太陽が西の空に沈み切ると、あたりは黒いベールをまとったように暗闇に包まれ、代わりに、半分に欠けた月が黒い海を漂う船のように浮かんでいた。

風が吹くたびに寒さが肌の奥まで浸透して、ぶるり、と身震いした。今日は、光明院、竹情荘、それに、雲龍院。どれもこれもさっき行ったばかりなのに、ずっと昔のことみたい。太陽と月が入れ替わると、記憶に区切りがついてしまうのかしら。夜は、夜という独立した一つの世界のよう。空も、建物も、人でさえも、昼間とは違う顔をしている。

河原町で軽く食事を済ませたわたしたちは、四条大橋を渡って八坂神社方面へと歩いていた。こんなに暗いのに、時刻はまだ6時を過ぎたところだ。何時になっても京都は眠らない。どこもかしこも人で溢れて、お祭りのよう。

「次に行く場所、どこだと思う」

隣を歩く間崎教授が、思いついたように聞いてきた。朝はあれだけ眠たそうだったのに、今はわたしよりもピンピンしている。どれだけ気を抜いていても、背筋はしゃんと伸びて、風になびく髪すらも、なんだか様になっていて憎たらしい。わたしはすべての言葉を呑み込んで首を傾げた。八坂神社ではあまりに素直だし、歩いて行くことができて、夜に参拝できる場所となると――

「高台寺、とか……?」

「そこもいいけれど、今回は、こっち」

東大路通に突き当たったところで、高台寺とは反対の、北側へと曲がった。ボリュームを下げるみたいに、少しずつ四条通の喧騒が遠ざかっていく。この道を、わたしは知っている。いつか行こうと思っていながら、結局、今の今まで足を運ぶことができなかった。

「知恩院!」

「正解」

暗闇の中で、そっと微笑む気配がした。そわそわしながら歩いていくと、知恩院へと続く坂に、道しるべのような灯火が、ぽつりぽつりと置かれていた。坂の上を見ると、黄金に光り輝く何かが建っている。すでに参拝を済ませた人たちが、楽しげな会話をしながら、わたしたちの横を通り過ぎていく。一歩一歩進むたび、心臓の音が大きくなる。

昼と夜は、違う顏。よく知っている場所も、全然知らない場所へと変貌する。坂を上り切ったわたしを迎えたのは、視界に収まらないほどの大きな門と、目が眩むほどの輝きだった。

「すごい……」

つぶやいた言葉は吐息となって、夜の空気を白く汚した。大きな神様が佇んでいるような荘厳さだ。この世のものとは思えないその輝きに声を失った。いつも何気なく前を通り過ぎていたことを恥じた。知っているのと、実際に見てみるのではこうも違う。門の大きさも、輝く光の美しさも、何一つ知らなかったのだ、わたしは。

「知恩院の門は、三つの門と書いて『三門』というんだ」

教授の低い声で、はっと現実に引き戻された。風にそよぐ髪が邪魔して、どんな表情をしているのかよく見えない。ただ、その姿形だけが光に照らされ浮かび上がって、確かにここに立っているのだ、そばにいてくれるのだと知らせてくれる。

「どうして『山門』ではないんですか?」

「『空門(くうもん)』『無相門(むそうもん)』『無願門(むがんもん)』という、悟りに通じる三つの解脱の境地を表わす門――三解脱門(さんげだつもん)を意味しているんだよ」

「なるほど……」

わたしはもう一度、光り輝く「三門」を見上げた。名前を聞いたら、この神々しさ、昂然たる姿にも納得がいく。教授に教えてもらわなかったら、「すごい」と思うだけで、何も知ることができなかっただろう。

夜の知恩院は、ひっそりとしているのに賑やかで、かといって騒々しいわけでもなく、風が木々を揺らす音や、人々の楽しげな話し声が、BGMのように流れていた。11月も後半に差しかかり、もう秋というよりは冬に近づいた冷たい空気が、わたしたちの間を姿なく漂っている。

「おすすめは、こっち」

突然、教授が歩む方向を変え、とある場所を指差した。近づいてよく見てみると、門のところに「友禅苑」と書いてある。

「友禅染は知っているね」

「はい。名前くらいは……」

「友禅苑は、友禅染の始祖である宮崎友禅の生誕300 年を記念して、昭和29年に改修造園されたんだよ。宮崎友禅の住居が知恩院前にあって……」

「あっ! 教授、水面に……」

思わず池に駆け寄ろうとしたら、何かにつまずいて、ぐらりと体がつんのめった。あっ、と思ったのも束の間、次の瞬間には教授に腕を引っ張られていた。

「暗闇の中を走るんじゃない。危ないだろう」

「す、すみません……」

教授が支えてくれたおかげで、間一髪転ばずに済んだ。ぶらぶらと揺れているカメラとこん様を見て、さぁーっと血の気が引いていく。危ない。このまま倒れていたら、カメラを壊してしまうところだった。

