「素敵ねぇ」
口の中でとろける飴玉みたいに、うっとりとした母の声が、ふやけきった脳みそに反響した。そうだねぇ、と、夢見心地で応えて、わたしは冷たい緑茶を一口すすった。
五山の送り火を見た数日後のこと。名古屋から遊びにきた母とともに、わたしは川床料理を食べるために貴船を訪れていた。
川床、別名納涼床。料理店や茶屋が、川の上や屋外に座敷を作り、そこで料理を提供する、夏の風物詩だ。京都の夏といえば川床。京都で過ごす初めての夏、川床料理を食べずに何をするの、という母の言葉で、わたしたちはこうして贅沢な昼食をしているのである。
わたしたちが選んだ川床は、貴船神社の近くにある「鳥居茶屋・真々庵(しんしんあん)」だ。真々庵では貴船川の中に直接床机を並べ、川のせせらぎや木々の緑に包まれながら、涼風の下で食事を楽しむことができる。川床は毎年6月から9月の期間限定だ。ここ、貴船は京都市の中ではだいぶ北に位置するのだけれど、この料理と雰囲気を求めて遠方からやってくる人があとを絶たないのだとか。
その理由ももっともだ、とあたりを見渡して納得した。見上げると、落ちてくる太陽の光が青もみじをきらきらと輝かせているし、葉っぱの隙間から漏れた光が畳の上をまだら模様に飾りつけ、まるで水面に浮かんでいるような気分になる。川のせせらぎと蝉の声が、日本の夏を音としてわたしたちに届けてくれる。水辺ということもあり気温は低く、天井もあるため直射日光もあたらない。なんとも快適な空間だ。
「川床って、贅沢!」
「そうよ。贅沢、させてあげてるの」
ふふ、と料理を食べながら母が笑う。この笑顔に感謝しなければ。
真々庵で出されるのは季節の京懐石風料理だ。お膳に料理がすべて並ぶような行楽向きの宴会料理ではなく、懐石風に一品ずつ出されてくるのが、上品に拍車をかけている。まるで上流貴族にでもなった気分だ。
母娘ふたりでにやにやしていると、品のよい店員が新たな料理を運んできた。
「鮎の塩焼きでございます」
「えっ?」
目の前に出された料理を見て、わたしと母は思わず身を乗り出した。
大きな四角いお盆の上に鮎が2匹、泳ぐように置かれている。だけど、驚いたのはそこではない。まるで揺らめく川のように、お盆全体に塩が撒かれているのだ。
「何ですか、これは。どうなっているの?」
「水鳥の羽根で波を描いて、貴船川を泳ぐ鮎を表現しているんですよ」
母の質問に対し、店員は穏やかに微笑んで答えた。芸術とはまさにこのこと。この生き生きとした鮎のポーズ、そして日本画に描かれたような塩の波。日本の技術、趣の深さに畏れ入る。
「すごいわね、とってもおいしそう。いただきまー……」
「あっ、待って」
「えっ?」
「写真を撮るから」
わたしはカメラを構えて、あらゆる角度から鮎をのぞき込んだ。この塩の美しさをいかにうまく伝えようか。どうやったら鮎を生き生きと写せるだろう。構図を変えて何度もシャッターを切っていると、おなかをすかせた母が「まだぁ」と情けない声を出した。
「ごめんなさい、もう大丈夫」
「あんた、前より一層カメラばかになってない? お父さんの真似なんかしなくていいのよ」
「別に、真似してないもん」
「カメラもいいけど、ちょっとは色気づいたらどう? 服とか、お化粧とか。お母さんの化粧品、分けてあげようか」
「い、いらないよそんなもの。だって面倒じゃない」
わたしはごまかすように鮎をぱくりと食べた。塩がきいていてとてもおいしい。普段食べるどんな魚とも違う。目で見て楽しみ、味わって楽しむ。一度で二度おいしいとはこういうことか。母も同じ感想を抱いたようで、頬に手をあてて「おいしい、来てよかった」と何度も繰り返した。
「ねぇ、夏休み、誰かと出かけたりしないの?」
「出かけてるもん。同じ学部の友だちとか……」
「男の人は?」
「何でそんなこと聞くの」
「だって、せっかく京都に来たんだから、出会いとかいろいろあるでしょう。男の人とふたりでデートしたりとか、そういうのが」
「ないない、そんなの……」
否定しながら、わたしは内心ひやひやしていた。というのも、ふたりで出かける男の人、といえば、間崎教授以外いないからである。別に、デートじゃない。断じてない、のだけれど。実はこの夏休み、一緒に出かける約束をしているのだ。
それは数日前、五山の送り火を見終えたあとのこと。帰省中のわたしを強引に呼び寄せたことに罪悪感を抱いたのか、めずらしく教授が「お詫びにすきな場所に連れていってあげよう」と言い出したのだ。
