなら、あのことは知らないかもしれない。
 僕は密かに覚悟を決めて、準備してきた弾を放つ。
「神崎朱火、『夢蝶』の続編構想中らしいけど」
「えっ、嘘!?」
 線引きもへったくれもない、食い気味のリアクションだった。
 ……かかった。
 本当は、好きな作家をこんな使い方したくなかった。
 でもそれ以上に、僕はもう彼女のことが気になって仕方がなかったのだ。
「芹沢遥さん。君と話してみたいことはたくさんあるけど……」
 僕は罪悪感にわずかに胸を痛ませながらも、にやりと口角を上げた。
「まずは椅子に座ってもいいかな。自己紹介くらい、させてくれない?」

 僕はそうやって、鼻歌の君の懐に潜り込むことにまんまと成功した。いくら線を引いて拒絶しようとしたって、二年も退屈の中にいた人間が、暇つぶしという最大の誘惑に勝てるわけがなかったのだ。
「えっ、あれ読んでるの!? 周りの友達みんな、タイトルすら知らなかったんだけど」
「僕もだよ……」
 何より、僕たちは趣味が合った。初対面から驚くほど話が弾んで、来客終了時刻までがあっという間だった。あまりにも話し足りないので、すぐ翌日にまた訪れたくらいだ。
「すごい汗だね。外そんなに暑かった?」
「いや、それはもう。そこら中でセミが大合唱だし、入道雲がむくむく膨れ上がって、ビルを呑み込んじゃいそうなくらいだ」
 僕が外の様子について語ると、遥は目を輝かせてそれを聞いた。窓もない病室にずっと引きこもっている彼女にとって、季節の移ろいを感じられるのは貴重だったらしい。そこまで真剣に聞かれると、こっちの方が嬉しくなってくる。
 そうやって、それなりに仲も深まった、ある日のこと。
「やあ、遥。今日も外は炎天下の太陽が無慈悲なくらい照りつけてるよ。汗と一緒に生命力まで流れ出していきそうで、クーラーがある空間とはまるで別世界って感じ」
 僕がいつものようにそう語ると、遥は楽しげににこにこと笑った。
「前から思ってたけど、拓が語る外の景色って、なんだか詩的だし臨場感ある! 写真とかなくても想像しやすくって、すっごくありがたいわ」
 そのきらきらした笑顔のまま、なんでもなさそうに零した一言が爆弾だった。
「作家とか、向いてそうだよね」
「――――」
 僕は、思わず無言で固まった。
「……あれ、褒めたつもりだったんだけど。もしかして私、変なこと言っちゃった?」
 焦ったような様子の遥に、僕はぶんぶんと首を振る。
「い、いや――ものすごく光栄だし、嬉しいよ」
 そう言って、僕は目を泳がせながら黙り込む。
 触れられたのは、かたく閉ざしていた扉のようなもの。でも、ただ適当なことを言って誤魔化せばいいだけのはずだ。
 長い間秘密にしてきたことを、出会って間もない彼女に告げる理由なんてない。
 ――それなのに。遥の眼差しに背を押されるようにして、僕は自分でも理由がわからないまま、とうとう口を開いていた。
「父さんは医者でさ。僕も医学部に行けって言われてるんだけど」
「うん」
「……本当は、作家になりたかったんだよね。でも、昔そうやって書き溜めてたものを父さんに見つかって、くだらないって言われちゃって」
 とっくに塞がったはずの心の古傷に鈍痛が走って。それを誤魔化すような、へらへらした作り笑いが浮かんだ。
「ああ、やっぱりもっと現実見ないといけないのかなって――」
「それは違う」
 遥は、真剣な表情で僕の話を遮った。
「拓のお父さんが間違ってるよ。物語って、すごい力を持ってるんだもん。私だって、辛いときにどれだけ救われたかわからない」
 息を呑んで、彼女を見た。その言葉が魔法のように僕の心に落ちて、波紋を作って広がっていく。
 あのね、と遥は心の中のアルバムを捲るように、ここではないどこか遠くを見た。
「私、画家になりたかったの。父さんも母さんも仕事人間で、昔から海外を飛び回ってばかりだった。小さい頃、連れられて海外に行くのが楽しかったんだ。家で寂しくお留守番してても、楽しい空想を絵に描き起こしたり、父さんや母さんと見た風景を描いたりしてるときは、一人じゃないような気がした」
