――見つからない。
携帯電話の画面に映った画像を眺めながら、わたしはうーんと首をひねった。
間崎教授の「宿題」を片づけようと祇園へ飛び出し、はや3時間が過ぎようとしている。画像に写る「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を探して歩き回っているのだけれど、一向に見つかる気配はない。
一言で祇園と言っても範囲は広い。何のあてもなくふらりふらりと気の向くまま歩いていたのだけれど、じりじりと身を焦がすお天道様に体力を奪われて、だんだん足が痛くなってきた。
八坂神社を出て東大路通を南に歩いていくと、大きな綿菓子を持った着物の女の子たちがはんなりと歩いていた。あれは、「JEREMY&JEMIMAH」の綿菓子だ。一度、友人と一緒に買ったことがある。ものすごく大きくて、まるで甘い雲を食べているみたいだった。ああ、暑さで頭が回らないし、女の子たちはおいしそうに綿菓子を食べているし。わたしもそろそろ糖分が恋しくなってきた。この三猿を見つけたら、自分へのご褒美に買って帰ろう。
やみくもに歩き回っていても埒が明かない。別に今日見つけなければいけないわけではないけれど、教授からわたしだけに与えられた宿題だ。「君ならきっとたどり着ける」――そう言ってくれた教授の期待に、早く応えたい。
(琴子さん、琴子さん)
高台寺へと続く坂道を上っていたら、こん様が興奮したようにわたしの名前を呼んだ。どうしたの、と尋ねようとすると、細い路地をじぃっと見つめている。女の子たちの楽しげな笑い声が聞こえてくることに気づいて、ふと首を傾げた。こんなところに、一体何があるのかしら。なんとなく気になって進んでいくと、朱色の門がわたしたちを待っていた。
建仁寺と違って、こじんまりとした門だった。それなのに、門の向こうはきゃっきゃっと興奮したような声で溢れ返っている。門のそばに建てられた石碑には、「庚申堂」と刻まれていた。
(ここは八坂庚申堂。正式名称は、大黒延命院金剛寺。「庚申」とは……)
「……あっ!」
人混みの向こうにある「何か」が目に入り、わたしは思わず走り出した。こら、人の話を聞きなさい、と、カメラにぶら下がったこん様が、怒ったようにぶらぶらと揺れるけれど、そんなことを気にしている余裕はない。
そこには、色とりどりのお手玉のようなものがたくさん吊るされていた。色鮮やかな着物を身にまとい、ここを背景に写真を撮っている女の子たちがいる。まるでカラフルな海に浮かんでいるみたいで、とてもかわいらしい。赤、青、黄色。よく見ると、そこにはそれぞれ願いごとが書かれていた。これは、一体何だろう。
「これは、くくり猿というんですよ」
受付の方に尋ねると、聞き慣れない単語が返ってきた。
「くくり猿? 猿がくくられているんですか?」
「はい。くくり猿は、手足をくくられて動けなくなった猿の姿のお守り。欲望のままに行動する猿を動けない姿にすることで、欲に走らないよう人間を戒めているんです」
「へぇー……」
こんな場所があったなんて、知らなかったなぁ。手足をくくられている、なんて聞くと、ちょっぴりかわいそうな気がするけれど、これはこれで興味深いものがある。
――くくり、猿。
あっ、と小さく声を上げた。ぐるりと、四方八方を見回してみると、ちょうど今自分がくぐりぬけてきた門の上に、小さな後ろ姿が見える。もしかして、もしかしたら。加速する鼓動を抑えながら、もう一度境内の外へと走り出た。2、3歩後ろへ下がり、屋根瓦の上に目を凝らす。
――あった。
そこには確かに、教授から送られた画像に写っていた三猿がちょこんと座っていた。ああ、見つかっちゃった、とでも言いたげな、おどけた表情をしている。
レンズをのぞく。ああ、なんてこと。手が震えて、うまくシャッターが切れないわ。興奮が、足のつま先から心臓あたりまで、生き物のようにうねうねと這い上がってくる。ぐっと歯を食い縛って、わたしはシャッターのボタンを押した。
ようやく見つけた。そう安堵したら、なんだか力が抜けてしまって、膝に両手をついてうなだれた。疲れが息となって口から出てくる。――よかった、ちゃんとたどり着けて。期待に応えることができて。危うく見落とすところだった。
