瑞々しい朝。朝顔が光を浴びて目を覚ます。通学中に大きな目みたいな青と白と紫の朝顔を見た。蒸し暑くない心地よい風が吹く。私の髪は空の青と光を吸収して黒く風に揺れる。手に持つサイダーはもう微炭酸で、光り輝く気泡が弾けてる。ペットボトルはひんやりと冷えて結露が伝ってきた。服がほんのり汗ばむ。
 私は電車に乗るとノートを開いた。それなりに書けてきた文を見て頬が緩む。ペラペラと音を立ててページをめくる。 
 私の降りる駅名を2回言われて電車を降りる。少し歩いたら私の通う高校が見えた。
 蝉時雨が脳に響いて余計に暑さを増す。額に垂れる汗を拭って靴箱で靴を履き替える。そして気がついた。手紙に。手紙に手が触れて、思わず手を引く。今、学校に生徒は少ない。送り主を突き止めることができるかもしれない。そう考えたが、行動に移す勇気までは湧いてこなかった。手紙は昨日と同じ字で、同じく気持ちのいい青の封筒。差し出し人は昨日と同じKだろう。とりあえず手紙をノートに挟んで教室に向かった。
 
 教室に着くと手紙を開けた。今どき、思いを伝えるのを手紙で行うなんて古風な人だと思った。どんな人物なのか気になったのが本音。二通目には一体何が書かれているのだろう。そう、少しワクワクして二つ折りを広げた。

『 日比谷 夏樹さんへ

 二通目失礼します。昨日思いを手紙で伝えたKです。最近僕は、牛丼を食べました。駅前のあのちょっと古い牛丼屋さんです。ご存知でしょうか?
 あそこの牛丼は肉が柔らかくて、つゆだくで最高でした。口に入れた瞬間肉がほろほろ溶け出して旨みと共に広がって、ご飯の甘みを際立てていて幸せです。
 美味しい。
 日比谷さんは牛丼好きですか?僕は好きです。いつか貴方と食べに行けたら。そう願ってやまないのです。貴方を思い浮かべるといくらでもご飯が食べられる気がします。

                                                           K 』
  
 Kさんの食レポは昨日に続き見事だった。こちらまでお腹が空いてくる。それを満たすためにサイダーを一口飲む。しゅわしゅわとした痛みが気持ち良い。遅れてサイダーの甘みを感じる。
「へえー手紙?」
 そう私の背後から男子らしい爽やかな声が響いて、私は思わず肩を揺らした。そして勢いよく振り返るとパッと目の前が陰る。私の顔の目の前に男子の顔があった。それにも驚いて思わず手紙から手を離し、男子と距離をとるように席を立つ。よく見れば隣の席の川谷(かわたに) (かける)君だった。脱色されて、青い空の光を吸い込む金髪に、全ての景色を奪い去るようなぱっちりとした黒い瞳。サッカー部。首や額には汗がほんのり滲んでいた。
「今日は学校来るの早いんだね。」
 私は完全に油断していて、それを誤魔化すように言った。すると川谷君は笑って言った。
「あぁ、部活早く終わったんだ。おはよう。」
「おはよう。」
 そう挨拶を交わすと再び沈黙が生まれた。それを破ったのは川谷君だった。
「これ、ラブレターってやつ?」
 そう言って川谷君は私が落とした手紙を拾い上げた。私はそれを受け取り「あぁ〜」と声を出して苦笑した。
「食レポレター、かな?」
 私が遠慮がちにそう言うと川谷君は目を丸くした。そして「へぇー」と言ってから私に手紙を読んでいいか尋ねた。私が首を縦に一回振ると川谷君は青い封筒から手紙を取り出して読み始めた。
 しばらくして、川谷君は声をあげて笑い出した。二人きりの教室にはうるさいくらい響いてしまっていた。
「確かにこれは食レポレターだわ。」
 何故か嬉しそうにそう言った。だから私も呆れたように「でしょ?」と言って手紙を受け取った。そして改めて文字を見つめた。やっぱり、何度見ても食レポの文は変化していなかった。けれど川谷君が読んで笑った事によってより可笑しく思えて、私も軽く笑った。
 川谷君はしばらく考えて、まるで天才的なひらめきをしたかのような表情をして言った。
「レター返し、したら良いんじゃない?」
 レター返しを強調して言う。「レター返し?」と私は川谷君に聞き返した。
「返事を書くんだよ。そして早く学校に向かって差し出し人に会う。どうよ、この作戦。」
「正直面倒くさい。」
「でも差し出し人は気になるだろ?」
「そりゃ、まあ。」
「なら決まり。誰か分かったら教えてな!」
 川谷君はそう言って太陽みたいに笑った。
「教えないし、明日も手紙来るとは限らないでしょ?」
 私がそう言うとやっぱり川谷君は楽しそうに笑っていた。何がそんなに楽しいのか、私にはわからなかった。だけど、どうしてもその笑顔につられて笑顔になってしまう。存在まで太陽みたいな人。私には眩しすぎてずっと見てると魂が天に召される気がするから顔を逸らした。
 レター返し、してみようかな。なんて思った。そして自分の家を思い出す。レターセット、どこにしまってたっけ?少しだけ、自分の家に帰ることが楽しみに感じてしまったのは、気のせいだろう。