思い返せば宇治しかり、送り火しかり、強引に付き合わされることが大半だったけれど、今回はわたしが行き先を決めていいらしい。そして今まさに、どこに連れていってもらおうかと悩んでいる最中なのだ。わたしに配慮してのことだろうけれど、あの閻魔大王のような教授にも、人間らしいところがあったのだなぁ。
箸を置いて、またカメラを手に取った。思えば京都に越してから、ずいぶんと写真を撮ったものだ。一乗寺の金福寺、宇治の三室戸寺や興聖寺、この間の送り火、そして今日は川床。
これからわたしは貴船神社に行く。教授に会わない間にたくさん写真を撮って、あのすました顔をほころばせてやるのだ。
「京都にいるうちに、たくさん京都のことを知ろうと思って。だから、行ったところは全部写真を撮ってるの」
「琴子はどんな写真を撮りたいの?」
「わたしは……」
考えようとしたわたしの頬を、水の冷たさを含んだ風が撫でていった。この、山風のすずしさ。蝉の声。川のせせらぎ。料理のおいしさ。落ちてくる光の美しさ。
ああ、きっと撮りたいものは、すべてここにある。
「……この写真を見た人が、『この場所に行きたい』って、そう思うような写真を撮りたい」
言葉にしたら、なんとなくしっくりきた。今まで漠然と感じていたのだけれど、心の中にふわふわとたゆたっていただけで、はっきりそうだと意識することはなかった。だけど、こうして言葉として感情に明確な形を与えたら、写真を撮るという行為にきちんと意味を与えられたような気がした。
「ねぇ、お母さんにも見せてよ」
「いいよ、はい」
カメラを手渡すと、くりっとカールしたまつげが、蝶の羽ばたきみたいに上下した。料理を味わうようにじっくりと写真を眺め、母は大きくうなずいた。
「うん、よく撮れてる!」
まだら模様に輝く草畳。川の流れ。きらきらと眩しい青もみじ。今、わたしたちがいる場所こそが、まさにわたしの撮りたいもの。
もう一度箸を持って、鮎を口の中に運び込んだ。食べるのがもったいないと思うのに、なぜか手がとまらない。季節が過ぎても感動が色褪せないように、この夏をたくさん写真におさめよう。
川床料理のおいしさが、この場所の美しさが、写真を見てくれる人に伝わりますように。
口の中でとろける飴玉みたいに、うっとりとした母の声が、ふやけきった脳みそに反響した。そうだねぇ、と、夢見心地で応えて、わたしは冷たい緑茶を一口すすった。
五山の送り火を見た数日後のこと。名古屋から遊びにきた母とともに、わたしは川床料理を食べるために貴船を訪れていた。
川床、別名納涼床。料理店や茶屋が、川の上や屋外に座敷を作り、そこで料理を提供する、夏の風物詩だ。京都の夏といえば川床。京都で過ごす初めての夏、川床料理を食べずに何をするの、という母の言葉で、わたしたちはこうして贅沢な昼食をしているのである。
わたしたちが選んだ川床は、貴船神社の近くにある「鳥居茶屋・真々庵(しんしんあん)」だ。真々庵では貴船川の中に直接床机を並べ、川のせせらぎや木々の緑に包まれながら、涼風の下で食事を楽しむことができる。川床は毎年6月から9月の期間限定だ。ここ、貴船は京都市の中ではだいぶ北に位置するのだけれど、この料理と雰囲気を求めて遠方からやってくる人があとを絶たないのだとか。
その理由ももっともだ、とあたりを見渡して納得した。見上げると、落ちてくる太陽の光が青もみじをきらきらと輝かせているし、葉っぱの隙間から漏れた光が畳の上をまだら模様に飾りつけ、まるで水面に浮かんでいるような気分になる。川のせせらぎと蝉の声が、日本の夏を音としてわたしたちに届けてくれる。水辺ということもあり気温は低く、天井もあるため直射日光もあたらない。なんとも快適な空間だ。
「川床って、贅沢!」
「そうよ。贅沢、させてあげてるの」
ふふ、と料理を食べながら母が笑う。この笑顔に感謝しなければ。
真々庵で出されるのは季節の京懐石風料理だ。お膳に料理がすべて並ぶような行楽向きの宴会料理ではなく、懐石風に一品ずつ出されてくるのが、上品に拍車をかけている。まるで上流貴族にでもなった気分だ。
母娘ふたりでにやにやしていると、品のよい店員が新たな料理を運んできた。
「鮎の塩焼きでございます」
「えっ?」
目の前に出された料理を見て、わたしと母は思わず身を乗り出した。
大きな四角いお盆の上に鮎が2匹、泳ぐように置かれている。だけど、驚いたのはそこではない。まるで揺らめく川のように、お盆全体に塩が撒かれているのだ。