 その視線が、部屋中に溢れるぬいぐるみの表面を撫でる。
「あの人たち、お金だけはあるからさ。忙しいって、顔もなかなか見に来ないのに、小さい頃と同じようにぬいぐるみを送ってくるの。今の私が本当に何を好きかも知らないくせにね」
 彼女は意地悪く頬を歪める。それから、ぽつりと雨垂れが落ちるように呟いた。
「絵が描けなくなってから、本当にどこにも行けなくなっちゃったな」
「……遥」
 かける言葉が思い浮かばなくて、代わりにそっと彼女の手を握った。ぴくりとも動かずにだらりと垂れ下がった手は、それでもじんわりと温かい。手足の感覚が失われているという彼女にこうしても、僕の熱は伝わらないだろう。それでも、触れ合う手に視線を落とした彼女は、引き結んでいた口元をほころばせた。
「作家に向いてそうって言ったの、本心だよ。だから、好きなものはちゃんと大切にしよ?」
 優しい言葉に、胸がぎゅっと苦しくなる。
 そう。僕が書かなくなったのは、ただの意気地なしのせいだ。
 ――キャンバスの上を走るべき遥の手は今、筆を握ることすらかなわないのに。

「じゃあ、また来るから」
 そう言って遥の病室を出た僕は、顔見知りの看護師さんに声をかけられた。
「金倉先生が、帰り際にスタッフルームに寄るようにと言っていましたよ」
 いったい何の用だろう。内心で首を傾げながら、僕は先生のもとへ向かう。
「ああ、よく来てくれたね」
 先生は自販機で飲み物を奢ってくれてから、僕にも座るように言った。
「芹沢さんとは、随分と意気投合してるみたいだね。診察のときもかなり雰囲気が明るくなっていて、驚いたよ」
「はい、趣味が合ったので。僕の方もすごく楽しんでいます」
「そうか、それはいいことだな。……だったら、なおさら言っておかなければいけないことがある」
 その表情から、あまりいい話ではないことが察せられて、身体が緊張で強ばる。
「なんですか?」
「――実は、彼女の病状は次第に悪化していてね。筋肉の硬化がこのまま進んでいくと、いつ植物状態になるかわからない」
「……そんな」
 自分の手で本のページをめくることも、絵筆を握ることもできない遥。
 既に籠の中の鳥に等しいのに、神様はこれ以上何かを奪おうと言うのか。
 ようやく仲良くなって、笑顔を見せてくれたのに。
「一度そうなってしまったら、生命維持に必要な機能を失って死に至るまで、そう時間はかからないだろう」
 言葉を選んで話している様子の先生に、甘えたい気持ちはあった。でも、聞かないわけにはいかない。
「……すみません。できればはっきり教えてください。遥の命は、あとどれくらい保つんですか」
 数瞬だけ黙り込んだあと、先生は濁さずに告げた。
「――長くて三年、というところじゃないかな」
「っ――」
 あまりに残酷な現実に、目の前が暗くなる。
「ちなみに、彼女自身はこのことを知らないよ」
 先生は最後に、僕の目を見て言った。
「拓くん……できれば今後も芹沢さんと仲良くしてあげてほしい。でも、いつ別れが来るかわからないから、悔いがないようにね」

 家に帰って、一人きりの自室でベッドに寝転がる。天井を見上げながら、思考を捏ねる。
 遥にこれ以上深入りしたって、喪失に傷つくだけかもしれない。
 でも、そうやって引き返すには、僕は彼女のことを好きになりすぎていた。
 余命いくばくもない遥。電子機器も窓もない牢獄のような部屋に囚われた女の子。
 彼女のために、僕ができることはなんだろう。
 まだ、恐れと躊躇いがある。でも、心はとっくに答えに辿り着いていた。
 ベッドから起き上がり、鍵のかかった引き出しを開く。そこから出てきたのは、大昔にしまい込んだ白紙の原稿用紙。
 一度蓋をした夢の名残を前にして、鼓動が早くなる。
 ――また、「くだらない」と言われやしないか。
 そんな身震いを振り払ったのは、遥にもらった言葉だった。
『……物語って、すごい力を持ってるんだもん。私だって、辛いときにどれだけ救われたかわからない』
 ああ。今、改めてわかった。
 ずっと封印していた本当の夢を、あんな話の流れで言えた理由。
