わたし、御坂琴子は、少々緊張した面持ちで高野の交差点に立っていた。
9月8日。夏本番は過ぎたとはいえ、空には分厚い入道雲がもこもこと浮かび上がり、蝉たちは最後の命を振り絞るかのようにうるさく大合唱している。わたしの頬に流れる汗は、お天道様のせい、だけではない。
時をさかのぼること約3週間前、五山の送り火のあとのこと。強引にわたしを実家から呼び寄せたことに罪悪感を抱いたのか、間崎教授は「お詫びにすきな場所へ連れていってあげよう」と言ってきたのだ。めずらしいこともあるものだ、どうせならひとりでは行きづらい場所へ連れていってもらおう、と胸を弾ませていた、の、だけれど。
東大路通を北上してきた紺色の車が、わたしを迎えるように目の前で停まった。車内をのぞき込むと、運転席の教授と目が合った。早く乗りなさい、と声を出さずにわたしを呼ぶ。
「お、おはようございます」
ぎこちなく挨拶をして、助手席に体を滑り込ませた。おはよう、と実に眠たげな声で教授が迎える。寝起きなのか、いつもより髪の毛がふんわりとしている。五山の送り火の時ともまた違う。夏休みであるがゆえの油断と、ともに過ごした時間の積み重ねが生んだ遠慮のなさ。体を覆っていた硬い殻が、少しずつぽろぽろと剥がれていくような。そんな期待を抱いて、上唇を噛む。
「……なんだか、雰囲気が違いますね」
「何が」
いつもの教授は、フォーマルとまではいかないものの、指導者らしい長袖シャツに腕時計をきちんと巻いている。だが今日は半袖のTシャツにジーンズと、普段と比べたらずいぶんラフな格好だ。暑いからね、と言いながら、教授はアクセルを踏み込んだ。
ごおお、と乱暴な風が吹く。あれほどうるさかった蝉の鳴き声が、もう少しも聞こえない。よくよく考えたら、教授に車を出してほしい、なんて、学生の分際でお願いすることではなかったのかもしれない。
車の中には意外や意外、英語のポップミュージックが流れている。前から薄々思っていたのだけれど、この人、日本文化がすきだからといって、生活すべてがそうなのではなく、むしろわたしより現代の感覚をつかんでいるような気がする。今だからこそ、ああ、この人はお寺の静かな雰囲気の中で佇むのがとても似合うわ、なんて思うけれど、たぶん初対面の人は、おしゃれなカフェでパソコンを開いていそうね、なんて感じるのだろう。
BGMが流れていても、なぜだろう、いつもより沈黙が気になった。こんな閉ざされた空間に、ふたりきりだからかしら。しかも、教授の車とか。よく考えたら、わたし、家族以外の車に乗せてもらうのって初めてだ。指で毛先をくるくるともてあそんで、なんとなくうつむいた。何か、何か、しゃべらなければ……。
「……喉、乾きませんか?」
「コンビニでも寄る?」
「いえ、そういうわけでは」
会話が不自然に途切れた。わたしをばかにしたり京都の説明をする時はぺらぺらとしゃべるくせに。どうして今は口を開こうとしないの。今こそ何か、話題を振ってほしいのに。
「あ、そうだ。これ」
信号が赤に変わった瞬間、教授は思い出したように、白い袋をわたしに差し出した。何かしら、と袋に手を差し入れると、ふわふわしたものが指に触れた。それが何か分かった途端、ぴょんっと心が飛び跳ねた。
「あっ、こん様!」
「こん様?」
教授が訝しげに眉をひそめた。教授から渡されたもの、それは伏見稲荷大社で出会った子ぎつね、こん様――の、小さなぬいぐるみだった。後ろには紐があり、ストラップのようになっている。愛くるしい二つの耳、もふもふとした尻尾。どこからどう見ても、夢に出てきたこん様だ。
「この間、伏見稲荷大社がどうとか言っていただろう。すきなのかと思って。……お詫びも兼ねて」
「とてもかわいいです! ありがとうございます」
今日だけでも十分すぎるくらいお詫びなのだけれど、そういうところを気にするんだな、と意外に思った。こん様は久々の再会を喜ぶように、かわいらしい表情でわたしを見ている。
――そういえば。
こん様を見ていたら、ふとあることが気になった。携帯電話を取り出して、撮影した写真を開く。カメラで撮った写真は、携帯電話でも見られるようにしているのだ。伏見稲荷大社の鳥居前に佇むきつね像の写真を見つけて、わたしはうーんと首をひねった。
「どうした、難しい顔をして」
「このきつねの石像、一体どこにあるんだろうって……」
「正式にはきつねではなく白狐。……どこって、君が撮ったんじゃないのか」
