「母さん」
自分の部屋を出て声を掛けると、少し驚いたように母が僕の方を見た。
「愛空、貴方、大丈夫?まともにご飯食べてないでしょう。体調悪い?」
母が僕の額に手を当ててくる。
そのひんやりとした感触に、僕は不思議な安心感を覚えて目を閉じた。
「そういえば、天音ちゃん、最近来てないわねぇ。大丈夫、喧嘩でもした?」
はっと目を開けると、母は当たり前のように僕の顔を覗き込んで首を傾げている。
「母さん」
「ん?」
「天音は、ね」
口を開く。声が震える。
涙が声を遮って、とめどなく溢れた。
「あら、愛空、どうしたの?話聞くわよ。天音ちゃんと、何かあった?」
「母さん」
「なぁに?」
「信じてもらえるか、わからないけど。多分、信じたくないし、信じられないとは思うんだけどさ。...聞いてくれる?」
僕が鼻を啜りながらそう言うと、母は優しく笑って、こくりと頷いた。
聞くよ、と優しい声が聞こえた。
貴方のお話、聞かせてちょうだい。

ダイニングの椅子に、母と向かい合って座った。
「...あのね、天音はね。僕の死神だったんだ。それで、僕を庇って、いなくなっちゃった」
呆然とした様子で、母が僕を見る。
「最初から話すね」
僕が笑ってそう言うと、僕の頭の中の鮮やかな思い出が、少しずつ色を取り戻していった。死神に初恋を盗られた僕だけど、流石の彼女も色彩までは盗めなかったようだ。
できるだけ簡潔に説明しようとしたけど、どうしても気持ちが乱れてしまって支離滅裂な僕の言葉を、母は最後まで聞いてくれた。
僕が話し終えると、母は目に涙を浮かべながら僕を優しく抱きしめてくれた。
「話してくれてありがとう。愛空、頑張ったね」
「...うん」
母の腕の中で、僕は小さな子供のように泣いた。
「正直、信じられない部分も、信じたくない部分もあるけど...愛空が頑張って話してくれたんだもの、信じてあげたいわ」
「うん、ありがとう」
僕は母の目を見て、少し笑った。
「あ、そうだ母さん。
例の神と、死神さん。母さんに会わせたいんだけど、良いかな?完全に物理法則無視して不法侵入してくるけど、卒倒しないようにね」
「...頑張るわ」
「だってさ。来てくれる?」
【お前も説明が雑だなぁ】
「本当に。お兄ちゃんは横着者ですね」
とん、と軽い音を立てて、神と凛音が僕の横に立った。
「うわっ」
母も身構えていたものの、思わず大きな声を上げた。
「えっと...愛空の母です」
「愛空お兄ちゃんの死神の凛音です」
【神です】
「...もうちょっとマトモな自己紹介はないものかね、お二方」
【簡潔で分かりやすいだろう】
「『神です』はないですよ、神さま」
【お前もな。死神ですはないだろう。脅しか?脅迫なのか?】
「はい、そこまで」
僕がぱんぱんと手を打ち鳴らすと、神と凛音が揃って此方を向いた。
「母さんの信頼材料になれば良いなと思って呼んだんだけど...騒がしいね、失敗だったみたい。帰って」
【「えーー!」】
「あ、愛空」
母の声が聞こえて、僕はふっと振り向いた。
「神さまと死神さんには、訊きたいこともあるから、帰って頂かなくていいわよ」
目を見開く僕を見て、母は首を傾げた。
「僕、神を神だと信頼するには3ヶ月掛かったんだけど。母さん、適応早くない?」
「愛空が話してくれたことだもの。それに自分の目でも見てしまったし、信じないわけにはいかないじゃない」
3ヶ月は時間かけすぎよ、と笑う母に、こんなに早く適応してしまうのか、という驚嘆の気持ちと、この人やばい宗教とかに引っかからないだろうか、という心配とが3:7ぐらいの割合で湧いてきた。
「お兄ちゃん、素敵なお母さんだね」
【話を信じてくれる方で安心した】
「...僕は不安だよ、かなり。まぁ良いや、座ってよ」
そう言うと、神と凛音は大人しく椅子に収まった。
神と死神が、母と僕と向かい合って自宅のダイニングの椅子に座っている、というシュールな光景に笑ってしまいそうだったけど、なんとか耐えた。
「愛空の、余命のことなのですが、本当なのですか?」
母の静かな声が、ぴんと張り詰めた空気を震わせていく。
【残念ながら、本当です】
神が敬語を使っている。
「残念ながら」なんて、他人に気遣いの心を見せている。
神の隣にいる凛音の肩が小刻みに震えているのは、大方その強烈な違和感のせいだろう。気持ちは分からなくはないが、場違いな反応だ。
「その時は、凛音さんが」
「はい、魂を狩り取ります。元々は天音ちゃんの役割だったんですけど、出来なくなっちゃったので、あたしがやることになりました」
小学校低〜中学年の見た目とは裏腹に、凛音がはきはきと答えた。凛音も天音と同じように、何年も死神(タナトス)をやっているのかもしれない。胸が締め付けられるように痛んだ。
「...そう。覆ることはないのよね?」
「ええ、申し訳ありません」
「分かりました。では次に、天音さんについてなのですが」
僕は驚いた。神と凛音も、少し驚いたように母を見ている。
「会わせて頂くことは可能ですか」
【現在、生存されている人間は、天界に入ることはできないので...
ただ、いつかこちら側にいらっしゃった時に、お会い頂くことは可能かと思います】
「そうですか、分かりました。
ありがとうございます」
母がにこりと笑って、そう言った。
長々と引き留めてしまって申し訳ありません、みたいなことを言って頭を下げる。
神と凛音もぺこりと頭を下げたかと思うと、ふっと椅子から消えていた。