 出会ってからの年月なんて、関係なかった。
 好きな小説について語るときの、ハイテンションな早口。些細な切り口から、想像の世界へと広がる会話。ちょっとした語彙に滲む感性。
 そのすべてから、遥が心の底から物語を愛している人だと、僕がもう知っていたからだ。
 僕は一つ頷いて、意を決して原稿用紙を手に取る。
 ――大丈夫だ。
 誰が笑っても、彼女だけは絶対に僕を笑わない。

 次の日、僕は原稿用紙と一緒に、一抱えほどある箱を病室に運び込んだ。それをベッドで寝そべったまま見ていた遥は「何それ」と怪訝そうに目を丸くする。
 僕が口端を上げてそれを箱から出すと、遥は喜色を浮かべた。
「わぁっ……! 地球儀なんて、何年ぶりだろ。懐かしい!」
 青い海と、いくつもの陸地。僕らが今立っている、広い広い地球。それがこんなに小さくなって目の前にあると、なんだか冗談みたいに思える。
「物置の隅で、埃被ってたんだ。見られるのがこいつの本懐だろ」
 遥の身体を支えて、起きあがらせてやる。遥は少し恥ずかしそうに、僕の手に体重を委ねてくれた。
「ロマンだよね、地球儀って。ちょっと廻せば世界一周、地球の裏側へだってひとっ飛び?」
 唄うように調子をつけたあと、彼女は自らの動かない手を見て苦笑した。
「まあ、もう無理になっちゃったけどさ。本当の世界一周も、地球儀を廻すのも」
 出会った日のように諦念を含んだその様子に、僕は口を開いていた。
「僕が連れて行くよ」
「え?」
「いつか治ったら、一緒に世界一周しよう。そうして遥が世界中の絵を描いて、僕が物語を綴る。それまでは、僕が遥の代わりに地球儀を廻せばいい。行きたいところはある? どこでも言ってみて」
 僕は真っ直ぐに遥の方を見て、言った。
「遥のための作家になる。遥に見ることのできない風景を、僕が見せるよ」
 一息に言ったあと、遥に向き直ってぎょっとする。
 彼女は、ぼろぼろと大粒の涙を零していた。
「あ……、無責任なこと言ってごめん。泣くほど嫌だった?」
 遥はふるふると首を振る。上ずった声を絞り出すように、「嬉しいのよ」と花が咲いたように笑った。
「お言葉に甘えて、早速連れてってもらおうかな。ローマの街並みはどんななの?」
 とろけるような甘い声に促されて、僕は遠くの地へ思いを馳せる。
「ああ、それはね――」
 僕は拙いながらも、精一杯に物語を綴った。街並み、自然、食べ物。そこで暮らす人々それぞれにある、めくるめく物語。調べるための機器はここにはないから、それはほとんどがでたらめの想像。遥はいつも、きらきらの瞳でそれを聞いていた。
 遥はハッピーエンドが好きだった。納得のできるバッドエンドよりも、誰も不幸にならなくて皆が幸せに笑い合う、砂糖菓子みたいにべたべたの大団円が。
「だって、それがどんなに周りから見て綺麗なものでも、本人たちは不幸なのよ。そんなのよりは、ご都合主義で作り物めいてても、ハッピーエンドの方がいいに決まってるじゃない」
 彼女がどうしてそう思うようになったのか。そこに至るまでの人生のことを考えると、切なさがこみ上げてきた。
 僕はハッピーエンドの物語を彼女に聞かせながら、それを一枚一枚、原稿用紙に綴っていく。
 今日もまた、物語がまたひとつ大団円を迎える。良かった、と遥が嬉しそうにしながら、いつかみたいに鼻歌を歌う。
 ハッピーエンドを締めくくるエンドマークのように、病室にはカチリとホッチキスの音が響く。
 小さな小さな音だけれど、それはまるで幸せの象徴のようだった。

 そうやって彼女と積み重ねた一年近くの日々の中で、どれほどの物語を紡いで聞かせたことだろう。
 病室を訪れるたび、僕は初めに外の景色について語った。
 紅葉はあかく色づいて、まるで宝石のよう。静かにしんしんと降りゆく雪はとても幻想的で、夢の中にいるみたいなんだ。
 遥は目を閉じて頷きながら、僕の語る情景に合わせて想像の翼を羽ばたかせる。紅葉狩りに行ったら楽しそうだね。そういう積もった新雪に、最初に足跡をつけるのって、すごくワクワクしない?
