冬は、花をつける植物が少ない。
もちろん冬に咲く品種もゼロではないけど、庭の環境を壊さずにエリカの体を維持するための十分な量を確保するのは難しい。
そんな季節の訪れを見越して、僕は秘策を練っていた。
寒さの際立つとある日のこと。僕はエリカの手を引いて、寝室の隣にある、ずっと使われていなかった部屋を訪れようとしていた。
「ねえ、私をどこへ連れて行くつもりなの?」
「素敵な場所だよ。きっとエリカも気に入ると思う」
「ユウったらそんなに息を切らして大丈夫? でも楽しみ」
僕たちは子供みたいにくすくすと笑い合いながら、リビングを抜け、寝室を抜け、まだ使用感のないドアに手をかけて思い切り開いた。
「まあ――」
そして、言葉を失ったまま、その圧倒的な光景に入り口で立ち尽くした。
「いつか話したのを覚えてる? いつでも花のジャムが食べられたら良いのにって」
「覚えてるわ。私がベゴニアのジャムを作った日でしょう? 確かあの時――」
「そう。『冬は花が足りない』って言ってたから、冬でも花がのびのび過ごせる場所を作ろうと思ったんだ」
僕たちが居るのは、空き部屋に作った温室だ。
土の色が目立つ冬の庭とは打って変わって、その部屋には眩しいほどの色彩が溢れていた。真冬には見られるはずのない花々の鉢植えが所狭しと並んでいる。
僕は、密かにこの部屋を温室にアレンジしていたのだ。
偶然にも、この部屋はとても温室向きだった。
一面ガラス張りの壁に、三角形が合わさって出来たとんがり天井にはそれぞれの面に天窓まで付いている。日の光はそれで十分だったから、あとは保温のための細工をするだけで良かった。
夏の終わり頃から少しずつ準備を進めて、ついにこれだけの花を用意することができたのだ。
「気に入ってくれた、かな?」
僕の言葉にエリカは目をぱちくりとさせて、
「まさか本当に実現するなんて思ってなかった……」
と噛み締めるように零し、それからじわじわと喜びが充填されていくように笑顔が広がり「本当に素敵! 夢みたい!」と大袈裟に天を仰いだ。
そしてくるりと身を翻し、僕の手を取った。
「ねえユウ、早速花のジャムを作ってみない? 少し前にカリンのジャムを作ったきり随分時間があいてるでしょう? せっかくだから、今日はユウの選んだ花を使って一緒に作りたいわ」
「そうだな……」部屋を見回すと、窓際で鮮やかに輝く赤色が目に留まった。
「これにしようか」
手に取ったのは、赤いバラ。
「良いわね。甘みを適度に抑えて、香りを大切にしたジャムにしましょう」
エリカはにっこりと笑った。
エリカの作るジャムには何度もお世話になってきたけど、いざ自分で作るとなって初めて、僕がこれまでどれほどエリカの手間をただ享受していたのか思い知った。
痛んでいない花弁を選り分け、丁寧に洗い、重量を測って水や砂糖と一緒に鍋に入れる。火にかけてからもほったらかしにはできず、焦がさないように見張りながらじっくりと煮詰める。
料理なんてほとんどしてこなかったから、かなり不恰好な料理風景になった気がするけど、エリカのスパルタ指導のおかげでなんとか焦がさずジャムを完成させる事ができた。
せっかくだから温室の花を見ながらお茶にしようというエリカの発案で、僕たちは温室にテーブルを運び込み、質素なお茶会を開催した。
色彩の海の真ん中で、パンにちょこんと乗せたバラのジャムがガラス越しの日の光を受けて宝石みたいにキラキラと輝く。
「なんか、高級リゾートで休暇を過ごしてるみたいな気分だな」
「私たちの毎日は、ずっと素敵な休暇みたいな日々だったと思うわ」
この時、まるで過ぎたことのような言い方をしたことに、僕は気が付かなかった。
「じゃあ……いただきます」
ほんの一口パンを齧る。すると、初めてジャムを作ってもらったあの日の感動がぶわりと蘇る。
