旧三井家下鴨別邸に行ったあと、間崎教授が選んでくれた源光庵の写真をカメラ屋さんで現像し、フォトコンテストに応募した。祈るように写真の入った封筒をポストに入れたら、大仕事を終えたような気持ちになった。結果発表は2月上旬とまだまだ先だ。もし入賞できたら、父や母、そして教授もきっと喜んでくれるに違いない。
気づけばもう今年も数えるほどで、年内の講義も残り少ない。この時期になると真面目に出席する学生も減り、なんとなくキャンパスもさみしい空気が漂っている。もうもみじは完全に散り、息を吐けばたちまち白く染まる。
冬になると、受験生だった頃のことを思い出す。毎朝一番に登校し、友だちと遅くまで自習をし、来る日も来る日も机に向かっていたあの頃は、ただ受験を終わらせたい一心だった。早く勉強から解放されたい、早くカメラに触れたい。考えるのはただそれだけで、入学したらどうなるのか、なんて想像する余裕すらなかった。もし今のような日々が待っていると知っていたなら、受験勉強すら楽しく思えただろう。
「御坂さん、ちょっと」
金曜日の1限が終了し、講義室を出ようとしたら、突然教授がよそよそしくわたしを呼んだ。わたしは思わず身構えた。こういう時はろくなことがないと、本能的に知っている。
「どうしたんですか、かしこまって」
どうせまた面倒な頼みごとをしてくるに違いない。おそるおそる近づいていくと、教授は声を潜めて、
「日曜の昼、あいているか」
「え? あいてますけど」
「じゃあ、あけておいて。場所はまた連絡する」
「はぁ」
言いたいことだけ言うと、教授は足早にその場を去っていった。本当に、一体何なんだ。
理由が分かったのはその日の夜のこと。教授から「日曜、12時にここで」という簡素な言葉と、「順正」という湯豆腐の店の情報が届いたのだ。どういう風の吹き回しか、わたしをランチに誘っているらしい。一瞬喜んでしまったが、いやいや、そんなうまい話があるまい、と思い直した。教授が何の見返りもなしに優しくしてくれるなんてありえない。きっと何か裏があるに違いない。安易に喜ばないようにしなくては。
そう決意して迎えた日曜日。
「わーっ、どれもおいしそう!」
「順正」のメニューを開いた瞬間、わたしはあっさりと喜びの声を上げてしまった。添えられた写真には湯豆腐だけでなく天ぷらや田楽、ごま豆腐なども並んでいる。
「わたし、湯豆腐ってちゃんと食べるのは初めてです」
「それはよかった。どれでもすきなものを頼んでいいよ」
「じゃあ、この『おてまえどうふ』ってやつにします。自分で作るのっておもしろそう」
わたしが選ぶと、教授は店員を呼んで「おてまえどうふ」を注文してくれた。
南禅寺付近には湯豆腐のお店が密集している、と以前みっちゃんから聞いたことがある。「順正」も南禅寺の門からすぐ近くにあり、窓からは併設されている庭園が見えた。江戸時代後期に造られた順正書院と、庭園や客室へ向かう際にくぐる石門が国登録有形文化財になっているそうだ。湯豆腐を食べ終えたら散策してみよう、と教授が言った。
「でも、どうしていきなり湯豆腐を?」
「知人と会食をする予定だったんだが、急遽向こうの都合がつかなくなって。暇そうな君を誘っただけ」
「一言多いです。っていうか、教授にも友だちいたんですね」
「一言多いな」
しばらくすると、注文した品が続々と運ばれてきた。ごま豆腐、炊き合わせ、豆腐田楽、野菜天ぷら、ご飯、香の物。そして白い液体の入った鍋。どうやらこの液体は豆乳で、これが豆腐の素になるらしい。
「豆乳を5分ほど湯煎にかけたら、温度が均等になるようにヘラで軽くかき混ぜていく」
教授が豆乳をヘラでかき混ぜながら、講義のように説明をしてくれた。また5分経ったら火をとめ、にがりを鍋の中心に入れる。そのあとに豆乳をヘラで大きく8の字に約10回かき混ぜるそうだ。
「あっ、全体がぶくぶくしてきました」
「かき混ぜ終わったら、蓋をしてあと5分待つんだ」
わたしは教授に言われた通り鍋に蓋をした。5分後に蓋を取ると、さっきまで液体だった豆乳が固まり、表面がつるっとしている。どうやら豆腐が完成したようだ。白い湯気がわたしと教授の間に立ちのぼる。
教授が慣れた手つきで取り皿に豆腐をよそってくれた。いただきます、と手を合わせる。
「あふっ、熱いです」
はふはふと口を動かしながら豆腐を喉に通した。できたての豆腐はやわらかく、舌触りがとてもなめらかだ。やはりスーパーで売っている豆腐とはまったく違う。噛むというより、自然と喉の奥に吸い込まれていくような感じだ。
コンテストにも無事応募したし、講義もあと少しだし、忘年会みたいだな、と考えていたら、教授も同じことを思っていたようで、「これで酒でも飲んだら完全に忘年会だな」と言った。
「お酒、早く飲みたいです。みんな成人しているのに、早生まれだからまだ飲めないんですよ」
