また気だるい1日が始まった。
 通学路を踏みしめながらため息をつく。ジンはそんな俺を見てケケッと笑った。
 その時だ。誰かに後ろから肩をポンポンと叩かれる。反射的に振り向くと、そこには七海がいた。少し走ったらしく、肩が少し上下している。

「おはよう、凪くん。」
「…おはよ。」
「相変わらずナギは冷てえな〜。凍っちまうぜ。」
「お前は凍らねえだろ…。」

 七海の笑い声が聞こえ、七海の方を見る。
 昨日とは違い、髪をひとつに束ねている。高いところから垂れた髪はまるで馬のしっぽだ。そして、なんとなく、いや、違うかもしれないが…少し昨日より唇の色がピンクっぽかった。あ、あれか。色付きリップ。小鳥遊とか嵐が話していた記憶がある。なるほどな。七海もそれを持っていたのか。

「…凪くん?」
「あ、ごめん…。」

 流石に七海も気づいたらしく、引き気味に尋ねる。ちなみにジンは全く気づかなかった。まあガサツなやつだもんな。

「あ?そういえば寧々、今日は髪結んでるんだな。」
「うん。今日は体育があるから。今ってなにやってるの?」
「女子はバレーボールだったな。3組の女子と合同だぞ。」
「そうなんだ。ありがとう。」
「2人とも。そろそろ生徒がいっぱいいるところに着くからその辺で。」
「あ、そうだね。ありがと、凪くん。」
「はいはい。分かってるよ。サンキュー、ナギー。」

 七海は途端に口角を上げた。
 やっぱり作り笑いのようだ。みんなは気づいていないみたいだけど。
 昨日見た本当の笑顔に比べると、明らかに厚さが違う。昨日は眩しく輝く太陽のようだったのに、今はただ咲いている一輪の花程度だ。

「今日は音楽室にも体育館にも行けるんだ〜。楽しみっ。」
「よかったね…。」
「…寧々は、なんでいつもそんな笑顔なんだ?顔が疲れるだろ。」
「あ〜…えっと…。…笑顔だと、みんなが楽しくなるでしょう?」
「…だってよ、ナギ。」
「え…知らないよ、そんなの…。」
「でも確かに疲れちゃうんだよね〜。…あ!凪くんの笑顔は見たことないな。ちょっと笑ってみてよ!」
「えっ…。いや…無理…疲れる…。」

 いや、本当に笑うことは体力を使う。っていうか、笑うこと自体得意ではない。別に笑わなくたってコミュニケーションはできる。
 七海はぷくーっと頬を膨らませ、ジンはいつも通り笑った。
 学校が見えてくる。いつもの通学路が、今日は少し違う気がした。
 七海がいたからだろうか。いや、多分違うな。


「おはよー寧々ちゃん!」
「おはよう。」
「今日髪結んでるんだね!可愛い〜。」
「ありがとう。」

 いつも通り、小鳥遊と嵐が七海につるむ。七海はなんとかグループに入れたようだ。
 女子というものは、どうもグループを重視するらしい。権力のあるグループ、おとなしいグループ、さまざまだ。だから、他のグループに属している者をそう簡単に自分のグループには入れさせない。まさにサバンナ。動物の縄張り争いかよ。
 俺は男子なので、そこんとこは気楽に過ごせる。これは男子の利点と言えるだろう。
 七海は常に笑顔だった。あれが『みんなのための笑顔』か。確かに疲れそうだ。
 俺はいつも通り小声でジンと話しながら、教室を見渡していた。
 こちらもいつも通り、普通の怪異が漂っている。暴走状態のやつはいなさそうだ。
 深呼吸をひとつして、耳を澄ませる。視界は少しぼやけるが、あたりの音が吸い込まれる。

『なーなー、今日の放課後さー』
『やばっ!先輩付き合ったの!?』
『本、ありがとう。おもしろかったよ。』
『弁当忘れたー!』

 大抵はどうでもいい情報。だがその中に、たまに有益な情報が眠っていることがある。
 俺が集中していると、ジンはそれに気づいて静かになる。ガサツなくせに、そういうことは汲み取ってくれるのだ。

『ねぇ知ってる?マリちゃん、行方不明になっちゃったらしいよ。』
『やだこわーい。』

 ん?行方不明?
 そいつらに集中して、会話を盗み聞く。

『なんか、屋上でいきなり足から消えてったらしいよ〜。』
『嘘だあ〜。』
『いや、マジなんだよ!だって今日、マリちゃん来てないでしょ?』

 …人はいきなり消えたりしない。何かが暴れてるのかも…?
 屋上か…。まあ、何かいてもおかしくはない。
 マリちゃんって…誰だっけ。

「ん〜…?」
「ん?どうした?腹が痛えのか?」
「…昼休み、行かないと…。」
「あーなるほどな。りょーかい。」
「なにが?」

 前もやられた背中つんつんと同時に、後ろから声が聞こえる。どうやら七海も聞いていたようだ。
 七海も見えるんだし、言ってもいいか。一応、ジンに目配せはする。ジンは少し考えた後、まあいいだろとでも言うように頷いた。 
 少し小声で話すと、段々と七海の顔が不安げに変わる。思ったことが全て顔に出る性格のようだ。おかげで今は、手を口元に当てて少し青ざめている。

「そうだったんだ…。」
「だから俺ら、今日も昼休み行かねえとなんだよな〜。」
「…でも、5時間目体育だから、着替えないとじゃない?」
「あ…そうだった…。…じゃあ放課後か…。」

 すっかり忘れていた。時間を有するタイプかもしれないし、確かに放課後の方がいい。素直に『ありがとう』を呟くと、七海はニコッと笑って返した。

「久しぶりに凪くんから『ありがとう』って言われたかも〜。嬉しいっ。」

 またまた咲く花の数を増やす。これはたぶん、本物だ。
 …何か視線を感じて周りをチラッと確認する。…うーわ…最悪…。
 なぜかクラスの半数くらいに注目されている。川上たちが俺らを見ながら話している。確かに、俺が誰かと話している時点で珍しい。さらにそこに転入生の女子というものが加われば、もう大変だ。珍しさが富士山レベルになる。
 そんな俺を、ジンは楽しそうにニヤニヤしていた。相変わらず性格悪いな…。
 クルッと向きを変えて、自分の世界を構築する。できるだけ注目されたくないのだ。周りの目線と話し声をシャットアウトする。