11月に入ると徐々に紅葉が進み始め、例年のごとく20日を過ぎる頃にはほとんどの名所で盛りとなった。

今年は寒くなりそうです、なんて天気予報でお天気お姉さんが言っていたわりにはまだあたたかく、マフラーも手袋もなしで外に出られるくらいの気温だった。去年の今頃は分厚いコートを羽織っていた記憶があるけれど、今年は太陽の助けもあって、1日中外を出歩いていても大丈夫そうな予感がしている。道行く人を見てもそこまで寒そうではない。もみじ狩りには絶好の日というわけだ。

それなのに隣にいる間崎教授は、タートルネックの上にさらに分厚いコートを羽織り、寒そうに首を縮めている。朝も弱いし寒いのも苦手となると、案外わたしの方がタフなのかもしれない。

去年は光明院や雲龍院、知恩院のライトアップに行った。本当は東福寺に行く予定だったけれど、あまりにも混雑していて断念したことを思い出す。今年の春に行けたからよかったのだけれど、その反省を踏まえて、今回は完全に教授に任せることにした。やはり餅は餅屋、詳しい人に任せるに越したことはない。わたしもこの1年でずいぶん京都に詳しくなったつもりだけれど、まだまだ行ったことのない場所ばかりだ。

今回教授に集合場所として指定されたのは京阪山科駅だ。普段生活しているとなかなかこちらの方まで来ることがないので、何があるかすら全然知らない。相変わらず教授は集合時間と場所を言うだけで、なかなか目的地は教えてくれない。

「今日はやけに気合いが入っているな」

おはようございます、と大きな声で挨拶をすると、教授が開口一番にそう言った。

「そりゃそうですよ。新しいカメラで紅葉を撮るんですから」

わたしは首から下げているカメラを高く掲げた。先日、ついにアルバイトで貯めたお金をはたいて念願のカメラを購入した。Canon EOS R6という機種だ。30万円以上するので貯金はすっからかんになってしまったけれど、まったく後悔はない。何度か試し撮りはしていたけれど、今日が本格的なデビューだ。もちろん、こん様のストラップも前のカメラからちゃんとつけ替えている。

「わたし、山科って初めて来ました。ここからどこへ向かうんですか?」

「毘沙門堂。ここ数年行ってなかったから、久しぶりに行きたくなった」

要するに、完全に教授の気まぐれである。まぁ教授が何度も行きたくなるんだから、魅力的な場所には違いない。駅前でタクシーを拾って、一気に坂道を駆け上がった。

タクシーを降りると、遠くの方で大勢の人がしきりに何かを撮っているのが見えた。歩いていくと、そこにはなだらかな階段があり、両脇にあるもみじが燃えるように紅葉している。そのもみじが散り落ちて、階段を赤く染めているのだ。

「すごい。絨毯みたいですね!」

「毘沙門堂はこの敷きもみじが有名でね。まだそんなに散ってはいないが……」

「いいです。とってもいいです。頑張って撮ります」

わたしは意気揚々とカメラを構えた。パシャ、と新鮮な音が鳴る。今までのカメラでも十分だったけれど、やはり新しいカメラはいい。特に進歩を感じるのは、全画面がピントを合わせられる測距エリアになっていることと、ボディ内手振れ補正がついていることだ。これまでは、ピントを測距点に合わせた状態で狙った構図になるように、カメラを動かすのが面倒だった。だけどこのカメラならその手間がなくなるし、三脚がなくてもブレのない写真が撮れそうだ。

毘沙門堂は天台宗五箇室門跡の一つで、正式には出雲寺というらしい。本尊に京の七福神の一つ毘沙門天を祀ることからこの名があるんだよ、と、教授が教えてくれた。

「毘沙門堂の魅力は、もみじだけではないんだよ」

仁王門をくぐり受付を済ませ、わたしたちは本殿に上がった。どの場所ももみじだけがすべてではないと、今のわたしは知っている。もみじの赤色に気を取られていたら、きっと見落としてしまうものがある。

霊殿と呼ばれる建物の天井には、大きな龍が描かれていた。建仁寺や雲龍院と同様、こちらの龍も迫力がある。

「狩野永叔主信(かのうえいしゅくもりのぶ)が描いた、この霊殿の守護龍だよ。角度を変えて見てごらん」

「角度?」

わたしは教授に言われるがまま位置を変えてみた。あっ、と声を上げる。

「龍の目の向きや顔つきが違う気がします!」

「そうでしょう。それは……」

「何で? どうして? 全然分かりません。でも、おもしろいです!」

龍を見上げながらぐるぐる歩きまわっていると、教授が笑う気配がした。見ると、口元を手で覆って肩を震わせている。

「何でそんなに笑うんですか。は、恥ずかしくなるじゃないですか」

「いや……次に行こう」

歩き出しても、教授の笑いがおさまる気配はない。なんだか今日はいつもより機嫌がいい気がする。少しはしゃぎすぎたのかもしれない。子供っぽいと思われたのかも。わたしは体を縮めて教授のあとについていった。

「九老之間」と呼ばれる部屋に行くと、老人と子供が描かれていた。ふたりの老人が長机を挟んで何かを話していて、子供はその近くの床に座っている。もうひとりの老人は少し離れた場所から3人を見つめていた。

