1
かつかつ、とチョークが黒板を引っ掻く音が教室に響く。
教室内はしんとしていて教師の朗読だけが右耳から入ってきていた。
かくいう自分は、窓の外に出来た飛行機雲を眺めている。
胸中に渦巻くのは「こころ」の中身でもなく、余命や死という文字。
「伊沢、聞いてるか?」
気付けば隣に教師が立っていた。
この生活がすぐに終わるとはいえ、形だけでも聞いてる風をとる。
それがいま出来る学生の本分だからだ。
「いまからそんなんじゃ、将来やっていけないぞ?」
はは、と。
教師は半ば呆れ顔で小言を言うだけ言って、朗読を再開した。
「将来、ね……」
勉強を始め、ここで頑張れなくては将来も頑張れない人間になってしまう。
一般的に大人が子供に向ける説法だ。
……正直、俺に将来を正そうという高尚な頭はない。
それは、俺が余命宣告をされた難病患者であることに由来する。
難病と言っても体が動かなくなって次第に息絶えるだとか、先端から壊死していくとかのものではない。
ただ緩やかに内側から死んでいく。
その事実だけが、俺の頭の中心にある。
想像するような痛みや自覚症状は、毎朝に飲む薬が抑えてくれている。
このまま何事もない日常が続いて。
若くして、何もないまま終わってしまう。
そう一度思ってしまうと、何するにしても無駄だ。
所詮、高校生の自分がやれることなんて限られている。
俺は何も遺せず死んでいく。
真面目な態度で授業を受けても、テストの優劣があったとしても意味はない。
卒業までに自分はこの世にはいない。
みなが望むような将来を想像できるわけもなかった。
そうなるとやりたかったことも、してみたかったことも。
忘れてしまったかのように手がつかない。やる気がなくなってしまう。
しかしその症状は外に出ないというのだから苦痛以外の何物でもない。
自分は難病患者で、寿命が近くて……なんて、触れ回るつもりなのか。
「それとも捨てられた子犬よろしく、看板でもつけるかな」
そんな姿を考えただけで、情けなくて泣いてしまいそうだ。
さながら学生のキャラをロールプレイしてるような気分だった。
現実から、レールから外れた人生。どこまでも自分の人生に直結しない。出来ない。
終わる未来に繋がる道はないのだ。
ありきたりだが、青空を飛ぶ鳥にでもなってしまいたい気分だった。
「やることねえ……」
いっそ自分で絶ってしまった方が自分の選択として映るのではないか?
そう思うほど陰鬱な気持ちに苛まれていた。
この病気の行く末を聞いたとき、
自分の人生が終わったものだと思って仕方がなかった。
これが何度も生きる道を考え、模索し、次第に諦めた人間の思考だ。
故に「何もする気が起こらない」。見るのは下り坂の人生だけ。
それが彼女に出会うまでの自分だった。
2
「枕草子。注文の多い料理店。人間失格」
「急にどうした」
チャイムが鳴り、昼食の時間になる。
筆記用具をしまうと、他の生徒はぞろぞろと立ち上がる。
それぞれお気に入りの位置があるのだろう。
その後、すぐに仲の良いグループが形成された。
「さて問題です。この作品は何年前に出来たものでしょう?」
席を立とうとする俺を引き留めるように話しかけてきたのは、隣の席の駒場夕梨(こまばゆうり)だ。
うちの学校は隣の席で当番を任される関係上、あることをきっかけに話すようになった。
そしてクラスで唯一、俺の病気を理解している人だ。
夕梨は答えてよう、という顔をしてちいさな弁当をこちらの席に乗せてくる。
100円パンを持ち寄る生徒が多い中、駒場は2段になった弁当をしっかり持ってきていた。
「知らない」
「じゃあ、これらの共通点は?」
どうやら答えるまで席を立つのは許してもらえないらしい。
購買のパンを買いに行きたかったが、しぶしぶ答える。
「……昔の物語、くらいか?」
「うん、当たらずも遠からずって感じかな。一応はどんな感じかは知ってる?」
「まあ」
枕草子は平安時代、あとの二つは写真が残ってるくらいだから近代なのは間違いない。
その程度の認識で良いのなら覚えている。
「じゃあその人たちの気持ちは?」
「何が言いたいんだよ」
遠回りな質問に俺は怪訝そうな表情で、駒場を薄目で見ながら答える。
