一年のうちどの季節が好きかと聞かれたら、僕の答えは決まっている。夏だ。
夏の花は元気に満ちている。空に燦然と輝く太陽の生まれ変わりみたいなヒマワリに、盛大なファンファーレが聞こえてきそうなアサガオに、あとは情熱的なブーゲンビリアなんて見ているだけで心が躍る。
そんな僕のワクワクに呼応するように、エリカの美しさもますます磨きがかかっていた。
「これでよし、と」
「ありがとう、体が軽いわ」
僕たちは二階のテラスで向かい合い、たくさんの花を選り分けながらエリカの体に組み込んでいたところだった。
エリカは毎日水分や栄養は摂っているけれど、体が花で出来ている以上、こまめなメンテナンスが必要になる。ちょうど夏の花々が開き始めたので、今日は花の種類を一新して、再調整しようということになったのだ。
「ちょっと僕の好みを多めに盛り込んじゃった」
「これでしょう?」
エリカが頭のてっぺんを指差して笑った。
そこには僕の顔ほどの大きさのヒマワリの花が、ちょうど麦わら帽子を斜めにかぶったように乗っている。
「ばれたか」
「お見通しよ」
「そうしているとさ、太陽から元気を貰える気がしない?」
「そうね、広い場所を駆け出したくなる感じがする」
楽しそうなエリカを見ていると、僕まで嬉しくなってくる。
こうしているといつまでもエリカに見惚れてしまって、うっかりすると日が暮れそうだ。僕はぱん、と手を打って、気持ちを切り替えることにした。
「よし、じゃあエリカのリフレッシュも完了したし、昼食にしようか」
「ユウ、昼食は済んだでしょ。また同じメニューが続いてる気がするって笑ってたじゃない」
「……そうだっけ」
「そうよ」
「本当に……?」
僕が冗談でなく本気で言っていることに気がついて、エリカは一瞬だけ狼狽えるような表情を見せた。そして、そのエリカの反応で僕の方も「またやっちゃったのか」と分かった。
僕の病状は、ひっそりと、しかし着実に進んでいるらしかった。
食事を取ったかどうか忘れてしまう、片付けたはずの庭仕事の道具が見つからなくなる、そんな些細なトラブルが明らかに増えていた。
そんな僕にも、エリカはずっと寄り添ってくれている。ライフワークでもある植物の知識が抜け落ちることなくいられるのも、僕たちの関係がプラスに働いているように思う。
「あ、ははは。疲れてるのかも、ちょっと横になろうかな。エリカも涼しいところに居てね、今日は暑いから」
「ユウ、もしかしてあなた――」
「一、二時間くらい昼寝したら起きるつもりだから、その後一緒にノウゼンカズラの様子を見に行こう。じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい……」
心配そうなエリカを背に、僕は言い訳を並び立てるみたいにしてテラスを飛び出した。
僕の病気のことを、エリカは知らない。ここが療養のためのサナトリウムだということも。
いつか時が来たら伝えようとは思っていた。けれど、自分が自分を制御できなくなる日がくるかもしれないという事実は、想像していたよりずっと恐ろしいことだった。口に出せばその恐怖に飲み込まれてしまいそうで、なんでもないことのように思い込みたくて、ずっと言い出せずにいる。
だけど、このままではきっといつか……。
僕はどうしたらいいんだろう。エリカを不安にさせることだけは避けなくちゃならない。
消える事が決まっている僕が、今生きている理由ってなんだろう。
ぐるぐるとそんなことを考えながら、ベッドに入りそっと目を閉じた――
**
嗅ぎ慣れない甘い香りで目が覚めた。なんだか、王様が食べるお菓子みたいなゴージャスな香り。
香りの出どころを辿ると、エリカがキッチンで小鍋をかき混ぜているところだった。
「それはなに?」
「もうすぐ出来るわ、待ってて」
僕の問いかけに答えながら、鍋の中身を手早く瓶に移し替える。とろりと真っ赤に輝くものが滴り落ちた。
「ユウはいつも私の事を大切にしてくれるでしょう? 私も何かお返しになるような事がしたかったの」
「それでこれを?」
「ええ。食事の時、ユウがよく『パンがボソボソだ』ってしかめっ面してたから、ベゴニアのジャムを作ったの。ジャムがあれば食事が楽しくなるんじゃないかしらって」
瓶の中のジャムをひとすくいし、スライスしたパンの端に乗せて「試してみて」と差し出されたので素直に受け取った。
一口食べた途端、優雅な花園の香りが上品な甘さと共にさっと広がり、季節の知らせを運ぶ風のように体を駆け巡った。
「おいしい……! これ、すごくおいしいよ」
「喜んでもらえて良かった。少しはお礼になったかしら」
「エリカ……ありがとう」
僕はもう胸がいっぱいで、それだけ伝えるのがやっとだった。
お礼をしなきゃいけないのはむしろ僕の方だ。いつもエリカに助けられて、支えてもらっているのに。
やっぱり、僕はエリカのことが……
「……好きなんだ」
「えっ」
ジャムの瓶を棚に仕舞おうとしていたエリカが突然振り返った。僕はそこでようやく、心の声が口から漏れていた事に気がついた。
「えっ、いや、今のはそのっ……」
慌てて弁明しかけて、ふとそれを止める。
僕がエリカを好きな気持ちは本物だ。絶対に。だけどこの気持ちを伝えることに不安を感じてしまうのは、エリカが、僕の病気のことを知った途端に去ってしまうことを恐れているからだ。これまで出会った多くの人たちのように。
だけど……エリカはこんなにも僕のことを思ってくれているのに、僕たちの関係の核の部分を僕のエゴで隠しているのは、彼女に不誠実なんじゃないか?