「いえ、撮ったといえば撮ったんですけど、実際に行ったわけじゃなくて、撮ったのは夢の中で……」
「……やはり、どこかで飲み物を買おうか。相当重症だ」
「あっ、暑さで頭がやられたわけではありません!」
「9月とはいえ、まだ暑いからな。……見せてみなさい」
わざと意地悪を言っているのか、本気で心配しているのか。分からないところがたちが悪い。わたしはしぶしぶ携帯電話の画面を見せた。教授はじぃっと観察するように写真を眺め、
「……なんとなく、見覚えがあるな」
「えっ、本当ですか。もしかして、どこにあるか分かったりします?」
「確信はないが……奥社奉拝所にある手水舎の近くじゃないかと。ほら、千本鳥居を抜けたところの。伏見稲荷大社にある白狐像は、それぞれ表情が違うんだよ。以前訪ねた時、そこにある石像だけなんというか、他のものと雰囲気が違ってね。小さいというか、子供らしいというか……。それで印象に残っていたんだ」
「……教授、詳しすぎやしませんか」
「その石像だけ、たまたま覚えていただけだ。言っておくが、あくまで推測だよ」
保険のような教授の言葉は、もうわたしの耳には届いていなかった。
わたしはまじまじときつね――いや、白狐像とぬいぐるみを見比べた。いくら教授とはいえ、白狐像のすべてを把握しているわけではないだろう。もしかして、教授と結びつきがあったからこそ、わたしの夢の中にこの石像が出てきたのではないかしら。そう考えたら、教授そっくりのこん様の口調にも納得がいく。
カメラのストラップに、こん様のぬいぐるみをぶら下げた。紐から垂れ下がったこん様が、喜ぶように左右に揺れる。そのかわいらしい動作を見て、わたしはにっこりした。これでいつでもこん様と一緒だ。
信号がぱっと青に変わった。ぐんっ、と車が再び発進する。まだ、今日は始まったばかりだ。
車を走らせること約1時間。目的地にたどり着いたわたしたちは、近くの駐車場に車を停め、本堂へと続く山道を上った。見えるものといえば、小さな民家や茶畑だけ。それでもこの場所を求めて、次々と車が駐車場に入ってくる。山奥だからか、暑さもずいぶんやわらいで、蝉の鳴き声も少し控えめだ。
――カランコロン、カランコロン……。
本堂に近づくと、すずしげな音が風に乗って耳に届いた。自然と歩調が速くなる。
「わぁっ……きれい!」
目の前に現れたのは、風に揺れてカランコロンと音を響かせる、数え切れないほどの風鈴だった。文明開化の時代、色艶やかな袴を着た女学生の陽気な笑い声みたい。どこかレトロで懐かしく、それでいてとても現代的な美しい音色が、雨のように降ってくる。
わたしが教授に連れていってほしい、とリクエストした場所。それは綴喜郡宇治田原町にある「正寿院」だ。夏には2000個を超える風鈴が吊られる風鈴まつりが行われることから、風鈴のお寺とも呼ばれる場所だ。バスは出ているものの少々遠いため、せっかくならば教授に車で連れていってもらおうと思ったのである。
振り向くと、教授が一歩離れたところから黙ってこちらを見ていた。一体どうしたんだろう。いつもなら、饒舌な解説が出てくるはずなのに。
「教授も来るのは初めてなんですよね。意外です」
「なかなか足を伸ばす機会がなくてね。それに、こういうのはなんというか」
まわりを見渡して、言葉を濁す。教授の視線を追って、ああ、と納得した。参拝客の年齢層はさまざまだけど、他の寺院と比べて圧倒的に若い女性が多い。なるほど、確かに教授がひとりで来るにはかわいらしいお祭りだ。
風鈴をよく見ると、それぞれ異なる絵が描かれている。朝顔や金魚、花火やひまわり。風鈴に吊るされた色とりどりの短冊が、少女の長い髪のようになびいている。
風が吹くと一斉に風鈴がさんざめき、やむと教師に注意された子供たちのように、一斉に黙り込むのがおもしろい。
「きれいな音……それに、模様も。ああ、素敵。来てよかった!」
写真を撮ることも忘れてはしゃぐわたしを見て、教授はあきれたように微笑んだ。
受付に行くと、参拝券の代わりに「散華(さんげ)」と呼ばれる花びらをかたどった紙と、叶紐(かのうひも)が渡された。
「叶紐は、毎月8のつく日のみにお渡ししているんですよ」
受付の方の言葉で、わたしと教授は目を合わせた。今日は何日だったかしら、ああ、9月8日だ。示し合わせたわけではないけれど、ちょうどよかったのだ。思いがけない幸運に顔がほころんだ。