「すごく美味しいよ! さすがエリカ」
「私じゃないわ、今日これを作ったのはユウよ。だからこれでもう――」
その時だった。
話し終わりもしないうちに、突然、エリカの体が崩れ落ちた。
咄嗟に抱き止めたけれど、その体はぐったりとしていて全く力が入らない様だった。
「どうしたのっ?!」
エリカの呼吸が荒い。
いつもなら柔らかく彼女を包み込んでいるはずの花々が、擦れ合ってドライフラワーのようにカサカサと乾いた音を立てた。
こんな異常事態なのに、エリカの表情はなぜか穏やかだった。
「良かった……これで、ユウは私が居なくても美味しく食事ができる」
「ど、どういう意味だよ。ねえエリカ、何を言ってるの?」
「だって私は、もうすぐ居なくなるもの」
エリカは胸元のクレマチスをそっとかき分けた。そこには僕が埋め込んだ彼女の“心臓”のキューブがあるはずだけど――
「えっ……?」
そこにあったのは、萎れて小さく縮こまった小さな塊だった。かろうじて脈打つような動きはしているけれど、健全に機能しているとはとても言えない。
エリカは寂しそうに微笑んだ。
「そう。私の体はもう限界」
「まさか……」
「私が自由に動き回れる時間に、終わりが近づいて来たみたい。これまで楽しかったわ。ありがとう、ユウ」
忘れていたわけではない。エリカの体は期間限定。
だけど、だけど――
「エリカ、嫌だ、行かないで! エリカが居なくなっちゃったら、これから僕は何のために生きたらいいんだよっ」
「あら……忘れたとは言わせないわ。いつか約束してくれたじゃない。『ここに咲く花は、僕が責任持って愛するよ』って。あなたを待ってる花たちがこの庭園にはたくさん残ってる。生きる理由を見失う暇もないくらいにね」
「うん……約束、した。けどそれは」
「私ね、あの時とても嬉しかったの。ユウと二人で庭の色々な花を見て回るのがとても好きだった。春の風も、夏の日差しも、秋の果実の甘い香りも全て大好きだった」
思えばこの一年、色々な事があった。
ちょっとしたトラブルに見舞われたり、先のことを考えて胸が塞いだりしたこともあったけど、思い返した時に浮かぶのはやっぱり笑顔の記憶だ。
僕も、とても楽しかった。
エリカが居たから、笑顔になれた。
エリカと一緒だったから、病気のことも忘れられた。
エリカ、僕は君のことが大好きだった。
僕の腕の中で、エリカから少しずつ、少しずつ、生気が失われていくのがわかる。手のひらから伝わる事実を受け入れたくなくて、僕は一層強くエリカを抱きしめた。
必死な僕とは裏腹に、エリカは全て受け入れたような顔で僕に微笑みかけている。
その笑顔が余計に僕の胸を締め付ける。
僕は駄々っ子みたいにイヤイヤとと首を振ったけど、そんな泣きそうな僕の前髪をエリカは優しくかき上げた。
「さようなら、ユウ。あなたにずっと愛してもらえて、とても幸せだった」
「やめてよ、そんなの最後の別れみたいじゃないか。君は……そう、君は少し疲れて眠るだけ。春になったらまた一緒に花を飾ってジャムを作ろう。パサパサのパンがとびきり上等に変身するやつだよ。そうでしょ?」
エリカはほとんど閉じてしまった目の奥から、優しい眼差しを僕に向けた。
「そうね。……ユウ、私、少し疲れてるみたい。……だから少しだけ眠ることにするわ。ユウ、ユウ。愛してる」
「おやすみ、エリカ。愛してる。……良い夢を」
安心したように静かに目を閉じたエリカがついに動かなくなった時、僕はその唇にそっと口付けを落とした。
途端に、静けさが僕の鼓膜を裂いた――
ずっと幸せだったから、すっかり忘れていた。
エリカを失ったら、もう誰も居ないってこと。
花に溢れたサナトリウム。
ここに居るのは僕ひとりだ――
しんとした部屋の中、僕の啜り泣く声だけが虚しく響いていた。