ふらふらとおぼつかない足取りで境内に入り、もう一度くくり猿に近づいた。色とりどりの小さな猿。欲望を一つ捨てる代わりに、一つ願いを叶えてくれるのだという。女の子たちがくくり猿を背景に、何枚も写真を撮っている、その光景。改めて見ると、それは正寿院に行った時とどこか似ていた。あの時もこうして、はしゃぎながら風鈴や猪目窓を撮っている人たちがいたっけ。普段のお寺と少し違った雰囲気で、すごく楽しかった。
――ああ、そうか。
まわりの様子を見て、わたしはすべてを理解した。どうして教授がわたしに宿題を出したのか。どうして三猿を探させたのか。
わたしがすきだと思ったからだ。正寿院で目を輝かせていたわたしを見て、きっとここも気に入るだろうと。そう思ったから、教授はわたしをここへと誘導したんだ。思い返せば、三室戸寺でもそうだった。わたしに、ハートのあじさいを見せてくれた。それがきっと、あの人の遠回りな優しさ。分かりづらい気遣い。それは雲みたいにやわらかで、ふわふわと形が不安定で、注意深く目を向けていなければ気づかないくらいささやかなもの。
胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。こん様が心配そうにわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしのことをばかにしたり、からかったり、意地悪をしているように見えても、あの人はいつも優しい。茂庵で出会った時もそう。優しさをまっすぐに与えてくれないの。いつも、涙を乾かす風のように、さりげなく通り過ぎていってしまうから、気をつけないと見落としてしまう。
境内を一周すると、あらゆるところに三猿がいた。見ざる、言わざる、聞かざる。こうして見ると、なんだかおもしろい表情をしている。決して広いとは言えないこの空間に、こんなにも楽しさが詰まっているなんて。
(庚申待ち、というものを知って……いや、知らないでしょう)
「……なぜそう決めつけるんですか」
どこかで聞いたことがある台詞を吐くのは、小さな小さなきつねである。無知なわたしを嘲るその頬を思い切りつねってやりたい。こん様は「しかたないですねぇ、教えてあげましょう」と、ごほんと一つ咳払いをした。
(庚申日の夜、人間の体の中にいる三尸(さんし)の虫が、寝ている間に体から抜け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くんです。天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人間に罰として寿命を縮めてしまう。三尸の虫は人間が寝ている間しか抜け出すことができないので、庚申日は徹夜をし、寿命が縮むのを防ぐことにしました。これを庚申待ちというのですよ)
「……おもしろい言い伝えがあるんですねぇ」
こん様の解説を聞き終えて、わたしは改めてくくり猿を眺めた。きっと、こん様に教えてもらわなかったら、くくり猿のかわいらしさに心を奪われて、そんなおもしろいエピソードも、知らないままになっていただろう。
どんな場所でもそう。写真に撮っただけで満足し、その場所の歴史を知らなかったら意味がない。どうせ訪れるのなら、くくり猿の意味もきちんと理解しなければ。きっと教授もそう望んでいる。だからこそ、わたしにいろいろ教えてくれるのだ。
すぐさま教授に連絡しようとしたけれど、ふと思い直してやめた。そう、これは「宿題」なのだ。宿題は、休み明けに提出するものと決まっている。
教授は今、何をしているのだろう。どこかのお寺で、静けさに身を沈めているのかしら。それとも、部屋にこもって本を読んでいるのかしら。会わないでいても、離れているなんて思えない。だって、同じ京都にいるのだから。
もうすぐ長い夏休みが終わる。教授とともに見た五山の送り火。母と行った真々庵や、貴船神社。正寿院、建仁寺、そして八坂庚申堂。この夏だけで、数え切れないほどの写真を撮った。今のわたしにしか、撮れない景色がここにある。
見上げると、長く伸びた薄雲が、誰かの元へ向かうようにゆっくりと水色の空を流れていた。
