それは、体育の授業後だった。
 ジンが言った通り、バレーボールで、私は頑張ってレシーブを練習していた。
 何回も続けると腕がヒリヒリしてきて、慣れてないなぁと思ってしまう。
 私は決して、運動が得意なタイプではない。でも、やる気だけは人一倍ある方だ。毎回その努力と根性が評価されて成績を上げてきた。
 ジャージの袖を捲ると、やはり赤くなっている。まあ冷やせば治るか、と冷たい水を口へ流し込んだ。そういえば、凪くんはなにをやっているんだっけ。確か男子はサッカーだったような気がする。休憩タイムを使って、校庭を盗み見た。

「なーにやってんの?」
「校庭?あ〜男子か。」

 同じチームで一緒に練習をしていた桜ちゃんと梨々子ちゃんが上から声をかけてくれた。すぐさま自然に笑って返す。

「男子はサッカーなんだね。」
「そうだよ〜。あ、寧々に問題です!うちら、6月に体育祭やったんだけど、そこでクラス対抗全員リレーやったのね?」
「その時のアンカーは誰でしょう!ちなみに男子だよ。」
「え…。…渡辺くんとか?堀安くん?」
「ブブー!」
「ん〜…伴くん?いや、伴くんは長距離走って言ってたな…。」
「…はい、時間切れー!正解は…あいつだ!」

 そう言って梨々子ちゃんが指差した先には、ドリブルしてボールを運んでいる凪くんが。そのままゴールギリギリを狙ってシュートした。ボールはゴールポストの中へ。すぐさま歓声とドンマイの声が上がった。

「え…凪くん!?」
「そう。正解は、片桐でした〜。」
「意外…。」
「だよね〜。普段はひとことも喋んなくて笑いもしなくて、本読んでるか寝てるかなのに、スポーツできるとか思わないって〜。」
「意外とそこのギャップで気になってる子もいるみたいだよ。」
「へえ…。」

 え!?そうなの!?
 落ち着いて返事したが、内心は気が気じゃなかった。どうしよう、凪くんが取られちゃう…。いや、私のものではないんだけど!でもさ、嫌なんだもん…。
 もしかしたら、もう誰かと付き合ってるのかもしれない。そう思うだけで胸がギュッと締め付けられる。分かってたのにな。
 凪くんだって人間だ。いつかは素敵な人と付き合って、結婚する日が来るかもしれない。それで、子供ができるかもしれない。そこまでの行程を想像するだけで体は金縛りにあったかのように動かなくなる。
 私の愛は重いかもしれない。けど、それほど諦めたくないんだ。
 そんなことを考えてる私の耳に、次の試合の合図が届いた。
 凪くんたちは試合が終わり、水分を補給していた。やっぱり凪くんのそばにはジンがいた。
 少しだけ、ジンが羨ましかった。


 放課後、掃除当番ではない私たちはリュックを背負って教室を出た。いつか桜ちゃんたちとも、遊びに行けたらいいなと思って。
 凪くんに導かれるがまま、屋上へ向かう。

「あ、そう言えばマリってやつのこと調べといたぞ。1年1組の女子だった。」
「そうなんだ。」
「そうなんだってお前…。感謝しろよ〜?」
「はいはい。」

 少し急足で階段を登り、屋上の扉を開けた。
 ここは一度来たことがある。ここで昼食を食べる生徒も多いからだ。梨々子ちゃんと桜ちゃんが楽しげに語っていたのを思い出す。
 だが、今日は違った。私の紹介された屋上ではない。隣では凪くんが「やっぱりな…」と呟いている。
 屋上の中央には丸くて少し大きめの鏡が置かれている。いや、ほぼ屋上の床に埋め込まれている。普通ならこんなことないので、これは怪異の仕業だ。マリちゃんは運悪くこの鏡の上で立ち止まってしまい、引き摺り込まれたのだ。

 できるだけ平然を装って、鏡の上に立つ。凪くんも立って、ジンも凪くんのそばに浮遊する。
 凪くんは鏡が気になるらしく、下を向いていた。ジンもつられて下を見る。

「…凪くん。前見てもらっていい?」
「あ、そっか。勘付かれるか…。」
「それもそうなんだけど…。私、制服だから。」

 それを聞くと一斉に2人は前を向く。なんなら凪くんは眩しいはずの天を仰ぐ。
 不思議な時間が流れる。ぬるい風が私の髪を揺らした。
 その時だ。

「きゃっ…!」

 誰かに足を掴まれる。
 来た。
 慌てるフリをしながら、私たちは鏡に引き摺り込まれた。トプンという音と共に、視界は暗く溶けていく。


「ん…?」

 目覚めればそこは、大量のスピーカーが置かれた部屋だった。いや、部屋なのだろうか。スピーカーの壁が構築され、天井が狭く感じる。どうやら凪くんとは逸れてしまったらしい。
 急に、ひとつのレトロなスピーカーのスイッチが入った。ザザザという音に反応して、スピーカーに注目してしまう。