本堂に入ると、そこにはお茶菓子をいただいている参拝者たちが座っていた。荷物を置いて席を取り、まずはお参りだ。本尊がいらっしゃるという扉の前にふたりで座ると、正面に紐が垂れ下がっていることに気がついた。
「この紐は何でしょう?」
首を傾げると、教授があたりを見渡した。説明書きを見つけたらしく、
「結いの紐といって、本尊である十一面観音の指と結ばれているらしい。十一面観音は50年に一度だけご開扉されるので、見ることができない代わりにご縁を結ぶため、この結いの紐があるんだと」
いつもより少したどたどしい口調だった。わたしは何度も目をぱちくりさせ、いつもより少し若く見える表情を眺めた。わたしの視線に気づいて、教授が居心地悪そうに眉をひそめる。
「……何だ、その目は」
「いえ、なんだか新鮮だなと……。教授って、何でもご存知だから」
「……役に立たなくて悪かったな」
拗ねたように顔を背ける。子供のような反応がおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。普段は教えてもらうばかりだけれど、こうして知らないことをふたりで知っていくのも、友人同士のようで楽しい。
手順書に書いてあるように、鈴を2回鳴らした。これは、お姿が見えない十一面観音様に対し、わたしたちで言うところのドアのノックのようなことらしい。鈴を鳴らしたあと、目の前の結いの紐を両手で挟んで手を合わせる。そして、願いごとを伝えるのだ。
――わたしの願いごとって、何だろう。
目を閉じたまま、ふとわたしは考えた。貴船神社に行った時も、結局これといった願いは思いつかなかった。誰にでもあてはまるような平凡な縁を、ただ願った。わたしだけの願いって、一体何だろう。
うっすらと目を開けて、気づかれぬように隣を見た。教授は何か、切なる祈りをするようにじっと手を合わせている。そんなに懸命に目をつぶって、手を合わせて、一体何を願っているの。何を、思っているの。こういう時改めて気づく。わたしは、教授のことを何も知らない。
かわいらしいお茶菓子をいただいてから、叶紐を地蔵堂に結んだ。風鈴の音に見送られ、今度は「則天の間」と呼ばれる客殿へと移動した。
「あっ、これです! わたしが見たかった、ハートの窓」
わたしの目に真っ先に飛び込んだもの。それは、ハートの形をした窓だった。かわいらしい窓からは灯篭と風にそよぐ黄緑の葉がのぞいていて、まるで絵画のようだ。見上げた先には美しい天井画がずらりと並んでいた。春夏秋冬の舞妓さんやアヤメ、椿などの花模様、そして四隅には青龍、白虎、朱雀、玄武。色とりどりの絵が広がっているその様子は、花畑のように華やかだ。
「とってもかわいい。写真、100枚くらい撮りたいな……」
「何をそんな、女子みたいなことを」
「わたし、一応女子なんですよ。教授ったら、そんなこともご存知なかったんですか」
ファインダーをのぞき込んで、この、とんでもなくかわいらしい景色を写真におさめる。こうしてレンズを向けていると、なんだかお寺ではなくおしゃれなカフェに来たようだ。まわりを見ると、今までのお寺と少し雰囲気が違っていて、若い女性たちが携帯電話のカメラをそこら中に向け、楽しそうにはしゃいでいる。
「それにしても、なぜハートの形なんでしょう。なんだかとっても現代的」
「あの形は猪目といって、古くから日本伝統文様の一つだよ。猪の目の形だとか、『亥』が変形したものだとか諸説いわれている。災いを除き、福を招く意が込められているんだ」
先ほどとはうって変わり、教授は川の流れのようにすらすらと答えた。結局、知らないことより知っていることの方がはるかに多いのだから、ずるいなぁと思う。やはりわたしは今回も、この人の知識に感心せざるをえない。そんなことを考えていたら、自然と頬が膨らんでいたらしい。「どうした」と、教授がふしぎそうに首を傾げた。
「リスの真似なんかして」
「していません。……何でもないです」
わたしはちょっぴりおもしろくなくて、子供っぽく顔を背けた。今日はなんだか、普段より教授と同じ目線でいられるような気がしたのに。教授と学生という立場を忘れ、友人のように話せると思ったのに。いつだってそう。あたりまえのことだけれど、教授の方が博識なのだから、わたしは肩を並べられない。こんな考えを持つことすら子供じみているっていうのに、いやだな、わたし。
