手作り市、という単語を初めて聞いたのは、確か7月頃だった気がする。大学のすぐ近くにある知恩寺で毎月15日に開催されるフリーマーケットのことで、その名の通り手作りのものばかりが売られているらしい。
「また今度、時間あったら一緒に行こうよ」
文学部の友人であるみっちゃんの言葉にわたしも勢いよくうなずいたのだけれど、試験期間が近づいていたのでその月は行けず、そのまま夏休みに入ってしまったため、結局約束を果たせずにいた。
まだ単位が揃っていない1回生のわたしたちは、講義がぎゅうぎゅうに詰まっている。もちろん空きコマもあるけれど、ふたりの予定が合うことは少ない。このままだとまた試験期間に突入してしまう、なんとか年末までに一度は行っておきたい……とふたりでスケジュールをすり合わせたところ、10月15日の昼休憩ならば行けることが判明した。昼食を軽く済ませてしまえば、のぞき見するくらいの時間はあるだろう。そう計画し、わたしたちはようやく今日、念願の手づくり市に行くことになったのだった。
「わーっ、めちゃくちゃ賑わってる!」
知恩寺に入った途端、わたしとみっちゃんはポップコーンが弾けるように飛び跳ねた。そこにはお祭りのようにいくつもの店が建ち並び、たくさんの人々が溢れている光景が広がっていた。クッキーなどのスイーツからアクセサリー、さらに服まで、ありとあらゆる品が並んでいる。
「いっぱいお店があるから、どこから見ようか迷っちゃうね」
「そう? じゃあ、あたしはあっちのアクセサリー見てくる!」
「えっ」
同意を得るために投げた言葉をひょいっとかわして、みっちゃんはお目当てのものに向かって人混みの中へと消えていった。ちょっと待ってくれ、一緒に行こうと言ったのはあなたでしょう。そう突っ込もうとしても時すでに遅し。まあ、別にいいけど。全然さみしくなんかないけど。
ひとりになったわたしは、近くにある店から順を追って見ていくことにした。近くで見るとどれも手作りならではの素朴さがある。百貨店のようにジャンルごとにフロア分けされていないから、一度にいろいろな品物を見ることができておもしろい。
「お嬢さん、お味見どうぞ」
歩いていると、店主のおじさんがわたしに試食用のパンを差し出してきた。お言葉に甘えてひとかけらを口に含むと、甘いバターの味がふわりと口内に広がった。
「おいしいです!」
「そうだろう。今、どれでもすきなパンが3個で500円なんだよ」
「えーっ……じゃあこのクロワッサンと、くるみパンと、あとかぼちゃのパンをください」
「お嬢さん、こっちのクッキーはどう?」
わたしたちの様子を見ていたのか、隣の店主が、ここぞとばかりに試食を差し出してきた。しかたない。勧められたら食べないわけにはいかない。
「これもおいしいです。どうしよう、じゃあプレーンとチョコを……」
「お嬢さん、こっちのラスクは……」
「あ、じゃあそれも……」
試食というものはおそろしい。一度それを口にしたら「何か買わなければいけない」という謎の義務感が生じて、気づいた頃にはわたしの両手には買い物袋が大量にぶら下がっていた。いや、おいしかったのは事実だし、後悔もしていない。だけど、こんなに買うつもりはなかった。
「琴子、そんなに買ったの?」
一通り買い物を終えて入り口に戻ると、案の定みっちゃんにどん引きされた。分かっちゃいたことだけれど、そんなに顔をしかめられると結構傷つく。
「みっちゃんは何買ったの?」
「あたしはピアス! 最近穴開けたから、いろいろ集めたいなーって思って」
「へぇーっ、かわいいね。あっ、よかったらこのパンとか……」
「やだよ。責任持って自分で食べなよ。あたし、ダイエット中だもん」
「はい……」
わたしはおとなしく差し出そうとしたパンを袋にしまった。
携帯電話を取り出すと、次の講義まであと10分を切っていた。わたしは空きコマだけれど、みっちゃんは違う。「やばいっ、あたし先行くね!」と慌ただしく先にキャンパスへと戻っていった。