伝える時が、来たんじゃないか?
僕はひとつ大きく深呼吸をして、エリカの目を見た。
「ねえ、エリカ。大切な話があるんだ」
そして、全てを話した。
僕の状態のことも、これまでの経緯も、この花園の正体も。
話を全て聞いたエリカは、ゆっくりと僕に向き直った。そして僕の目を見て、ひとつひとつ言葉を確かめるように、はっきりと言った。
「ありがとう。話してもらえて、嬉しかった」
同時に、視界が色とりどりの花で覆われた。抱きしめられたと気づいたのは、僕の体が甘い匂いに包まれたからだ。室内に漂うジャムの香りと、いつもエリカから感じていた花の香りが合わさったものが、僕たちの周りをしっかりと満たしていた。
「エリカが大好きだから。だから、嫌われたらどうしようって思うとこれまで言えなかった。本当にごめん」
「嫌うわけがないじゃない。ねえ、ユウ。どうしてジャムを作るのにベゴニアを選んだと思う?」
エリカが僕の耳元で囁いた。
「えっと……、長い期間楽しめるから?」
この辺りでは、ベゴニアの花が楽しめる季節が長い。ワンシーズンで儚く散ってしまう花も多い中、ジャムにするなら長く楽しめた方が良さそうに思える。
「半分正解。あと半分はね……」
「あっ、もしかして」
エリカが答えを言う直前、その眼差しに含まれた何かに賭けるような光を見つけた時、僕は後に続く言葉を理解した。
「……花言葉ってこと?」
その微笑みが答えだった。
僕の研究は植物そのものを対象としていたから、人間が独断で定めた花言葉についてはさほど詳しくない。だけど、自ずと耳に入るいくつかくらいは把握していた。
ならば、この続きは、僕から言わなければ。
「僕もずっと伝えたいと思ってたんだ。ベゴニアの花言葉が表すことを」
僕はエリカの真正面に立ち、ゆっくりと跪いた。そして丁寧に彼女の片手を取って、手の甲のプルメリアにそっと唇を寄せた。
窓から射す日の光が空気に反射してキラキラと輝いている。僕たちはその音もない空間の中で見つめ合った。
僕たちの間にそれ以上の言葉はなかったけれど、それで既に十分だった。
僕たちが言葉にしなかったもの。
――ベゴニアの花言葉は「愛の告白」だ。
どれくらいそうしていただろう。夏の雲が部屋に影を作った瞬間、僕たちは急に照れ臭くなって、「えへへ」とお互いに笑いあった。
「こんなに美味しいジャムがあれば、毎日の食事も楽しみになるな」
「でも冬になったらベゴニアは咲かないわ。冬の分を取っておかなくちゃ」
「そうだね。あっ、それより……」
「それより?」
「いや、今はそんな話はいいよ。ねえエリカ、ちょっと庭を散歩しない?」
僕は自然な流れでエリカの手をとって、大きく開け放った扉の外に連れ出した。その手は、庭に出てからも離れることなくしっかりと繋がれていた。
二人で夏の花をひとつひとつ見て回りながら、僕はさっきまでうだうだと悩んでいたことについて「これで良いんだ」と腑に落ちたような感覚があった。
その場しのぎってわけじゃない。今が良ければあとはどうでも良いって自暴自棄になったわけでもない。
今より明日をちょっと良くする。明日より明後日をちょっと楽しくする。そうやって一歩一歩進んで行く先が、未来という景色に繋がっているだけのこと。
だから、僕に今必要なのは、“今”を生きることなんだ。
エリカ、君のおかげでそう思えたんだ。
夏の花は元気に満ちている。空に燦然と輝く太陽の生まれ変わりみたいなヒマワリに、盛大なファンファーレが聞こえてきそうなアサガオに、あとは情熱的なブーゲンビリアなんて見ているだけで心が躍る。
そんな僕のワクワクに呼応するように、エリカの美しさもますます磨きがかかっていた。
「これでよし、と」
「ありがとう、体が軽いわ」
僕たちは二階のテラスで向かい合い、たくさんの花を選り分けながらエリカの体に組み込んでいたところだった。
エリカは毎日水分や栄養は摂っているけれど、体が花で出来ている以上、こまめなメンテナンスが必要になる。ちょうど夏の花々が開き始めたので、今日は花の種類を一新して、再調整しようということになったのだ。
「ちょっと僕の好みを多めに盛り込んじゃった」
「これでしょう?」
エリカが頭のてっぺんを指差して笑った。
そこには僕の顔ほどの大きさのヒマワリの花が、ちょうど麦わら帽子を斜めにかぶったように乗っている。
「ばれたか」
「お見通しよ」
「そうしているとさ、太陽から元気を貰える気がしない?」