 僕が行くと、遥はいつも楽しげに迎え入れてくれた。
 しかし、金倉先生は時折、彼女の調子をこっそり僕に教えてくれる。僕の前では元気そうに振舞おうとしている遥だが、検査の数値は徐々に悪化しているらしい。
 ――彼女がそれに触れたがらなかったので、僕も気づかないふりをした。
「あのさ。これは僕が子供の頃、近所で見つけた場所の話なんだけど」
 だから僕はその日も、苦しい現実の話なんかせずに、心の奥底にしまい込んでいた遠い記憶を遥に語っていた。
「家から少し歩いたところに、広い草原があるんだ。人は誰もいないし、町の喧騒も届かない。その真ん中に、ストーンサークルみたいに、綺麗に岩が並んでて」
 こんな話を、笑われないかとドキドキせずにできる相手は、遥だけだった。
「遺跡があったのかもしれないし、ひょっとすると宇宙人のメッセージかもしれないって、色々空想したんだ。僕たちの周りは物語で溢れてるんだって、そのとき初めて思った」
 それは、宝物のように大切な思い出。
 息を切らせて帰って父さんに報告したら鼻で笑われて、それからずっと誰にも言えなかったこと。
 遥は、興奮で顔を紅潮させていた。ストーンサークルを見つけた幼い頃の僕に負けず劣らず、無邪気に夢を見る人の眼差しで。
「えっ、すごーい! 身近にそんなことがあると、ワクワクするね。誰がわざわざ作ったんだろう。いや、人為じゃない怪奇現象って線もあるか!」
 その反応に、あの日一人で膝を抱えて凍えていた小さい僕まで、あたたかい熱をもらった気がした。
「見に行きたいな~!」
 弾んだ声の遥に、心が痛む。それがどれほど実現困難なのか、僕は知っているから。
 それでも、迷いを見せずに言い切った。
「行けるよ。世界一周する手始めに、二人でストーンサークルを見に行こう。弁当と水筒を持って」
「じゃあ、私は絵を描くわ。周りで古代人が儀式してるか、宇宙人がUFOから降りてきてるか、ひょっとするとそれ以外か。どうなるかは、実際に見てみてからのお楽しみ」
 もしも本当にそうできたら、なんて幸せなんだろう。
 その気分だけでも味わいたくて、僕は次の日、弁当と水筒を持って病室にやって来た。
「少しくらい雰囲気出そうかなと思って。あ、金倉先生に許可は取ったから。これ、遥も食べられるよ」
「……ありがと、拓」
 感極まったように、湿度を帯びた遥の声。
「私、拓の学校の友達みたいに一緒に外にも行けなくて、面倒に決まってるのにね。こうやって何かと楽しませてくれて、ほんとに、私……」
「いちいちお礼とか言わなくていいよ、こっちはやりたくてやってるんだし」
「うん、わかった。ありがと」
「だからさ……」
 ぶつくさ言いながらも、遥に促されて弁当箱の蓋を開けて、水筒のコップにお茶を注ぐ。小さな遠足が始まった。
 箸でおかずを持ち上げ、遥の口元まで代わりに食べ物を運ぶ。それは、この時が初めてではなかった。来院時刻が食事時と被ったときは、積極的に食事の介助を引き受けていたから。
「これさー、いつも思ってたんだけど、なんだか恋人同士みたいだよね」
「……いつもは看護師さんにやってもらってるだろ」
「大丈夫だよ、誰にでも思うわけじゃないもん。相手が拓だからだよ」
「え、いや……」
 目を見開いて訊き返そうとする僕をわざとらしく躱して、遥は小首を傾げてみせる。
「ストーンサークルの話、聞かせてくれないの?」
 まったく、ひどい小悪魔だ。
「わかった、話すよ。草原の草はいつ行っても鮮やかな緑でね。空が青く晴れた日には、それはもう気持ちがいいんだ。寝転がると視界が全部青色で、たまに雲の数を数えたりして。息を吸うと、胸が自然の香りでいっぱいになる。風が吹き抜けると、草たちがいっせいにざわめくんだ。白い蝶も楽しげに飛び回ってるかもしれない。草の上をせわしなく歩き回るてんとう虫を、ちょっと応援してみたりしてね――そんな中に、ストーンサークルがある」
「形は? 岩の数は?」
「高さは僕の身長くらいかな。形は、お菓子の箱みたいな立方体だよ。色は黒に近い灰色。そんな岩が十個くらいずらっと並んで、綺麗な円を作ってる」
「それが、草の緑と空の青の間にあるのね」
「そう。ストーンサークルだけじゃない。鳥も、木も、花も、僕も――遥も、皆そこにいるんだ」
 本当に、遥とあの場所にいるみたいだった。