「誕生日は?」
「3月20日です。プレゼント待ってます」
さりげなくねだるんじゃない、と、教授があきれたように言う。
小さい頃わたしの両親は、早生まれは4月生まれの子供と1年近く差があるので、勉強も運動も大変ねぇ、なんて言われていたそうだ。確かに運動はできなかったけれど、同じく早生まれの友だちはクラスで一番足が速かった。勉強だって結果的に今の大学に入れたわけだし、結局は本人次第なんじゃないかと思う。小学校高学年になる頃には、周囲から生まれ月に関することは言われなくなった、と、母が自慢げに言っていた。
「教授は誕生日、いつですか?」
「秘密」
「何でですか」
「警戒心が強いから」
何だそれは。猫か。
出会ってずいぶん経つけれど、教授はプライベートなことをあまり話さない。まぁ、大学の学生にペラペラと自分のことを話す教授はそうそういないだろう、とも思うけれど、あまりにも話さないので逆に気になってくる。
「そういえば教授って、京都出身じゃないですよね。標準語ですし。生まれはどこなんですか?」
「……秘密」
「何で」
「警戒心が強いから」
「だから誘う人わたししかいないんでしょ。今日だって自分が湯豆腐食べたかっただけなんじゃないですか。絶対そうでしょ。二人前からしか注文できないからでしょ」
「そんなことはない。一緒に食事に行く知人はたくさんいる。ただ、琴子さんが一番なんだ。一番気軽に誘えて、絶対に断らなさそうで、いつでもすぐに来てくれて」
「それ、一番都合がいいってことですよね?」
教授は反論することなくうーんと唸り、逃げるように湯豆腐を口に運んだ。この態度、完全になめている。
とはいえ、教授のおかげでこうして順正の湯豆腐にありつけているのだから、そこは感謝するべきなのかもしれない。学生同士では気軽に来ることのできないようなお店でゆったりと食事を楽しんでいると、いよいよ今年も終わりだな、という気持ちになってくる。去年同様、いろいろな場所に行き、数え切れないほどたくさん写真を撮った。どれも思い出深いけれど、やはり去年撮り逃した桜を撮影できたことが一番印象に残っている。
「まぁ、今年もいろいろなところに連れていってもらったし、感謝しています」
「こちらこそ。来年もよろしく頼むよ」
舌の上で湯豆腐が溶けていく。ごま豆腐も田楽も天ぷらもおいしい。今年1年の締めくくりとしては最高なんじゃないか。
来年もこうして、教授といろいろな場所に行けたらいい。コンテストで入賞をして、今度こそ一緒に雪景色を見たい。寒いから、とか朝早いから、なんて言われても、必ず連れ出してやろうと決めた。
気づけばもう今年も数えるほどで、年内の講義も残り少ない。この時期になると真面目に出席する学生も減り、なんとなくキャンパスもさみしい空気が漂っている。もうもみじは完全に散り、息を吐けばたちまち白く染まる。
冬になると、受験生だった頃のことを思い出す。毎朝一番に登校し、友だちと遅くまで自習をし、来る日も来る日も机に向かっていたあの頃は、ただ受験を終わらせたい一心だった。早く勉強から解放されたい、早くカメラに触れたい。考えるのはただそれだけで、入学したらどうなるのか、なんて想像する余裕すらなかった。もし今のような日々が待っていると知っていたなら、受験勉強すら楽しく思えただろう。
「御坂さん、ちょっと」
金曜日の1限が終了し、講義室を出ようとしたら、突然教授がよそよそしくわたしを呼んだ。わたしは思わず身構えた。こういう時はろくなことがないと、本能的に知っている。
「どうしたんですか、かしこまって」
どうせまた面倒な頼みごとをしてくるに違いない。おそるおそる近づいていくと、教授は声を潜めて、
「日曜の昼、あいているか」
「え? あいてますけど」
「じゃあ、あけておいて。場所はまた連絡する」
「はぁ」
言いたいことだけ言うと、教授は足早にその場を去っていった。本当に、一体何なんだ。
理由が分かったのはその日の夜のこと。教授から「日曜、12時にここで」という簡素な言葉と、「順正」という湯豆腐の店の情報が届いたのだ。どういう風の吹き回しか、わたしをランチに誘っているらしい。一瞬喜んでしまったが、いやいや、そんなうまい話があるまい、と思い直した。教授が何の見返りもなしに優しくしてくれるなんてありえない。きっと何か裏があるに違いない。安易に喜ばないようにしなくては。
そう決意して迎えた日曜日。
「わーっ、どれもおいしそう!」
「順正」のメニューを開いた瞬間、わたしはあっさりと喜びの声を上げてしまった。添えられた写真には湯豆腐だけでなく天ぷらや田楽、ごま豆腐なども並んでいる。
「わたし、湯豆腐ってちゃんと食べるのは初めてです」
「それはよかった。どれでもすきなものを頼んでいいよ」
「じゃあ、この『おてまえどうふ』ってやつにします。自分で作るのっておもしろそう」