「そうね、広い場所を駆け出したくなる感じがする」
楽しそうなエリカを見ていると、僕まで嬉しくなってくる。
こうしているといつまでもエリカに見惚れてしまって、うっかりすると日が暮れそうだ。僕はぱん、と手を打って、気持ちを切り替えることにした。
「よし、じゃあエリカのリフレッシュも完了したし、昼食にしようか」
「ユウ、昼食は済んだでしょ。また同じメニューが続いてる気がするって笑ってたじゃない」
「……そうだっけ」
「そうよ」
「本当に……?」
僕が冗談でなく本気で言っていることに気がついて、エリカは一瞬だけ狼狽えるような表情を見せた。そして、そのエリカの反応で僕の方も「またやっちゃったのか」と分かった。
僕の病状は、ひっそりと、しかし着実に進んでいるらしかった。
食事を取ったかどうか忘れてしまう、片付けたはずの庭仕事の道具が見つからなくなる、そんな些細なトラブルが明らかに増えていた。
そんな僕にも、エリカはずっと寄り添ってくれている。ライフワークでもある植物の知識が抜け落ちることなくいられるのも、僕たちの関係がプラスに働いているように思う。
「あ、ははは。疲れてるのかも、ちょっと横になろうかな。エリカも涼しいところに居てね、今日は暑いから」
「ユウ、もしかしてあなた――」
「一、二時間くらい昼寝したら起きるつもりだから、その後一緒にノウゼンカズラの様子を見に行こう。じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい……」
心配そうなエリカを背に、僕は言い訳を並び立てるみたいにしてテラスを飛び出した。
僕の病気のことを、エリカは知らない。ここが療養のためのサナトリウムだということも。
いつか時が来たら伝えようとは思っていた。けれど、自分が自分を制御できなくなる日がくるかもしれないという事実は、想像していたよりずっと恐ろしいことだった。口に出せばその恐怖に飲み込まれてしまいそうで、なんでもないことのように思い込みたくて、ずっと言い出せずにいる。
だけど、このままではきっといつか……。
僕はどうしたらいいんだろう。エリカを不安にさせることだけは避けなくちゃならない。
消える事が決まっている僕が、今生きている理由ってなんだろう。
ぐるぐるとそんなことを考えながら、ベッドに入りそっと目を閉じた――
**
嗅ぎ慣れない甘い香りで目が覚めた。なんだか、王様が食べるお菓子みたいなゴージャスな香り。
香りの出どころを辿ると、エリカがキッチンで小鍋をかき混ぜているところだった。
「それはなに?」
「もうすぐ出来るわ、待ってて」
僕の問いかけに答えながら、鍋の中身を手早く瓶に移し替える。とろりと真っ赤に輝くものが滴り落ちた。
「ユウはいつも私の事を大切にしてくれるでしょう? 私も何かお返しになるような事がしたかったの」
「それでこれを?」
「ええ。食事の時、ユウがよく『パンがボソボソだ』ってしかめっ面してたから、ベゴニアのジャムを作ったの。ジャムがあれば食事が楽しくなるんじゃないかしらって」
瓶の中のジャムをひとすくいし、スライスしたパンの端に乗せて「試してみて」と差し出されたので素直に受け取った。
一口食べた途端、優雅な花園の香りが上品な甘さと共にさっと広がり、季節の知らせを運ぶ風のように体を駆け巡った。
「おいしい……! これ、すごくおいしいよ」
「喜んでもらえて良かった。少しはお礼になったかしら」
「エリカ……ありがとう」
僕はもう胸がいっぱいで、それだけ伝えるのがやっとだった。
お礼をしなきゃいけないのはむしろ僕の方だ。いつもエリカに助けられて、支えてもらっているのに。
やっぱり、僕はエリカのことが……
「……好きなんだ」
「えっ」
ジャムの瓶を棚に仕舞おうとしていたエリカが突然振り返った。僕はそこでようやく、心の声が口から漏れていた事に気がついた。
「えっ、いや、今のはそのっ……」
慌てて弁明しかけて、ふとそれを止める。
僕がエリカを好きな気持ちは本物だ。絶対に。だけどこの気持ちを伝えることに不安を感じてしまうのは、エリカが、僕の病気のことを知った途端に去ってしまうことを恐れているからだ。これまで出会った多くの人たちのように。
だけど……エリカはこんなにも僕のことを思ってくれているのに、僕たちの関係の核の部分を僕のエゴで隠しているのは、彼女に不誠実なんじゃないか?