体勢を立て直して、もう一度前を見た。大きな池と、その真ん中に佇む観音様。それと、ライトに照らされて、グラデーションのように色づくもみじ。暗闇の中にぽうっと浮かび上がるその光景は、まるで夢のよう。

「ほら、水面にもみじと観音様が映っています。すごくきれい」

「見れば分かるよ、それくらい」

子供のようにはしゃぐわたしを見て、しかたないなぁ、と教授が笑う。わたしは寒さも忘れてその幻想的な景色に見入った。

もみじって、こんなに輝いていたかしら。ライトに照らされているから、だけじゃない。昼間ももちろんすばらしいけれど、暗闇の中浮かび上がるそれは、轟々と燃え盛る炎のようだ。池をのぞき込むと、そこにもまた、反転した世界が広がっている。自然が生み出した芸術って、こういうことなのかもしれない。

「美しい、ですね」

息を吐くと、白煙が暗闇を引き裂いてたゆたう。胸が震えているのは、きっと寒さのせいだけじゃない。この何気ない1日がかけがえのない日になった、その喜び。流されていたらきっと見落としてしまう。忙しさに五感を鈍らせてしまっていた、春のわたしのように。

――人間は、死ぬまでにいくつの「美しい」を集められるだろう。

きっとそれは、人によって差があるのでしょう。仕事や勉強に追われていたら、桜が咲いたことにも気づかず、紅葉の美しさも知らずに、一生を終えてしまうのでしょう。わたしもきっと、教授に出会わなければ知らなかった。こんなにも世界に「美しい」が溢れていることに。今しか見ることのできない景色があることに。

まだ、わたしの知らない世界がある。

「教授」

隣にいる師の名前を呼ぶ。あなたが振り向く気配がする。わたしはなんだか気恥ずかしくて、顔は池に向けたまま。

ありがとう、と伝えようとして、やめた。今日が特別なわけじゃない。宇治に行った時とはもう違う。こうして、いろいろな場所に一緒に行って、いろいろな「美しい」を集めて、いろいろなことを思うのは、もう特別なことじゃない。これがわたしたちの日常なんだ。

「……今日は、素敵な景色がたくさん見られてよかったです。写真を現像するのがとても楽しみ」

「私も、楽しみにしているよ」

手元のカメラで撮った写真を確認した。ついこの間まで青もみじの写真ばかりだったのに、今日1日で赤色に埋め尽くされてしまった。だけど紅葉の時期は短い。あと1週間もしたら、この景色はもう見られなくなってしまうだろう。そうなったら今度は、長い冬がやってくる。

「紅葉が終わってしまったら、しばらくは撮るものがなくなりますね」

「どうしてそう思うんだ」

前を歩いていた教授が振り向いた。気温よりも冷たい視線が突き刺さり、思わず体を縮める。

「だって、木々が枯れたら、なんだかさみしいじゃないですか。青もみじも紅葉もないし、桜は遠いし……。それに寒いと、布団から出たく、なくなる、し……」

わたしの声が小さくなっていったのは、暗闇に浮かび上がる教授の表情が、鬼の形相へと変わっていったからだ。教授はポケットから携帯電話を取り出してわたしに差し出した。

その画面に映っていたのは、暗闇の中、ぽうっと浮かび上がるオレンジ色の光だった。普通のライトアップと少し違う。小さな灯火が、どこか、別の世界へ誘うように等間隔で並んでいる。

「えっ、何? 何ですかこれ」

「そうか、琴子さんは見たくないというのか。ぜひこの風景を撮ってほしかったのだけれど……見たくないならしかたがない」

「見たい、見たいです。教授、教えてください」

「でも、布団から出られない人をむりに連れていくわけにも……」

「出られます! 出られますから!」

わたしは駄々っ子のように教授の袖をつかんで上下に揺すった。教授は鬱陶しそうにわたしの腕を振り払い、代わりに、満足そうに微笑んだ。

「では、12月はここに行こう」

紅葉が終わってしまっても、どれだけ気温が下がっても、見るべき景色がある。撮るべき風景がある。

京都の冬、次にわたしたちが向かうのは――

「嵐山、花灯路」