携帯電話の画面に映った画像を眺めながら、わたしはうーんと首をひねった。
間崎教授の「宿題」を片づけようと祇園へ飛び出し、はや3時間が過ぎようとしている。画像に写る「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を探して歩き回っているのだけれど、一向に見つかる気配はない。
一言で祇園と言っても範囲は広い。何のあてもなくふらりふらりと気の向くまま歩いていたのだけれど、じりじりと身を焦がすお天道様に体力を奪われて、だんだん足が痛くなってきた。
八坂神社を出て東大路通を南に歩いていくと、大きな綿菓子を持った着物の女の子たちがはんなりと歩いていた。あれは、「JEREMY&JEMIMAH」の綿菓子だ。一度、友人と一緒に買ったことがある。ものすごく大きくて、まるで甘い雲を食べているみたいだった。ああ、暑さで頭が回らないし、女の子たちはおいしそうに綿菓子を食べているし。わたしもそろそろ糖分が恋しくなってきた。この三猿を見つけたら、自分へのご褒美に買って帰ろう。
やみくもに歩き回っていても埒が明かない。別に今日見つけなければいけないわけではないけれど、教授からわたしだけに与えられた宿題だ。「君ならきっとたどり着ける」――そう言ってくれた教授の期待に、早く応えたい。
(琴子さん、琴子さん)
高台寺へと続く坂道を上っていたら、こん様が興奮したようにわたしの名前を呼んだ。どうしたの、と尋ねようとすると、細い路地をじぃっと見つめている。女の子たちの楽しげな笑い声が聞こえてくることに気づいて、ふと首を傾げた。こんなところに、一体何があるのかしら。なんとなく気になって進んでいくと、朱色の門がわたしたちを待っていた。
建仁寺と違って、こじんまりとした門だった。それなのに、門の向こうはきゃっきゃっと興奮したような声で溢れ返っている。門のそばに建てられた石碑には、「庚申堂」と刻まれていた。
(ここは八坂庚申堂。正式名称は、大黒延命院金剛寺。「庚申」とは……)
「……あっ!」
人混みの向こうにある「何か」が目に入り、わたしは思わず走り出した。こら、人の話を聞きなさい、と、カメラにぶら下がったこん様が、怒ったようにぶらぶらと揺れるけれど、そんなことを気にしている余裕はない。
そこには、色とりどりのお手玉のようなものがたくさん吊るされていた。色鮮やかな着物を身にまとい、ここを背景に写真を撮っている女の子たちがいる。まるでカラフルな海に浮かんでいるみたいで、とてもかわいらしい。赤、青、黄色。よく見ると、そこにはそれぞれ願いごとが書かれていた。これは、一体何だろう。
「これは、くくり猿というんですよ」
受付の方に尋ねると、聞き慣れない単語が返ってきた。
「くくり猿? 猿がくくられているんですか?」
「はい。くくり猿は、手足をくくられて動けなくなった猿の姿のお守り。欲望のままに行動する猿を動けない姿にすることで、欲に走らないよう人間を戒めているんです」
「へぇー……」
こんな場所があったなんて、知らなかったなぁ。手足をくくられている、なんて聞くと、ちょっぴりかわいそうな気がするけれど、これはこれで興味深いものがある。
――くくり、猿。
あっ、と小さく声を上げた。ぐるりと、四方八方を見回してみると、ちょうど今自分がくぐりぬけてきた門の上に、小さな後ろ姿が見える。もしかして、もしかしたら。加速する鼓動を抑えながら、もう一度境内の外へと走り出た。2、3歩後ろへ下がり、屋根瓦の上に目を凝らす。
――あった。
そこには確かに、教授から送られた画像に写っていた三猿がちょこんと座っていた。ああ、見つかっちゃった、とでも言いたげな、おどけた表情をしている。
レンズをのぞく。ああ、なんてこと。手が震えて、うまくシャッターが切れないわ。興奮が、足のつま先から心臓あたりまで、生き物のようにうねうねと這い上がってくる。ぐっと歯を食い縛って、わたしはシャッターのボタンを押した。
ようやく見つけた。そう安堵したら、なんだか力が抜けてしまって、膝に両手をついてうなだれた。疲れが息となって口から出てくる。――よかった、ちゃんとたどり着けて。期待に応えることができて。危うく見落とすところだった。
