春の陽気が地表を包み、半袖では寒くてもアウターを着れば気持ちよく過ごせれるようになった。
 そんな気持ちよかった春は昨日からやってきた催花雨(さいかう)の訪れとともに終わりを告げた。
 その中でも特に今日、四月九日は、墨汁を水に沢山たらしたような灰と黒の汚いマーブルの雲が街を覆いつくした。普段は空色と共にすっきりと並ぶビル群は輪郭がぼやけ普段の鮮やかさはどこにも伺えない、ところどころから鈍い光が漏れ出しておりまる魔王の城のようだ。
 ダムから放出されたような雨が風によって横に薙ぎつけるように降り、荒々しく地面に叩きつけられ、水銀のように煌めきながら跳ね、舞っている。そんな町を滝のような雨音だけがひんやりと埋め尽くしている。
 そんな雨に傘は余り意味をなさなかった。膝の少し上まであるアウターは、水をたっぷりと含み肌にへばりついて気持ちが悪く、重い。
 私は、アウターに体温を吸い取られてフルフルと凍えながら、鉛よりも重い心を引きずるかのようにしんしんと歩く、傘の持ち手が冬の滑り台のように冷たく、傘にザーザーと雨が当たり、風にあおられる感触がする。
 帰り道の公園では嵐に見舞われた木々や植物が風にあおられながらも、煌めく雨を受け生命力豊かに生きている。
 小さな菜の花畑では今にも折れそうな細い茎が揺れている。今年はまだ可愛らしい黄色の花は見ることは出来ず、若緑のつぼみがまだかまだかと待っているように見える。この雨風を乗り切れるのだろうか。
 排水管へと続く排水を促す側溝は雨水によって川の流れのようにうねり、ゴミや葉は洪水に巻き込まれたかの如く流されている。たどり着く先の排水溝が詰まったのか、流れが湖の様に溜まっている、あぶくがぷくぷくと立ち、消えクルクルと少しづつ排水管に吸い込まれていく。
 とっくに靴もぐちゅぐちゅしていて、それが気にならなくなるくらいになるころ私はやっと暮らしているアパートに着いた。アパートは新しくない、塗りなおしてはいるが、階段や手すりの錆などから寂れが伺える。2階建てで私の部屋も2階だ。
 こんなびしょぬれの姿を人に見られるのは怖い。私は、色気のとアウターの音が立たないようにそそくさと階段をのぼった。
 私は自分の部屋に入るなり、直ぐに鍵を閉め、靴を脱ぎ、靴下とアウターを玄関に脱ぎ捨てる。後で籠に入れればいいだろう。とりあえず気持ち悪さはましになった。
 風呂に入るべきだが、今日は面倒くさい。頭を拭くためタオルを取る。そうしてバタンとベットに倒れこんだ。
 このまま寝たいのだが、体はしんどいのに心が騒いでいる。
 自分の心臓をくまなくかきむしって安心したい気分だ。不安定な心は淋しく、恐怖に打ちひしがれ、どんなものよりも重い。つらいのが何をするにしても意欲を削って私を封じ込める。このままではいけないと自分を責める。そして、この殻は再び私を淋しさと恐怖に閉じ込める。
 顔に雫が垂れてくる。あぁ、そういえば、頭を拭いていなかったか。私は頭をごしごしと適当に拭く。しかし、雫は止まらない次々にあふれ出してくる。ああそうだ、これは涙だ。この殻に自分が相当締め付けられているらしい。
 遂には体を震わせて嗚咽まで出てきた。もはや、タオルは私から出る液体を拭きとるためだけの物となってしまった。
しかし、これだけでは止まらない。だんだん呼吸に肩が上がるようになってきた。
 肩の上げ下げの周期も早くなる。
 呼吸が早い、苦しい、息はしているのに肺が詰まりそうだ。
 顔や手足に痺れが出てきた、これ以上の過呼吸はいけない。
 そう思うと、ふっと、少し心が軽くなる。この時だけは、自分を認めてあげられる気がする。過呼吸で意識が弱るからだろうか。
 私は、ベットのすぐ横にある、散らかっている勉強机へと手を伸ばした。そこには、海外のヴィンテージ品である、白樺の木でできた小さな木箱がある。サイズは和封筒4号がぎりぎり入らないくらいだろうか、私はこれを掴むとそっと手元へ引き寄せる。箱は直方体の箱の上辺がアーチ状になっていて底の板で開閉できる。私は割れ物を扱うかのように丁重に箱を開けた。
 この中は、私の宝物。
 箱には溢れ出さんばかりの手紙が縦の長さぴったしで苦しいくらい埋め尽くされている。
 私はこの文箱と手紙が大好きで、私の手紙は、心を励まし安寧を与えてくれる。この手紙を読んでいるときだけ、自身が存在していていいと、また私の固くて重くて締め付けるような心の殻を融解してくれる。
 そして、私の散らかった部屋にも馴染んでいない、この文箱は元々木が白く清潔感があり、可愛らしい。この箱が外の世界から手紙を守ってくれている気がする。
 読んだ手紙は順にこの箱にしまっている、苦しくなった時、淋しくなった時、いつでも取り出してよめるように。
 私は、滑らかな白い肌のような箱から、紙が湿気ったり、箱がカビらないように濡らさない様に一番新しい手紙を大切に取り出した。
 丁寧に三つ折りされた手紙を味わうように読み広げる。
「拝啓 春の訪れが感じられると思った矢先、菜種梅雨にはいり、雨風によって粗雑なあなたが風をひかない事を祈ります。
 間違えました。これでは、締めの言葉ですね。余談ですが菜種梅雨は、菜の花が咲く時期に雨がしばらく続くので、催花雨ともいうそうですよ。素敵ですね。」
 この文章を読んでいるだけでも気持ちが落ち着き体が眠気を思い出す。私の意識は今日見たあぶくの様にだんだん小さくなっていき最後には、排水溝に吸い込まれていくように私の意識は途絶えていく。
「 さて、本題ですが、明後日の4月10日ですが……があります。…かも…ですが…きっと楽し…す。」
 私は手紙が折れない様に眺めながら、眠りに落ちていった。