もちろん冬に咲く品種もゼロではないけど、庭の環境を壊さずにエリカの体を維持するための十分な量を確保するのは難しい。
そんな季節の訪れを見越して、僕は秘策を練っていた。
寒さの際立つとある日のこと。僕はエリカの手を引いて、寝室の隣にある、ずっと使われていなかった部屋を訪れようとしていた。
「ねえ、私をどこへ連れて行くつもりなの?」
「素敵な場所だよ。きっとエリカも気に入ると思う」
「ユウったらそんなに息を切らして大丈夫? でも楽しみ」
僕たちは子供みたいにくすくすと笑い合いながら、リビングを抜け、寝室を抜け、まだ使用感のないドアに手をかけて思い切り開いた。
「まあ――」
そして、言葉を失ったまま、その圧倒的な光景に入り口で立ち尽くした。
「いつか話したのを覚えてる? いつでも花のジャムが食べられたら良いのにって」
「覚えてるわ。私がベゴニアのジャムを作った日でしょう? 確かあの時――」
「そう。『冬は花が足りない』って言ってたから、冬でも花がのびのび過ごせる場所を作ろうと思ったんだ」
僕たちが居るのは、空き部屋に作った温室だ。
土の色が目立つ冬の庭とは打って変わって、その部屋には眩しいほどの色彩が溢れていた。真冬には見られるはずのない花々の鉢植えが所狭しと並んでいる。
僕は、密かにこの部屋を温室にアレンジしていたのだ。
偶然にも、この部屋はとても温室向きだった。
一面ガラス張りの壁に、三角形が合わさって出来たとんがり天井にはそれぞれの面に天窓まで付いている。日の光はそれで十分だったから、あとは保温のための細工をするだけで良かった。
夏の終わり頃から少しずつ準備を進めて、ついにこれだけの花を用意することができたのだ。
「気に入ってくれた、かな?」
僕の言葉にエリカは目をぱちくりとさせて、
「まさか本当に実現するなんて思ってなかった……」
と噛み締めるように零し、それからじわじわと喜びが充填されていくように笑顔が広がり「本当に素敵! 夢みたい!」と大袈裟に天を仰いだ。
そしてくるりと身を翻し、僕の手を取った。
「ねえユウ、早速花のジャムを作ってみない? 少し前にカリンのジャムを作ったきり随分時間があいてるでしょう? せっかくだから、今日はユウの選んだ花を使って一緒に作りたいわ」
「そうだな……」部屋を見回すと、窓際で鮮やかに輝く赤色が目に留まった。
「これにしようか」
手に取ったのは、赤いバラ。
「良いわね。甘みを適度に抑えて、香りを大切にしたジャムにしましょう」
エリカはにっこりと笑った。
エリカの作るジャムには何度もお世話になってきたけど、いざ自分で作るとなって初めて、僕がこれまでどれほどエリカの手間をただ享受していたのか思い知った。
痛んでいない花弁を選り分け、丁寧に洗い、重量を測って水や砂糖と一緒に鍋に入れる。火にかけてからもほったらかしにはできず、焦がさないように見張りながらじっくりと煮詰める。
料理なんてほとんどしてこなかったから、かなり不恰好な料理風景になった気がするけど、エリカのスパルタ指導のおかげでなんとか焦がさずジャムを完成させる事ができた。
せっかくだから温室の花を見ながらお茶にしようというエリカの発案で、僕たちは温室にテーブルを運び込み、質素なお茶会を開催した。
色彩の海の真ん中で、パンにちょこんと乗せたバラのジャムがガラス越しの日の光を受けて宝石みたいにキラキラと輝く。
「なんか、高級リゾートで休暇を過ごしてるみたいな気分だな」
「私たちの毎日は、ずっと素敵な休暇みたいな日々だったと思うわ」
この時、まるで過ぎたことのような言い方をしたことに、僕は気が付かなかった。
「じゃあ……いただきます」
ほんの一口パンを齧る。すると、初めてジャムを作ってもらったあの日の感動がぶわりと蘇る。