背後から、教授がひょいっとわたしのカメラをのぞき込んできた。たった今わたしが撮った写真を見て、やわらかい光のように、微笑みがこぼれ落ちてくる。
「本当に君は、いい写真を撮るな」
機嫌を取るわけでもなく、慰めるわけでもない。飾り気なんて微塵もなく、呼吸をするように、さらりとそんなことを言う。わたしが今何を思っていて、どんな言葉を欲しているのか。それを察知する能力がとんでもなく高いので、わたしはすぐにほだされてしまうのである。
カメラのストラップについているこん様が、何かを伝えたそうにゆらりゆらりと左右に揺れた。
(私もそう思っていますよ、琴子さん)
ああ、これは未熟なわたしの願望かしら。夢の中と同じ、やわらかな声が、心の奥に届いた。
どれだけ移動距離が長くても、どれだけゆったりと時を過ごしても、別れの時間は、あっという間にやってくる。正寿院に行ったあと、ゆっくりと昼食を取ったり、甘味処に寄っていたら、思ったよりはるかに時間が過ぎていた。
わたしの住むマンションに着いたのは、夕方5時を過ぎた頃。
「今日はありがとうございました。おかげで、とてもいい写真が撮れました」
助手席にわたしを縛りつけていたシートベルトは、あっさりと外れてしまう。もう少しわたしを引き留めてくれてもいいのに、なんて。
「私も楽しかったよ。君の行きたいところに行くのも、新鮮でいいな」
「でしょう。これからもリクエストしますから」
ふふ、と友人のように笑って、助手席から降りた。ドアを閉めようとしたわたしを、「琴子さん」と、教授の声が引き留めた。
ちょっとかがんで運転席をのぞき込む。教授は新しいいたずらを思いついたように口の端を上げて、携帯電話を取り出した。
「夏休みの間に、宿題を出そう」
「えっ?」
聞き返そうとしたその瞬間、ポケットに入れていた携帯電話が音を立てた。見ると、目の前にいるはずの教授から、メッセージが届いている。一体どういうことだろう。尋ねるより先に画面を開くと、そこには1枚の画像が貼られていた。
瓦屋根の上に、何かが3匹座っている。小さな画面に目を凝らすと、それは「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿だった。写っているものはたったそれだけ。場所のヒントとなるようなものは何もない。
「これはどこにあるんですか?」
「それを見つけるのが宿題だよ。祇園周辺を巡ってみなさい。夏休みは学生の特権だ。……今しかできないことを、たくさんするんだよ。常に周囲に目を向けていれば、きっとたどり着ける」
まるで先人の言葉を伝えるように、一言一言じっくりとわたしに届ける。出会った時からそう。この人にずっと言われ続けていること。
携帯電話を、胸の前でぎゅっと握り締めた。覚悟を伝えるようにうなずくと、もうそれ以上一緒にいる理由がなくなって、助手席のドアを閉めざるをえなくなった。
声が届かなくなったというのに、引き留める理由がほしくて、小さく口を開いた。遊園地から帰りたくない、と、駄々をこねる子供のような、あの、どうしようもなく身勝手な気持ちが心の隅に宿っていた。
伝える言葉なんてないというのに、助手席の窓が開いた。どうしたの、と、教授が小さく首を傾げる。何か言おうと思うのに、なぜだかちっとも言葉が思いつかない。ありがとう、は伝えたし、さよならは、言いたく、ないし。
結局、何も言えないまま口を閉じ、じっと教授を見た。聡いこの人は、何も伝えていないのに、何でも分かったかのように優しい微笑みをわたしに向けた。
「新学期、会えることを楽しみにしているよ」
その言葉だけをはなむけに。優しさだけを置き去りに。教授はためらいなくアクセルを踏み、わたしの元から去っていった。
車が見えなくなると、今日あった出来事が、途端に過去へと変わったように思えた。たった1分前まで、教授は隣にいたのに。友人同士のように車に乗り、1日を過ごしたのに。
教授の住んでいる場所は百万遍。わたしのマンションから車で5分。歩いていける距離なのに。会おうと思えばいつでも会えるのに。それができないのはきっと、わたしと教授が友人ではないから。
(どうしたんです、琴子さん)
わたしの心配をするように、ストラップについたこん様が、そっと顔をのぞき込んできた。わたしはこん様を両手に包み、何でもないよ、と首を振った。
「こんなに近くに、いるのにね」