「……読めばわかるだろ」
これが引き出したかった答えらしい。
聞いた途端に、駒場の顔がぱぁっと明るくなる。
「そう、そのとおり! 読めばわかるんだよ! 何を食べて何を思って、何を考えて過ごしてきたのかが! 後世に残るって言ったほうがいいかな? 誰も彼も亡くなってるのに100年も1000年も前の人のことがわかるんだよ。それって…面白くないかな?」
「まあ、そう言われると確かに」
人間の寿命は哺乳類にしては長い方だ。
それでも生きていられるのは、最高でも100年前後。
俺のような訳あり人間は20年足らずでいなくなってしまう。
しかし、文章や絵は100年を超えて何百年も残り続ける。
駒場はそれを言いたかったらしい。
「でしょでしょ!」
「言いたいことは分かった。でも、なんでその話を?」
「まーた暗そうな顔してたからだよ! ずっと空ばっかみて、ため息ついてたしー!」
むにぃっと頬にひとさし指を突き刺してくる。
「い、いふぁい……」
「無理矢理笑顔にしたんですー! 感謝してよね?」
内心納得いかない。
が、彼女が自分のことを思って行動してくれていることはわかる。
それは仲良くなってから気付いたことだが、
彼女はどこまでも相手のことを思える人だった。
上辺だけではなく、本当に自分に元気になってもらいたい。
その気持ちがなければ、自分の状況を聞いたうえで寄り添ってくれるはずがない。
その点は信頼していた。
彼女の俺のことを思う気持ちは本物なのだ、と。
「というわけで、君も書いてみない?」
「はっ?」
「いいじゃんいいじゃん、私、君の事もっと知りたいし。文章ってね、意外とその人の人となりっていうのが出るんだよ?」
そう言われて、ハッと思い出す。
思えば、駒場と話始めるきっかけからして奇特なものだった。
彼女は人の文章を見るのが好き……らしい。
日誌の文章を見られ「暗すぎ!」と笑われたのを覚えている。
「で? どう、やってみない?」
正直興味がないわけじゃない。
ただ素人の自分が書けるかと言われると……という点で頭に引っかかる。
「あ、また自分なんかが……みたいな顔してる。んじゃあ、今度本屋いこ本屋! 絶対君、いい文章書けると思うんだよね~」
駒場はそう言うと自分の筆箱からボールペンを出して芯を出した。
「まま、とりあえずやりたいことリストに書こう!」
目線が俺のバッグへと向かう。
やりたいことリストというのは正真正銘、余命間近な人間がやる行動第一位。ノートにやりたいことを箇条書きにして、実行していくそのもののことだ。
言ってしまえば、死ぬ前の心の整理だろうか。余命が決まった日から虚無を感じていた俺は一切やってなかったのだが、彼女がやれと言ったのでやった。
というより、やらないと帰してくれないので書かざるを得なかった。彼女曰く「次のことを考えたら前向きになれるよ!」とのことだったが、真偽は不明である。
「こんなの、何年やっても埋まらないぞ」
ボールペンを受け取りながら、せめての反抗として小言を言う。
「埋まらなくてもいいの! 意外とやってきたな~、探してみると100個もないな~ってとこからが始まりなんだから! やりたいこと埋めつつ、新しくやりたいこと見つければいいんだよ。今日みたいに私が、たっくさんやりたいこと見つけてきてあげる!」
そんなネガティブなものは、ちっぽけなもんだ!という風に、にこーっと笑う。
彼女の笑顔には力がある。こちらもつられて笑ってしまいそうだ。
「ま、今回に限っては私のわがままなんだけどね」
駒場は自分のスマホをすっと差し出してきた。
手帳型のスマホケースを開くと、かわいい壁紙が目に映る。
指紋認証で画面を開くとあるページが出てきた。
写っているページには電子書籍の作り方がざっくばらんに書いてある。
「私、本出したいんだけど、どうせなら君とって思ってね、誘ってみた」
「いまはそんなサービスがあるんだな」
「そう!これなら素人でも出せちゃうよ。良い世の中だよね~」
駒場は手持ち無沙汰なのか、人差し指でページをスクロールする。
文字は読めなかったが、サンプルがいくつか流れていった。
出している人がそれだけいるということだ。
