伊藤久右衛門を出ると、あれほど曇っていた空が嘘のように青く染まっていた。初夏の顔をした太陽が、出番を待ち構えていたように鋭い輝きを放っている。

「すみません、またご馳走になってしまって」

申し訳なくて頭を下げると、間崎教授は「いいんだよ、このくらい」と、晴れやかな笑みを浮かべた。

「ところで、連れていきたい場所があるんだ。ついてきてくれるかい」

要するに、「ついてこい」ということである。なるほど、抹茶パフェを分けてくれたのはこのためだったのか。わたしは忠犬さながらの従順さでうなずいた。





宇治川の清流にかかる日本三名橋の宇治橋より、川に沿って上流へ約15分。歩き疲れたわたしたちを待っていたのは、「琴坂」という木札がかけられた総門だった。

「連れていきたかったところって、ここですか?」

教授は答える代わりに微かに笑って、先に総門をくぐっていく。これがきっと教授なりの肯定なのだと、なんとなく分かってきた。わたしは写真を1枚撮ってから、置いていかれないようにあとを追いかけた。

山門に続くゆるやかな坂道はみずみずしい緑に囲まれ、まるでトンネルのようだった。覆い被さるように立ち並ぶ木々が、黒い絵の具をこぼしたように、地面に陰影をつけている。木漏れ日がわたしの上に降ってきて、少し目が眩んだ。

「春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉。琴坂は季節それぞれに違った美しさを見せてくれるんだよ」

「なぜ『琴坂』というんですか?」

カメラを構えながら尋ねると、意地悪な指導者は、「たまには自分で考えなさい」と、ぶっきらぼうにわたしを突き放した。講義中は、あんなに丁寧に解説してくれるくせに。わたしにだけ厳しい気がするのは思い過ごしかしら。今日だってわたしをいきなり呼びつけるし、まさに今この瞬間も、有無を言わさずここに連れてきている。わたしのこと、何だと思っているの。

頬を膨らませながら、教授の数メートルあとを歩いていく。琴坂、琴坂。ぼんやりと緑を眺めながら、心の中で繰り返す。とっても美しい名前だけれど、どうして琴、が関係あるのだろう。この坂を上った人は、何を思ってそんな名前をつけたのかしら。

考えながら歩いていると、先に上り切った教授が、山門の前でわたしを待っていた。早く来なさい、とも、遅い、とも言わない。わたしが隣に来るのを、蕾が開くのを待つように、じぃっと、待ち続けている。もしわたしが亀のようにのろくって、たどり着くのに膨大な時間を要するとしても、きっと何も言わずにそこにいてくれる。この人のことなんて何も知らないのに、なぜかしら、それだけははっきりと確信することができた。

わざと歩みをゆるくして、そばに近づいた。ほんの少し、いやがらせをしたくなった。答えをくれない自分勝手なこの人を、困らせてやりたくなった。だけど教授は、そんなことを気にもせず、わたしを優しく迎え入れ、堪え切れなくなったように話し出した。

「ここは、曹洞宗で修行道場として最初に開かれた興聖寺(こうしょうじ)。『春岸の山吹』『興聖の晩鐘』という二つが宇治十二景に含まれているほどの名勝なんだ」

流暢に説明をする教授の顔は、講義の時よりも生き生きとしていた。心の底に生まれた興奮と喜びを抑え込んではいるけれど、目の輝きは隠せない。そんな教授を見ていると、なぜだかわたしまで、心が弾んでくるのだった。

大きな鐘楼の前を通り、受付を済ませて中へ入った。足を踏み入れた瞬間、ぎしりと沈む足裏から、歴史がすぅーっと心臓のあたりまで駆け上がっていくような気がした。何百年も前にここで過ごした修行僧の気配、それが空気となってわたしを取り囲んでいるのかしら。静かであるのにどこか賑やかで、なんだかそわそわしてしまう。

大書院から見える風景も、髪を揺らすあたたかな風も、どうしようもなく心地がいい。わたしの少し先を歩くこの人の穏やかな声が、自然の中に溶け込んでいくようで、ああ、きっとわたしは夢を見ているのだわ、雨上がりの潤った世界で、ふわふわとまどろんでいるのだわ、なんて勘違いをしてしまう。長く長く目を閉じて、このまま意識を沈めていたいけれど、時間をとめるすべをわたしは持たない。

