年が明けたばかりの1月7日は、空が生まれたてのように青く澄んでいた。

「あけまして、おめでとうございます」

上賀茂神社の鳥居前で新年の挨拶を交わすと、身も心もきゅっと引き締まったような気がした。昨年の春に出会ってからもうすっかり見慣れた間崎教授の顔も、年が明けるとまた初対面のような、新鮮さと気恥ずかしさを感じる。ちょっと会わないうちに、前髪が少し短くなった。新しい年を象徴するように、混じり気のない新鮮な風が、時折冷たく頬に刺さる。だけど目の前のこの人は、寒さなんてちっとも気にしていないように、眉一つひそめない。マフラーを首に巻き、モスグリーンのロングコートを羽織った姿はとてもあたたかそう。眼鏡の奥にある瞳が、わたしを映して優しく微笑んだ。

「実家ではゆっくり過ごせた?」

「はい。今回は夏休みの時と違って、誰かに呼び出されることもありませんでしたから」

「無粋なことをする人もいるんですねぇ」

わたしはぎろりと教授を睨んだ。素知らぬ顔をしている、あなたのことだ。

「上賀茂神社に行かないか」と教授から連絡があったのは、つい昨日のこと。年末年始は実家で過ごしたため、初詣というわけではないけれど、歴史あるこの土地で新年を感じられるのはとても嬉しい。わたしのあこがれ続けた京都で、新年の雰囲気を味わえるということ。それが長く苦しい受験勉強を耐え抜いた結果だと思うと、今更ながら頑張った自分を褒めてあげたくなる。

新しい年を喜ぶように、道行く人たちの顔は晴れやかで、聞こえてくるのは笑い声ばかり。わたしたちも鳥居をくぐり、肩を並べて歩き始めた。

「それにしても、なぜ上賀茂神社なんですか?」

「久しぶりに白馬奏覧神事(はくばそうらんしんじ)が見たくなってね」

「白馬? ……あっ!」

視界の端に映った白馬に気づき、わたしは歩調を速めた。二ノ鳥居の前にある神馬舎の中で、真っ白な毛を持った神々しい馬がじっと待機している。小さな子供がわいわいと白馬を囲み、順番に人参を与えていた。

「美しい白馬! この白馬がどうなるんですか?」

「まだ時間には早いから、先にこっち」

教授は白馬の反対側にある、長い行列を示した。一体、何を目当てに並んでいるのだろう。そう考えて、すぐに気づいた。たくさんの女性が、大きな鍋から何かをお皿によそい、順番に配っている。教授が試すように口の端を上げた。

「1月7日といえば?」

「……七草粥!」

わたしはぱっと顔を輝かせ、教授とともに七草粥を求める列に並んだ。教授が事前に「おなかをすかせてきなさい」と言っていたのは、このためだったのか。

「毎年この日は500杯限定で七草粥がいただけるんだ。ひとりで来ようと思っていたんだが、せっかくなら琴子さんと、と思って」

「教授……そんなにわたしのことを考えてくれていたんですね!」

胸の奥がじぃんと熱くなった。思えば昨年は、写真を撮りにこいと遠方から呼び出されたり、無知を鼻で笑われたりと、散々な扱いをされたものだけれど、この悪魔のような教授にも人を労わる気持ちはあったのだ。健気に言うことを聞き続けてよかった、と心を震わせていると、教授がふっとわざとらしく息をついた。

「琴子さんは食いしん坊だから、ひとりで食べたと知られたら、あとから何て言われるか……」

「……教授の中のわたしのイメージ、どうなっているんですか」

――最近優しくなったと思ったのは気のせいだった。

心に湧き出た感動をすぐに押し込め、思い切り背中をどついてやった。もう大学教授だろうが何だろうが関係ない。ふたりでいる時はこんな感じなのに、講義中の教授は非の打ちどころがないくらい上品で穏やかな雰囲気をまとっているのだから、本当にずるいわ。この、二重人格め。

10分ほど並んで、ようやく七草粥を手に入れたわたしたちは、用意されていた休憩所に腰を下ろし、いただきます、と手を合わせた。

一口食べると、すぐにあたたかさが体中に染み広がって、心がほっこりした。自然本来の味がして、とてもおいしい。

「あったかい……優しい味が染みますね」

口から吐き出される白い息が、気温の低さを主張している。最近、ますます寒さが厳しくなって、こたつから出るのに一苦労だ。あたたかい七草粥を口にすると、正月ボケした頭をなんとか起こして朝早く家を出てきてよかった、と、報われた気持ちになった。教授が、そうでしょう、と、自分で作ったわけでもないのに自慢げにうなずいた。口ではいろいろ言いながらも、わたしに七草粥を食べさせたかったのだ、きっと。