ひとりになったわたしは、両手いっぱいに下げられている買い物袋の重みを感じて肩を落とした。おいしさに夢中になって、賞味期限のことをすっかり忘れていた。これじゃあ、せっかくのスイーツがむだになってしまう。
ふと、ある男性の顔が思い浮かんだ。顔と性格に似合わず甘いものがすきなあの人だ。
1回生のわたしにはまだ専門科目の講義がないので、文学部に所属しているわりには、文学部棟にはあまり立ち入る機会がない。エレベーターで7階に上がると、講義中だからだろうか、廊下には厳かな空気が漂っていた。
足音を立てないように気をつけながら、「間崎八束教授室」と書かれた部屋の前に立った。たぶん、講義がなければここにいるはずだ。いなかったら、また時間を置いて出直せばいい。
コンコン、と2回ノックを鳴らすと、中から「どうぞ」と小さな声が返ってきた。扉を開けると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。あと、古びた書物の、過去のにおいも。
「失礼します……」
おそるおそる扉を開けると、本に囲まれた空間で、間崎教授が静かにペンを動かしていた。前髪の間からのぞく瞳が見たことのないほど優しくて、びっくりした。大切に育てた花を慈しむような、柔和な表情をしていた。
人形のように固まっていると、茶色がかったその瞳がわたしを捉えた。どうしたの、と言いたげに頭が傾く。
「またサボりか」
「サ、サボりじゃありません。……あっ」
我に返って近づくと、机の上にかわいらしいマカロンが置いてあることに気がついた。
「そのマカロン、もしかして手作り市で?」
「ああ、今朝買ってきたんだ」
「わたしもさっき行ってきたんです。いろいろ買いすぎちゃったので、教授におすそわけしようかなって……」
「……何だ、その小学生みたいな理由は……」
「そ、そんなばかにしなくても……教授のためを思って持ってきたのに!」
頬が熱くなって思わず叫ぶと、教授は堪えられなくなったようにくすくすと笑い出した。立ち上がって、棚からマグカップを取り出す。
「そこに座りなさい。食べるのを手伝ってあげるから」
言われるがまま椅子に腰かけ、買ってきたお菓子を机の上にずらりと並べた。クッキーやブラウニー、ラスクやクロワッサン、そして、教授とおそろいのマカロン。知識の海に似つかわしくないカラフルなおやつが、サンゴ礁のように広がっていく。
ちょっぴり緊張しながら、飲み物を用意してくれている教授を待った。きょろきょろとあたりを見渡す。本棚にはありとあらゆる書物がぎっしりと敷き詰められていた。教授室ってこんな感じなんだ。こんなに本が多いのに、きちんと整理されているところが教授らしい。
何気なく教授の机に目をやると、マカロンの隣には、秋色の封筒とひっくり返された便箋が置かれていた。これからの季節を期待させるようなもみじ柄の封筒が、なんだか教授に似つかわしくなくて、こんなかわいらしい封筒で手紙を出すのか、意外だなぁ、なんてぼんやりと思った。
誰に手紙を書いていたんですか――そう尋ねそうになった口をそっと塞いで、わたしはお菓子に視線を戻した。なんとなく、聞いてもはぐらかされそうな気がした。沈黙が気になってそわそわしていたら、わたしの緊張をほぐすように、目の前に紅茶が置かれた。
「ありがとう、ございます」
ぎこちなくお礼を言って、紅茶の入ったマグカップを両手で包んだ。教授は自分の机からコーヒーを持ってきて、わたしの目の前に腰かけた。そっちの方がすきでしょう。そう言いたげに、口の端が少し上がった。
わたし、コーヒーよりも紅茶がすき、なんて言ったことあったっけ。何にも言っていないのに、全部分かっているからずるい。淹れたての紅茶を一口飲むと、体の奥からじんわりとあたたかさが広がって、心がほっとやわらいでいった。こんな秋の日の過ごし方も、たまにはありなのかもしれない。