伏見桃山城の遺構を用いて建てられたという法堂は、見上げると手形や足跡がついた血天井があり、廊下を歩くとキュッキュッとおかしな足音が鳴った。「鶯張り」というらしい。名前は聞いたことがあるけれど、興聖寺にあるなんてまったく知らなかった。君は何にも知らないね、と、困ったように教授が笑った。そんなに笑わなくてもいいじゃありませんか。わたし、京都に来たばかりなんですもの。

「ではしっかりと、京都の風景を、そのカメラにおさめるんだよ」

ばかにしたと思ったら、そうやって、さりげなくわたしのやる気を奮い立たせるような言葉を投げかける。この人は、わたしが写真を撮るように誘導するのがとてもうまい。乗せられているのだ、と分かっていても、よし、この人をぎゃふんと言わせるような写真を撮ってやるわ、と、カメラを持つ手に力がこもる。





法堂を抜けたわたしたちが次に向かったのは、宝物殿と呼ばれる場所。扉を開けると、目の前に突如、神々しい黄金の聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)が現れた。

「すごい……こんなに間近で見られるんですね」

「手習観音」とも呼ばれる観音様は、穏やかな表情を浮かべてそこに立っていた。こんなに近くで観音様を見るのは初めてだ。男性のように凛々しく、女性のように優しいそのお顔立ちに、カメラを向けることも忘れて見入ってしまう。

「観音様の右足を見てみなさい」

秘密の話をするように、教授が息を潜めてささやいた。言われるがまま目を凝らすと、前に出した右足の、親指が少し浮いている。

「『衆生の困苦を救うため、すぐに駆けつける』という意志を表しているんだよ」

「……奥が深いですねぇ、本当に」

足の親指なんて、教授に言われなければ絶対に見落としていただろう。観音様の荘厳な佇まいであったり、穏やかな表情だったり。普通の人ならば、どうしたってそちらに目がいってしまい、足元を見下ろすことすらしないだろうに。本当に、この人の視点と知識には畏れ入る。

ちらり、と、気づかれないように隣にいる教授を横目で見た。源氏物語の世界から出てきたような外見と、海のように広くて深い知識を持つこの人。こんな人の隣にわたしが立っているなんて、よく考えたら不釣り合いなのかもしれない。些細なことに気づく目もなく、授業で習った程度の知識しか持たない。教授より少し優れているのは、写真を撮ること、たったそれだけ。そんな、どこにでもいる普通の、18歳の少女でしかないのに。

金福寺に行った時も、三室戸寺でもそうだった。わたしはいつだって愚かな質問をすることしかできない。元々歴史はすきだったから、他の人よりは知識が多いつもりでいた。それなのにこの人の隣に立つと、自分の無知さが太陽の下にさらけ出されていくようで、とんでもなく恥ずかしくなる。

「……教授」

「何だい」

「どうしてわたしを、ここに連れてきてくださったんですか。また、撮影係ですか」

「……もちろん、それもあるけれど」

おや、どうしたことだろう。教授にしてはめずらしく歯切れが悪い。わたしが首を傾げると、教授は逃げるように顔を背けた。

「君を見ていたら、琴坂を思い出したんだよ」

「それって、どういう……」

問いかけて、はっと口をつぐんだ。先ほどの能弁さはどこへやら、教授は観音様のようにじっと黙り込んでいる。ああ、なるほど、そういうことか。

「……教授って、意外と優しいですよね」

ひとりごとのようにつぶやくと、教授は「何を、いきなり」と小さな声で吐き捨てた。計り知れない知識を持っているくせに、こういう時だけこの人は、言葉を知らない子供のように、返答に困ってしまうのである。





太陽が西の空にゆっくりと腰を下ろそうとしていた。まもなく閉門だ。

カラスの鳴き声を背に受けながら、わたしたちは琴坂を下り始めた。上る時に感じた白い光はオレンジ色へと変化し、どことなく哀愁を感じさせる。風が少し冷たくなって、ちょっぴりさみしい。ああ、もうすぐ1日が終わってしまう。