「ところで、春の七草、全部言えるかい」

「えっと……セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ!」

「……さっき、あそこに並べられているのを見ただろう」

「ち、違います。ちゃんと覚えてます。確か、一年の無病息災を願って食べるんですよね」

「正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休めるため、とも言われている。どうせ正月に食べ過ぎたんだろうから、ここで胃を休めないと」

「新年早々、人を小馬鹿にしないと気が済まないんですか?」

軽口を叩き合いながら、わたしたちはぺろりと七草粥を食べ終えた。教授に対する不満は残っているけれど、胃袋は十分に満たされた。冷えていた指先も、もうぽかぽかと熱を持っている。

「そろそろ神事が始まるから、境内へ行こう」

「え? あ、待ってくださいってば」

教授が颯爽と立ち上がったので、わたしも慌てて腰を浮かせた。七草粥のお皿を片づけて、リュックからカメラを取り出す。一体、今から何が始まるのか。白馬奏覧神事とは何なのか。肝心なことは、先に何も言ってくれない。でも、それでいいのだ。そうでなくちゃ楽しめないもの。

二ノ鳥居をくぐると、そこにはすでにたくさんの人が何かを待ち構えるように集まっていた。わたしと同じように、シャッターチャンスを逃すまいとカメラを持っている人もいる。わたしと教授もその人たちの間に入り、「何か」が始まるのをじっと待った。

10時ちょうどになると、先ほど見た白馬が、神職の方々に引かれてこちらに歩いてきた。一歩一歩、堂々と、そして優雅に進んでいく。これだけたくさんの人がいるというのに、誰も騒ぐことはない。その凛々しい姿にすっかり言葉を奪われてしまったみたいだ。もちろん、わたしもそのうちのひとり。新年の幕開けにふさわしい、厳粛な神事が始まったのだ。

「白馬奏覧神事とは、上賀茂神社の神馬である神山号(こうやまごう)を、御祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)に見ていただき、一年の無事を祈る神事のこと。元々は白馬節会(あおうまのせちえ)といって、宮中行事として行われていたものなんだよ」

「京都って、いろいろな行事があるんですね……」

教授の説明に感心しながら、わたしは白馬のあとを追った。まわりの人もぞろぞろと移動していく。

まず神馬は細殿という場所で待機をし、その間に、土舎(つちのや)と呼ばれる場所で昭和天皇遥拝式が行われる。昭和天皇が崩御したこの日に、そのご聖徳を称え武蔵野陵を遥拝するのだ。それが終わったら、神職の方々は本殿へ。本殿内では神前に七草粥が供えられ、祝詞が奏上される。そのあと、白馬には水でふやかした大豆が与えられ、1年の無事を祈るらしい。

「お正月に神事を見るのって、いいですね……」

教授に解説してもらいながら神事を見終えたわたしは、ひとりごとのようにつぶやいた。京都に越してきてからいろいろな寺社を巡ってきたつもりだったけれど、やはりまだまだ知らないことがたくさんある。

「京都は祭りごとが多いからね。節分祭に葵祭、祗園祭に時代祭。学生のうちにたくさん見ておきなさい」

そのあとわたしたちは、新年のお参りを済ませ、元来た道をたどり始めた。去年の今頃は、ちょうどセンター試験直前だったから、家族一丸となって「大学に合格できますように」と願っていたっけ。見事その望みが叶った今、神様に願うのは、「今年もたくさん写真が撮れますように」という、ささやかな思いだけ。そしてその願いは必ず叶うと確信している。きっと、隣にいるこの人が、わたしの知らない場所へと連れていってくれるから。

「ところで琴子さん、このあとの予定は?」

二ノ鳥居をくぐり抜けた時、教授が、ふと思いついたように問いかけてきた。

「いえ、特に何も」

「では、あたたまるためにお茶でも行かないか。食いしん坊な琴子さんに、ケーキをご馳走してあげよう」

「……それ、教授が食べたいだけでしょう」

さっき七草粥を食べたばかりだというのに、ケーキとは。せっかくお正月らしい神事を見たあとだっていうのに、これじゃあ、いつもと変わらないじゃない。わたしは短く息を吐き、「しかたないですね」と苦笑した。

新しい年がやってきても、結局いつも通り。京都を巡り、写真を撮り、甘いものを食べ、語り合う。それがわたしの、いいえ、わたしたちの日常。

帰省中の出来事や、最近読んだ本のこと。去年撮った写真の数々や、上賀茂神社で感じたすべてのこと。話したいことはたくさんあるけれど、ひとまず今日は、この言葉を互いに伝えよう。

「今年も、よろしくお願いします」