ふと目を開けると、わたしは鳥居の前にいた。

靄がかかったような頭を動かし、ゆっくりとあたりを見渡してみる。大きな鳥居と、その奥に見える朱色の楼門。どこまでも広がる青白い空が、朱色によくなじんでいた。右を見ても左を見ても、ちゅんちゅんとさえずる小鳥以外に生き物の気配はない。世界にひとりぼっちになったような静けさが、毛布のようにわたしを包んでいる。

ここはどこだっけ。なんとなく見覚えがあるような、そうでもないような。どうしてここにいるのか、いつの間にここに来たのか、ふしぎなことに何も覚えていない。

ふらふらと夢見心地で鳥居をくぐり、楼門へ続く石段を上った。近くで見るとずいぶん立派な門だ。両端には凛々しいきつねの石像が2体、何かを守るように佇んでいる。

「そこへ足を踏み入れるでない!」

鋭い声が雷のように落ちてきて、わたしは宙に浮かせた右足を引っ込めた。声がした方向を見てみるけれど、靄がぼんやりと広がるだけで、やはり人の姿は見えない。もう一度前を向くと、「ここです、ここ」と再び声がした。

足元に視線を落としたわたしは、声の主に気づいてぎょっとした。そこにいたのは人ではなく、白いきつねだったのだ。両腕で抱きかかえられそうなほど小さい子ぎつねが、じろりとわたしを睨んでいる。

「一礼もせずに鳥居をくぐるとは、近頃の人間は無礼極まりない。稲荷大神様が嘆くのももっともです」

わたしはもう一度周囲を見渡した。やはり他に人影はない。腹話術でもない。しゃべっている。きつねが確かにしゃべっている。しゃがみ込み、白い真綿のような毛をそっと手のひらで撫でてみる。ああ、なんてやわらかい!

「こら、触るのはやめなさい。くすぐったい、こら」

子ぎつねはくすぐったそうに身を捩った。抱きかかえようとしたら、もふもふの尻尾で思い切り右頬を引っぱたかれた。意外と痛い。わたしは右頬を手で押さえながら、「ごめんなさい」と頭を下げた。

「あの……大変失礼なんですけど、どうして人間の言葉をしゃべっているんですか」

「言葉を操るのが人間だけだとでも? これだから人間は傲慢でたちが悪い」

子ぎつねは乱れた毛並みを整えると、えっへん、と小さな胸を張った。

「私は稲荷大神様の眷属(けんぞく)です。稲荷大神様に仕えているということは、すっごくえらいってことなんです。どうです、すごいでしょう」

「それはすごいですね。ところでこんちゃん、質問があるんですけど」

「そんなかわいらしく呼ぶでない、無礼者!」

「いたっ」

またもやもふもふの尻尾で左頬をぺしん! と叩かれた。わたしはひりひりと痛む両頬を押さえ、「じゃあ、こんさん。……いえ、こん様」と呼び直した。

「ここはどこですか? なんとなく見覚えがあるんですけど……」

「そんなことも知らないとは、あなたって本当に無知ですね」

こん様はあきれたように鼻で笑った。人をばかにしたようなこの表情、某教授を思い出す。

「ここは伏見稲荷大社。全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮。御祭神である稲荷大神様は、1300年以上この稲荷山に御鎮座されているんですよ」

わたしは今一度そびえ立つ楼門を見上げた。改めて見ると、真ん中あたりに「伏見稲荷大社」という文字が見て取れる。

無知なわたしでも、名前くらいは知っている。確か鳥居が無数に立ち並ぶ、観光客に大人気の場所だ。どうして自分がここにいるのか、なぜきつねと意思疎通ができるのかは分からないけれど、この機会を逃す手はない。