ふらふらとおぼつかない足取りで境内に入り、もう一度くくり猿に近づいた。色とりどりの小さな猿。欲望を一つ捨てる代わりに、一つ願いを叶えてくれるのだという。女の子たちがくくり猿を背景に、何枚も写真を撮っている、その光景。改めて見ると、それは正寿院に行った時とどこか似ていた。あの時もこうして、はしゃぎながら風鈴や猪目窓を撮っている人たちがいたっけ。普段のお寺と少し違った雰囲気で、すごく楽しかった。
――ああ、そうか。
まわりの様子を見て、わたしはすべてを理解した。どうして教授がわたしに宿題を出したのか。どうして三猿を探させたのか。
わたしがすきだと思ったからだ。正寿院で目を輝かせていたわたしを見て、きっとここも気に入るだろうと。そう思ったから、教授はわたしをここへと誘導したんだ。思い返せば、三室戸寺でもそうだった。わたしに、ハートのあじさいを見せてくれた。それがきっと、あの人の遠回りな優しさ。分かりづらい気遣い。それは雲みたいにやわらかで、ふわふわと形が不安定で、注意深く目を向けていなければ気づかないくらいささやかなもの。
胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。こん様が心配そうにわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしのことをばかにしたり、からかったり、意地悪をしているように見えても、あの人はいつも優しい。茂庵で出会った時もそう。優しさをまっすぐに与えてくれないの。いつも、涙を乾かす風のように、さりげなく通り過ぎていってしまうから、気をつけないと見落としてしまう。
境内を一周すると、あらゆるところに三猿がいた。見ざる、言わざる、聞かざる。こうして見ると、なんだかおもしろい表情をしている。決して広いとは言えないこの空間に、こんなにも楽しさが詰まっているなんて。
(庚申待ち、というものを知って……いや、知らないでしょう)
「……なぜそう決めつけるんですか」
どこかで聞いたことがある台詞を吐くのは、小さな小さなきつねである。無知なわたしを嘲るその頬を思い切りつねってやりたい。こん様は「しかたないですねぇ、教えてあげましょう」と、ごほんと一つ咳払いをした。
(庚申日の夜、人間の体の中にいる三尸(さんし)の虫が、寝ている間に体から抜け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くんです。天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人間に罰として寿命を縮めてしまう。三尸の虫は人間が寝ている間しか抜け出すことができないので、庚申日は徹夜をし、寿命が縮むのを防ぐことにしました。これを庚申待ちというのですよ)
「……おもしろい言い伝えがあるんですねぇ」
こん様の解説を聞き終えて、わたしは改めてくくり猿を眺めた。きっと、こん様に教えてもらわなかったら、くくり猿のかわいらしさに心を奪われて、そんなおもしろいエピソードも、知らないままになっていただろう。
どんな場所でもそう。写真に撮っただけで満足し、その場所の歴史を知らなかったら意味がない。どうせ訪れるのなら、くくり猿の意味もきちんと理解しなければ。きっと教授もそう望んでいる。だからこそ、わたしにいろいろ教えてくれるのだ。
すぐさま教授に連絡しようとしたけれど、ふと思い直してやめた。そう、これは「宿題」なのだ。宿題は、休み明けに提出するものと決まっている。
教授は今、何をしているのだろう。どこかのお寺で、静けさに身を沈めているのかしら。それとも、部屋にこもって本を読んでいるのかしら。会わないでいても、離れているなんて思えない。だって、同じ京都にいるのだから。
もうすぐ長い夏休みが終わる。教授とともに見た五山の送り火。母と行った真々庵や、貴船神社。正寿院、建仁寺、そして八坂庚申堂。この夏だけで、数え切れないほどの写真を撮った。今のわたしにしか、撮れない景色がここにある。
見上げると、長く伸びた薄雲が、誰かの元へ向かうようにゆっくりと水色の空を流れていた。