小学生だった頃、今よりずっと子どもだった私にとって、ユウくんは理想だった。完璧だった。ヒーローだった。

 大げさかもしれないけど、少なくとも私の目には、本気でそう映ってた。

 そんなユウくんが、今目の前で弱々しく項垂れている。
 その姿は、まるで別人みたいに見えた。

 家族。そのたった一点をついただけで、私の思い描いてた理想の姿は、簡単に崩れ去っていた。

『軽蔑した?』

 優斗がさっき言っていた言葉わ思い出す。
 そして、ようやくその意味を理解する。

(ああ、だからユウくんは、ずっとこのことを隠してきたんだ)

 きっと、ユウくんは怖かったんだ。
 私がこれを知って、自分を見る目が変わってしまうのを。
 今まで築き上げた関係が、壊れてしまうのを。

(どうすれば良いの?)

 何か言いたいのに、ちっとも言葉が出てこない。
 今の話をどう受け止めればいいかなんて全然わからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 いつの間にか私まで項垂れていて、目には涙が滲んできている。

 だけどそんな状態になっても、一つだけ、たった一つだけ、確かなことがあった。

(それでも私は、ユウくんが好き)

 その想いだけは、今も決して変わらない。
 例えどんなにユウくんの弱い部分を目の当たりにしても、ユウくんが心配しているように、軽蔑したり嫌いになったりするようなことはなかった。

 そしてそれに気づいた時、自然とやることは決まっていた。

 下がっていた顔を上げると、もう一度ユウくんを見る。
 肩を落とすその姿を見ながら、喉の痛みをこらえて、ゆっくりと声を絞り出す。

「ごめんねユウくん。私、あんなに近くにいたのに気付けなかった。ユウくんがこんなに苦しい思いをしていたんだって知らなかった」

 それは、ユウくんの家の事情を初めて聞いた時から、ずっと言いたかった言葉でもあった。

 ユウくんが苦しんでいる時、私はそばにいたのに、何もできなかった。
 それどころか、気付きもしなかった。
 それを、ずっと謝りたかった。

 いつのまにか、目に溜まっていた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

「そんな、藍が謝る事なんて何も無いよ。俺が、嫌われたくないって思って、ずっと隠してきただけなんだから!」

 ユウくんが慌てたように言う。
 そこで私は、それよりもっとずっと大きな声で叫んだ。

「嫌いになんてならないよ! ユウくんのこと、絶対に嫌いになんてならないから!」

 目からは相変わらず、涙がぽろぽろと零れてる。
 それでも、真っ直ぐにユウくんを見る。

 ユウくんの前で、泣くことなんて、子供の頃から何度もあった。
 その度に、ユウくんは私を慰め、元気づけてくれていた。

 だけど、今は違う。今度は私が、ユウくんの不安をなんとかするんだ。

「ねえユウくん。ユウくんは、いつか心変わりするのが怖いって言ってたけど、そんなの誰だって同じだよ。絶対に変わらないって言える人なんて、多分一人もいない」

 小学生の頃の私なら、きっとこんなこといえなかった。
 何も言えずに、ただ泣き崩れていたと思う。
 けれど、今はもう子供じゃない。
 どんなに涙を流しても、ただ泣くだけで終わりになんてしたくなかった。

「変わるかもしれないって言うなら、私だってそうだよね。いつか私のことも嫌いになるかもしれないって、そう思いながらずっと一緒にいたの?」
「なっ──」

 その途端、優斗の顔色が変わった。
 家の事や、自分の心の内を話した時だって、こんなにも取り乱したりはしなかった。

「違う! 藍は大事な妹で、その気持ちは変わりなんてしない!」

 やっぱり。
 ユウくんなら、きっとそう言ってくれるって思ってた。

 私はユウくんのことが恋として好きだから、妹って言われるのは、ちょっと複雑。
 だけど、妹としてすごく大事にされてるってのは、自信を持って言える。

 だけど、ユウくんが今まで言ってきたことには、矛盾があった。

「妹なら、変わらないの? お父さんやお母さんに対する気持ちは変わっても?」

 ユウくんは確かに言ってた。
 昔は大好きだったはずの両親のことも、今はもう他人よりも遠くに感じるって。

 それなら、妹だってそうじゃないの?

 ユウくんは、そこで一度目を瞑って、ゆっくりと天を仰ぐ。
 それから深く大きく息をつくと、ハッキリと言う。

「ああ。変わらない。何があっても、藍は特別だから」
「ユウくん……」

 そう言ってくれること、すごく嬉しい。

 これだと、さっき言った矛盾は、全然解決していない。
 だけどそれでも、ユウくんのその言葉は、嘘とは思えなかった。
 今までたくさん可愛がってもらって、大事にしてもらったからこそ、いくら矛盾したことを言われても、ユウくんのことを信じられた。

 それからユウくんは、またゆっくりと語り出す。

「さっきの話。誰かを好きになるのが怖いって話には、まだ続きがあるんだ。それは滅茶苦茶で、聞いても納得なんてできないかもしれない。それでも、俺の話を聞いてほしい」

 ユウくんの手は固く握られ、微かに震えていた。
 きっと、怖いんだ。
 話せば話すほど、今まで築き上げてきた関係を、壊してしまう気がしてるんだ。

 だけど、そんな不安を抱えながら、それでもちゃんと話そうとしてくれる。
 なら、私がどうするかなんて決まってた。

「いいよ。ユウくんが思ってること、全部言って」

 本当は、私だって少し怖い。
 だけどどんなに怖くても、ユウくんの話そうとしていることから、逃げたくなんてなかった。

 ユウくんの思っていること。
 その全部を、しっかり受け止めたかった。