東福寺と智積院に行った数日後に、京都もようやく梅雨入りし、雨の降る日が増えていった。去年のこの時期は永観堂や宇治に行ったっけ、雨がやんだらどこに行こう……とか考えているうちに7月に入り、今度は蝉の声があちらこちらから聞こえ始めた。その大合唱を合図にか、まだ梅雨明け宣言はされていないのに、次第に晴れ間がのぞくようになり、なんとなく物憂げだった気分も少しずつ晴れ始めている。母から電話があったのは、そんな夏の始まりの夜だった。

「鞍馬寺?」

母の口から出た場所を聞いて、わたしは首を傾げた。

「どこ? そこ」

『去年、貴船神社に行ったでしょう。あっちの方。次の週末に関西の友だちに会いにいくんだけどね、ついでに琴子とも会えたらなって』

「そりゃ、行きたいけど……もうすぐ試験だしなぁ」

『1日くらいいいじゃない。それに、鞍馬寺からなら真々庵にも行けるし。また川床料理食べたいでしょ』

去年味わった真々庵の川床料理を思い出し、わたしはぐっと言葉に詰まった。試験が近いとはいえ、真々庵の名前を出されると断りづらい。川のせせらぎを聞きながら食べた鮎の塩焼きの味は、1年近く経った今でも昨日のことのように思い出される。

それに、梅雨のせいでしばらく写真を撮っていない。初心に戻ってカメラに関する本を読んだり、京都の写真集を眺めていた分、思い切り写真を撮りたいという思いがくすぶっているのも事実だ。

わたしはちらりとカレンダーに目をやった。レポートの提出期限にもまだ余裕があるし、試験勉強だって頑張れば何とかなる。1日くらい遊びに出かけても大丈夫だろう。

「分かった、行こう。でも、暑いから気をつけてね」

『やったぁ。じゃ、時間はまた連絡するから』

母は少女のような声を上げて電話を切った。わたしは卓上カレンダーに「鞍馬寺」と赤ペンで書き込みを入れた。そのすぐ下にある「試験期間」という文字は、見えないふりをしておこう。





「すごい、おっきい天狗さん!」

叡山電鉄鞍馬駅に降り立つと、大きな天狗のモニュメントがわたしたちを迎えた。天狗らしい長い鼻は、大体2メートルくらいはあるだろうか。きゅっとへの字に結ばれた口元に威厳が溢れている。

「これが鞍馬天狗かぁ、かっこいいなぁ。琴子、写真たくさん撮ってね」

「もちろん撮るけど……お母さん、そんなに天狗すきだったっけ?」

「天狗っていうか、義経がすきなの。最近ね、昔やってた義経のドラマを借りて見てたのよ。そしたらすっかりハマっちゃって。でね、昔義経が天狗さんと修行した場所が鞍馬寺だっていうから、ちょうどいいや、行こうって思ったの」

「へー、わたしも今度見てみようかな」

「あっ、あと調べてみたんだけどね、鞍馬寺って源氏物語や枕草子にも出てくるらしいの。琴子、源氏物語すきだったよね?」

「うん。まぁ、読んだのは『あさきゆめみし』だけど」

「光源氏かっこいいわよねぇ。でも、お母さんは頭中将派」

「どっちでもいいよ、そんなの……」

相変わらず、この母は高校生の恋バナのような話ばかりしてくる。残念ながら、娘のわたしは19歳になってもその手の話には縁がない。

鞍馬駅から歩いていくと、すぐに巨大な門が見えてきた。階段の両脇に立ち並ぶ朱色の灯篭と青もみじが、夏の太陽に照らされてまぶしい。去年の夏、貴船神社に行った時も、こんな暑い夏の日だった。何もない日ならば暑いよぉ、とか弱音を吐いて、すぐに部屋に引きこもり、クーラーの風にあたりながら冷たいアイスを食べてしまうけれど、それを全部我慢するのは、この先の景色が見たいからだ。

息を切らしながら階段を上り、愛山費としてひとり300円をおさめた。順路を確認しようと、入口で受け取った鞍馬寺の地図を広げる。

「うわっ、こんなに広いんだ……」

ある程度予想はしていたけれど、地図を見ると寺域の広さに目を見張った。わたしたちがいるところから最終地点までかなりの距離がある。

「いい運動になりそうね。どうやってまわろうか?」

「うーん、義経がすきなら、この地図に書いてある牛若丸史跡巡りがいいんじゃないかな。牛若丸って、義経の幼少期の名前でしょ」

「そうそう。じゃあ、その通りにまわっていきましょうか」

義経にゆかりの地というだけあって、地図には義経に関係するさまざまな場所が掲載されている。途中でケーブルカーに乗るルートもあるようだけれど、せっかくならば歩いて名所をまわってみることにした。こうして立っているだけでも太陽光がじりじりと肌に染み込んでくるし、どんどん汗が浮かんでくるけれど、そんなことよりも、鞍馬寺をじっくり見てまわることが大切なのだ。

「貴船神社に行った時もそうだったけど、葉っぱがすごくきれいねぇ」

「そうだね」

「ほんと、晴れてよかった。最近雨が続いてたから、天気が悪かったらどうしようかと思ってたの」

地図に従って歩いていくと、鬼一法眼社という建物が見えてきた。ここに祀られている鬼一法眼は、牛若丸に兵法を授けたといわれる陰陽師らしい。いつもなら教授に教えてもらうところだけど、残念ながら今日はいない。地図に説明が載っていてよかった、と、ほっと息を吐く。

「あっ、ここ知ってる。由岐神社」

前方に見えた鳥居を指差し、母が声を上げた。自ら来たいと言い出しただけあって、いつもの数倍元気だ。去年、貴船神社を訪れた際は「暑い」とか「限界」とか言っていたくせに、今日はわたしの前を歩いている。