「こん様、わたし、伏見稲荷大社を見てみたいです。案内していただけますか」

「案内ぃ? なぜ私が人間ごときに……」

「稲荷大神様のつかいとして、お願いします!」

 両手を合わせて頼み込むと、こん様は気をよくしたのか、「し、しかたないですね」とまんざらでもなさそうに顔を背けた。

「ではまずきちんと一礼し、手水舎で身を清めてきなさい」

わたしはにやりと口の端を上げた。この子ぎつね、案外ちょろい。





こん様に導かれ楼門をくぐったわたしは、本殿の前で手を合わせた。こん様いわく、この本殿は1468年に起きた応仁の乱で一度焼失しているのだという。再興まで31年の時を要したそうだけど、そんな悲劇など微塵も感じさせないほど、壮麗かつ優雅な趣だ。

ところどころにある装飾をじっくり見てみると、その繊細な造りにただただ息を呑むしかない。今では「伝統」と呼ばれる職人の技術は、何百年も前からこうして形あるものを作り、現代に続く価値を与えてきたのね。時が流れ、文化や技術がどれだけ変化していこうとも、その輝きは決して衰えることがない。

「ところでこん様。稲荷大神様は何の神様なんですか?」

「五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就などの神様です。ご高齢でめったに人前には姿を現しませんが、とても強く、お優しい方なんですよ」

こん様はもふもふの尻尾を左右に振りながら、わたしの前を歩いていく。しばらくすると、朱色の鳥居が無数に連なる場所にたどり着いた。

「ここは千本鳥居。伏見稲荷の象徴とも言える場所です」

「すごく神秘的ですね。どうしてこんなにたくさん鳥居があるんですか?」

「願いごとが『通るように』あるいは『通った』祈願と感謝の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居が参道全体に並んでいるんですよ」

こん様と並んで鳥居の中を歩いていくと、どこまでも続く鳥居に吸い込まれていくようだ。まるで別世界に続いているような――

「あっ」

「どうしました?」

「わたし、写真を撮るのがすきなんです。この風景を撮影したいなと思ったんですけど、カメラを持っていなくて……」

「しかたないですね」

こん様はあきれたように息を吐くと、どこからか1枚の葉っぱを取り出した。それを頭の上に置き、つぶらな瞳をぎゅっと閉じて、こんこん! と叫ぶ。すると、わたしの手の中にぽん、とカメラが現れた。

「すごい、魔法ですか?」

「稲荷大神様のつかいとして、このくらいは当然です」

こん様はえっへん、と小さな胸を張った。わたしはカメラを構え、試しにシャッターを押してみた。目の前に続く千本鳥居が色鮮やかに写っている。うん、正真正銘、本物のカメラだ。

「こん様って本当にすごいんですね。もっと伏見稲荷大社について教えてください」

「ですから、なぜわたしが人間なんかに……」

「稲荷大神様のつかいなら、何でもご存知だと思って。あっ、知らないならいいんですけど……」

「ぶ、無礼な! 知っているに決まっているでしょう。そうですね……たとえばほら、そこに見える杉! 稲荷山に生えている杉のすべてが、稲荷大神様の御神威が宿っておられる御神木――『しるしの杉』とされているんです」

「しるしの杉?」

「そうです。紀州の熊野詣が盛んとなった平安中期以降、その往き帰りには、必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなっていたんです。その際には、稲荷社の杉の小枝、すなわち『しるしの杉』をいただいて、体のどこかにつけることが一般化していたんですよ。『きさらぎやけふ初午のしるしとて稲荷の杉はもとつ葉もなし』など、和歌も数多く詠まれているんです」

こん様はすらすらと流暢に説明をした。こんなところも教授に似ているとは。違うのは見かけのかわいらしさくらいだな、と、わたしはこっそり苦笑した。





それからも、わたしはこん様に案内されてあらゆる風景を写真におさめた。ひっきりなしにシャッターを切るわたしを見て、こん様はまた愛くるしい顔をげんなりと歪めた。

「なぜ人間はそんなに記録に残そうとするのでしょう。心に残せばいいものを……」

「記憶はあいまいだから、少しでも忘れないようにしておきたいんです、きっと。……見ます?」

「あなたが見せたいんでしょう」

わたしがしゃがみ込むと、こん様はてくてくと歩み寄り、ひょいっとカメラをのぞき込んだ。そこに写っている風景を見た途端、こん様のまとう空気が、ふんわりとやわらかく変化した。