 家に帰る頃には珍しく青い空が広がっていた。いつもなら藍鉄色の空が広がっているのに、今日は少し濃くなった空色の空にはとこどころ茜色がのぞいている。薄明るい道を街灯が照らす。べっ甲のような色の光が地面に広がっていた。私の影が伸びる。
 駅が見えてくると無意識に早歩きになる。電車に飛び乗って、席につく。茜色の光が青いスカートを染める。乗客は少なくて、閑静としていた。電車は音を立てて揺れる。体と髪が慣性の法則によってふわふわ動く。その度に頬に髪が当たってくすぐったい。
 いつもの帰宅時に感じる憂鬱は空腹なためかき消された。今日の夕食はなんだろう、なんて呑気に考えていた。どうしてそんなにお腹が空いているのか考えた。まさかとは思うが。いやまさか、そんなわけ。私はそんなふうに考えながらノートを取り出した。そしてノートに挟まっている手紙を広げた。まさかとは思うが、手紙の影響?そこで昨日の千花の言葉を思い出す。「手紙に影響されてる」と笑われているのが鮮明に思い返せる。解せぬ。
 私は手紙に視線を向けながら壁に寄りかかる。そしてぼんやり思うのだ。今日の夕飯、牛丼がいいな、なんて。いつもなら嫌いな家だって、自分だって今だけは少し恋しい。


 結局夕食は親子丼だった。丼まではあってたのに。惜しい。でも美味しかった。
 私は今、風呂を済ませ、課題を済ませ、机に向かっている。目の前には私好みの夜空を思わせるデザインの落ち着いた紺色の封筒と手紙の便箋。私は川谷君のアドバイス通り正体の知らないKさんに返事を書くのだ。面倒臭さと緊張と裏腹にワクワクする気持ちもあった。手紙なんて滅多に書けないし、レターセットは可愛くて早く使いたかった。こんな形で使えるとは思わなかった。だから今は手紙を書ける事に喜びを感じている。さっそく書こうとペンを握った。Kさんに聞きたいことは沢山あった。一体どんな人なのか、どんな性格なのか、どうして私を好きになったのか。Kさんについて考えると止まらない。それは当然だ。こんな私に告白するやつなんていないから。逆にどんな勘違い屋なのか気になってしまう。私でさえ私が好きではないのに。顔が可愛いわけでも、性格がいいわけでも、愛想がいいわけでもない。中学の頃は浮いてしまっていたのを自分でもよく分かってる。こんな私のどこに惚れるのか全くわからない。でも、手紙をもらって喜んでるのも確かで。私は現に浮かれて返事を書いている。単純。
 ペンを走らせる。綺麗で可愛らしい便箋には私の世辞にも上手いとは言えない歪な文字が並んだ。それらをそっと指の腹で撫でる。今思えば、Kさんの文字は丸みがあって綺麗だった。もしかしたら送り主は女性なのかもしれない。綺麗な字のKさんに手紙を渡すのにあまり綺麗な字ではないのは恥ずかしく感じた。直すべきか考えた。でも私なりに綺麗に書いたつもりだったし、読めないわけではなかったのでこのままにすることにした。私は文を読み返した。

『Kさんへ
 
 手紙ありがとうございます。滅多にもらうことがないので嬉しかったです。告白の返事なのですが、まだ答えることができません。何故なら私は貴方を知らないからです。
 一つ知ってるとすれば、食レポがお上手だってことです。貴方の書く手紙を読んでるとお腹が空いてきます。そして、少し嫌いな家が恋しく感じます。貴方のおかげです。
 私も甘党で、駅前のパンケーキ屋さん、すごく気になっています。よかったら食べに行きませんか? 
 
