『おはよー。今日時間ある? 学祭来ない?』

家を出る直前、みっちゃんから突如そんなメッセージが届いた。わたしは上着を選びながら返信を打った。

『ごめん。ちょっと今から行くところがあって』

『えーっ、また間崎教授とデート?』

『デートじゃないし。ひとりだし』

『なーんだ。まぁ、来れたら来てよ。焼きそば奢る』

『ありがと。また連絡するね』

そう返信をして、わたしは携帯電話をズボンのポケットにしまった。先ほど見た天気予報を思い浮かべながらカーディガンを羽織る。マフラーはなくても大丈夫だろう。

マンションを出ると、秋の風が冷たくわたしの肌に染み込んだ。大学では今日も学祭が行われているはずだ。きっと大勢の人で賑わっているのだろう。去年ちらりとのぞいてみたけれど、サークルに入っていないわたしはひたすら食べ歩きをして終わった。それに、ちょうど紅葉の盛りとも被っているため、わたしとしてはそちらを優先したいと思ってしまうのだ。

昨日だけで十分すぎるほどもみじの写真を撮影した、とは思う。毘沙門堂では敷きもみじの美しさに触れたし、動く襖絵のおもしろさにわくわくした。岩屋寺に行き、イチョウの鮮やかさに感動し、大石内蔵助の生き様に心が震えた。去年の自分なら、それだけで十分なはずだった。

だけどもう少しだけ、自分の写真を探ってみたいと思ったのだ。誰にでも撮れる景色ではなく、自分だけの景色を、もう少しだけ探してみたい。そう、思ったのだ。

きっかけとなったのは、先日「SHIN-SETSU」に行った時にみっちゃんから聞いたあの話だ。同じ文学部の学生が、フォトコンテストで入賞したという。あの時からずっと考えていた。

今まで、フォトコンテストなんてものに興味はなかった。カメラがすき。写真がすき。ただその一心で撮り続けていただけだったから。2回生になってから今まで、写真の上達を目標に掲げて、自分なりに努力してきたつもりだ。アルバイトも始めたし、カメラも新調した。一歩ずつ着実に、進んでいるつもりだった。

だけど、それだけでいいのだろうか。もっとやれることがあるんじゃないのか。もっと教授に感動してもらえるような写真を撮りたい。そんな思いが衝動となった。

わたしが目をつけたのは、鷹ヶ峰にある「源光庵」だ。昔、JRのポスターで見た記憶があって、なんとなく印象に残っていたのだ。有名な場所だから人も多いだろうが、平日だし、朝一番に行ったらまだましかもしれない。 

源光庵は、わたしの住む一乗寺からだとバスで1時間ほどかかる。京都市内では北西に位置しており、普段は足を延ばさないエリアだ。そう考えると、やはり自分の行動範囲はまだまだ狭い。

鷹峯源光庵前のバス停で降りると、すぐ近くに「源光庵」と掘られた石標があった。予想通り、この時間だと人は多くない。ゆっくりと進んでいくと、歩いた先にあるもみじが美しく紅葉していた。もしかしたら散ってしまっているかも……と案じていたけれど、どうやら杞憂だったようだ。朝一番の空は青く澄んでいて、もみじのグラデーションをより一層際立たせている。たまにはこうしてひとりで朝から出かけるのもいい。

境内はもみじ以外にも草木が生い茂り、緑に溢れていた。予想していたよりはるかに広い。

受付を済ませて堂内を歩いていくと、ポスターで見た丸窓と四角い窓があった。それぞれの窓からはもみじが顔をのぞかせ、まるで別の世界へ続いているように見える。四角い窓からは朝日がこの季節とは思えないほど強く差し込み、畳の一部を道しるべのように光らせていた。

いつもならすぐにカメラを向けるのに、なぜかそんな気にはなれなかった。これからの行く先を決める分岐点に立たされたような感覚だった。

わたしは受付でもらったパンフレットを開いた。丸い方が「悟りの窓」、四角い方は「迷いの窓」というそうだ。悟りの窓の円型は「禅と円通」の⼼を表し、円は⼤宇宙を表現している。迷いの窓の⾓型は「⼈間の⽣涯」を象徴し、⽣⽼病死の四苦⼋苦を表しているらしい。

迷いの窓からだけ朝日が差し込んでいるのは単なる偶然だろうけれど、どうしてだろう、自分の心を見透かされているような気がした。

(いつもより緊張していますね)

パンフレットをしまいカメラを構えると、ストラップのこん様がゆらゆら揺れた。

「なんとなく、勝負どころな気がして」

(勝負?)