「こん様も撮ってあげましょうか」

「い、いやです。魂が抜かれる」

「迷信ですよそんなの」

こん様はぴゃっとわたしから飛び逃げ、怯えるように前方を走っていく。わたしはくすくすと笑いながらそのあとを追いかけた。





ふしぎなことに、朝の顔をしていたはずの太陽は西の空へと沈み始めていた。澄んだ青色だった空は鳥居と同じ朱色に染まり、群青、そして完全な黒へと塗り替えられた。

鳥居はまだまだ続いている。わたしはこん様をぎゅっと抱きかかえながら、こわごわと山を下りていった。

「暗いとなんだかおそろしいです。おばけとか出ないですか」

「出ませんよそんなもの。出たら、私がきちんと守りますから」

こん様は勇気づけるように、わたしの腕に頬をすり寄せた。鳥居の各所に吊るされている提灯が、ぼんやりとわたしたちを照らしている。

これもまたふしぎなことだけれど、鳥居を抜けて本殿へ戻ると、またもや朝となっていた。先ほど沈んだばかりの太陽が、また東へと戻ってきたらしい。白い光が目の奥に染みる。新鮮な風がそよそよとわたしの黒髪を揺らして心地がいい。

「案内していただきありがとうございました。さすが、稲荷大神様のつかいですね」

腕の中にいるこん様を、労わるように優しく撫でる。こん様は「このくらい当然です」と嬉しそうに尻尾を揺らした。

「それにしても、たくさん写真を撮りましたね」

「京都のことについてたくさん知ろうと、先日心に決めたんです。こん様がたくさん教えてくれたので助かりました」

「京都は広い。すべてを知るのは大変ですよ」

「はい。でも、師匠がいますから」

わたしは強くうなずいた。ひとりではきっと知ることができない。連なる鳥居の美しさに、澄み切った空の清々しさに、目を向けることすらできやしない。だけどきっと大丈夫。あの人が教えてくれるから。少し意地悪で、ひねくれていて、だけど優しい。こん様にどこか似ている、博識の教授に会いたくなった。

「……人間はきらいでしたけど、あなたのような人もいるんですね」

こん様はぽつりとつぶやくと、わたしの腕からぴょんっと飛び出した。もふもふの尻尾を左右に揺らし、挑戦するように振り返る。誰かさんそっくりに微笑んで、

「また会いましょう、琴子さん」





――目の前が暗転した。

はっとして顔を上げると、長方形の机と椅子、そして黒板という見慣れた景色が目に飛び込んできた。夏のにおいを含んだ風が、白いカーテンをそよそよとなびかせている。

「ようやく起きたか」

振り返ると少し離れた席にいる間崎教授が、読んでいた本から顔を上げたところだった。わたしはあたたかい海に浸っているような、ふわふわとした浮遊感を抱きながら、きょろきょろとあたりを見渡した。

「こん様は? 稲荷大神様は?」

「何を言っているんだ」

「わたし、伏見稲荷大社に行って、それで」

「……私の講義中に伏見稲荷大社に行っていたのか。それはいい夢を見ましたね」

教授は本を閉じて立ち上がると、呆けた顔のわたしの前にやってきた。笑っているように見えるけれど、これは演技だ。わたしは確実に怒っているであろうその端正な顔立ちを見て、ぱちくりとまばたきをした。

今わたしがいる場所は講義室で、黒板に書かれているのは教授の流麗な文字。わたしは椅子に座っていて、机の上にはノートとシャープペンシル。

どうやら教授の言う通り、講義中に眠ってしまっていたらしい。もうお昼休憩ということで、他の学生はすでにランチへ行ってしまい、どうやらわたしが最後みたい。

ああ、夢だったのか。それにしてはやけに生々しい。わたしはふとカバンにしまってあったカメラを取り出した。もう癖になっているのかしら、反射的に教授が、わたしと一緒にカメラをのぞき込んでくる。

「あ」

そこに写っていた景色を見て、わたしは短く声を上げた。

伏見稲荷大社の鳥居を背景に、こん様――いいえ、きつねの石像が、凛々しい面持ちでこちらを見ていた。