なんだかまだ、遠いなぁ。
9月8日。夏本番は過ぎたとはいえ、空には分厚い入道雲がもこもこと浮かび上がり、蝉たちは最後の命を振り絞るかのようにうるさく大合唱している。わたしの頬に流れる汗は、お天道様のせい、だけではない。
時をさかのぼること約3週間前、五山の送り火のあとのこと。強引にわたしを実家から呼び寄せたことに罪悪感を抱いたのか、間崎教授は「お詫びにすきな場所へ連れていってあげよう」と言ってきたのだ。めずらしいこともあるものだ、どうせならひとりでは行きづらい場所へ連れていってもらおう、と胸を弾ませていた、の、だけれど。
東大路通を北上してきた紺色の車が、わたしを迎えるように目の前で停まった。車内をのぞき込むと、運転席の教授と目が合った。早く乗りなさい、と声を出さずにわたしを呼ぶ。
「お、おはようございます」
ぎこちなく挨拶をして、助手席に体を滑り込ませた。おはよう、と実に眠たげな声で教授が迎える。寝起きなのか、いつもより髪の毛がふんわりとしている。五山の送り火の時ともまた違う。夏休みであるがゆえの油断と、ともに過ごした時間の積み重ねが生んだ遠慮のなさ。体を覆っていた硬い殻が、少しずつぽろぽろと剥がれていくような。そんな期待を抱いて、上唇を噛む。
「……なんだか、雰囲気が違いますね」
「何が」
いつもの教授は、フォーマルとまではいかないものの、指導者らしい長袖シャツに腕時計をきちんと巻いている。だが今日は半袖のTシャツにジーンズと、普段と比べたらずいぶんラフな格好だ。暑いからね、と言いながら、教授はアクセルを踏み込んだ。
ごおお、と乱暴な風が吹く。あれほどうるさかった蝉の鳴き声が、もう少しも聞こえない。よくよく考えたら、教授に車を出してほしい、なんて、学生の分際でお願いすることではなかったのかもしれない。
車の中には意外や意外、英語のポップミュージックが流れている。前から薄々思っていたのだけれど、この人、日本文化がすきだからといって、生活すべてがそうなのではなく、むしろわたしより現代の感覚をつかんでいるような気がする。今だからこそ、ああ、この人はお寺の静かな雰囲気の中で佇むのがとても似合うわ、なんて思うけれど、たぶん初対面の人は、おしゃれなカフェでパソコンを開いていそうね、なんて感じるのだろう。
BGMが流れていても、なぜだろう、いつもより沈黙が気になった。こんな閉ざされた空間に、ふたりきりだからかしら。しかも、教授の車とか。よく考えたら、わたし、家族以外の車に乗せてもらうのって初めてだ。指で毛先をくるくるともてあそんで、なんとなくうつむいた。何か、何か、しゃべらなければ……。
「……喉、乾きませんか?」
「コンビニでも寄る?」
「いえ、そういうわけでは」
会話が不自然に途切れた。わたしをばかにしたり京都の説明をする時はぺらぺらとしゃべるくせに。どうして今は口を開こうとしないの。今こそ何か、話題を振ってほしいのに。
「あ、そうだ。これ」
信号が赤に変わった瞬間、教授は思い出したように、白い袋をわたしに差し出した。何かしら、と袋に手を差し入れると、ふわふわしたものが指に触れた。それが何か分かった途端、ぴょんっと心が飛び跳ねた。
「あっ、こん様!」
「こん様?」
教授が訝しげに眉をひそめた。教授から渡されたもの、それは伏見稲荷大社で出会った子ぎつね、こん様――の、小さなぬいぐるみだった。後ろには紐があり、ストラップのようになっている。愛くるしい二つの耳、もふもふとした尻尾。どこからどう見ても、夢に出てきたこん様だ。
「この間、伏見稲荷大社がどうとか言っていただろう。すきなのかと思って。……お詫びも兼ねて」
「とてもかわいいです! ありがとうございます」
今日だけでも十分すぎるくらいお詫びなのだけれど、そういうところを気にするんだな、と意外に思った。こん様は久々の再会を喜ぶように、かわいらしい表情でわたしを見ている。
――そういえば。
こん様を見ていたら、ふとあることが気になった。携帯電話を取り出して、撮影した写真を開く。カメラで撮った写真は、携帯電話でも見られるようにしているのだ。伏見稲荷大社の鳥居前に佇むきつね像の写真を見つけて、わたしはうーんと首をひねった。
「どうした、難しい顔をして」
「このきつねの石像、一体どこにあるんだろうって……」
「正式にはきつねではなく白狐。……どこって、君が撮ったんじゃないのか」