『あーあー聞こえてる?』

 思わず身震いした。聞こえてきたのは私の声。

『私さあ、ずっと言いたかったことがあって〜。』
「…なに…?」
『あんたって…ほんとダメダメだよね。』

 自分が自分に語りかけているのに、なぜか心に刺さってしまう。
 違う。こんなことをしにきたんじゃない。怪異だ。怪異はどこにいる。見回してもスピーカーしか置かれていない。
 しょうがないので、スピーカーをひとつひとつ降ろしていくことにした。

『ほんとはひとことも喋れないくせに猫かぶって愛想良くして。笑顔作って。ほんとウザすぎ。』

 少し刺さるものはあったが、気づかないフリをする。
 
『今日だって、慣れないリップ塗って来たもんね〜。凪くんのために。凪くんが気づくわけないっての。あとなんだっけ?ポニーテールと、日焼け止めと、あ、『おはよう』の練習までして。どーせ気づいてもらえないのに努力して。諦めた方がいいと思うけど。』
「うるさいな…。」

 ブチっとスイッチを切って、スピーカーをどかす作業に集中する。
 またザザザという音が聞こえた。

『も〜切らないでよ〜。』

 今度は、ピンク色の小さな可愛いものから私の声が。これはキリがない。無視してスピーカーの壁を崩す。いつの間にか、なにやらドアの一部がのぞいていた。
 その一部を段々大きくしていく。気づけば汗が出ていた。服で拭おうとしたところを、一旦手を止めてハンカチを使う。

「できた…。」

 かなりの時間をかけて、出て来たのはドアだった。やっぱりここはどこかの部屋なのだ。ドアノブを回してみるが、開かない様子。空洞と化した鍵穴に爪を入れてみる。
 鏡を入り口にするタイプはめんどくさいことでも有名だ。入り口の鏡は全く壊れないから、中に入るしかない。入ったらひたすら最深部を目指す。そして最深部にいる本体を倒せば元に戻れる。楽な構造ではあるが、地道な作業が必要になる。暴走状態の怪異は、時に空間を作ってしまうこともあるのだ。
 私たちは他の人たちとは違って、怪異が見える。それなら、見えない人たちが理不尽な目に遭うのを守らなくてはならない。と、ひいおじいちゃんの日記には書いてあった。だから私も、こうして討伐しようとしている。
 いつもであれば、大体見ないフリをしてやり過ごす。結び霊がいないからだ。しかし、今回は被害者が出ている。いなくても、守らなくてはならない。
 コアを握り潰すことはできなくとも、別の方法はある。その怪異ごと潰してしまえばいいのだ。大体胸の中央あたりにあるらしいので、いつもはそこを狙っている。

「…ねえ、鍵の場所って知ってる?」

 諦め半分で『私』に尋ねる。

『お、ようやく話してくれた。ん〜……私の話を話を聞いてくれたらいいよ。猫被りちゃん。』
「…それで呼ばないで。」
『だって事実じゃん?』
「うるさい。」
『わぁ、怒ってる〜。こわーい!あ、そろそろ唇乾燥してきた頃じゃない?』
「……。」

 ポーチからリップクリームを取り出して、薄く塗った。

『凪くんのこと、諦めたいと思ってんでしょ。』
「なんで?」
『だって凪くん意外にモテてるみたいだし、全然気づいてくれないし。』
「…それは…。」
『それに。フラれちゃったもんね〜。』
「っ……!でも、それって小学生の頃だし…!」
『うわ〜重い重い。』

 そう。私は凪くんに一度フラれている。なんか、そういうのよく分かんない、と言われて。凪くんが引っ越す前日に言われた。

「分かんないじゃん…今は違うかもしれないじゃん…!」
『私仮定した話は嫌いなんだよね。』

 根拠のない希望は、すぐに折れる。
 淡い期待は濃い事実に染まる。

『っていうか、猫被りちゃんのこと、凪くんは探してるのかな。もしかしたら1人で最深部に向かってるかもよ?』
「…そうかもしれないけど…。」

 ふと変な感覚がして見上げると、水が滴り落ちている。天井から。床からも水が滲み出ている。

「なにこれ…!鍵は?もう話したよね。」
『え〜そんなこと言ったっけ〜。覚えてな〜い。』

 サッと血の気が引く。モタモタしすぎた。鍵を見つけないと。