……もしかしたら、熱量の高い個人がいろいろ出してるだけなのかもしれないが。
「で、書くたって何をすればいいんだ?」
「うーん毎日じゃなくてもいいよ、日記でもいいの。で、ほどほどに書けたら私に見せてよ! そんで1年後電子書籍で出す!ってのはどうかな?」
「俺、1年後は死んでるんだけど……」
「なんだよ~、もしかしたら生きてるかもしれないじゃん? 寿命って推定って聞いたことあるよ?」
そう寿命はそこが辛いとこなのだ。
何月何日に命が終わると決まっているわけじゃない。
もしかしたら余命日手前に亡くなることもあるし、
余命宣告されてから何年も生き延びた例だってある。
「じゃあ半年後! 君が読めるレベルに書けたら製本作業は私がするからさ~! ねっ!」
「あのな……俺にはやることが……」
「それは嘘。さっきまでやることない~!って顔してた! というわけで、休日は本屋に決定! まずはテーマ探しにごーごー!だ! ……付き合ってくれる?」
3
ということがあり、次の休日。
俺は駒場と駅付近の本屋に足を運んでいた。
階に上がった途端にする新書の香り。
プラスチックのような固めの香りに少し黄色がついているような独特な香りだ。
「この匂い好きなんだよな」
「わかる~、なんか落ち着くよね」
駒場とひっそりと話しながら、小説の棚に向かう。
中学生の頃はライトノベル目当てに通っていたが、その頃も久しい。
本棚にはラベルがいくつか出ている。
ホラーだったり、エッセイだったり、ミステリーだったり。
最近は映像化をされることが増えたためか、それ専用の棚もある。
意味深な表紙が並ぶなか、気になったタイトルを手に取ってみることにした。
タイトル、目次……とパラパラとめくる。
シュリンクが当たり前になってしまったいまでは、試し読みできる本屋は珍しい。
「って、この名前……」
目次をぱらっと見た時に、見覚えのある名前があることに気付く。
────駒場夕梨。
その文字と、駒場の顔を確認するよう交互に見比べる。
「うん、私」
「私て……。書いてたら言ってくれよ」
やりたいことリストの話をしたとき、駒場は本を出したいのが夢だと言っていた。
もう出てるじゃないか……という目を向けながら言うと、あのねえとひといきついて
「文章書いてない人が人の文章に興味あるって言うと思う? にっぶいな~君は」
と言った。
その顔は、本当に気付いてなかったの?1ミリも?という顔をしている。
「鈍くて悪かったな」
鈍さは自分でもわかっている。
というより、そこまで深く考えるように元々が設計されていないのだ。
考えているようで考えてない。
目の前の出来事をずっとぐるぐる回してるだけだ。
目をそらすように駒場の文章を読んでみる。
……同年代とは思えない。というのが率直な感想だった。
あまり純文学を読まない自分でも、すらすらと情景が浮かんでくる地の文。
軽快な会話でページがするすると進む。気付けば、時間を忘れて1冊が終わっていそうだ。
このくらい書けたら、楽しいだろうな。
「駒場は、何で書いてるんだ?」
ありきたりな質問のつもりだった。
夢を語る人間に、なんで?を聞いたくらいの軽い気持ち。
「あれ? 言ってなかったっけ。私にもあるんだよ、君の言うタイムリミットってやつ」
「へ?」
「ここじゃなんだし、ファミレスでもいこっか。お腹すいたでしょ?」
4
ファミレスにつくと決まった所作────メニューを見て頼んだり水を持ってきたり────を終わらせると、駒場はぽつぽつと喋り出した。
「私、昔から肺が弱くてね。歩いたり階段を登るだけで息切れしちゃうし。子供の時はろくに学校行けなかったんだよ。中学生のころかなあ? 手術して、どうにか学校には通えてたんだけど、高校生になるのは難しいってハッキリ言われちゃってね。それで書き出したってわけ」
時折ドリンクに刺したストローをいじりながら、駒場は答える。元気そうな表情は少し薄れ、憂いのある表情が見えつつあった。いままで、からげんきをしていたということだろうか。
「……それで俺にも勧めてきたってわけか」
「まあそうでもしないと何もなんないってのもあるから半々だけどねー。考えすぎると自分を責めちゃうし、吐き出す方法を知っとくのはアリだと思うよ。現に私がそれだったし」