「襖絵はすべて狩野益信(かのうますのぶ)の作でね。この文机を見ながら歩いてごらん」

教授の言う通り机を注視しながら歩いてみると、ふしぎなことが起こった。

「あれ、形が変わった?」

最初は長方形に見えていた机が、いつの間にか台形に変わっている。先ほどの龍と似たような現象だ。

「何ですか、これ。目の錯覚ですか?」

「逆遠近法という手法だよ」

「逆遠近法?」

遠近法は知っているが、逆遠近法というのは聞いたことがない。どういうことですか。全然分かりません。と、堂々と宣言すると、教授は机を指差した。

「たとえば遠近法だったら、手前から奥に遠ざかるにつれて小さく描くだろう。逆遠近法は奥にある対象を手前の対象より大きく描いたり、画面の奥に向かって集中すべき線を逆に拡散したりしているんだ。そうすることによって、描かれた対象が変化して見えるんだよ」

「……理屈が分かっても、どうしてそうなるのか理解できないです。絵を描く人って賢いんだなぁ」

「そうだな。君の100倍は賢い」

はたしてその一言は必要だろうか。振り返ると、言った本人は口笛でも吹きそうなくらい素知らぬ顔をしている。相変わらず性格が悪い。

続いて入ったのは白鷺(しらさぎ)の間という名前の部屋だった。天皇に会うための控え室なんだよ。教授の声を聞きながら、襖絵をまじまじと見つめる。先ほどとはまた雰囲気が違い、竹や梅が華やかに描かれている。

「竹に雀、梅にうぐいすが描かれているでしょう。これは古くから定番の組み合わせなんだ。これをよく覚えておきなさい」

どうしてそんなことを言うのだろう。わたしは疑問に思いながらもうなずいて、次の部屋へと向かった。そこは梅の間といわれる部屋で、白鷺の間と同じく控え室だという。襖絵の雰囲気も白鷺の間とさほど変わらないようだけれど、よくよく見ると描かれている鳥が違う。

「さっきの部屋と、鳥の種類が違っています。竹に……何の鳥だろう」

「シマヒヨドリ。梅には山鳥だよ」

よく気づいたね、と、教授が嬉しそうに言う。

「白鷺の間に通された客は天皇と会うことができ、梅の間に通された客は天皇に会えないといわれているんだ。なぜか分かるかい」

「えーっ、そうだなぁ。たぶん、鳥が違っているのが重要なんですよね?」

そんなことを言われても全然分からない。腕を組んで考え込むわたしの横で、教授はずっと少年のような顔をしている。わたしが頭を悩ませているのがおもしろいらしい。

なんだか、今日は妙に機嫌がいい気がする。大学ではいつもすまし顔をしているくせに、今はスキップしそうな勢いだ。

わたしはじっと襖絵を眺めた。白鷺の間では竹に雀、梅にうぐいす。これが定番の組み合わせということだけれど、梅の間では植物と鳥が合っていない。

「あっ、もしかして鳥が合わない……『取り合わない』ってことですか?」

「正解」

教授が満足そうにうなずいた。ギャグみたいな話ですね、と言うと、まぁ、そうかもね、なんて笑う。

「だから梅の間に案内された人は天皇に会えないんですね。でも、直接『今日は会えない』って伝えたらいい話じゃないですか?」

「それもそうだけれど、客人は高貴な身分の人々ばかりでね、直接断りづらいというのもあったんだろう。知識が豊富な人も多かったから、ある意味力量を試していたのかもしれないね」

「じゃあ、この襖絵の意図に気づかない人は、ずーっと待ちぼうけってことですか?」

おそろしい。もしわたしだったら、いつまでもこの部屋で待ち続けてしまうだろう。教授はすぐに意図に気づいて帰りそうだけれど。そんな婉曲的に「会えない」と伝えるとは、京都らしいといえば京都らしいのかもしれない。

その後、わたしと教授は晩翠園を眺めたり、紅葉の写真を撮ったりしながら建物の中を巡った。紅葉ももちろんきれいだけれど、襖絵がこんなにおもしろいなんて知らなかった。教授はいつだって、わたしに新鮮な感動をくれる。

ちょうどお昼時だったので、すぐそばにあった休み処で軽く昼食を取ることにした。席に着いて豆乳酒粕ゆばうどんをふたり分注文する。混雑していたわりに案外早く運ばれてきた。まろやかな酒粕と豆乳が、冷えた体をあたためていく。

「すばらしい。今日もよく撮れている」 

わたしのカメラをのぞき込んで、教授は満足そうに微笑んだ。

「お褒めいただきありがとうございます」

「最近のカメラは優秀だな」

「カメラじゃなくてわたしを褒めてください」

「ああ、すごいすごい」

わたしはずるずるとうどんをすすりながら教授を睨んだ。さっきからずっと飽きずにわたしの写真を眺めている。どうせあとからデータを送るんだから、今見なくてもいいのに。ほら、うどんが冷めちゃいますよ、と声をかけると、ようやく教授はカメラをテーブルに置いて箸を持った。一口すすって、おいしいな、とつぶやく。

「今日はやけに上機嫌ですね」

「そう?」

「そうですよ。大学で会うといつも素っ気ないくせに……」

「ああ……」

教授はじっとわたしを見つめて、それから気まずそうに目を逸らした。

「いや、大したことじゃないんだが」

「何ですか」

「本当に、大したことじゃない」

「だから、何ですか」

そう言われるとますます気になる。身を乗り出して問い詰めると、教授は観念したように口を開いた。

「君の反応がいちいちおもしろくて。あんまり笑うことはないんだが、つい」

「……何ですかぁ、それ」

わたしはげんなりと肩を落とした。わたしがすごいばかみたいじゃないですか。ひどいです。去年よりは成長しているつもりなんですけど。駄々っ子のように反論すると、教授はまたくすくすと笑った。これじゃあただのいじめっ子である。

まぁいいか。わたしは諦めて息をついた。講義中のすました顔よりも、今の方がずっと似合う。こんな教授の表情を知っているのもわたしだけなんだ。そう思ったら、少し嬉しい。

今年の秋も、去年とは違うものになりそうだ。