                                                     日比谷 夏樹 』

 正体もわからない人を食事に誘う私の勇気を讃えてほしい。これで、相手から正体を明かしてくれるかもしれないと考えた。手紙を二つに折って封筒に入れて封をする。明日、私は少しの勇気を見せる。そう意気込んで布団に入った。


 いつもより早足で学校に向かう。景色が流れていく。入道雲が太陽の光を反射して空の色に薄っすら染まる。駆け足で道路を駆け抜けると大きな向日葵がこちらを見ていた。その太陽みたいな黄色が眩しくて目を逸らした。学校が見えてより一層胸が強く鳴った。
 私は少し肌寒い靴箱の目の前で紺色の封筒を握って立ち止まった。やけに胸が痛い。部活をする生徒の声でなんとか気を紛らわす。くるなら早く来て。はたから期待はしてないみたいなことを考えたが嘘だ。期待してる。今日も空色の手紙を持った貴方が来てくれることを。だから早く来て。手足が震えて止まらない。理由は寒さか、それとも緊張か。また別のものか。そんなのわからなかったし、わかりたくもなかった。自分を奮い立たせようと必死に脳を停止させる。考えないように。嫌な予感を。来ないなんて、嫌な予感を。ただ私は一人で時間の流れを感じる。一人は嫌いだ。哀れに周りに思われているように感じるから。怖い。だから早く来て。
 
「日比谷?」
 男子の声で顔を上げる。そこにいたのは驚いたような顔した川谷君だった。
「川谷君。」
「あ〜、、、ごめん。俺のせいだよな。失敗した?レター返し。」
 川谷君を責めたいわけではない。だから俯いて首を横に振る。私が打ちのめされているのは、自分の惨めさにだ。期待しすぎな自分に。自惚れていたのだ。また手紙がもらえるなんて。恥ずかしい。
「失敗しちゃった。、、、馬鹿だなぁ。私。」
 頑張って笑って川谷君に言う。川谷君は申し訳なさそうに視線を落として私の頭に大きな手を置いた。ぽんっと効果音がつきそうだった。私は顔を上げた。
「悪かったな。」
 川谷君の太陽みたいな笑顔が萎んでるのを見ると、目が潤んでしまいそうだった。こんなことで。情けない。だから私は笑った。
「いいよ!大丈夫。いくらなんでも3日連続じゃあ来ないよ。いくらなんでもさ。」
 それより教室に行こうと私は手を引いた。紺色の手紙はカバンの奥に突っ込んだ。

 千花の顔がまた近い。そして相変わらずニヤついている。
「なになに〜?今度は川谷君?」
 今度はも何もない。私は「違うよ」と否定した。
「一緒に教室まで来ちゃって。」
「靴箱で会ったの。」
「へぇ〜?」
 千花は話を聞かない。全く。これだから。
「それより、今日は来なかったんだね。手紙。」
 そんな言葉にズキンと胸が痛む。
「そんな毎日来るわけないでしょ。2日連続で来たのがすごいくらいだよ。」
 私が次の授業の準備をしながらそう言うと千花は「確かに」と声を上げた。そう、2日連続で来たのがおかしいのだ。なんで期待なんてしてしまったのだろう。わかりきったことを。
 私は気持ちを切り替えようと炭酸の抜けたサイダーを一口飲んだ。


 下校のチャイムが鳴り響く午後の学校。私は家に帰るのが嫌だった。かといって他に行くところなんてないし、私の居場所はどこにもなかった。仕方なく靴をとる。するとカサっと何かが落ちた。視線を下に向けると群れが高鳴った。青色の封筒が目に入った。私はゆっくり拾い上げ恐る恐る宛名を読んだ。あの丸っこい字で書かれた私の名前と黄色い付箋。今朝見た向日葵を連想させる黄色の付箋。

『今日手紙を持ってきたら靴箱に貴方がいました。
すみません。顔バレはもう少し待ってください。』

 私は思わず息を吐いた。今日、ようやく息が吸えた気がした。今、私の手にあるのはKさんからの手紙だ。素直に喜んでしまう。私は少し曲がった紺色の手紙をカバンから取り出した。そして私の空になった靴箱に入れておいた。明日こそきてくれるかわからないがもしきてくれるのならこの手紙に気づいて欲しい。そう思いを込めて『Kさんへ』という文字を上にしておいた。早く手紙が読みたくて早歩きで家に向かった。