「愛空」
名前を呼ばれて振り返った直後、身体に衝撃を受けた。
よろけて倒れ、路面を滑って、肘に焼け付くような痛みが走る。
「バイバイ、またね」
僕を思い切り突き飛ばしたらしい天音は、優しい笑顔を浮かべて、そう言った。
景色が、スローモーションに見える。
軽トラックが天音に向かって突っ込んでくる。彼女は大きく目を見開いたかと思うと、ぎゅっと目を瞑った。
周りの景色はゆっくりに見えるのに、僕だけは石になったかのように動けなかった。見えているのに。間に飛び込むことだって出来そうなのに。
天音の身体に、トラックの車体が触れた。

耳を塞ぎたくなるような音が響いて、周りの景色の動く速度が元に戻った。
目の前で火花が散って、鮮烈な緋色が道路を濡らしていく。トラックが歩道沿いのポールに突っ込んで、耳をつんざくような音が腹の底に響く。
「...あ」
天音、と呼ぼうとした。叫ぼうとした。
でも、言葉は喉に張り付いて出てこなくて、なんとか口から零れた声らしい何かも、情けないほどに震えて、掠れていた。周りの音が、潮が引いていくように遠ざかっていく。自分の心臓の音と、血液が身体の中を流れる音だけが五月蝿いほど聞こえた。
「...天音?」
天音の側に、震える身体を無理矢理動かして、這うように向かった。
彼女の額を、腕を、血が濡らしている。
ひゅうひゅうと息をする天音は、今さっき僕を突き飛ばした死神とはまるで別人物に思えた。
「天音」
体温のない、彼女の頬に触れた。僕の額を、頬を伝って落ちていく雫が、汗なのか涙なのか、それとも別の何かなのか、僕には判別がつかなかった。
「...あい、ら」
虚ろな目が、僕を見る。
「だい、じょうぶ?」
微かな声が、震えた息と一緒に天音の口から零れ出た。
「うん、大丈夫、生きてる」
声が震える。
ありがとう、なんて、言えなかった。
なのに、この莫迦は。
どうして、僕の声を聞いて、ほっとしたように笑うのだろうか。
痛いだろうに、苦しいだろうに。
ばか、と呟きながら、彼女に縋り付いた。僕が死ぬときには、天音が魂を狩り取るんじゃなかったのか。一年は、仲良くさせて貰うんじゃなかったのか。
「ばか、ばか、置いていかないでよ」
情けない声を上げる僕を見て、天音は笑って血だらけの右手を差し出した。
「一緒にいかせてよ、殺してよ」
「...嫌だ」
彼女の優しい手が、僕の頬に触れる。
「愛空、ひとつ、賭けを、しよう」
「...賭け?」
「ルー...ル、は、神に、預け、てある、から」
「え」
思わず目を見開いた途端、僕と天音の周りが真っ白になった。
【莫迦はいるものだな】
「あ」
死神(タナトス)・アマネ、試合終了(ゲームオーバー)だ】
「お願い神、天音を、」
【無理だ】
震えながら声を上げた僕に、神は無慈悲な一言を放った。
【神も死神(タナトス)も、万能だと思わないことだな、遠山愛空】
「...そんなの、知ってる」
死神(タナトス)・アマネの残り時間は残り僅かだ。人間の病院に行くことはできないから、彼女は此方で預かろう】
「...ちょっと待って、確認したいんだけど」
【何だ】
「天音と、僕は、一緒にいることはできる?」
【出来ない。お前は天界には入れない】
「え?じゃあ、ここは」
【私が作った結界の中だ。天界ではない】
「神、さま」
「天音」
【何だ、まだ生きていたか。死神(タナトス)・アマネ】
「愛空、の、担当、の」
【引き継ぎだろう。既に伝えてある。お前がこんな暴挙に出るのはある程度想像していたことだからな。まぁ、想定はしていなかったが】
「...すみ、ません」
【遠山愛空。お前の余命がひっくり返ることはないが、莫迦な死神(タナトス)が命を張ったお陰で、お前が苦しみながら死ぬことはなくなったようだ。新しい死神(タナトス)の担当が決まっているから、落ち着いたら挨拶するように】
「...はい」
【何か状況が動くことがあれば伝えるから、そのつもりで。じゃあ、お前の家に戻すから、身構えておけ】
「え、あの」
【行くぞ】
「え、...わっ!」
僕が座っていた床が急に煙のように消えて、僕は自分の部屋のベッドの上にボスンと音を立てて落ちてきた。
「いった...」
背中と後頭部、肘の痛みに顔を顰めながら、僕は天井に手を掲げた。
天音がいつも突然現れていた、この部屋。最初は必要最低限と言っていたのに、段々と天音がこの部屋にいる時間が増えていって、僕にとってかけがえのない存在となって。

そして、元からいなかったみたいに、ふっといなくなってしまった。
天音の血で汚れていたはずの僕の手にも、頬にも、どこにもそんな汚れは見当たらなかった。
ニュースサイトをどれだけ漁っても、僕の家の近所で起きたトラックの事故で、少女が怪我をしたという記事は見つからなった。部屋の中でブルーライトを浴び続ける僕を嘲笑うかのように、僕の家の近所で起きた「トラックの単独事故」の記事は幾つか出てきた。これだけのスピードで青信号の横断歩道に突っ込んで、1人も怪我人が出なかったのは奇跡だと。
それから僕は、あの横断歩道に行くことも、ニュースサイトを見ることも、出来なくなった。