――まだ、帰りたくないなぁ。

心に生まれたその感情に気づいて、びっくりした。そんな子供のようなことを思うなんて、どうかしている。今日だって別に宇治に来る予定はなかったし、雨が上がったからちょっと出かけてみよう、くらいの気持ちでいたのに。それなのに、どうしてこんなこと。

この坂を下り終えたら、川に沿って下流へ約15分。教授と待ち合わせた「つうゑん」を過ぎて、電車に乗ったらさようなら。

明日からまたきっと、普通の日常が始まる。大学に行って、たまにひとりで京都を巡って、写真を撮って、友だちと何気ないおしゃべりをして。教授は教授で、同じように講義をし、自分の研究に没頭して。今日あったことなんてなかったように。わたしたちはまた、一教授と学生Aに戻るのだ。

――本当に、それでいいの?

どこからか聞こえるこの声は、もうひとりの自分か。それとも、興聖寺の奥に眠った、観音様の声かしら。

――茂庵で出会い、一乗寺を巡り、宇治で1日をともに過ごした。それらをすべて、「特別な日」にするつもりなの?

ああ、観音様。違うのです。きっと、わたしはそうじゃないの。そんな「特別」はもういらないの。

教授と過ごしていて分かったことがある。講義中は穏やかで、口調も丁寧。まるで上流貴族のように上品な微笑み。だけど本当は違うんだ。無意識なのかは知らないけれど、段々と口調も砕けてきているし、簡単に人を嘲るし、あきれたり、ばかにしたり、嫌味を言ったり。教授がこんなひねくれ者だなんて、一体誰が知っているだろう。いや、きっと、誰も知らない――わたし以外、誰も。

足はもう完全にとまっていた。黒髪をさらっていく風が、わたしの背中を押すように、後ろから強く吹いている。ねぇ、そんなに急かさないで。お願いだから急き立てないで。

わたしはまだ、どうしても。
あと少しだけここにいたいのよ。

反抗するように目を閉じると、視界の代わりに聴覚が敏感になって、あらゆる音が大きくなった。風に揺られた緑の葉、カラスの鳴き声、どんどん離れていく教授の足音、そして水の――

「……あっ!」

はっと、両目を見開いた。ずいぶん先を歩いていた教授が、声に気づいて振り返る。

「教授、分かりました!」

「何が」

「琴坂の由来です」

そっと両耳に手をあてる。水の流れる音が、じゃれるように鼓膜を震わせた。ああ、やっぱり。きっとそう。

「音です。両脇を流れる水のせせらぎが、琴の音のように聞こえるから。そうでしょう?」

教授は何も答えない。正解とも不正解とも教えてくれない。ただ、眼鏡の奥の瞳を、すぅっと優しく細めるのだ。それでいい。わたしたちには、それだけでいい。

透明な風がわたしを押した。転がるように走り出し、子供の頃に戻ったように、全力で両腕を振った。あれほど重かった足はもう羽根のように軽い。急に駆け寄ってきた教え子を、教授は呆けた顔で迎えた。

「わたし、もっといろいろなことを知りたいです」

息が弾んで、喉から上手に声が出ない。額がじんわりと汗ばんで、髪だってもうぼさぼさ。だけどそんなこともういいの。どうなっても、気にしないの。

呼吸を整えるより早く。髪を梳くより先に。
あなたに、伝えたいことがある。

「卒業するまでの間でいいんです。もっともっと教えてください。きれいな花や、おいしい甘味や、お寺の歴史を。写真を撮るくらいしかできないけれど、わたし、一つでも多く知りたいんです。京都のおもしろさを、間崎教授に、たくさん教えてほしいんです」

眼鏡越しの瞳が、星のように何度もまたたいた。めずらしく戸惑っているようだった。愚かで、決して美しいとは言えないわたしの姿を、頭のてっぺんから足の先まで、観察するようにじっと見る。

やがて教授は、「何を言っているんだ」と、あきれたように息を吐いた。

「いつも教えているでしょう――琴子さん」

ふいにこぼれたその微笑みは、雨上がりの空のように、どこまでも透明に澄み切っていた。