 いや、確かにいたんだ。あの、緑と青の間に。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて、面会時間の終了が近いことを告げる無粋な院内放送が、僕たちを現実に引き戻す。僕は道具を片付け、荷造りをする。
「ストーンサークル、絶対ほんとに見に行こうね。約束だよ」
「もちろん」
 遥は切なげに目を細めた。
「指切りげんまんはできないから……、代わりにキスしていいよ」
「え?」
 我ながら、なかなかに呆けた声だった。
「誓いのキス」
「……その言い方はないだろ」
「何よ。ここまで言われてまだ踏み切らないの?」
 キッと目を吊り上げて挑発された僕は、堪忍して大きく深呼吸をする。
 人形みたいに綺麗な顔に、自分のそれを近づけていく。その薄い唇との距離が一センチ縮まるごとに、僕の鼓動はどんどん速くなる。
 あ、駄目だ。緊張で死んでしまう。
 磁力に弾かれるようにして、僕の唇が触れ合う場所は遥の白い額にずれる。すべらかな感触に、身体が電流を受けたように甘く痺れた。
「……今は、これで勘弁して」
 遥はご不満な様子で、頬を膨らませて矢継ぎ早に罵倒を投げつけてくる。
「ヘタレ、腰抜け、意気地なし」
「知ってる、ごめん」
「いいわよ。許してあげる」
 今はね、と意味ありげに言って、遥は舌を出した。敵わないなあ、と僕は苦笑する。
 ずっと、彼女の隣にいたい。この時、改めて強くそう思った。
 ――思えば、遥はこのとき既に、予感していたのかもしれない。

 その日、学校が試験期間に入ってしばらく多忙だった僕は、久々に金倉医院を訪れていた。スマホを受付に預けてから、勝手知ったる遥の病室に直行し、扉を軽くノックする。
「遥、久しぶり……」
 愕然とした。
 病室のベッドに横たわる遥に、人工呼吸器がつけられていたのだ。
 彼女はただ、眠っている。こんな形容はしたくないけど――物言わぬ骸のように。
 慌てて部屋を飛び出し、看護師さんを呼び止める。きっと今、僕はものすごい形相をしていることだろう。
「芹沢さん、少し前に容態が急変して、身体の機能の低下が脳や呼吸器にも及んでしまってね。眠ったまま目が覚めなくなったのよ」
 足場の感覚が消えていく。ぐらりと倒れかけて、なんとか壁に手をついた。
 看護師さんの声はもう耳に入らない。動かない遥を見ていられなくて、僕は逃げ出すようにして病室を出た。
「ああ、拓くん。……ずっと待ってたのかい?」
 ようやく手が空いた金倉先生と話せたのは、三時間近くも待った後だった。
「先生、遥は……」
 震える声で問いただした僕に、先生は概ね、看護師さんと同じようなことを話した。
 彼女は今、植物状態。元々わかっていた終わりが、とうとうやってきたのだ。
 難しい医学のことはわからない。僕が聞きたいことは、一つだけだった。
「助かるんですか?」
「感覚の刺激によって残った脳細胞が活性化して、植物状態から回復した例はあるよ。しかし如何せん、彼女の場合は症例が特殊すぎる。今の医学では芹沢さんの命をつなぎ止めておくことしかできない。回復の見込みは……」
 先生は少し言いよどんだあと、気休めを含まず率直に告げた。
「正直なところ、絶望的だ。呼びかけを続ければ、聞こえているかもしれない。だが意識が戻るのは、奇跡のような確率だろう」
「そんな……」
「こういうとき、つくづく思う。医者は救う仕事であると同時に、救えないことを痛感する仕事だって」
 失意で焦点が合わない視界の中、僕より背の高い先生の身体が、急に小さく見えてきた。
「名医だなんだと言われても、今の私は彼女に対して何もできない。でも芹沢さんは、君が訪ねてくるようになってから、別人みたいに明るくなった。確かに、君が救っていたんだと思うよ。私たち医者にはできないやり方でね」
 ……その後も一言二言やり取りを交わした気がするけど、覚えていない。
 ただ、先生が去ったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くして。
 亡霊のようにふらふらとした足取りで、僕は遥の病室に戻っていた。
 そこには相変わらず、骸のように動かない遥がいる。一刻も早く逃げ出して、目を背けてしまいたい。
 でも、彼女は今、無音の闇の中にいるのだ。真っ白な病室の中、虚空を見つめて一日を過ごすよりもずっと深く、辛い闇。きっと僕より、何千倍も何万倍も苦しい。
 僕は無力な小僧だ。医学の知識も、お金もない。
