「柚葉」
「うん?」
「あの、夏の花火のさ、写真送ってくれたとき、返事しなくてごめん」


つい先日の夕日を送ったとき、柚葉はすぐに電話をかけてくれた。躊躇うばかりで、花火?何で急に?柚葉だよな?どういう意味で?と頭の中がめちゃくちゃになって、結局何も言えなかった僕に。同じことをした僕に、一歩踏み出した行動を取ってくれた。些細なことかもしれない。でもそこにもし、とても大きな勇気があったのだとしたら。

僕はそれを見過ごしたくはなかった。


「綺麗だねって一言でも添えたら良かったかな?」
「そう、だな。それなら、返事しやすかったかも」
「じゃあ晃明も夕日に綺麗だねって一言つけてよ。電話、迷ったよ」
「迷ったわりには数分でかけてきてたけど」
「だって、晃明見つけたから。わたしもね、晃明ならどこにいても見つけられる気がする」
「何を根拠に」
「背、高いからさ。遠くにいても見えるよ。あと、わたしのことを見つけたら、晃明すぐに笑うから。わかるよ。晃明の笑ったかお、すきだよ」


泣いたせいで可哀想なくらいに赤く染まった頬。照れたように笑って、俯いて、それからまた顔を上げて、晃明のことすきだよって真っ直ぐに放たれた。

腰かけていた椅子を離れると、後ろでがたっと音がして、倒れてぶつかる音も聞こえたけれど、何かが割れたわけではなさそうだから振り向かなかった。

背もたれのない椅子に座る柚葉が転げないように、慎重に肩を抱き寄せた。どれ程の力の加減をすれば、痛みを与えずにぬくもりだけを最大限に分け与えられるだろうか。

不用心に僕の肩口に擦り寄る柚葉はきっと僕の心の内なんて知りもしないのだろう。力いっぱいに掻き抱きたいを衝動を押し込めているのに。


「つ、」
「つ?」
「つきあ、う?」
「わたしのこと好きなの?」
「そりゃあ、好き、だろ。かわいいし、ピアノ上手だし」
「可愛いのとピアノ上手なのだけ?」


そんなわけないだろもっとたくさんある。数え切れないほど。
ひとつずつ、整列させて丁寧に伝えたいのに、言葉ひとつ喉の奥につかえて出てこない。言葉ひとつ、声ひとつ、想いひとつ、何ひとつとして、履き違えたくない。心ごと、渡すことができたのなら。


たとえば、例え話ばかりになってしまうけれど。

君を縁取る色さえも愛してみたかった。
好きな色なら青、好きな季節なら冬、好きな音ならソのシャープ、ラのフラット。そんな風に大切な物や思い出の傍らに君がいてほしかった。
いつか、君の手を取って歩くとき、その歩みの速度にさえも、僕は君を愛しく思うのだろう。


そういう、想いだった。小っ恥ずかしくて、とてもじゃないけれど口にできない。何言ってんだって笑われたら、顔を上げることができなくなる。

ふと頭の、心の片隅を過ぎる、柚葉に残された時間のこと。あと何度、過ぎ行く季節を見送るだろう。季節の境のほんの隙間に足を取られてしまいそうな危うさを抱えていきる柚葉には、あと、どれほどの。


唇を噛んだ。泣かないように。奥歯が軋む音が柚葉の耳に聞こえないように。思い出を作りたいわけではないから。今を、抱きしめたいだけだ。時間が経つのだけを待っていたら、明日には手の届かない場所に行ってしまう。


「付き合わないよ。恋人らしいこと、たぶん何もできない」


いつまでも続く沈黙を破ったのは柚葉だった。付き合わないと言われたのに、振られたわけではないことはよくわかっていたから、ふっと吐息を投げて笑った。

そうだな、言われてみれば、柚葉のことはとても大切に思っているし、とても、とても好きだけれど付き合いたいと思ったことはなかった。ただ、笑ってほしかったんだと思う。

写真ではなくて、思い出でもなくて、笑った顔が見たかった。

今、腕の中にいて、はにかんで。こうめい、と柔らかな声音が耳元をくるくる回ってじんと痺れるような愛しさを連れてきて。

たぶん、今、この瞬間があれば、良かった。


「そういえば、柚葉に渡したいものがあるんだ」
「なに?⠀誕生日ならまだずっと先だよ」
「ずっと先というか、なんならこの前だろ。誕生日おめでとう。それとは別にさ、貸したいものがあって」
「今日借りて明日返せるなら受け取ろうかな」
「できれば長く、借りていてほしい」


返しに来てほしい、いつか、ずっと、遠い日に。
でもそれは叶わないかもしれないから。
どちらも譲らずに喧嘩になりそうなとき、柚葉が寂しくないようにと口をついて出た一言が思いのほか刺さったようで、こくりと小さく頷いた。


その晩は、細切れに目が覚めた。腕の中で眠る柚葉を何度も確かめて、たまらずに頬や額に唇を寄せると、何度目かで目を覚ました。

朝日が窓の向こうに見えた気がして、しばらくは背中を向けて避けていたけれど、そのうちに柚葉が一緒に見たいと言うから、街が目を覚ますまで細い体躯を腕に抱いて、朝の空を見つめていた。