「いえ、撮ったといえば撮ったんですけど、実際に行ったわけじゃなくて、撮ったのは夢の中で……」
「……やはり、どこかで飲み物を買おうか。相当重症だ」
「あっ、暑さで頭がやられたわけではありません!」
「9月とはいえ、まだ暑いからな。……見せてみなさい」
わざと意地悪を言っているのか、本気で心配しているのか。分からないところがたちが悪い。わたしはしぶしぶ携帯電話の画面を見せた。教授はじぃっと観察するように写真を眺め、
「……なんとなく、見覚えがあるな」
「えっ、本当ですか。もしかして、どこにあるか分かったりします?」
「確信はないが……奥社奉拝所にある手水舎の近くじゃないかと。ほら、千本鳥居を抜けたところの。伏見稲荷大社にある白狐像は、それぞれ表情が違うんだよ。以前訪ねた時、そこにある石像だけなんというか、他のものと雰囲気が違ってね。小さいというか、子供らしいというか……。それで印象に残っていたんだ」
「……教授、詳しすぎやしませんか」
「その石像だけ、たまたま覚えていただけだ。言っておくが、あくまで推測だよ」
保険のような教授の言葉は、もうわたしの耳には届いていなかった。
わたしはまじまじときつね――いや、白狐像とぬいぐるみを見比べた。いくら教授とはいえ、白狐像のすべてを把握しているわけではないだろう。もしかして、教授と結びつきがあったからこそ、わたしの夢の中にこの石像が出てきたのではないかしら。そう考えたら、教授そっくりのこん様の口調にも納得がいく。
カメラのストラップに、こん様のぬいぐるみをぶら下げた。紐から垂れ下がったこん様が、喜ぶように左右に揺れる。そのかわいらしい動作を見て、わたしはにっこりした。これでいつでもこん様と一緒だ。
信号がぱっと青に変わった。ぐんっ、と車が再び発進する。まだ、今日は始まったばかりだ。
車を走らせること約1時間。目的地にたどり着いたわたしたちは、近くの駐車場に車を停め、本堂へと続く山道を上った。見えるものといえば、小さな民家や茶畑だけ。それでもこの場所を求めて、次々と車が駐車場に入ってくる。山奥だからか、暑さもずいぶんやわらいで、蝉の鳴き声も少し控えめだ。
――カランコロン、カランコロン……。
本堂に近づくと、すずしげな音が風に乗って耳に届いた。自然と歩調が速くなる。
「わぁっ……きれい!」
目の前に現れたのは、風に揺れてカランコロンと音を響かせる、数え切れないほどの風鈴だった。文明開化の時代、色艶やかな袴を着た女学生の陽気な笑い声みたい。どこかレトロで懐かしく、それでいてとても現代的な美しい音色が、雨のように降ってくる。
わたしが教授に連れていってほしい、とリクエストした場所。それは綴喜郡宇治田原町にある「正寿院」だ。夏には2000個を超える風鈴が吊られる風鈴まつりが行われることから、風鈴のお寺とも呼ばれる場所だ。バスは出ているものの少々遠いため、せっかくならば教授に車で連れていってもらおうと思ったのである。
振り向くと、教授が一歩離れたところから黙ってこちらを見ていた。一体どうしたんだろう。いつもなら、饒舌な解説が出てくるはずなのに。
「教授も来るのは初めてなんですよね。意外です」
「なかなか足を伸ばす機会がなくてね。それに、こういうのはなんというか」
まわりを見渡して、言葉を濁す。教授の視線を追って、ああ、と納得した。参拝客の年齢層はさまざまだけど、他の寺院と比べて圧倒的に若い女性が多い。なるほど、確かに教授がひとりで来るにはかわいらしいお祭りだ。
風鈴をよく見ると、それぞれ異なる絵が描かれている。朝顔や金魚、花火やひまわり。風鈴に吊るされた色とりどりの短冊が、少女の長い髪のようになびいている。
風が吹くと一斉に風鈴がさんざめき、やむと教師に注意された子供たちのように、一斉に黙り込むのがおもしろい。
「きれいな音……それに、模様も。ああ、素敵。来てよかった!」
写真を撮ることも忘れてはしゃぐわたしを見て、教授はあきれたように微笑んだ。
受付に行くと、参拝券の代わりに「散華(さんげ)」と呼ばれる花びらをかたどった紙と、叶紐(かのうひも)が渡された。
「叶紐は、毎月8のつく日のみにお渡ししているんですよ」
受付の方の言葉で、わたしと教授は目を合わせた。今日は何日だったかしら、ああ、9月8日だ。示し合わせたわけではないけれど、ちょうどよかったのだ。思いがけない幸運に顔がほころんだ。