 けれど、何か一つでも、僕が彼女を救う手段を持っているなら。
 椅子を引き、ベッドの隣に持ってきて、静かに腰かける。鞄から原稿用紙とペンを取り出し、深く息を吐いて机に向かった。
 物語には力がある。遥が、そう言ってくれたから。
 僕はただ、幸せな物語を綴るしかない。
 遥に届くように。

 来る日も来る日も病院に通い、彼女に語りかけては、原稿用紙に物語を綴っていく。その結末はどれも、べたべたなハッピーエンド。
 ホッチキスの小さな音が、彼女の耳元でまたひとつ。あんなに幸せの象徴のように聞こえた音が、一人で聞くと心を針で刺すような痛みに変わる。
「遥、聞こえてる? 当たり前だけど、夏は暑いね。蝉の大合唱がうるさいくらいだ。外を少し歩いただけで汗が吹き出すんだ。濡れたシャツが肌に張り付くのはやっぱり不快だね。たまに吹く風も生ぬるいし、下手に雨なんか降ると逆に蒸し暑くてね。でも豪雨くらいになると爽快だよ。外に出て踊り出したいくらいだ」
 遥は今日も返事をしない。
 眠る彼女の顔は、驚くほど穏やかだ。
「遥、秋だよ。あんなに暑かったのが嘘みたいで、もうずいぶん涼しいんだ。紅葉はあかくてすごく綺麗だ。いちょうもすっかり色づいてね。風が木々を揺らす音の、どこか乾いていて物悲しいんだけど心が締め付けられるような感じが好きだな。枯れ葉もなかなか風情があっていいと思うんだ。そういえば、古典の時間にこんな短歌をやったんだけど……」
 遥は今日も返事をしない。
 眠る彼女の顔は、驚くほど穏やかだ。
「遥、もう冬だよ。風が少しずつ冷たくなってきてね、雪も厚く積もったし、コートを着ずに外に出ると流石にもう辛いんだ」
 遥は今日も返事をしない。
 眠る彼女の顔は、驚くほど穏やかだ。
「つ、ら いんだ。すごく、辛くて」
 返事をしない遥なんて、もうとっくに見慣れたはずなのに。
「遥」
 この部屋がはち切れるほど詰め込まれた、彼女との思い出が溢れてくる。時間の流れから隔絶されたような病室の中で、僕から聞かされる季節の移ろいに、いちいち目を輝かせていた遥。くしゃりと笑った顔、たまに拗ねて尖らせた唇、たまに悪戯っぽく僕を弄ぶのは勘弁してほしかったけど、そんなところも大好きだった。
 まだ話したいことがたくさんあった。ずっと、一緒にいたかったのに。
「――るか、はるか、ッ、はるか……、はるか」
 愛おしさと苦しさが心の堤防を決壊させて、僕の口は壊れたスピーカーのように彼女の名前を連呼する。
 原稿用紙が落ちる雫で濡れて、文字がじわりと滲む。僕の視界も、水を足しすぎた水彩画みたいにぼろぼろだった。
 遥の白い頬に、涙が一粒落ちてしまった。それを拭うため、慌ててハンカチを取り出そうとポケットをまさぐったところで――
「馬鹿ね、そんなに呼ばなくても聞こえてるわよ」
 透明感のある声が、僕の鼓膜を震わせた。
「え」
 夢を見ているのだろうか。
「全部、聞こえてたよ。狭くて、暗くて、何もなくて、すごく怖いところにいたの。その中で、拓の声とホッチキスの音だけが聞こえてた」
 ずっと閉ざされていた瞼が開いて、僕を見つめている。金色の瞳には、紛れもなく生気が宿っていた。
「は、るか」
「ただいま、拓。待たせてごめんね」
 ふわりと草木が芽吹くように、彼女は笑った。もう何年も見ていないような気がする遥の笑顔は、今まで見てきた遥のどんな表情より綺麗だった。

 突然目を覚ました遥に、病院じゅうは大騒ぎ。当然、すぐさま精密検査が行われた。
 その結果は信じがたいことに健康そのもので、金倉先生も驚いていた。
 しっかりリハビリすれば、元通り歩いて、絵も描けるようになるらしい。
 遥の座った車椅子を押し、二人で病院の屋上にやってきた。冬の風は身を切るようだけれど、外に出たい気分だったから。
 ひさびさの外の景色を眺め、遥は満足げに目を細める。
 そして、静かに口を開いた。
「拓は、嘘つきだね」
 冷たい風がショートヘアをさらって、微かに靡かせる。
「調べたよ。神崎朱火、『夢蝶』の続編構想中のまま、急病で亡くなってたんでしょ?」
「……バレちゃったか」
 いつか、この日が来ることは覚悟していた。
「それに、外の景色だってそう。雪なんて降る気配、少しもないじゃない」
 そう。僕は遥に、ずっと嘘をついていたのだ。
 僕たちの住む県では、雪が滅多に降らない。ましてや積もるなんて。
 入道雲が呑み込んでしまうような高いビルなんて、この辺りには全くない。
