教授の一言で、ここ最近沈んでいた気持ちが雪解けのように消えていくのを感じた。くよくよしていてもしかたない、どうせわたしは写真をやめることなんてできないのだから、変わらずシャッターを切るだけだ。自分の脳みそは案外単純で、些細なことで傷ついたり喜んだりするものだと知った。
「後期も終わったし、無事進級できそうだし。この時期の大学生って暇だなぁ」
隣を歩くみっちゃんはあくび混じりにそう言って、吹きつける風に身を縮めた。立春が過ぎ、日差しは少しずつあたたかくなっているような気もするけれど、やはりまだまだ防寒具に頼る毎日だ。
「3回生になったらまた忙しくなるし、今はゆっくり過ごそう」
「そうだね。バイト以外ずっとこもってテレビ見てるよ」
「バイトって、家庭教師だっけ」
「そうそう。毎回おやつ出してもらうから太っちゃう。琴子はどっか出かけたりしないの?」
「こないだ蓮華寺には行ったけど、さすがにこの時期にがっつり出かけるのはしんどいかなぁ」
「そうだよねぇ。ランチするくらいならともかく、何時間も外にいるのはつらいよね。……着いたよ」
能天気な会話をしているうちに目的地に着いたらしく、みっちゃんが「ここ」と看板を指差した。「Kyoto 生chocolate organic tea house」とおしゃれな文体で書かれている。緑に覆われた入り口をのぞくと、京町家のような建物が見えた。
「いい感じでしょ。琴子がすきそうだなって思って」
「うん、いい感じ」
わたしはうなずいて、みっちゃんと一緒に足を進めた。中はお店というよりは普通の家のようになっていた。畳の上には長机があり、隅には華やかな屏風も飾られている。座布団に座ると、そばに置かれている電気ヒーターのおかげで冷えた体があたためられていくのを感じた。
大きなメニューを広げ、ふたりともチョコレートと紅茶のセットを注文した。「ここのチョコレート、すごくおいしくて有名なんだよ」とみっちゃんがささやく。こんな和風な空間でチョコレートをいただくなんて、少しアンバランスな気もするが、だからこそ特別感があるように思えた。
期待に胸を膨らませて待っていると、数分ほどで注文の品が運ばれてきた。上品な皿の上に四角い生チョコレートが乗っており、そばには花が添えられている。見た目だけでそれが特別なものだと分かった。
口に入れるとチョコレートはすぐに溶け、甘みがふわりと広がっていった。
「すごくおいしい、上品な味がする!」
「ほんと、いつも食べてるチョコとは全然違うね」
みっちゃんもご満悦の表情で頬に手をあてている。今まで食べたどのチョコレートとも違う。特別な日にいただく最高級のスイーツ、という感じだ。
「高級感もあるし、年上の人に渡すならいいんじゃない」
「え?」
「渡すんでしょ、間崎教授に」
「……何で分かったの」
しぶしぶ認めると、みっちゃんは「やっぱり」と笑った。
「だって琴子がバレンタインにチョコ渡す人っていったら、教授くらいしか思いつかないし」
「違うよ、そういうのじゃないよ。こないだ迷惑かけたから、そのお詫びに……」
「ふーん。まぁ、そういうことにしといてあげる」
わたしは何も言い返せずに、紅茶を両手で包み込んだ。
落選のショックからようやく立ち直ったわたしを次に襲ってきたのは、教授室で泣いてしまったことへの後悔だった。人前で、しかもよりによって教授の前で泣くなんて。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたいとはこのことだ。一生こたつで丸くなっていたい。もう二度と顔を合わせたくない。
今思えばあの時、教授には一瞬で見抜かれてしまったんだろう。わたしに何があったのかを察して、元気づけるために紅茶を出してくれたんだろう。わたしが何も言わなくても、教授はすべて分かっていたんだ。分かっていて、慰めの言葉は一つもかけなかったのだ。「大丈夫」「若いから」なんて言葉よりも、ずっとあたたかい言葉を届けてくれた。だから、みっちゃんにチョコレートがおいしいお店を聞いたのも、今日ここに連れてきてもらったのも、全部そのお礼のためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
