入学、進学、卒業、引っ越し。

わたしにとって桜は、始まりと終わりの象徴だ。いつだって春は人生の節目と重なっていて、未来に対する期待と、過去に対するさみしさが混濁している。特に去年は大学合格に引っ越しと、人生で最大の変化があったものだから、例年にも増して穏やかな心境ではいられなくって、毎日バタバタと走り回っていた。もっと心に余裕を持ちたいわ、ゆっくり桜を鑑賞したいわ、なんて思っていたけれど、やっぱり今年もわたしは落ち着きがない。桜を見るために、今日もこうしてカメラを持って外に出る。

「桜っていいですねぇ」

目の前を覆い尽くす桜を見ていたら、自然とそんな言葉が口から漏れた。まだかろうじて10代なのに、なんだかおばあさんみたいな口調になってしまった。隣を歩く間崎教授もそう思ったのか、風景に向けていた視線をわたしに向け、大げさに眉をしかめた。

「どうしたんだ、そんなに改まって……」

「いえ、去年は引っ越しや入学準備で忙しくて、ゆっくり桜を見る機会がなかったなぁって思い出したんです。写真を撮る暇すらなかったから、せっかく京都に来たのに桜の写真が1枚もなくて……」

先日、パソコンに入れていた写真データを整理する機会があった。教授と初めて一緒に訪れた金福寺、母とともに行った貴船神社、秋の紅葉に、雪の金閣寺。四季折々の風景を眺めていると、いろいろなところに行ったなぁ、と思うと同時に、そこに桜が写っていないことにさみしさを感じてしまったのだ。いくら後悔したって、過ぎた時間は巻き戻らないのだけれど。

わたしの声色に紛れた微かな思いを察したのか、教授は安心させるように微笑んだ。

「それなら、今年は去年の分まで桜の写真を撮ればいい。まだあと1週間くらいは盛りだろうから」

「そうします。桜の名所にすぐ行けるって、京都のいいところですよね。哲学の道に平安神宮、銀閣寺……テレビでも特集されるような桜の名所がたくさんあるのって、本当に贅沢」

「桜もいいけど、神苑のよさもしっかり見ておくこと」

「もちろん!」

わたしは大きくうなずいて、意気揚々と足を進めた。





平安神宮は桓武天皇を祀る神宮として創建されたのが始まりで、その後孝明天皇を合祀して社殿や回廊などが増築され、現在の形に整えられたそうだ。敷地が広いので少し見ただけで満足してしまいそうになるけれど、間崎教授がお気に入りの神苑こそが、美しい桜を見るには絶好の場所だという。

入り口の門をくぐると、美しいしだれ桜が目に飛び込んできた。街中でよく見る桜とは違い、まるで空から桃色の雨が降り注いでいるようだ。

「神苑って、こんなにたくさん桜があるんですね。教授が気に入る理由が分かりました」

わたしは自前のカメラを掲げて何度もシャッターを切った。去年十分に桜を鑑賞できなかった分、たくさん写真を撮らなければ。

さすが知名度Sランクの桜の名所、人の多さもSランクだ。今日が平日であることがせめてもの救いかもしれない。

こういう時にふと頭をよぎるのは、教授と一緒にいるところを知り合いに見られやしないか、ということだ。普段ならそこまで気にはならないのだけれど、平安神宮は大学からも近いので、余計な心配をしてしまう。認めたくはないけれど、教授は学生からの人気が高いのだ。大学を離れてふたりでいるところを見られたら、何て噂をされるか分からない。

とはいえ、気にしたところでどうにもならないことも理解している。結局のところ、わたしは普通に教授の隣を歩き、普通に写真を撮るだけだ。

「平安の苑」と呼ばれるエリアには、伊勢物語や古今和歌集など、平安時代に著された書物の中にある植物がその一節の紹介とともに植栽されている。わたしの足元には「あなこひし今もみてしが山がつのかきほにさけるやまとなでしこ」という和歌があった。いつか咲き誇るなでしこの花を連想させる、なんとも趣深い歌だ。

「神苑には桜以外にもたくさん植物があるんですね。添えられている和歌も素敵です」

「そういえば、君は東洋文化学系に進むんだったね」 

「はい、まだ専修はどれにするか決めてないんですけど。もちろん、教授の講義も履修するつもりです」

わたしの所属する文学部では2回生から「学系」に分かれ、より専門的な講義を履修することができるようになる。わたしは悩んだ末、日本や中国、インドを中心とした文学、思想、文化を研究する「東洋文化学系」を選択した。

「私の講義なんて取らなくていいよ。大した話はしていないから」

「それ、絶対他の学生の前では言わないでくださいね」

冗談なのか本気なのかよく分からないことを言うのは、この人の悪いところだと思う。真面目で穏やかそうに見えるのに、いざ話してみると案外適当で口もよくない。教授のこういう面を知っている人は少数派なのだろう。

神苑の4分の1を占めるという池には、雲一つない青空がそのまま映っていた。人が写り込まずに写真を撮ることができるので、より一層桜の美しさが際立っている。

「有名な場所だから人も多いけれど、一度来てみる価値はあるだろう」

「本当ですね。2回生もいいスタートが切れそうです」

1年前は忙しさに翻弄されて出かける気力もなかったけれど、こうして桜をゆっくり眺めることができただけで、去年よりもいい1年になる予感がしている。

「そういえば、進級するにあたって何か目標はあるか」

「何ですか、いきなり」

「桜の盛りと同じように、学生生活はすぐに過ぎ去ってしまう。2回生で、何か一つやりたいことを見つけ、それを成し遂げてみなさい。別に学業のことじゃなくていい。小さなことでいいんだよ。そうすることで、有意義に時間を使えるようになるから」

「……ものすごい指導者らしいこと言いますね」

「一応、教授と学生、でしょう」

わたしはカメラを下ろして、教授の言う「目標」について考えてみた。卒業なんてはるか先のことのように思えるけれど、うかうかしていたら一瞬で過ぎ去ってしまうのだろう。咲いたと思ったらすぐに散ってしまう桜と同じだ。

去年は京都に越して教授と出会い、さまざまな写真を撮ってきた。今年も同じように京都を巡ろうとしていたけれど、それだけではだめなのだろうか。もっと、次の段階に進まないといけないのだろうか。

「そう言われても、すぐには思いつかないです」

「まぁ、ゆっくり考えればいい。その時間もまた、有意義なものだよ」

教授はのんびりとそう言って歩き出した。わたしはまだその場を動かず、池に映る桜をじっと眺めた。

今年も去年と同じように、写真を撮れたらいいと思っていた。春の桜や夏の青空、秋のもみじに冬の雪。そうやって四季折々の景色を集められたら、それで十分満足だと。そう思っていたけれど、それだけではだめなのかもしれない。

強い風が吹いた。桃色の花弁が渦を巻くように舞い上がり、やがて青空に吸い込まれていった。