「ねえ、もしかしてストーンサークルも?」
「ああ。小さい頃に見つけたのは本当だよ。でもあの場所には、とっくに新しいマンションが建っちゃって、もう跡形もない」
 あのストーンサークルを通して、僕は現実の残酷さを二度知った。
 一度目は、父さんに鼻で笑われたとき。
 二度目は、更地になったストーンサークルの前で。
「ごめん。いくら罵ってくれてもいいから……」
「うーん、許せないかな。私を期待させた罪は重いよ」
 その言葉とは裏腹に、遥の横顔は悪戯っぽく笑っている。
「拓が嘘をつかなかったら、娯楽のない病室で綺麗な雪景色なんて想像しなかったし。ローマに住んでる人のスペクタクルに思いを馳せなかったし。『夢蝶』の続編はどんなだろうって、あれこれ楽しく空想することもなかったし、ストーンサークルの周りに宇宙人が降りてきてる絵の構図について頭を捻ることもなかったし……」
 これまで重ねてきた嘘を、僕自身ですら覚えていないくらい、たくさん指折り数えていって。
「それで、そんなに素敵なことがたくさんあるなら、頑張って生きるのも悪くないかなって思うこともなかった」
「遥……」
「そう。だから、拓のせいなの。神崎朱火は病気で亡くなってて、外の世界も病院の一室と同じで殺風景なんだって知ったら、さっさと絶望して死んで楽になれたのに。そんな私が今なんとか生きてるのは、あなたのせい」
 車椅子の背もたれではなく、隣に立っている僕に、遥は甘えるように身を寄せる。
 安堵に胸を撫で下ろしながら紅茶色の髪に触れると、彼女は心地よさそうに目を細めた。
「それならよかったけど……まだ不満があるなら、嘘じゃなくすればいいだろ?」
「どういうこと?」
「奇跡は起こって、遥はこうして元気にしてる。だったら、ストーンサークルも絶対どこかにあるはずだよ。そりゃ近所だとちょっと厳しいかもしれないけど、世界一周すればきっと見つかる」
「そっか、そうだね。今の私だったら、拓と一緒にそれを見に行ける……。あはは、元気な身体って最高!」
 遥は車椅子の上で、飛び跳ねんばかりに身体を揺らす。
「ちょ、ちょっと注意! いきなり羽目は外しすぎないようにな!?」
「これくらなら大丈夫だってば。……うーん。ねえ拓、一個だけお願いしていい?」
「何? 僕にできることなら、なんでも聞くよ」
 立てた人差し指を、びしっと突きつけられる。
「しばらく、会いに来ないで」
「……え?」
 元気になった今、僕はもうお役御免ということだろうか。
「今生の別れじゃないよ。少し待っててほしいだけ」
 遥の表情は、真摯だった。
「拓は、私のこと信じられない?」
 少しだけ不安そうに、小さく首を傾げる。
 まったく、遥はずるい。そんな言い方をされたら、神妙な顔で首を横に振るしかできないだろう。
「絶対、今度は私から会いに行くから。だから、約束しよ?」
 どこか期待が籠ったような表情。
 彼女が何を望んでいるか、みなまで言われずとも明らかだった。
 あんな腑抜けたこと、二度もしたら絶対に許さない。金色の瞳が、そう言っている。
 小さく溜め息をついて、早鐘のように打つ心臓を落ち着けるために、また深呼吸した。
 遥は目をつぶって、待っている。
 僕は車椅子の前に、中世の騎士のように恭しく跪いた。
 そして今度こそ、その赤く濡れた唇にそっと顔を近づけて――
 それは、再会の約束。

「とうとう三年生か……」
 僕の小さな独り言は、教室のざわめきに掻き消される。
 あれから律儀に約束を守り続けていた僕は、一度も金倉医院に足を運んでいない。しかし結局、遥からはまったく音沙汰がなかった。
 何せ、あれだけ奇跡のような回復だ。ひょっとすると、僕が知らないうちに体調が急変……なんてことが起きていやしないだろうか。あまりに恐ろしい考えに、一人身震いする。
 そうでなくても、元気な身体を手に入れた遥は、僕のことなんてどうでもよくなってしまったかもしれない。何せ外の世界は、遥が目を輝かせるような素敵な物事でいっぱいなのだ。
 信じると言ったくせに、少し気を抜くとこの有様だ。情けないにもほどがある。
 頭に充満するネガティブな想像を遮ったのは、廊下から聞こえる律動的な足音だった。朝のホームルームを始めるため、担任がやってきたのだ。
「今日は皆さんに、転校生を紹介します」
 その一言で、ざわめきがたちまち復活する。新年度が始まって二週間。こんな中途半端な時期に、転校生?