チョコレートは店内で食べられるもののほかに、テイクアウトや通販も行なっているらしい。さすがに教授をここに誘うのは勇気がいるので、帰りに一つ買って帰ろうと思った。
「みっちゃんも彼氏に渡すんでしょ」
「まぁ、一応そのつもり。あたしもここで買おうかな。結局手作りより買った方がおいしいもんね」
「分かる。手作りはハードルが高すぎる」
「自炊すらちゃんとできてないのに」
チョコレートがまた一つ、口の中に消えていく。
寒い日にはチョコレートが似合う。あたたかい部屋にこもってチョコレートを口に含めば、とろとろと舌の上で甘みが溶けて、ほろほろと心がほどけていく。窓からは小さな庭が見え、冬の風に緑がそよそよと揺られていた。もう少ししたらまた梅が咲き、あっという間に春になるのだろう。
「琴子も来月でようやくはたちかぁ」
「そういえばそうだった」
すっかり忘れていた。3月20日が来ればわたしは20歳になって、ようやくみっちゃんと同い年になる。
「またお祝いしなきゃね。祝ってもらいなよ、教授にも」
「どうして教授が出てくるの」
「うーん、なんとなく」
「なんとなくかぁ」
「そう。なんとなく」
「……その前に、チョコレート渡さなきゃ」
「大丈夫。受け取ってもらえるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
みっちゃんがなぜか絶対的な自信を持ってうなずく。この落ち着いた空間がそうさせるのだろうか、紅茶を飲んだらますます体があたたまって、うつらうつらと夢心地になった。
はたちになったら、少しは大人になれるのだろうか。未成年だからとか子供だからとか、そういうことを考えずに、接することができたなら。そしたら、少しだけ距離が縮まるのかもしれない。
チョコレートの最後の一つを、そっと口の中に放り込んだ。甘いものがだいすきなあの人の、喜ぶ顔が目に浮かんだ。
「後期も終わったし、無事進級できそうだし。この時期の大学生って暇だなぁ」
隣を歩くみっちゃんはあくび混じりにそう言って、吹きつける風に身を縮めた。立春が過ぎ、日差しは少しずつあたたかくなっているような気もするけれど、やはりまだまだ防寒具に頼る毎日だ。
「3回生になったらまた忙しくなるし、今はゆっくり過ごそう」
「そうだね。バイト以外ずっとこもってテレビ見てるよ」
「バイトって、家庭教師だっけ」
「そうそう。毎回おやつ出してもらうから太っちゃう。琴子はどっか出かけたりしないの?」
「こないだ蓮華寺には行ったけど、さすがにこの時期にがっつり出かけるのはしんどいかなぁ」
「そうだよねぇ。ランチするくらいならともかく、何時間も外にいるのはつらいよね。……着いたよ」
能天気な会話をしているうちに目的地に着いたらしく、みっちゃんが「ここ」と看板を指差した。「Kyoto 生chocolate organic tea house」とおしゃれな文体で書かれている。緑に覆われた入り口をのぞくと、京町家のような建物が見えた。
「いい感じでしょ。琴子がすきそうだなって思って」
「うん、いい感じ」
わたしはうなずいて、みっちゃんと一緒に足を進めた。中はお店というよりは普通の家のようになっていた。畳の上には長机があり、隅には華やかな屏風も飾られている。座布団に座ると、そばに置かれている電気ヒーターのおかげで冷えた体があたためられていくのを感じた。
大きなメニューを広げ、ふたりともチョコレートと紅茶のセットを注文した。「ここのチョコレート、すごくおいしくて有名なんだよ」とみっちゃんがささやく。こんな和風な空間でチョコレートをいただくなんて、少しアンバランスな気もするが、だからこそ特別感があるように思えた。