伝える時が、来たんじゃないか?
僕はひとつ大きく深呼吸をして、エリカの目を見た。
「ねえ、エリカ。大切な話があるんだ」
そして、全てを話した。
僕の状態のことも、これまでの経緯も、この花園の正体も。
話を全て聞いたエリカは、ゆっくりと僕に向き直った。そして僕の目を見て、ひとつひとつ言葉を確かめるように、はっきりと言った。
「ありがとう。話してもらえて、嬉しかった」
同時に、視界が色とりどりの花で覆われた。抱きしめられたと気づいたのは、僕の体が甘い匂いに包まれたからだ。室内に漂うジャムの香りと、いつもエリカから感じていた花の香りが合わさったものが、僕たちの周りをしっかりと満たしていた。
「エリカが大好きだから。だから、嫌われたらどうしようって思うとこれまで言えなかった。本当にごめん」
「嫌うわけがないじゃない。ねえ、ユウ。どうしてジャムを作るのにベゴニアを選んだと思う?」
エリカが僕の耳元で囁いた。
「えっと……、長い期間楽しめるから?」
この辺りでは、ベゴニアの花が楽しめる季節が長い。ワンシーズンで儚く散ってしまう花も多い中、ジャムにするなら長く楽しめた方が良さそうに思える。
「半分正解。あと半分はね……」
「あっ、もしかして」
エリカが答えを言う直前、その眼差しに含まれた何かに賭けるような光を見つけた時、僕は後に続く言葉を理解した。
「……花言葉ってこと?」
その微笑みが答えだった。
僕の研究は植物そのものを対象としていたから、人間が独断で定めた花言葉についてはさほど詳しくない。だけど、自ずと耳に入るいくつかくらいは把握していた。
ならば、この続きは、僕から言わなければ。
「僕もずっと伝えたいと思ってたんだ。ベゴニアの花言葉が表すことを」
僕はエリカの真正面に立ち、ゆっくりと跪いた。そして丁寧に彼女の片手を取って、手の甲のプルメリアにそっと唇を寄せた。
窓から射す日の光が空気に反射してキラキラと輝いている。僕たちはその音もない空間の中で見つめ合った。
僕たちの間にそれ以上の言葉はなかったけれど、それで既に十分だった。
僕たちが言葉にしなかったもの。
――ベゴニアの花言葉は「愛の告白」だ。
どれくらいそうしていただろう。夏の雲が部屋に影を作った瞬間、僕たちは急に照れ臭くなって、「えへへ」とお互いに笑いあった。
「こんなに美味しいジャムがあれば、毎日の食事も楽しみになるな」
「でも冬になったらベゴニアは咲かないわ。冬の分を取っておかなくちゃ」
「そうだね。あっ、それより……」
「それより?」
「いや、今はそんな話はいいよ。ねえエリカ、ちょっと庭を散歩しない?」
僕は自然な流れでエリカの手をとって、大きく開け放った扉の外に連れ出した。その手は、庭に出てからも離れることなくしっかりと繋がれていた。
二人で夏の花をひとつひとつ見て回りながら、僕はさっきまでうだうだと悩んでいたことについて「これで良いんだ」と腑に落ちたような感覚があった。
その場しのぎってわけじゃない。今が良ければあとはどうでも良いって自暴自棄になったわけでもない。
今より明日をちょっと良くする。明日より明後日をちょっと楽しくする。そうやって一歩一歩進んで行く先が、未来という景色に繋がっているだけのこと。
だから、僕に今必要なのは、“今”を生きることなんだ。
エリカ、君のおかげでそう思えたんだ。