「人間追い詰められると、遺したくなるもんなんだな」
冷静に会話を続けているが、突如現れた同じ境遇を持った人間の存在に俺は動揺を隠せずにいた。
「最初は教科書に載るレベルのもの書かなきゃ!なーんてと思ってたけど、それは諦めた。でも何でもいいから作品を残していけば、きっと私でも歴史に名を残せる。そう考えたんだ」
駒場は至って真剣な表情で答える。
その目は本当にそれを願っていることがひしひしと伝わってくるものだった。
「でも本はもう出してたじゃないか。夢は叶ってるようなもんだろ」
「まあそれ自体は達成できたかもね」
「じゃあなんで誘ったんだよ」
「うーん、共感されないかもだけど。伊沢くんは本読んでて、この人私と同じ気持ちかも!って思ったことはない? もしかしたら前世はこの人だったりして?みたいな」
年のせい、と言われれば頷くしかないが、自分は実は特別だったかもしれないと思うのは一度通る道だ。
みながそれを繰り返して自己肯定感の量を定めていく。結果的に自分はそうでもないな、というところに落ち着くまでがセットだ。
「……一度くらいは」
「なーんか苦い過去がありそうな顔だね。まあでも、ばぶ駒場は考えたんだよね。来世これをきっかけにまた会えたらとっても素敵だと思うんだよ!ってね!」
「……それは俺と?」
「もちろん! 話してて思ったけど、たぶん伊沢くんと私って似てると思うんだよね! いまはそんなだけど、素は私好みって感じがするっていうか……。不思議と昔から隣にいた?君?って感じがするんだよね。安心感がだんちと言いますか」
ぶいとこちらに指を向けてくる。
その後に、照れて頬をぽりぽりと掻いた。
「過大評価しすぎだろ」
と言っても、そう思ってくれること自体は嬉しい。
照れ隠しでストローに口をつけたが、ずるるっと空っぽのアラームが鳴るだけだった。逆に恥ずかしい。
「寿命はどのくらいって言われてるんだ?」
「タイムリミットっていうのは大げさだったかな。寿命って言っても、いつかはわかんないんだ。引き延ばしされ過ぎちゃってさ」
おもむろに駒場はリュックサックからあるノートを取り出す。
「ほら見てよやりたいことリストもほぼ終わってる感じ。もしかしたら、明日死ぬかもしれないし、1年生きるかもしれない。実は今日かもしれない。1日1日のスリル、かなりあるよ?」
「やめてくれよ、縁起でもない」
駒場が出してきたノートには、彼女の筆跡でやりたいことがずらりと書いてあった。
北海道に行きたい、バンジージャンプしたい、湯治旅行に行ってみたい…などなど。
そのすべてが横線によって上書きされている。
つまりは、彼女も死ぬことを危惧してやりたいことを埋めていたのだ。
その場その場で書き足していたのだろう。
ペンが赤や黒、青や太さがバラバラで時折付け足して書いていたことがうかがえる。
ノートの古さからしてみても、かなり前から作っていたことが伝わってきた。
「見てもいいか?」
「うん、いいよ」
見入るようにぺら、ぺらとめくっていく。
その中に、電子書籍を出したいといった内容が書かれていた。
文頭にはちゃっかり丸文字で「伊沢くんと」と書き足されている。
「ねぇ、君と付き合ったときのこと覚えてる?」
付き合ったと言っても半ば強引だった。
彼女の熱量に押されて、と言えば簡単かもしれないが、やはり期待してしまっていたのだろう。
孤独でいるより、心が救われるのではないか。
際限なく明るい駒場といれば、少しは前を向けるのではないか。
関わっていくうちに、この人となら前向きにいられると頭の片隅で思っていた。
実際彼女と出会ってから自分の口数は多くなってきたし、思い描いていた普通を感じることも多くなっていたからだ。
俺は正直に思っていることを駒場に打ち明けた。
自分が置かれている境遇の事、本当は孤独でいるのが怖いこと。
駒場と一緒にいれば明るくなれる気がすること。
そんな気持ちでもいいのならと伝えたところ、それでもいーよ?と言ってくれたのが、この関係の始まりだった。
当初、その言葉を聞いたとき俺は拍子抜けしてしまった。