期待に胸を膨らませて待っていると、数分ほどで注文の品が運ばれてきた。上品な皿の上に四角い生チョコレートが乗っており、そばには花が添えられている。見た目だけでそれが特別なものだと分かった。
口に入れるとチョコレートはすぐに溶け、甘みがふわりと広がっていった。
「すごくおいしい、上品な味がする!」
「ほんと、いつも食べてるチョコとは全然違うね」
みっちゃんもご満悦の表情で頬に手をあてている。今まで食べたどのチョコレートとも違う。特別な日にいただく最高級のスイーツ、という感じだ。
「高級感もあるし、年上の人に渡すならいいんじゃない」
「え?」
「渡すんでしょ、間崎教授に」
「……何で分かったの」
しぶしぶ認めると、みっちゃんは「やっぱり」と笑った。
「だって琴子がバレンタインにチョコ渡す人っていったら、教授くらいしか思いつかないし」
「違うよ、そういうのじゃないよ。こないだ迷惑かけたから、そのお詫びに……」
「ふーん。まぁ、そういうことにしといてあげる」
わたしは何も言い返せずに、紅茶を両手で包み込んだ。
落選のショックからようやく立ち直ったわたしを次に襲ってきたのは、教授室で泣いてしまったことへの後悔だった。人前で、しかもよりによって教授の前で泣くなんて。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたいとはこのことだ。一生こたつで丸くなっていたい。もう二度と顔を合わせたくない。
今思えばあの時、教授には一瞬で見抜かれてしまったんだろう。わたしに何があったのかを察して、元気づけるために紅茶を出してくれたんだろう。わたしが何も言わなくても、教授はすべて分かっていたんだ。分かっていて、慰めの言葉は一つもかけなかったのだ。「大丈夫」「若いから」なんて言葉よりも、ずっとあたたかい言葉を届けてくれた。だから、みっちゃんにチョコレートがおいしいお店を聞いたのも、今日ここに連れてきてもらったのも、全部そのお礼のためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
チョコレートは店内で食べられるもののほかに、テイクアウトや通販も行なっているらしい。さすがに教授をここに誘うのは勇気がいるので、帰りに一つ買って帰ろうと思った。
「みっちゃんも彼氏に渡すんでしょ」
「まぁ、一応そのつもり。あたしもここで買おうかな。結局手作りより買った方がおいしいもんね」
「分かる。手作りはハードルが高すぎる」
「自炊すらちゃんとできてないのに」
チョコレートがまた一つ、口の中に消えていく。
寒い日にはチョコレートが似合う。あたたかい部屋にこもってチョコレートを口に含めば、とろとろと舌の上で甘みが溶けて、ほろほろと心がほどけていく。窓からは小さな庭が見え、冬の風に緑がそよそよと揺られていた。もう少ししたらまた梅が咲き、あっという間に春になるのだろう。
「琴子も来月でようやくはたちかぁ」
「そういえばそうだった」
すっかり忘れていた。3月20日が来ればわたしは20歳になって、ようやくみっちゃんと同い年になる。
「またお祝いしなきゃね。祝ってもらいなよ、教授にも」
「どうして教授が出てくるの」
「うーん、なんとなく」
「なんとなくかぁ」
「そう。なんとなく」
「……その前に、チョコレート渡さなきゃ」
「大丈夫。受け取ってもらえるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
みっちゃんがなぜか絶対的な自信を持ってうなずく。この落ち着いた空間がそうさせるのだろうか、紅茶を飲んだらますます体があたたまって、うつらうつらと夢心地になった。
はたちになったら、少しは大人になれるのだろうか。未成年だからとか子供だからとか、そういうことを考えずに、接することができたなら。そしたら、少しだけ距離が縮まるのかもしれない。
チョコレートの最後の一つを、そっと口の中に放り込んだ。甘いものがだいすきなあの人の、喜ぶ顔が目に浮かんだ。