「成長度をはかる、みたいなことをしなきゃいけないような気がしているんです。写真に関しては、教授はいつも褒めてくれるから。それはすごく嬉しいけど、その優しさに甘えてちゃだめかなって思って」

(人間の考えることは分からないです)

でも、とこん様がわたしを見上げた。

(きらいじゃないです。そういうの)

1年前、雲龍院に行った時のことを思い出した。「しき紙の景色」を撮影した時、外と室内の明暗差に悩まされて、なかなかうまく撮影することができなかった。今目の前にある室内外の明暗差はあの時以上だ。室内が暗く、二つの窓から見える景色は明るい。はたして、うまく撮れるだろうか。

まずは両方の窓をフレームに収めた状態でシャッターを切ってみる。光の対比のおもしろさを、というのが狙いだ。少しでも太陽の位置がずれてしまったらこうはならないだろうから、今の時間ならではの1枚が撮れた気がする。去年は調整に時間がかかってしまったが、今回はそれほど悩まずに撮影することができた。

迷いの窓だけを撮ってみると、畳の上にできる光と影の造形も美しいことに気がついた。露出を少しずつ変化させながら、二つの窓を別々に撮っていく。

わたしには夢がない。将来なりたい職業があって大学を選んだわけではないし、カメラだって「趣味」と言ってしまえばそれまでだ。だけど京都に来て、自分の撮影した写真でも誰かを感動させることができるのだと知った。すきと言ってくれる人がいるのだと。だから今はただ、もっと喜んでほしいと思う。その思いが、わたしを突き動かしている。

本堂の天井にはところどころに手や足の形があった。去年訪れた興聖寺と同じく、伏見桃山城の遺構である「血天井」らしい。

ご本尊である華厳の釈迦牟尼佛にご挨拶をし、本堂から庭を眺めた。風は冷たいが太陽の日差しはあたたかく、心地のいい気候だ。春の桜もいいけれど、やはり紅葉したもみじもいい。朝日に照らされたもみじは鮮やかさを増し、風に揺れるたびにカサカサと布の擦れるような音を出す。景色だけでなく、音や感じたこともすべて写真に写ったらいいのに。

「お嬢さん、すみません」

本堂を出て庭園のもみじを撮っていると、背の低いおじいさんから声をかけられた。おじいさんに寄り添うように、丸い眼鏡をかけたおばあさんがちょこんと立っている。

「写真を撮ってもらえますか」

おじいさんはそう言って、わたしに携帯電話を差し出した。いいですよ、と受け取ると、ふたりはゆっくりともみじの前に移動した。おばあさんがおじいさんの腕に腕を絡め、穏やかに微笑んだ。

「撮りますね。はい、チーズ」

数枚シャッターを切ったあと、「確認してください」とおじいさんに携帯電話を返した。

「ありがとうございます。まぁ、きれいに撮っていただいて」

「頼んでよかったねぇ、お父さん」

ふたりは顔を見合わせて嬉しそうに笑った。

(嬉しそうですね、琴子さん)

寄り添って歩く後ろ姿を見送っていたら、こん様がわたしを見上げてゆらゆら揺れた。わたしはこん様を右手で包んだ。

「人間っていうのは、人に喜んでもらうと嬉しくなる生き物なんです」

わたしは再びカメラを構え、目の前のもみじに焦点を合わせた。パシャ、という軽快な音が、秋の日によく似合っていた。