この病気のことを、自分の行く末を誰かに伝えたとき、高校生にとってそれは重すぎると思っていたからだ。思っていた人とは違かった、予想してなかったと思われても仕方ないことだと考えていただけに、すんなり受け入れられたのが驚きだった。
年相応の明るい日々を過ごせるかもしれない。
その予想が確信へと変わるのは思ったよりも早かった。
気付けば明日を、1か月先の楽しいことを考えられるまでになっていたからだ。
この本屋デートだって彼女の牽引さがなければ、俺は残りの一生を部屋のなかで過ごしていたことだろう。
「君を見た時に、ぴんってきたんだ。あ、私の時と同じだって。もしかして私が落ち込む前にこの道を知っていたら? 落ち込む君のことを救えたらって。そしたら、昔の私が報われるかなって思ってた節はあるかもね。……幻滅した?」
いつも元気そうな彼女が後ろめたそうな顔をした。きっと彼女は騙してるような気分だったのだろう。もしくは過去の整理のため利用していたかのような居心地の悪さ。
しかし駒場が想定している心配とは別に、俺はいや、むしろ合点がいった。と考えていた。付き合えた嬉しさも反面、内心なぜわざわざ俺なんかと……と思っていたのだ。
その明るさがあれば、きっと俺なんかよりも良い人がいるはずなのに、と。
「そっか、俺と同じ……」
「あーでも、あれだよ? 厳密には違うよね。だから本当に1から10まで同じとは思ってない」
「まあでもほとんど同じだよ、というよりむしろ……」
駒場の方が……きっと辛い。
いつ死んでもおかしくないと言われて、やりたいこともだんだんとなくなっていく日々がどんなに苦しいものなのか。
想像するだけで、気が触れてしまいそうだ。
その状況においても彼女は無邪気で元気な自分を保ち続けている。
他の誰よりも苦労しているはずなのに。
彼女に向けていた尊敬や憧れが、好意に転じていくのを実感する。
少なくとも、俺にはできない。
「ま、さすがに慣れたってことだと思うんだよね。最初の時は、血液検査も痛くて嫌だったけど何も感じなくなっちゃったもん。薬は増えるばっかだし、いっそこと息を止めてくれ!なんて思っちゃうこともあるけどさ。それだけじゃ生きていけないから。死ぬのが分かってても」
「……そんなこと言わないでくれ」
駒場は十分頑張っている。
それを伝えるために手を固く握る。
「……はは、ごめん言いすぎちゃったかな。うん、でも話はまだ途中でね? 君と会ってからやりたいことが増えて、もっと生きたいって思っちゃった」
駒場は握った手を再び固く握りしめて、こちらに向いた。
「私も離れたくない。だから、いまだけ頑張って来世に遺すの。私たちがまた会えるように、今度は末永く愛しあえますようにって。死んだ恋人同士が双子で産まれたり、手に取った本で繋がる縁が運命的なものだったり、ね。そういうことあるらしいよ? この前テレビでやってた」
「テレビ由来かよ」
「いいじゃん、君が見てる動画サイトも言うて適当こいてるでしょーが。こういうのはね、思うのが大事なんだよ。近付いた魂の距離は変わらない。そこが大切。すこーしだけスピリチュアルだけどね」
少しだけというより、かなりスピリチュアルな話ではある。
だけど何かきっかけを残してさえいれば、来世もきっと2人は会える。
そう思うだけで心が軽くなれたような気がした。
……いつもこの人は俺の心を明るくしてくれる。
「そうだな、そうなってほしいな俺も。来世でも、そばにいてほしい」
「ふふっ、やっぱ好きって伝えてよかったな君に」
お互い涙目になっている。
傍から見れば何をやってるのかと思われそうだが、握った手を通じて彼女と深い縁が繋がれたような気がした。
「というわけで、どう? 書きたいもの見つかったかな?」
彼女の告白を受けて、自分の中に書きたい気持ちが湧いてきていた。
いや、後世に遺したい、そう思えるものが。
「うん、頑張ってみるよ。もう少しだけ」
5
昨夜何度も推敲した文書を彼女の前に差し出す。
差し出す、といってもPDFにしたテキストデータなので送信するが正解かもしれない。
「……ふむふむ」
目の前で自分の書いた文章を読まれている時間というのは何ともこそばゆい。