「また今度、時間あったら一緒に行こうよ」
文学部の友人であるみっちゃんの言葉にわたしも勢いよくうなずいたのだけれど、試験期間が近づいていたのでその月は行けず、そのまま夏休みに入ってしまったため、結局約束を果たせずにいた。
まだ単位が揃っていない1回生のわたしたちは、講義がぎゅうぎゅうに詰まっている。もちろん空きコマもあるけれど、ふたりの予定が合うことは少ない。このままだとまた試験期間に突入してしまう、なんとか年末までに一度は行っておきたい……とふたりでスケジュールをすり合わせたところ、10月15日の昼休憩ならば行けることが判明した。昼食を軽く済ませてしまえば、のぞき見するくらいの時間はあるだろう。そう計画し、わたしたちはようやく今日、念願の手づくり市に行くことになったのだった。
「わーっ、めちゃくちゃ賑わってる!」
知恩寺に入った途端、わたしとみっちゃんはポップコーンが弾けるように飛び跳ねた。そこにはお祭りのようにいくつもの店が建ち並び、たくさんの人々が溢れている光景が広がっていた。クッキーなどのスイーツからアクセサリー、さらに服まで、ありとあらゆる品が並んでいる。
「いっぱいお店があるから、どこから見ようか迷っちゃうね」
「そう? じゃあ、あたしはあっちのアクセサリー見てくる!」
「えっ」
同意を得るために投げた言葉をひょいっとかわして、みっちゃんはお目当てのものに向かって人混みの中へと消えていった。ちょっと待ってくれ、一緒に行こうと言ったのはあなたでしょう。そう突っ込もうとしても時すでに遅し。まあ、別にいいけど。全然さみしくなんかないけど。
ひとりになったわたしは、近くにある店から順を追って見ていくことにした。近くで見るとどれも手作りならではの素朴さがある。百貨店のようにジャンルごとにフロア分けされていないから、一度にいろいろな品物を見ることができておもしろい。
「お嬢さん、お味見どうぞ」
歩いていると、店主のおじさんがわたしに試食用のパンを差し出してきた。お言葉に甘えてひとかけらを口に含むと、甘いバターの味がふわりと口内に広がった。
「おいしいです!」
「そうだろう。今、どれでもすきなパンが3個で500円なんだよ」
「えーっ……じゃあこのクロワッサンと、くるみパンと、あとかぼちゃのパンをください」
「お嬢さん、こっちのクッキーはどう?」
わたしたちの様子を見ていたのか、隣の店主が、ここぞとばかりに試食を差し出してきた。しかたない。勧められたら食べないわけにはいかない。
「これもおいしいです。どうしよう、じゃあプレーンとチョコを……」
「お嬢さん、こっちのラスクは……」
「あ、じゃあそれも……」
試食というものはおそろしい。一度それを口にしたら「何か買わなければいけない」という謎の義務感が生じて、気づいた頃にはわたしの両手には買い物袋が大量にぶら下がっていた。いや、おいしかったのは事実だし、後悔もしていない。だけど、こんなに買うつもりはなかった。
「琴子、そんなに買ったの?」
一通り買い物を終えて入り口に戻ると、案の定みっちゃんにどん引きされた。分かっちゃいたことだけれど、そんなに顔をしかめられると結構傷つく。
「みっちゃんは何買ったの?」
「あたしはピアス! 最近穴開けたから、いろいろ集めたいなーって思って」
「へぇーっ、かわいいね。あっ、よかったらこのパンとか……」
「やだよ。責任持って自分で食べなよ。あたし、ダイエット中だもん」
「はい……」
わたしはおとなしく差し出そうとしたパンを袋にしまった。
携帯電話を取り出すと、次の講義まであと10分を切っていた。わたしは空きコマだけれど、みっちゃんは違う。「やばいっ、あたし先行くね!」と慌ただしく先にキャンパスへと戻っていった。