「愛空」
顔を上げると、涙を浮かべて笑っている母の顔が見えた。
「会わせてくれてありがとうね」
「ううん。此方こそありがとう。
...ごめんね、振り回しちゃって」
何言ってるの、と母は笑った。
「愛空はちっとも悪くないじゃない。本当のことを言うと、母さんも受け入れられないわよ、こんなこと。愛空があと3ヶ月しか生きられないなんて」
「...ごめん、もっと早く話せば良かった」
「話せなかったのよね、怖いもの。信じたく、ないもの」
「そうだね」
母の言葉を聞いた途端、気持ちが溢れた。
「...もっと生きていたいよ」
「うん」
「死にたくないよ」
「うん」
「...怖いよ」
「...そうね、怖いわね。母さんも、怖い」
「うん」
「ねぇ愛空、これから...どうしたい?」
「これから?」
「これから3ヶ月、みんなと学校行くでもよし、どこか出掛けるんでもよし、母さんもやりたいこと言っていくから、ありきたりだけど、好きに過ごしてみなさい」
「うーん...」
《「素敵な景色、色々な気持ち」を多く知ることができたら愛空の勝ち》だと天音は言った。抽象的すぎて、天音には申し訳ないがよく分からない。
目を瞑る。
今までに見た素敵な景色。何だろうか。
普段見ない景色?
貴重な、歴史に残るような瞬間?
夢に出てくるような、強烈な体験?

あぁ、それとも、もしかしたら。
馬鹿げた神に余命宣告されてから、毎日「生きてる」と思いながら過ごした、温かく輝かしい日常、だろうか。
母がいて、僕がいて、友達がいて。
何よりも、彼女がいた、あの日常。

「学校に行きたい。それから、毎日母さんとご飯が食べたい」
「そう。じゃあ、ご飯食べましょうか。愛空、貴方、まともにご飯食べてないでしょう。痩せたわよ」
「嘘、痩せた?うーん、喜ぶべきか悲しむべきか」
「悲しむべきよ。これ以上寿命縮めてどうするの」
「母さん、神と同じこと言ってる」
ははっと笑った僕を見て、母は安心したように笑った。
「何?」
「ううん。愛空が今日、初めてちゃんと笑ったなと思って」
「そうだった?」
「そうよ」
2人で顔を見合わせて、笑った。
こんな些細な瞬間が、幸せだ、と思った。