「すごく美味しいよ! さすがエリカ」
「私じゃないわ、今日これを作ったのはユウよ。だからこれでもう――」
その時だった。
話し終わりもしないうちに、突然、エリカの体が崩れ落ちた。
咄嗟に抱き止めたけれど、その体はぐったりとしていて全く力が入らない様だった。
「どうしたのっ?!」
エリカの呼吸が荒い。
いつもなら柔らかく彼女を包み込んでいるはずの花々が、擦れ合ってドライフラワーのようにカサカサと乾いた音を立てた。
こんな異常事態なのに、エリカの表情はなぜか穏やかだった。
「良かった……これで、ユウは私が居なくても美味しく食事ができる」
「ど、どういう意味だよ。ねえエリカ、何を言ってるの?」
「だって私は、もうすぐ居なくなるもの」
エリカは胸元のクレマチスをそっとかき分けた。そこには僕が埋め込んだ彼女の“心臓”のキューブがあるはずだけど――
「えっ……?」
そこにあったのは、萎れて小さく縮こまった小さな塊だった。かろうじて脈打つような動きはしているけれど、健全に機能しているとはとても言えない。
エリカは寂しそうに微笑んだ。
「そう。私の体はもう限界」
「まさか……」
「私が自由に動き回れる時間に、終わりが近づいて来たみたい。これまで楽しかったわ。ありがとう、ユウ」
忘れていたわけではない。エリカの体は期間限定。
だけど、だけど――
「エリカ、嫌だ、行かないで! エリカが居なくなっちゃったら、これから僕は何のために生きたらいいんだよっ」
「あら……忘れたとは言わせないわ。いつか約束してくれたじゃない。『ここに咲く花は、僕が責任持って愛するよ』って。あなたを待ってる花たちがこの庭園にはたくさん残ってる。生きる理由を見失う暇もないくらいにね」
「うん……約束、した。けどそれは」
「私ね、あの時とても嬉しかったの。ユウと二人で庭の色々な花を見て回るのがとても好きだった。春の風も、夏の日差しも、秋の果実の甘い香りも全て大好きだった」
思えばこの一年、色々な事があった。
ちょっとしたトラブルに見舞われたり、先のことを考えて胸が塞いだりしたこともあったけど、思い返した時に浮かぶのはやっぱり笑顔の記憶だ。
僕も、とても楽しかった。
エリカが居たから、笑顔になれた。
エリカと一緒だったから、病気のことも忘れられた。
エリカ、僕は君のことが大好きだった。
僕の腕の中で、エリカから少しずつ、少しずつ、生気が失われていくのがわかる。手のひらから伝わる事実を受け入れたくなくて、僕は一層強くエリカを抱きしめた。
必死な僕とは裏腹に、エリカは全て受け入れたような顔で僕に微笑みかけている。
その笑顔が余計に僕の胸を締め付ける。
僕は駄々っ子みたいにイヤイヤとと首を振ったけど、そんな泣きそうな僕の前髪をエリカは優しくかき上げた。
「さようなら、ユウ。あなたにずっと愛してもらえて、とても幸せだった」
「やめてよ、そんなの最後の別れみたいじゃないか。君は……そう、君は少し疲れて眠るだけ。春になったらまた一緒に花を飾ってジャムを作ろう。パサパサのパンがとびきり上等に変身するやつだよ。そうでしょ?」
エリカはほとんど閉じてしまった目の奥から、優しい眼差しを僕に向けた。
「そうね。……ユウ、私、少し疲れてるみたい。……だから少しだけ眠ることにするわ。ユウ、ユウ。愛してる」
「おやすみ、エリカ。愛してる。……良い夢を」
安心したように静かに目を閉じたエリカがついに動かなくなった時、僕はその唇にそっと口付けを落とした。
途端に、静けさが僕の鼓膜を裂いた――
ずっと幸せだったから、すっかり忘れていた。
エリカを失ったら、もう誰も居ないってこと。
花に溢れたサナトリウム。
ここに居るのは僕ひとりだ――
しんとした部屋の中、僕の啜り泣く声だけが虚しく響いていた。