年末年始は去年と同様実家で過ごした。去年は地元の友だちと会ったりひたすらおせちやお餅を食べて過ごしていたけれど、今年は年始に一つ大きなイベントがあった。成人式だ。

「琴ちゃんもこんなに大きくなって」

振袖姿のわたしを見て、祖母は母と一緒にきゃっきゃっとはしゃいだ。

「まだ19だけど」

「そんな大して変わらんよ。ああ、やっぱりわたしに似てべっぴんさんだねぇ」

「ちょっと、そこは母であるわたしに似たのよ。ね、琴子」

「そんなのどっちでもいいよ……」

祖母と母のやりとりを背に受けながら、わたしは成人式に出席した。久しぶりに会う地元の友だちとの話に花を咲かせ、写真を撮り合い、食事をする。最初のうちは楽しかったけれど、だんだんと振袖がつらくなってきて、最後の方は早く帰りたい、それだけを必死に願っていたことしか覚えていない。

成人式を済ませても、突然何かが変わるわけじゃない。まだ未成年のわたしは、お酒が飲めるわけでも、煙草が吸えるわけでもない。残り少ない10代の時間をひしひしと感じながら京都へと戻った。

「あけましておめでとう」

待ち合わせの場所に行くと、間崎教授はすでに到着していた。教授はいわゆる「シュッとしている」スタイルなので、遠くからでもよく目立つ。2年連続正月を教授と過ごすことになるとは、縁とはふしぎなものだ。わたしは「おめでとうございます」と、いつもより丁寧に頭を下げた。

「今年もよろしくお願いします。早いですね」

「君が遅いだけ」

慌てて腕時計を見ると、約束した時間まではまだ5分もある。新しい年になっても、この人の性格は変わらない。

わたしたちが待ち合わせたのは新熊野(いまくまの)神社の前だった。去年は上賀茂神社で白馬奏覧神事を見たけれど、今日はここで「左義長(さぎちょう)神事」というものが行われるらしい。教授に教えてもらうまで知らなかったのだけれど、1月1日を中心とした行事を「大正月」と呼ぶのに対し、1月15日を中心に行う行事のことを「小正月」というらしい。今から行われる左義長神事も小正月の行事というわけだ。

決して広くはない境内には、すでに大勢の人が溢れ返っている。みんな、左義長神事を目当てにやってきたのだろうか。京都の人はいろいろな行事に精通しているようだ。

「ここ、『いまくまの』って読むんですね。初めて見た時正しく読めませんでした」

「紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野、という意味だ。新熊野神社は熊野信仰が盛んな時代に創建されてね。当時、熊野に行くのはそう容易なことではなかったから、熊野の新宮・別宮としてここに創られたんだ」

「なるほど……。ちなみに、左義長っていうのは?」

「あれのこと」

教授が人と人の隙間を指差す。示された先には、正月飾りや扇、「賀正」「寿」などと書かれた習字が、山のように盛られていた。

「吉田神社の火炉祭の時にあったものと似ていますね。もしかして、あれを燃やすんですか?」

「そうだ。左義長の起源は、平安時代の宮中行事にあるといわれている。青竹を束ねて立て、毬杖(ぎっちょう)3本を結び、その上に扇子や短冊などを添える。陰陽師が謡いはやしながらこれを焼き、その年の吉凶などを占ったそうだ。ちなみに、炎が高く上がると『吉』。毬杖3本を結ぶことから三毬杖(さぎちょう)と呼ばれるようになったらしい」

「へぇーっ」

わたしたちが話していると、しずしずと神職の方たちがやってきた。どうやら、今から左義長神事が行われるらしい。山伏の衣装を着ている方もいる。これも「熊野信仰」に基づいているのだろうか。

神職のひとりが祭壇の前に立ち、「軽く頭を下げてください」と言った。わたしたちは言われた通り頭を下げた。先ほどまでと打って変わり、言葉を発する人は誰もいない。こういう時自然と黙り込むのは、日本人の本能なのかもしれない。頭を上げると、神職の方が大幣(おおぬさ)を祭壇の前で振っていた。そのあとは、参拝者たちにも同じように大幣を振って歩いていく。また別の神職の方が、白いちり紙のようなものを参拝者たちに振りまいていく。どうやらこれが「お清め」のようだ。

お清めが終わると、神職の方は祭壇の前で2回頭を下げ、2回拍手をした。その動きに合わせて、わたしたちももう一度頭を下げる。

祭壇に向かって祝詞が読み上げられていく。続いて、山伏の格好をした人が口上を述べていった。

「宮中では正月期間の前半7日に神事、後半7日に仏事が行われることに基づいて、前半は神主、後半は山伏が祭典を執り行うんだ」

教授の説明を聞きながら、わたしは山伏たちを眺めた。そのうちのひとりが左義長に向かって矢を放つと、おおーっと大きく歓声が上がった。

カンカンカン、と、どこからか音が響く。よくよく目を凝らすと、どうやら火打ち石で火を起こしていたようだ。その火種を松明に移し、左義長に点火する。白い煙がもくもくと上がり始めた。祝詞が読み上げられ、法螺貝の音が響き渡った。まるで犬の遠吠えのような音だ。鈴の音がしゃんしゃんと鳴り、火がパチパチと弾けるような音を立てる。

「吉田神社で見たのとはまた、少し違いますね。あの時は火事みたいな勢いがありましたけど、今日はまだ熱さも耐えられます」

「あの時は大変だったな……」

吉田神社の火炉祭では、写真を撮ろうと最前列で待機していたけれど、あまりの熱さに耐えられずそそくさと退散した記憶がある。最前列でもないし、あの時の炎に比べたら、今日はまだ大丈夫だ。

「今年は『吉』ですかね」

オレンジ色の炎がごうごうと空高く上がっている。そうだな、と、教授が微笑む。 

神職の方に手渡された榊を祭壇に供えたら、左義長神事はひと段落する。人の間を通り抜けて、わたしたちは本殿でお参りをした。手を合わせて祈るのは、今年1年の幸福、それと、自分自身の成長だ。去年よりも長く目を閉じて、心の中で強く祈る。こんな風に願うのは、大学受験以来かもしれない。いつだって大した目標もないまま、流されて生きてきた。写真だって、ただすきだから続けていた。だけど今はもう、それだけじゃ満足できない。

2回生になって意識も変わり、改めてカメラの勉強をした。本を読み、もう一度基礎を振り返り、シャッターを切る時にも構図をより考えるようになった。少しずつ、少しずつ。成長していると信じたいのだ。





フォトコンテストの結果が発表されたのは、それから3週間後のことだった。