「入って」
「はい」
 ローファーが軽やかに床を叩く音に、はきはきとした返事。
 透明感のあるその声が、涙が出るほど恋焦がれたもので、僕は息を呑んだ。
「芹沢遥といいます。病気で長い間入院してたんですけど、最近ようやくリハビリが終わって、日常生活が送れるようになりました。しばらく学校に通えていなかったので、皆さんより年上なんですが……仲良くしたいので、気軽に声をかけてくださいね!」
 彼女の金色の瞳が、悪戯に成功したわんぱく少年のような光を湛えて僕を見ている。真新しいセーラー服は、彼女によく似合っていた。
 彼女が軽く一礼すると、ミルクをたっぷり入れた紅茶色の髪の毛がふわりと落ちかかった。あれから、ほんの少し伸びたようだ。頬にも健康的な赤みがさしている。
 口元の緩みが止められない。まったく、そうならそうと、最初から言ってくれればいいのに。僕の葛藤は、完全に遥の掌の上だったらしい。
 でも、それは不思議と不快じゃない。あっと驚く展開があるからこそ、人生も物語も楽しいんだ。
 物語は、まだ終わらない。いいや、きっとここから始まるのだ。
 地球儀を廻すみたいに、世界一周。
 その手始めに弁当と水筒を持って、ストーンサークルを探しに行こう。
 遥が守った約束を、今度は僕が守る番だから。

「約束を、今度は僕が守る番だから、と」
 彼女の隣の椅子に腰かけ、原稿用紙にペンを走らせる。目に映る景色を写し取り、遠い彼方に思いを馳せる。それはもう、すっかり僕の日課になっていた。
「遥。桜が咲いたよ。外の景色は春一色だ。ほんのり薄紅に色づいた花びらが、風に揺らいで静かに落ちていく。羽衣を纏った天女が舞うように、春の優しい風に乗ってひらひらと。それが、空の抜けるような青さによく映えてね――それで、僕も大学生になったんだ」
 遥は今日も、穏やかな表情で僕の話を聞いている。相変わらず、人工呼吸器をつけてベッドに横たわり、辛うじて首の皮一枚で生かされている彼女。
 初めに先生に告げられたタイムリミット。あれから、あと少しで三年だ。彼女の容態は日に日に悪化しているらしい。いつ終わるとも知れない命だと、先生は昨日も沈痛な面持ちで報告してくれた。
 それでも、僕は苦しさが載らないよう、努めて明るい声で遥に語りかける。
「念願の文学部の講義、すっごく楽しいよ。父さんと大喧嘩した甲斐があった。医学部以外なら学費出さないって言われたから、奨学金とバイトでなんとかって感じだけどね」
 遥は、目を覚まさない。ぴくりとも動かない手を握ると、じんわりと温かみが伝わってきた。涙が溢れそうになるけど、ぐっと前を向いてこらえる。泣くのは物語の中でだけだと決めた。作家が自分の物語で涙を流していたら、格好がつかないから。
 遥はきっと、今も必死で戦っている。
 その傍ら。幸せな嘘で大団円を手繰り寄せるため、僕は今日も物語を綴る。
 一緒の高校に通うという僕の嘘は、本当にはならなかった。でも、まだ諦めるわけにはいかない。
「ちゃんと旅費も貯めなくちゃな。ストーンサークル、一緒に探しに行くんだろ?」
 余命という決められたラストに向かっていく物語。それがバッドエンドしかないなんて、僕は絶対に認めない。
 エンドマークは打たないし、まだホッチキスは使わない。この物語には、きっと続きがあるからだ。
 これは何の変哲もない、僕と彼女の話。
 平凡な僕と彼女が、ハッピーエンドにたどり着くまでの話。