本堂に入ると、そこにはお茶菓子をいただいている参拝者たちが座っていた。荷物を置いて席を取り、まずはお参りだ。本尊がいらっしゃるという扉の前にふたりで座ると、正面に紐が垂れ下がっていることに気がついた。
「この紐は何でしょう?」
首を傾げると、教授があたりを見渡した。説明書きを見つけたらしく、
「結いの紐といって、本尊である十一面観音の指と結ばれているらしい。十一面観音は50年に一度だけご開扉されるので、見ることができない代わりにご縁を結ぶため、この結いの紐があるんだと」
いつもより少したどたどしい口調だった。わたしは何度も目をぱちくりさせ、いつもより少し若く見える表情を眺めた。わたしの視線に気づいて、教授が居心地悪そうに眉をひそめる。
「……何だ、その目は」
「いえ、なんだか新鮮だなと……。教授って、何でもご存知だから」
「……役に立たなくて悪かったな」
拗ねたように顔を背ける。子供のような反応がおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。普段は教えてもらうばかりだけれど、こうして知らないことをふたりで知っていくのも、友人同士のようで楽しい。
手順書に書いてあるように、鈴を2回鳴らした。これは、お姿が見えない十一面観音様に対し、わたしたちで言うところのドアのノックのようなことらしい。鈴を鳴らしたあと、目の前の結いの紐を両手で挟んで手を合わせる。そして、願いごとを伝えるのだ。
――わたしの願いごとって、何だろう。
目を閉じたまま、ふとわたしは考えた。貴船神社に行った時も、結局これといった願いは思いつかなかった。誰にでもあてはまるような平凡な縁を、ただ願った。わたしだけの願いって、一体何だろう。
うっすらと目を開けて、気づかれぬように隣を見た。教授は何か、切なる祈りをするようにじっと手を合わせている。そんなに懸命に目をつぶって、手を合わせて、一体何を願っているの。何を、思っているの。こういう時改めて気づく。わたしは、教授のことを何も知らない。
かわいらしいお茶菓子をいただいてから、叶紐を地蔵堂に結んだ。風鈴の音に見送られ、今度は「則天の間」と呼ばれる客殿へと移動した。
「あっ、これです! わたしが見たかった、ハートの窓」
わたしの目に真っ先に飛び込んだもの。それは、ハートの形をした窓だった。かわいらしい窓からは灯篭と風にそよぐ黄緑の葉がのぞいていて、まるで絵画のようだ。見上げた先には美しい天井画がずらりと並んでいた。春夏秋冬の舞妓さんやアヤメ、椿などの花模様、そして四隅には青龍、白虎、朱雀、玄武。色とりどりの絵が広がっているその様子は、花畑のように華やかだ。
「とってもかわいい。写真、100枚くらい撮りたいな……」
「何をそんな、女子みたいなことを」
「わたし、一応女子なんですよ。教授ったら、そんなこともご存知なかったんですか」
ファインダーをのぞき込んで、この、とんでもなくかわいらしい景色を写真におさめる。こうしてレンズを向けていると、なんだかお寺ではなくおしゃれなカフェに来たようだ。まわりを見ると、今までのお寺と少し雰囲気が違っていて、若い女性たちが携帯電話のカメラをそこら中に向け、楽しそうにはしゃいでいる。
「それにしても、なぜハートの形なんでしょう。なんだかとっても現代的」
「あの形は猪目といって、古くから日本伝統文様の一つだよ。猪の目の形だとか、『亥』が変形したものだとか諸説いわれている。災いを除き、福を招く意が込められているんだ」
先ほどとはうって変わり、教授は川の流れのようにすらすらと答えた。結局、知らないことより知っていることの方がはるかに多いのだから、ずるいなぁと思う。やはりわたしは今回も、この人の知識に感心せざるをえない。そんなことを考えていたら、自然と頬が膨らんでいたらしい。「どうした」と、教授がふしぎそうに首を傾げた。
「リスの真似なんかして」
「していません。……何でもないです」
わたしはちょっぴりおもしろくなくて、子供っぽく顔を背けた。今日はなんだか、普段より教授と同じ目線でいられるような気がしたのに。教授と学生という立場を忘れ、友人のように話せると思ったのに。いつだってそう。あたりまえのことだけれど、教授の方が博識なのだから、わたしは肩を並べられない。こんな考えを持つことすら子供じみているっていうのに、いやだな、わたし。
