「あたし、彼氏できた」

水曜日、昼下がり。

京阪出町柳駅近くの「かぜのね」でランチをしていたわたしは、目の前にいる友人の一言でぴたりと箸をとめた。

みっちゃんはわたしと同じ文学部で、テニスサークルに所属している。茶色く染めたショートボブと両耳につけたピアスが背の高い彼女にとてもよく似合っていて、同い年ながら大人だなぁ、なんて感じる。出会った時はこんな美人とは絶対友だちになれない、なんて思ったりもしたけれど、意外と気の合うところが多くて、今では一番の親友だ。

「へぇ、そうなんだ」

正直、そんなみっちゃんに彼氏ができても驚きはない。むしろ今までいなかったことの方がふしぎなくらいだ。そう思って再びハンバーグを口に運ぶと、「もうちょっと興味持ってくれてもいいのに」とため息をつかれた。諦めたように首を傾けたその瞬間に、耳についている青色のピアスがきらりと光る。沖縄の海を映したようなそのピアスは、光のあたる角度によって繊細に濃度を変える。ホタルガラス、というらしい。

女子力が高めな彼女とは違い、わたしの耳に穴はあいていないし、爪だって何も塗っていない。肌に塗るのは日焼けどめくらいだ。世の中の若者は「大学デビュー」なるものをするらしいけれど、そもそもデビューする気がないまま1年が過ぎてしまった。

「いや、まぁ琴子らしくていいんだけどね。カメラも楽しいとは思うけど、他にすきなこととかないの?」

「たとえば?」

「たとえば、そうだなぁ……ファッションとか、メイクとか。琴子、全然洒落っ気ないじゃん」

そういえば、母にも似たようなことを言われたような気がする。わたしは箸を口にくわえたまま、自分の着ている服に目線を落とした。春が進み気温が上昇した今日は、七分丈のシャツにゆるめのジーンズ、履き古した白のスニーカーと、相変わらずラフな格好をしている。数年前の写真を見ても、きっと同じような服装をしているのだろう。

「食べることはすきだよ。チェルキオのパンなら10個くらい一気に食べられる」

「うん、それは知ってる。っていうか、見れば分かる」

まだハンバーグが半分ほど残っているみっちゃんとは対照的に、わたしのお皿はすでにからっぽになりそうだ。琴子は色気より食い気だね、と散々母に言われてきたけれど、大学2回生になってもまだ色気が出る気配はない。

「そうだ、このあとまだ時間ある?」

「うん、あるけど……」

今日は水曜日で、お互い講義は午前中だけだ。家に帰っても掃除をするか、買い出しをするくらいしかない。みっちゃんはピアスを揺らしながらにっこりと笑った。

「ちょっと付き合ってほしいところがあるの」





出町柳から自転車に乗って鴨川を越え、そのまま北へとまっすぐ走る。みっちゃんに先導されてたどり着いたのは、下鴨神社の摂社である河合神社だった。入り口の門のそばにある看板には、「女性 守護 日本第一美麗神」という文字が並んでいる。

早く早く、とみっちゃんが手招きをする。境内は見渡せるくらいの広さで、女性グループが何組か参拝をしていた。大きな舞殿やその右手にある庵も気になったけれど、一番に目を引いたのは、本殿のところにぎっしりと並べられている手鏡のような形をした何かだ。近づいてみると、どうやらこれは絵馬らしい。どれも顔が描かれていて、それぞれ違った化粧がほどこされている。

「それね、鏡絵馬」

わたしの気持ちを察したように、みっちゃんが弾んだ声で言った。

「河合神社はね、御祭神である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が玉のように美しいことから、美人祈願のご利益があるんだって。だからこうやって、顔の形をした絵馬にメイクをして、裏に願いごとを書くんだよ」

「へぇー、おもしろいね」

「あたしたちも一緒にやろっ」

みっちゃんはわたしの手をつかむと、鏡絵馬が売られている場所へぐいぐい引っ張っていった。こんなにテンションが高いみっちゃんはめずらしい。

鏡絵馬を購入したあとは、「御化粧室」と呼ばれる建物の中へ入った。中には数人の女性がいて、はしゃぎながら鏡絵馬にメイクをほどこしている。みっちゃんは自分のポーチからメイク用品を取り出して、慣れた様子で鏡絵馬にメイクを描き始めた。メイク用品を持っているはずもないわたしは、用意されていたクレヨンを使いながら、ぎこちない手つきで色をつける。

「こんな感じ?」

おそるおそる確認すると、みっちゃんはわたしの鏡絵馬を見て、「うん、かわいい」とうなずいた。さすが普段からメイクをしているだけあって、みっちゃんの鏡絵馬はおしゃれな顔立ちに仕上がっている。

鏡絵馬の裏面には、下鴨神社の御神紋であるという双葉葵が描かれていた。「あおい」は「あふひ」とも書き、「あふ」は「会う」、「ひ」は「神霊」を示している。すなわち、神様との出会いを意味しているらしい。「かわいくなれますように」とおそろいの願いごとに名前を添えて、わたしたちは再び祭壇前へと足を進めた。そこには鏡絵馬と同じくらいの大きさの鏡があり、その手前には白い石が置かれている。

「この御白石(おしらいし)に触ると美肌になれるんだって」

「本当? 触っとこう」

「琴子は肌白いからいいよねぇ。あたし、夏なんて特に真っ黒」

「テニスやってるからじゃない?」

「そうなの。だから今は幽霊部員」

笑い合いながら御白石に触れ、鏡に自分を映して目を閉じた。かわいくなれますように、きれいになれますように。色恋沙汰に興味のないわたしでも、持ってしまうのものだ。

鏡絵馬を奉納したあとは、河合神社の境内をぐるりと見て回った。こうして見ると、鏡絵馬以外にもおもしろいところがたくさんある。「方丈記」で知られる鴨長明は河合神社の神職の家系に生まれたそうで、境内にある庵は「方丈庵」というらしい。金福寺の芭蕉庵を見た時も思ったけれど、少し足を延ばしただけで歴史上の人物に触れられることが、京都のいいところだ。

「それにしても、ちょっと意外」

休憩所で美人水を飲みながらつぶやくと、みっちゃんが「え?」と首を傾げた。

「だってみっちゃん、あんまり神社とか行かないでしょ。占いとか、神頼みとかしないじゃない。だから、めずらしいなって」

「そうだけど、やっぱりもっとかわいくなりたいし、それにね……」

「それに?」

みっちゃんはちょっと照れくさそうに言い澱んだ。それから、意を決したようにぐいっと美人水を喉に流し込む。言っていることはかわいらしいのに、手の甲で唇を拭くその仕草はかなり男前だ。

「琴子の写真を見てたら、いろんなところに行きたくなったの!」

みっちゃんは一気にそう言うと、勢いよく立ち上がった。ぼけっとしているわたしを置いて、さっさと休憩所から出ていってしまう。

わたしはぽかんと口を開けながら、みっちゃんの言葉を頭の中で繰り返した。

去年、母と真々庵に行った時のことを思い出した。「琴子はどんな写真を撮りたいの?」そう尋ねられたわたしは、「この写真を見た人が、『この場所に行きたい』って、そう思うような写真を撮りたい」と答えたのだ。

手に持っている美人水を、ごくごくと一気に飲み干した。みっちゃんと同じように手の甲で唇を拭って、休憩所から飛び出していく。あとを追いかけると、わたしから逃げるように、彼女も走る速度を上げていった。