「愛空」
「...」
「ねぇ、愛空」
「......」
「ねーねー愛空ー、ねーねーねー」
「うっさいな、課題やってる時にわざわざ来なくたって良いだろ」
苛々して悪態を突くと、紗音は大人しく静かになった。
「大体お前、提出明後日だぞ。終わってるのかよ」
「終わってるよー。一体私が、何年高校生やり続けてると思ってるの?本来なら高校10年生だよ。今度の2学期期末試験も10度目だよ」
「あーそうですか、じゃあ先輩、ここ教えて」
「良いよー。あぁ、これね。ここはこっちの公式を使って頂点を求めるから...」
紗音が持つシャーペンが図をなぞり、すらすらと式を書いていく。流石高校10年生と言うべきか、紗音の説明は先生みたいに分かりやすかった。
「ありがと。紗音、教えるの上手いね、教職とか向いてそう」
「嫌だよあんなブラックな職場」
僕がせっかく褒めたのに、紗音は眉を顰めてそう言うと、僕のノートをトントンと突いて言った。
「ほらほら、手が止まってるよ、間に合わないよ、成績下がるよ」
「流れるように脅迫してくるなよ...」
僕が呆れてそう呟くと、彼女は脅迫してないよ、と言いながら楽しそうに笑っていた。

「終わったー!」
「お疲れさま」
紗音がそう言って僕の頭をわしわしと撫でてきたので、払い除けてから窓の外を見た。もう陽はとっぷりと暮れている。
「ありがとう、助かった」
「いえいえー」
「...腹減ったな」
「もうそんな時間か。ご飯、食べてきたら?」
「いや、母さんが仕事から帰ってくるまで待ってるから」
「そっか、じゃあ私ももう少しのんびりさせて貰おうかな」
椅子から立ち上がり、壁側の床に座った僕の隣に、紗音も腰を下ろした。
「紗音は、家に帰らなくて良いの?」
「ないもん。私、家」
「そうなの?」
「家族のこととか、死神(タナトス)になると忘れちゃう人が多いんだよね。私もその内の1人」
紗音の笑顔に、ふっと影がよぎった。
「だから、私は家がどこか分かんない。まぁ、死神(タナトス)は天界に待機所兼休憩所みたいなところがあるから、寝る場所とか勉強する場所には困らないんだけど」
壊れそうな笑顔を浮かべた紗音に、胸が締め付けられるように痛んだ。
「名前、は」
「名前?」
僕の問いに、彼女はきょとんとして僕の顔を見る。
「自分の...本名?っていうのかな。最初の名前。それは、覚えてたりするの?」
「...うん、憶えてるよ」
「なんて名前?」
「... 天音(あまね)矢絣(やがすり)天音(あまね)。天に音で天音」
「天音、か」
僕の呟きは、淀んだ空気の部屋内にゆっくりと溶けていった。
「綺麗な名前だ」
続けてそう呟いた僕を、彼女は驚いたように見つめていた。
「どっちで呼んだら良い?」
「え?」
「紗音か、天音か。どっちで呼べば良い?」
「... 我儘(わがまま)を、言っても良いなら」
「うん」
僕の腕に、彼女の肩が触れる。でも、彼女の身体は、冷たくはなかったけど、温もりもない。まるで実体がないみたいに、温度を持っていなかった。
「我儘を言っても良いなら、...天音。本名が良い」
「分かった。...じゃあ、改めてよろしくな、天音」
僕がそう言って笑うと、紗音、いや、天音が、ほっとしたような笑顔を浮かべた。その時初めて、僕は彼女の素顔を覗けたような気がした。

僕は床に座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ガタガタという物音で、ふっと目を開けた。
時計を見ると、30分程が経っている。たぶん、母が帰ってきたのだろう。
と、ここまで考えて、気が付いた。
僕は、高校で孤立こそしていないものの、友達は多い方ではない。それは昔からそうだ。最後に友達を家に呼んだのはいつだったか。そんな僕が、(見た目)同い年の女の子と、日没後に部屋で2人きり。やましいことはないけど、断じてないけど、説明に困る。
そっと隣を見ると、天音は思い切り僕に寄りかかって寝息を立てている。
動けない。どうしよう。
「愛空ー」
母の声が聞こえた。はーい、と応えたいけど、大声で天音を叩き起こすのも気が引ける。もたもたしているうちに、自分の部屋のドアをノックする音が聞こえて、ドアの隙間から母の顔が覗いた。
「愛空、ご飯」
と言って、あら、という顔をする。
そりゃあそうだろう。僕が困り果てた顔で天音と母の顔を交互に見ていたのだから。
「...彼女?」
天音が眠っているのを見て、母が小さな声で言いながら天音を指差す。
僕は頬が熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「...友達、かな」
「あら、そう。あぁ、愛空、ご飯食べるわよね?」
「うん、食べる」
「その子は?」
「もう帰るってさ」
そう言いながらそっと立ち上がり、天音の名前を呼びながら肩をとんとんと叩く。彼女がうーんと呻き声を上げた。あまり寝起きが良い方ではないのかもしれない。
ご飯よそってるわよ、と母の口が動いて、そっと部屋を出て行った。
ドアが閉まったのを確認してから、天音、ともう一度声を掛ける。
「母さん帰ってきたから、僕あっち行くよ。天音は帰ったってことにするけど良いよね?」
半分眠ったまま、天音がこくりと頷く。
ゆっくりと空中に手を伸ばしたと思うと、その姿がふっと消えた。
それを見届けて、僕は一つ欠伸をしてから、自分の部屋を出た。

「さっきの子、お友達なの?」
「うん、そうだよ。もう帰ったけどね」
「可愛い子ね。なんて名前?」
「天音」
「へぇ、天音ちゃん。珍しい名前ね」
「そうだね、確かにあんまり聞かないかも」
「本当にお友達なのー?」
「そうだよ、母さんが期待しているような間柄じゃない」
母からの質問マシンガンに少々うんざりしながらそう答えても、母はニヤニヤしながら僕の顔を見ているだけだった。