背後から、教授がひょいっとわたしのカメラをのぞき込んできた。たった今わたしが撮った写真を見て、やわらかい光のように、微笑みがこぼれ落ちてくる。
「本当に君は、いい写真を撮るな」
機嫌を取るわけでもなく、慰めるわけでもない。飾り気なんて微塵もなく、呼吸をするように、さらりとそんなことを言う。わたしが今何を思っていて、どんな言葉を欲しているのか。それを察知する能力がとんでもなく高いので、わたしはすぐにほだされてしまうのである。
カメラのストラップについているこん様が、何かを伝えたそうにゆらりゆらりと左右に揺れた。
(私もそう思っていますよ、琴子さん)
ああ、これは未熟なわたしの願望かしら。夢の中と同じ、やわらかな声が、心の奥に届いた。
どれだけ移動距離が長くても、どれだけゆったりと時を過ごしても、別れの時間は、あっという間にやってくる。正寿院に行ったあと、ゆっくりと昼食を取ったり、甘味処に寄っていたら、思ったよりはるかに時間が過ぎていた。
わたしの住むマンションに着いたのは、夕方5時を過ぎた頃。
「今日はありがとうございました。おかげで、とてもいい写真が撮れました」
助手席にわたしを縛りつけていたシートベルトは、あっさりと外れてしまう。もう少しわたしを引き留めてくれてもいいのに、なんて。
「私も楽しかったよ。君の行きたいところに行くのも、新鮮でいいな」
「でしょう。これからもリクエストしますから」
ふふ、と友人のように笑って、助手席から降りた。ドアを閉めようとしたわたしを、「琴子さん」と、教授の声が引き留めた。
ちょっとかがんで運転席をのぞき込む。教授は新しいいたずらを思いついたように口の端を上げて、携帯電話を取り出した。
「夏休みの間に、宿題を出そう」
「えっ?」
聞き返そうとしたその瞬間、ポケットに入れていた携帯電話が音を立てた。見ると、目の前にいるはずの教授から、メッセージが届いている。一体どういうことだろう。尋ねるより先に画面を開くと、そこには1枚の画像が貼られていた。
瓦屋根の上に、何かが3匹座っている。小さな画面に目を凝らすと、それは「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿だった。写っているものはたったそれだけ。場所のヒントとなるようなものは何もない。
「これはどこにあるんですか?」
「それを見つけるのが宿題だよ。祇園周辺を巡ってみなさい。夏休みは学生の特権だ。……今しかできないことを、たくさんするんだよ。常に周囲に目を向けていれば、きっとたどり着ける」
まるで先人の言葉を伝えるように、一言一言じっくりとわたしに届ける。出会った時からそう。この人にずっと言われ続けていること。
携帯電話を、胸の前でぎゅっと握り締めた。覚悟を伝えるようにうなずくと、もうそれ以上一緒にいる理由がなくなって、助手席のドアを閉めざるをえなくなった。
声が届かなくなったというのに、引き留める理由がほしくて、小さく口を開いた。遊園地から帰りたくない、と、駄々をこねる子供のような、あの、どうしようもなく身勝手な気持ちが心の隅に宿っていた。
伝える言葉なんてないというのに、助手席の窓が開いた。どうしたの、と、教授が小さく首を傾げる。何か言おうと思うのに、なぜだかちっとも言葉が思いつかない。ありがとう、は伝えたし、さよならは、言いたく、ないし。
結局、何も言えないまま口を閉じ、じっと教授を見た。聡いこの人は、何も伝えていないのに、何でも分かったかのように優しい微笑みをわたしに向けた。
「新学期、会えることを楽しみにしているよ」
その言葉だけをはなむけに。優しさだけを置き去りに。教授はためらいなくアクセルを踏み、わたしの元から去っていった。
車が見えなくなると、今日あった出来事が、途端に過去へと変わったように思えた。たった1分前まで、教授は隣にいたのに。友人同士のように車に乗り、1日を過ごしたのに。
教授の住んでいる場所は百万遍。わたしのマンションから車で5分。歩いていける距離なのに。会おうと思えばいつでも会えるのに。それができないのはきっと、わたしと教授が友人ではないから。
(どうしたんです、琴子さん)
わたしの心配をするように、ストラップについたこん様が、そっと顔をのぞき込んできた。わたしはこん様を両手に包み、何でもないよ、と首を振った。
「こんなに近くに、いるのにね」
なんだかまだ、遠いなぁ。