「何ですか、これは。どうなっているの?」
「水鳥の羽根で波を描いて、貴船川を泳ぐ鮎を表現しているんですよ」
母の質問に対し、店員は穏やかに微笑んで答えた。芸術とはまさにこのこと。この生き生きとした鮎のポーズ、そして日本画に描かれたような塩の波。日本の技術、趣の深さに畏れ入る。
「すごいわね、とってもおいしそう。いただきまー……」
「あっ、待って」
「えっ?」
「写真を撮るから」
わたしはカメラを構えて、あらゆる角度から鮎をのぞき込んだ。この塩の美しさをいかにうまく伝えようか。どうやったら鮎を生き生きと写せるだろう。構図を変えて何度もシャッターを切っていると、おなかをすかせた母が「まだぁ」と情けない声を出した。
「ごめんなさい、もう大丈夫」
「あんた、前より一層カメラばかになってない? お父さんの真似なんかしなくていいのよ」
「別に、真似してないもん」
「カメラもいいけど、ちょっとは色気づいたらどう? 服とか、お化粧とか。お母さんの化粧品、分けてあげようか」
「い、いらないよそんなもの。だって面倒じゃない」
わたしはごまかすように鮎をぱくりと食べた。塩がきいていてとてもおいしい。普段食べるどんな魚とも違う。目で見て楽しみ、味わって楽しむ。一度で二度おいしいとはこういうことか。母も同じ感想を抱いたようで、頬に手をあてて「おいしい、来てよかった」と何度も繰り返した。
「ねぇ、夏休み、誰かと出かけたりしないの?」
「出かけてるもん。同じ学部の友だちとか……」
「男の人は?」
「何でそんなこと聞くの」
「だって、せっかく京都に来たんだから、出会いとかいろいろあるでしょう。男の人とふたりでデートしたりとか、そういうのが」
「ないない、そんなの……」
否定しながら、わたしは内心ひやひやしていた。というのも、ふたりで出かける男の人、といえば、間崎教授以外いないからである。別に、デートじゃない。断じてない、のだけれど。実はこの夏休み、一緒に出かける約束をしているのだ。
それは数日前、五山の送り火を見終えたあとのこと。帰省中のわたしを強引に呼び寄せたことに罪悪感を抱いたのか、めずらしく教授が「お詫びにすきな場所に連れていってあげよう」と言い出したのだ。
思い返せば宇治しかり、送り火しかり、強引に付き合わされることが大半だったけれど、今回はわたしが行き先を決めていいらしい。そして今まさに、どこに連れていってもらおうかと悩んでいる最中なのだ。わたしに配慮してのことだろうけれど、あの閻魔大王のような教授にも、人間らしいところがあったのだなぁ。
箸を置いて、またカメラを手に取った。思えば京都に越してから、ずいぶんと写真を撮ったものだ。一乗寺の金福寺、宇治の三室戸寺や興聖寺、この間の送り火、そして今日は川床。
これからわたしは貴船神社に行く。教授に会わない間にたくさん写真を撮って、あのすました顔をほころばせてやるのだ。
「京都にいるうちに、たくさん京都のことを知ろうと思って。だから、行ったところは全部写真を撮ってるの」
「琴子はどんな写真を撮りたいの?」
「わたしは……」
考えようとしたわたしの頬を、水の冷たさを含んだ風が撫でていった。この、山風のすずしさ。蝉の声。川のせせらぎ。料理のおいしさ。落ちてくる光の美しさ。
ああ、きっと撮りたいものは、すべてここにある。
「……この写真を見た人が、『この場所に行きたい』って、そう思うような写真を撮りたい」
言葉にしたら、なんとなくしっくりきた。今まで漠然と感じていたのだけれど、心の中にふわふわとたゆたっていただけで、はっきりそうだと意識することはなかった。だけど、こうして言葉として感情に明確な形を与えたら、写真を撮るという行為にきちんと意味を与えられたような気がした。
「ねぇ、お母さんにも見せてよ」
「いいよ、はい」
カメラを手渡すと、くりっとカールしたまつげが、蝶の羽ばたきみたいに上下した。料理を味わうようにじっくりと写真を眺め、母は大きくうなずいた。
「うん、よく撮れてる!」
まだら模様に輝く草畳。川の流れ。きらきらと眩しい青もみじ。今、わたしたちがいる場所こそが、まさにわたしの撮りたいもの。
もう一度箸を持って、鮎を口の中に運び込んだ。食べるのがもったいないと思うのに、なぜか手がとまらない。季節が過ぎても感動が色褪せないように、この夏をたくさん写真におさめよう。
川床料理のおいしさが、この場所の美しさが、写真を見てくれる人に伝わりますように。