文字数こそそこまでないが彼女が笑ったり、あははという息遣いにさえ反応してしまう。
何より駒場が俺の文章をじっくり読んでくれていることが嬉しかった。
中身のせいもあるとは思うが、これは一種の長めのラブレターのようなものだからだ。
駒場は書いてるだけあって読む時間も早いらしい。
読むのに数分かけたあと、満足そうにうんうんと頷き、こちらを向いた。
「いいじゃーん! ていうか、ほぼノロケじゃないこれ? 伊沢くんってば、私の事好きすぎ」
にひひ、と照れくさそうに笑う。
その表情には嫌悪の感情はひとつもなく、むしろ嬉しさや喜びが俺の方にも伝わってくる。俺の大好きな駒場の笑顔だ。俺がこれは恥ずかしいかもと思ったことも、喜んで受け取ってくれる。そういうところが本当に大好きだ。
「い、いいだろ別に……身近なものから書くこともあるって本にも書いてあったし……」
「なるほどなるほど~? じゃあ私も彼女視点で書いちゃおっかな~?」
書いていくうちに彼女への気持ちが整理されたのもあるだろうか。
俺は彼女のことが愛おしいとさえ感じていた。
駒場だけには死んでほしくない。お互い死ぬのはわかっているはずなのに、俺の数少ない寿命をあげられるのなら、彼女の時間にしてほしい……とさえ思うようになっていた。
「なーに?」
「いや、なんでも。楽しそうだなって」
「そう? 私楽しそうにしてる? かわいい?」
「かわいいかわいい」
「むー……なんだよお……」
ぷくと頬を膨らませる駒場。
こういうやり取りをいつまでもしていたい。
「……大丈夫だよ。愛されてるのはすごく伝わってきたし、そんなすぐに逝かないってば」
駒場は心配させまいとまた違う笑顔を見せる。こちらのことを慮っていることが最大限伝わってくる、一枚フィルターがかかったような笑顔。それを見ていると一層心配になってしまう。そんな気持ちが伝わってしまったのだろうか。
なら、手でも繋ぐ?と言われ、すっと手を出された。
「おて。……なんちゃって」
「わん」
「わっ!んもう、我慢のきかないワンちゃんだなあ」
出された駒場の手を迷わずすっと握る。
彼女の手は……まだ暖かい。
「ふふ、私たちラブラブだね?」
無言で肩を寄せると、体温が伝わっていく。
それがお互いが生きていることの証拠のように感じられて。
幸せな時間とは、このことを言うのだろう。
永遠にこの時間が続けばいいと思った。
6
後日、彼女が書いてきたものは精緻に尽くされたものだった。
相変わらず読んでいるだけで映像が頭に流れてくるし、読者の手をとってくれるような彼女の優しさが文章に溢れている。
彼女にとって世界がどう見えているのか、それがひしひしと伝わってきた。
物事の捉え方、言葉遣い、登場人物の背景……それらを表現する単語ひとつひとつに彼女を感じられる。
いまなら駒場の言っていた文章には人となりが出るという意味がわかる。
読んでいるだけで心が暖かくなるような物語だった。
素人の俺の文章と見比べるべくもなく、ただただ綺麗だった。
物語に没入していた頭が冷え、現実世界に戻っていく。
出掛けられなくても、まるで出掛けたかのような読後感。
……心の底から、彼女には誰かを元気にさせる能力があると実感させられる。
「ふぅ」
ふと腕に繋がれた管を見やる。
その先は、液体の詰まったパックがからんとぶらさがっている。点滴だ。
俺の場合、余命宣告はほぼ間違いないらしい。
いまとなっては学校に通うことも出来ずに、病院のベッドで寝転がっていた。
病院には娯楽が少なく、必然と文章を読む時間も増えつつあった。
それでも、必ず頭に過るのは夕梨のこと。
夕梨に会えないことが、頑張っている夕梨に伝えられないことだけがつらい。
感想を送ろうしたくても、俺の能力では伝えきることが出来ない。
全部、夕梨に伝えたい。
夕梨がどんなにすごい人物で、どれだけ俺を元気にしてくれたのかを。
死ぬのはいい。
すでに決まっていたことだから。
起きられる時間が減っていくのはいい。
まだ喋れるのだから。
でも、死ぬ間際に出来た彼女。
夕梨に会えないことが心残りだった。
次第に書きたいものがだんだんと増えていった。
遺したい。遺したい。2人が生きた証を。