今日も学校が終わるなり、早足で帰ってきた。
 ここまで早く帰りたいと思ったことなんて、初めてな気がする。

 琉夏を1人にしておくことに不安はない。
 ただ、私が琉夏と一緒にいたかった。

 今日は、琉夏は何をして待っているだろうか。
 何か面白い本でも借りてくればよかったかな。

 などと思いながら、屋敷のドアを開けると――

 「……ピアノ?」

 ピアノの音がした。
 綺麗で、軽快で、しかしどこか力強い、流れるような旋律。
 ずっと無音だった屋敷中に、音楽が響いている。

 懐かしい。別の曲だが、おばあちゃんはピアノをよく弾いていた。
 ここに来ると、大抵こうして綺麗な音が響いていた。
 重厚で、けれども暖かいその音色が、大好きだった。

 琉夏が弾いているのだろう、ならばどこにいるかはわかる。
 荷物を置いて、奥の方の部屋に向かう。
 どんどん進んでいく音が、よく聞こえるようになっていく。

 ピアノのある部屋は、ここだ。
 ここも掃除しなかったが、昨日掃除してくれていたのだろうか。
 ドアを開けると、演奏が止んだ。

 立ち上がった琉夏が、私の方を見て微笑む。

 「心優さん、おかえりなさい。」

 「ただいま。ピアノ弾くんだね?」

 ピアノの横まで行きながら、少し首を傾げて見せる。
 琉夏は照れたように笑って頷いた。

 「すみません、勝手に。」

 「何でもしていいって言ったよ? それに、私もピアノは好きなんだ。」

 琉夏の弾く曲が何かはわからないけど、気に入った。
 おばあちゃんのものとは全く違う音色だが、暖かくて、落ち着く。

 「ありがとうございます。」

 「琉莉さんがピアノ弾けたの?」

 「琉莉は、子供の頃にピアノを習っていたそうです。」

 私が聞くと、琉夏は嬉しそうに頷いた。

 「家にもキーボードがあって、よく弾いて聞かせてくれました。ピアノを直接見たのは初めてで、つい弾いてみたくなってしまって。」

 「流石にマンションじゃ、ピアノは弾けないもんね。」

 そう広くない所なら、サイズ的にも音量的にも厳しいだろう。
 それでもキーボードを弾くほど、琉莉さんはピアノが好きだったのか。

 「琉夏も、それを聞いて覚えたの?」

 「いえ。琉莉が連弾をしてみたい、と言って、そのために僕も楽譜を読んで覚えたんです。」

 琉夏は懐かしむように目を細めて笑う。
 やっぱり、恋する青年のような、優しい表情。

 「2人で弾くには、かなり窮屈だったんですけどね。楽しかったです!」

 「連弾かぁ。いいね。」

 琉夏は柔らかい表情で、そっと鍵盤を撫でた。
 本当に、彼は琉莉さんのことが好きだな。
 琉莉さんとの思い出が沢山詰まっているから、こんなに暖かいんだ。

 「楽しいですよ。おすすめです。」

 「確かに、楽しそうだね。」

 少し離れた場所にある椅子のところまで行き、ピアノの方に向けて座る。
 琉夏に目を向けると、琉夏は不思議そうに首を傾げた。

 「もう1回、さっきの曲弾いてくれない? 私はここで聴いてるから。」

 「わかりました。」

 琉夏はもう一度ピアノ椅子に座って、両手を鍵盤に添えた。
 少しの間の後、音が鳴り始める。

 さっき聞いたのと同じ、優しい音色。
 長調のメロディーに合わせて、琉夏の指が鍵盤の上で踊る。
 楽しそうで軽い、けれども力強い旋律。

 琉夏は微笑を浮かべて、薄く開いた水色の目で鍵盤を見つめている。
 幼いような、大人びているような、整った綺麗な顔。
 優しい温もりを持っていて、キラキラと輝いている、朝の水面のような瞳。

 曲も、弾いている琉夏自身も、楽しそうで、愛おしい。
 綺麗で、どうしようもなく大切なものに思えてしまって――つい、手を伸ばしたくなってしまう。
 近くでじっくり聴いても、やっぱり暖かい、素敵な音だ。

 この曲には、どれほどの想いが詰まっているのか。
 琉夏は今、何を思ってそれを奏でているのか。

 到底知れないものを、知りたい、と思ってしまう。
 聴きたいと思ってしまう。

 ――……。

 じっくりと聴き入っていると、最後の1音が鳴り、琉夏の指が宙に浮く。
 両手を降ろした琉夏は、身体ごとこちらを向いた。

 「やっぱり、すごく素敵な曲。何て言うの?」

 ぱちぱちと拍手をしてから、琉夏に問いかける。
 こんなに素敵なのに、聴いたことのない曲。
 琉夏は少し考える素振りを見せてから、困ったような顔をした。

 「わからないんです。……琉莉は、教えてくれなかったので。」

 「そうなんだ?」

 少し悲しそうに答える琉夏も、曲名が知りたかったのだろうか。
 聞いても答えてくれなかったのか、そんな話にならなかったのか。

 「僕は、この曲が好きです。なのにこの曲のことは……何もわからないんです。」

 「そうなの?」

 琉夏は鍵盤に手を添えて、ますます悲しそうな顔をした。
 白鍵を押してしまったようで、ぽーんと、1つ音が鳴った。

 「初めて、琉莉にこの曲を聞かせてもらった時、琉莉に買ってもらった日、すぐに好きになりました。でも、何も言えなかったんです。ただ、すごいとしか。」

 「最初なら仕方ないよ。」

 勿論アンドロイドなのだから、起動したばかりでも、何も知らないわけではない。
 大人の人間くらいの知識は供えられているし、感情を表す言葉だって知っている。
 けれど、その言葉と感情が、結びつかないのだ。

 「今なら、好きだって言えるんですけどね。それでもまだ、この曲の魅力をどう表現するかは、わからないんです。」

 琉夏は困ったように眉を下げて、じっと鍵盤を見つめている。
 反対の手で、無意識に左胸を押さえていた。

 「……わからなくても、いいんだよ。」

 「ですが、わからないと――」

 「いいんだよ。」

 驚いたような、焦ったような顔で私を見た。
 きっと琉夏はその時、琉莉さんにちゃんとした感想を伝えたかったんだろう。
 どうしようもないほど好きな気持ちを、わかってほしかったのだろう。

 「感想や思いは人それぞれだから、いいんだよ。私もこの曲が好きだけど、私が感じたことは、きっと琉莉さんとも、琉夏とも違う。共感もしてもらえないかもしれない。けど、ちゃんと好きなんだ。」

 「それに、」と私が続けると、琉夏は開きかけた口を閉じた。
 何を言おうとしたのか気になるけど、先に言っておくことにする。

 「今でもわからないのは多分――自分でも把握できないくらい、大好きだからだよ。」

 琉夏は数度瞬きをして、ゆっくりと私の言葉を飲み込むように、目を閉じた。
 再び開いた水色の瞳が、じっと私の目と合う。

 「そう、なんですか……。心優さんは、まだ学生なのに、物知りですね。」

 「そんなのじゃないよ。私もこれは、最近気づいたから。」

 柔らかく微笑んだ琉夏に言われ、首を横に振った。
 自分の口角が上がっているのを感じる。

 勿論、琉夏の気持ちだってわかる。最近、本当につい最近、感じ始めた。
 自分の好意を理解できない、言葉に表せない、というのは、中々不便なものだ。

 本当に、この身に余る感情は、どこへ持っていけばいいのだろうか。