わたしが選ぶと、教授は店員を呼んで「おてまえどうふ」を注文してくれた。
南禅寺付近には湯豆腐のお店が密集している、と以前みっちゃんから聞いたことがある。「順正」も南禅寺の門からすぐ近くにあり、窓からは併設されている庭園が見えた。江戸時代後期に造られた順正書院と、庭園や客室へ向かう際にくぐる石門が国登録有形文化財になっているそうだ。湯豆腐を食べ終えたら散策してみよう、と教授が言った。
「でも、どうしていきなり湯豆腐を?」
「知人と会食をする予定だったんだが、急遽向こうの都合がつかなくなって。暇そうな君を誘っただけ」
「一言多いです。っていうか、教授にも友だちいたんですね」
「一言多いな」
しばらくすると、注文した品が続々と運ばれてきた。ごま豆腐、炊き合わせ、豆腐田楽、野菜天ぷら、ご飯、香の物。そして白い液体の入った鍋。どうやらこの液体は豆乳で、これが豆腐の素になるらしい。
「豆乳を5分ほど湯煎にかけたら、温度が均等になるようにヘラで軽くかき混ぜていく」
教授が豆乳をヘラでかき混ぜながら、講義のように説明をしてくれた。また5分経ったら火をとめ、にがりを鍋の中心に入れる。そのあとに豆乳をヘラで大きく8の字に約10回かき混ぜるそうだ。
「あっ、全体がぶくぶくしてきました」
「かき混ぜ終わったら、蓋をしてあと5分待つんだ」
わたしは教授に言われた通り鍋に蓋をした。5分後に蓋を取ると、さっきまで液体だった豆乳が固まり、表面がつるっとしている。どうやら豆腐が完成したようだ。白い湯気がわたしと教授の間に立ちのぼる。
教授が慣れた手つきで取り皿に豆腐をよそってくれた。いただきます、と手を合わせる。
「あふっ、熱いです」
はふはふと口を動かしながら豆腐を喉に通した。できたての豆腐はやわらかく、舌触りがとてもなめらかだ。やはりスーパーで売っている豆腐とはまったく違う。噛むというより、自然と喉の奥に吸い込まれていくような感じだ。
コンテストにも無事応募したし、講義もあと少しだし、忘年会みたいだな、と考えていたら、教授も同じことを思っていたようで、「これで酒でも飲んだら完全に忘年会だな」と言った。
「お酒、早く飲みたいです。みんな成人しているのに、早生まれだからまだ飲めないんですよ」
「誕生日は?」
「3月20日です。プレゼント待ってます」
さりげなくねだるんじゃない、と、教授があきれたように言う。
小さい頃わたしの両親は、早生まれは4月生まれの子供と1年近く差があるので、勉強も運動も大変ねぇ、なんて言われていたそうだ。確かに運動はできなかったけれど、同じく早生まれの友だちはクラスで一番足が速かった。勉強だって結果的に今の大学に入れたわけだし、結局は本人次第なんじゃないかと思う。小学校高学年になる頃には、周囲から生まれ月に関することは言われなくなった、と、母が自慢げに言っていた。
「教授は誕生日、いつですか?」
「秘密」
「何でですか」
「警戒心が強いから」
何だそれは。猫か。
出会ってずいぶん経つけれど、教授はプライベートなことをあまり話さない。まぁ、大学の学生にペラペラと自分のことを話す教授はそうそういないだろう、とも思うけれど、あまりにも話さないので逆に気になってくる。
「そういえば教授って、京都出身じゃないですよね。標準語ですし。生まれはどこなんですか?」
「……秘密」
「何で」
「警戒心が強いから」
「だから誘う人わたししかいないんでしょ。今日だって自分が湯豆腐食べたかっただけなんじゃないですか。絶対そうでしょ。二人前からしか注文できないからでしょ」
「そんなことはない。一緒に食事に行く知人はたくさんいる。ただ、琴子さんが一番なんだ。一番気軽に誘えて、絶対に断らなさそうで、いつでもすぐに来てくれて」
「それ、一番都合がいいってことですよね?」
教授は反論することなくうーんと唸り、逃げるように湯豆腐を口に運んだ。この態度、完全になめている。
とはいえ、教授のおかげでこうして順正の湯豆腐にありつけているのだから、そこは感謝するべきなのかもしれない。学生同士では気軽に来ることのできないようなお店でゆったりと食事を楽しんでいると、いよいよ今年も終わりだな、という気持ちになってくる。去年同様、いろいろな場所に行き、数え切れないほどたくさん写真を撮った。どれも思い出深いけれど、やはり去年撮り逃した桜を撮影できたことが一番印象に残っている。
「まぁ、今年もいろいろなところに連れていってもらったし、感謝しています」
「こちらこそ。来年もよろしく頼むよ」
舌の上で湯豆腐が溶けていく。ごま豆腐も田楽も天ぷらもおいしい。今年1年の締めくくりとしては最高なんじゃないか。
来年もこうして、教授といろいろな場所に行けたらいい。コンテストで入賞をして、今度こそ一緒に雪景色を見たい。寒いから、とか朝早いから、なんて言われても、必ず連れ出してやろうと決めた。