本殿のところにある狛犬をよく見ると、めずらしいことに子犬を抱いていた。子孫繁栄、子授け、安産の神様として古くより信仰されており、国の重要文化財にも指定されているらしい。

「由岐神社って、10月に鞍馬の火祭が行われる場所でしょ」

「お母さん、よく知ってるね」

「前にテレビでやってたの。京都ってお祭りがたくさんあるわよね」

そういえば、京都に来てからいろいろな場所をまわったけれど、まだお祭りはあまり見ていない。祇園祭は試験期間と被っているし、去年少しだけみっちゃんとのぞいたけれど、人が多くてすぐに帰ってしまった記憶がある。

「お祭りといえば、浴衣とか着ないの? 高校の時着てたやつ、送ってあげようか」

「ええ? でもひとりじゃうまく着れないし……」

「大丈夫、なんとかなるって。ちょっとはかわいい格好しなさいよ。来年はたちでしょ、年頃よ」

「いいから、次行くよ」

おしゃべりの絶えない母から逃げるように、わたしは歩調を速めた。浴衣なんて動きにくいだけだし、はたちだからって何だというんだ。春にみっちゃんと河合神社に行って美人祈願をしたけれど、まだ効力は発揮されていないようだし。というか、そもそも自分で努力をしていないのだから当然だ。今日だって動きやすさを重視したTシャツとパンツにスニーカーと、普段と変わらない格好をしている。

牛若丸の守り本尊であったという地蔵尊がある川上地蔵堂を通り過ぎると、今度は義経公供養塔が見えてきた。

「えーっと……ここは牛若丸が7歳から10年間起居した東光坊の跡地なんだって」

「ここがそうなのね! なんか楽しいわ。こういうの、なんていうんだっけ、聖地巡礼? そう、聖地巡礼してるって感じ」

「よくそんな言葉知ってるね……」

母の若々しさに、わたしはあきれを通り越して感心した。確かに知識があるのとないのでは見え方が違うのは事実だ。わたしも教授にいつもいろいろなことを教えてもらうから、景色がより一層輝き、喜びが増すのである。





鞍馬寺の参道を歩いていると、本当に見所がたくさんある。牛若丸が喉の渇きを潤したとされる息つぎの水や、奥州に下る際に名残惜しんで背比べをしたという背比べ石など、地図に書いてあるものを追っていくだけで精一杯だ。

「写真を撮る時、何か意識してることってあるの?」

牛若丸が跳躍の稽古をしたという木の根道を撮影していたら、母が後ろからカメラをのぞき込んできた。

「何、いきなり」

「写真を撮る時って、構図とか、設定とかいろいろ考えなきゃいけないんでしょ。前にお父さんがそんなこと言ってた」

「うーん、そうだなぁ……一応、三分割構図とか、放射線構図とかは考えないこともないけど、そんなに意識はしてないかなぁ」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ、感覚で撮ってるってこと?」

「うん、まぁ。だけど最近は、もうちょっとうまく撮れるようになりたくて。写真集見たりとか、カメラの本を買ったりしてるんだ」

わたしは空高く伸びる木々を見上げた。青葉の隙間から漏れる光が美しい。いつもならF8まで絞って撮るところだけど、今回はさらにF22まで絞って撮ってみた。思った通り、葉の間からの光芒が放射線状になってきれいだ。

「いいんじゃない、そういう向上心。ほら、あんたって、あんまり今までやりたいことってなかったじゃない。写真も趣味の一つって感じで。京都に来たのだって、雰囲気がすきとか、そういうふわふわした理由でしょ」

「ふわふわ……」

まぁ、確かにそう言われたらそうなのかもしれない。絶対にこれをやりたいという確固たる意志を持って、今の大学を選んだわけではない。ううん、受験の時だけじゃなくて、今までそういう強い思いを持ったことすらないような気がする。

「あんた、部活動だってちゃんとやってこなかったじゃない。悔しい思いとか、してこなかったでしょ。一つのことに真剣に取り組むの、いいと思うぞ」

わたしはカメラにぶら下がっているこん様を見つめた。母の意見に賛同するように、ぶらぶらと左右に揺れている。

そこからしばらく歩いていくと、大杉権現社、僧正ガ谷不動堂、義経堂、奥の院魔王殿と続いた。西門をくぐれば、すぐそこは貴船神社だ。

「いっぱい歩いたわねぇ。さすがにちょっと疲れちゃった」

パタパタと扇子を仰ぎながら、母が弱々しい声を出した。時計を見ると、鞍馬駅に着いた時から約2時間も経過している。持ってきたペットボトルの中身も、すっかり空になってしまった。

「写真いっぱい撮れた?」

「うん、一応。もっとうまく撮れたらいいんだけど……」

「今度お父さんに教えてもらえば? 来月帰ってくるんでしょ」

「そのつもり。今年はお盆のあとになるけど」

「五山の送り火見るんだっけ。去年、慌てて帰ったもんね」

「うん。約束、してるから」

去年、帰省中に教授から連絡があり、送り火の前日に京都に呼び出されたことを思い出した。あれからもう1年と考えると、月日が流れるのは本当に早い。今年は慌てて帰省することのないよう、あらかじめ帰省期間をずらしてあるのだ。

わたしはうーんと伸びをして、大きく深呼吸した。これだけ長く歩いたら、そろそろおなかがすいてきた。娘の気持ちを察したのか、母が明るい声で叫んだ。

「さ、もうちょっと歩いて、真々庵の川床料理食べにいこ!」

「うん!」

立ちどまっている暇はない。蝉の声を聞きながら、わたしたちは再び足を動かした。