ひとりになったわたしは、両手いっぱいに下げられている買い物袋の重みを感じて肩を落とした。おいしさに夢中になって、賞味期限のことをすっかり忘れていた。これじゃあ、せっかくのスイーツがむだになってしまう。
ふと、ある男性の顔が思い浮かんだ。顔と性格に似合わず甘いものがすきなあの人だ。
1回生のわたしにはまだ専門科目の講義がないので、文学部に所属しているわりには、文学部棟にはあまり立ち入る機会がない。エレベーターで7階に上がると、講義中だからだろうか、廊下には厳かな空気が漂っていた。
足音を立てないように気をつけながら、「間崎八束教授室」と書かれた部屋の前に立った。たぶん、講義がなければここにいるはずだ。いなかったら、また時間を置いて出直せばいい。
コンコン、と2回ノックを鳴らすと、中から「どうぞ」と小さな声が返ってきた。扉を開けると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。あと、古びた書物の、過去のにおいも。
「失礼します……」
おそるおそる扉を開けると、本に囲まれた空間で、間崎教授が静かにペンを動かしていた。前髪の間からのぞく瞳が見たことのないほど優しくて、びっくりした。大切に育てた花を慈しむような、柔和な表情をしていた。
人形のように固まっていると、茶色がかったその瞳がわたしを捉えた。どうしたの、と言いたげに頭が傾く。
「またサボりか」
「サ、サボりじゃありません。……あっ」
我に返って近づくと、机の上にかわいらしいマカロンが置いてあることに気がついた。
「そのマカロン、もしかして手作り市で?」
「ああ、今朝買ってきたんだ」
「わたしもさっき行ってきたんです。いろいろ買いすぎちゃったので、教授におすそわけしようかなって……」
「……何だ、その小学生みたいな理由は……」
「そ、そんなばかにしなくても……教授のためを思って持ってきたのに!」
頬が熱くなって思わず叫ぶと、教授は堪えられなくなったようにくすくすと笑い出した。立ち上がって、棚からマグカップを取り出す。
「そこに座りなさい。食べるのを手伝ってあげるから」
言われるがまま椅子に腰かけ、買ってきたお菓子を机の上にずらりと並べた。クッキーやブラウニー、ラスクやクロワッサン、そして、教授とおそろいのマカロン。知識の海に似つかわしくないカラフルなおやつが、サンゴ礁のように広がっていく。
ちょっぴり緊張しながら、飲み物を用意してくれている教授を待った。きょろきょろとあたりを見渡す。本棚にはありとあらゆる書物がぎっしりと敷き詰められていた。教授室ってこんな感じなんだ。こんなに本が多いのに、きちんと整理されているところが教授らしい。
何気なく教授の机に目をやると、マカロンの隣には、秋色の封筒とひっくり返された便箋が置かれていた。これからの季節を期待させるようなもみじ柄の封筒が、なんだか教授に似つかわしくなくて、こんなかわいらしい封筒で手紙を出すのか、意外だなぁ、なんてぼんやりと思った。
誰に手紙を書いていたんですか――そう尋ねそうになった口をそっと塞いで、わたしはお菓子に視線を戻した。なんとなく、聞いてもはぐらかされそうな気がした。沈黙が気になってそわそわしていたら、わたしの緊張をほぐすように、目の前に紅茶が置かれた。
「ありがとう、ございます」
ぎこちなくお礼を言って、紅茶の入ったマグカップを両手で包んだ。教授は自分の机からコーヒーを持ってきて、わたしの目の前に腰かけた。そっちの方がすきでしょう。そう言いたげに、口の端が少し上がった。
わたし、コーヒーよりも紅茶がすき、なんて言ったことあったっけ。何にも言っていないのに、全部分かっているからずるい。淹れたての紅茶を一口飲むと、体の奥からじんわりとあたたかさが広がって、心がほっとやわらいでいった。こんな秋の日の過ごし方も、たまにはありなのかもしれない。