母上には家にも泊まらず、本家にも帰らない第三の案を提案するつもりであったが、都合がいい。
すぐにでも、本家を尋ねて兄上とお話しよう。
そう決めた僕は、手に持ったままのスマートフォンで別のところに電話を掛けた。
コール音がしばらく続いた後、〈はい、奏瀬でございます〉と柔らかな声が聞こえる。
「もしもし、都です。母上、今お時間よろしいですか?」
〈えぇ、大丈夫ですよ。都さんからお電話をくれるなんて嬉しいわ。どうしたのですか?〉
「明日の19時、屋敷に伺おうと思います。兄上はご在宅ですよね?」
〈まぁ……! えぇ、えぇ、透さんは明日もお家に居ますよ。ふふふ、ようやく仲直りする気になったのですね〉
「そういうわけでは……いえ、場合によってはそうなるかもしれませんが。今日、兄上の元を尋ねた柿原という男のことでお話がしたいと兄上にお伝えください」
〈分かりました。柿原さんのことで、お話があるのですね。都さん、明日はもちろん家に泊まっていくのですよね?〉
柿原とは違い、母上は弾んだ声で僕に尋ねる。
変に期待させてしまっているようで申し訳ないが、すぐに話がつかなかった場合も考慮して、本家に泊まるというのは悪くない手段かもしれない。
「えぇ……ご迷惑でなければ」
〈大切な息子が帰ってくるのですもの、迷惑なわけがありません。みんなにお話して、歓迎の準備をしておきますね〉
「ありがとうございます」
母上に引き留められて、他の話をしながら覚悟を決める。
明日、兄上と向き合うのだ。
大学の夏休み中、アルバイトに勤しんでいた僕は、以前"引き受け屋"を紹介した柿原という同大学に通う男から電話を受けた。
彼の話によると、僕の兄である透は、“柿原が僕の学友であるから”という理由で彼の依頼を断ったらしい。
柿原とは別に親しい間柄ではないが、だからこそ兄上には考え直していただかなければならない。
そういったわけで、僕は1年ぶりに奏瀬本家へと戻ってきた。
「おかえりなさい、都さん。待っていましたよ」
「母上、このような時間に申し訳ありません。ただいま戻り……あ、いえ。お邪魔致します」
「まぁ、ただいまでよろしいのに。うふふ、早くいらっしゃい。都さんのお部屋はそのままにしてありますから」
朝から夕方まで8時間のアルバイトを終えて、電車とバスを乗り継ぎ本家へ訪れた僕を迎えたのは、ニコニコと上機嫌な母上だった。
見慣れた着物姿の母上に、手入れの行き届いた庭、そして石畳の先の日本家屋。
17まで住んでいた我が家だから、やはり懐かしい想いがこみ上げてくる。
表玄関は客向けなので、裏口から家に上がると、中庭の障子が開かれているのが見えた。
「兄上はお仕事中ですか?」
「いいえ、今はお父様が儀式を。透さんはお部屋に居ますよ」
表玄関から見ると左奥、裏口から見ると左手前が家族の生活空間で、屋敷の右側は“引き受け屋”の仕事場となっている。
本家には中庭があるのだが、表玄関から見て手前正面と右側の障子が開かれている時(要は仕事場から中庭が見える時)は客が居る、つまり仕事中だと察することができるのだ。
最初からうるさくするつもりはなかったが、より足音に注意して静かに廊下を移動する。
どこからともなく漂ってくる木と畳の匂いが緊張する僕を落ち着かせた。
「母は席を外しますから、兄弟でゆっくりお話してください。せっかく帰ってきたのですから、喧嘩してはいけませんよ」「はい。ありがとうございます」
裏庭に面した部屋が僕と兄上の部屋。
母上は僕が部屋に入ったのを見届けて、縁側を戻っていった。
家を出た時とまるで変わらない自分の部屋を眺めていると、色々な想いが蘇ってくる。
僕は着替えが入ったバッグを畳に置いて、中から着物を取りだした。
「……」
洋服を脱ぎ、着物に袖を通しながら、兄上の反応を考える。
愚直に考え直してくださいと言って、すぐに聞き入れてもらえるなら話は簡単だが、そうはならない予感がある。
第一、兄上は芯を持ったお方だ。筋の通った話をしなければ、考え直してもらうことなどできない。
まずは、僕と柿原の関係について、誤解を解かなければ。
「よし」
小さく呟いて、気合いを入れる。
着替えるために一度閉めた障子を開けて、縁側から隣の部屋へ移動した。
「失礼します。兄上、お時間よろしいでしょうか」
「あぁ。入れ」
部屋の奥の机に向かっていた兄上は、ちらりと振り向いて淡々と応える。
許可を得て僕が室内に入る間に、兄上も体を縁側へと向けて座り直した。
僕に精悍さを足した顔、とよく言われる兄上の姿は、1年前と変わらず……否、少し疲れが溜まっているように見える。
より仕事が忙しくなっているようだと思いながら、僕は口を開いた。
「お久しぶりです。お変わりありませんか?」
「問題ない。お前は少し痩せたようだな」
「そう、でしょうか。僕も外で働くようになったので……」
「食事は摂っているのか?」
「はい。三食摂っております」
本家にいた頃と比べると質素な食事ではあるから、そのせいで痩せたのかもしれない。
自分では変わらないと思っていたから、少々驚きだ。
挨拶がてらそのような世間話をいくつかした後、兄上に促されて本題に入る。
「それで、どんな話をしに来たんだ?」
「はい。昨日“引き受け屋”に依頼しに行った柿原という名の男のことで……兄上に考え直していただきたく参りました」
「……」
無表情であった兄上が目を細める。
少なくとも、快く思われていないのは確かなようだ。
「柿原から聞きました。兄上は、柿原が僕の学友であるから依頼を断ったと」
「あぁ」
「……まずは訂正させてください。柿原とは同じ大学に通う生徒同士ではありますが、交流は全くありません。たまたま大学内で顔を合わせる機会があり、“引き受け屋”のことで悩んでいたため合い言葉を教えただけの関係です」
「そうか」
兄上の表情は変わらない。
痛む胸に、当然だと言い聞かせて頭を下げた。
「兄上が僕を嫌うのは、自業自得であると受け止めています。ですが、柿原は僕の学友などではありません。彼が妹を救いたいと想う気持ちは本物です。どうか、依頼を受けてやってください」
「……お前は、俺がそのような私情で依頼を断ったと、本気で思っているのか?」
「普段の兄上なら、そのようなことはなさらないでしょう。僕は、それを覆すほど兄上に嫌われていたから――」
「嫌いなどという感情で俺が依頼を断ることはない。彼の依頼を断ったのは、お前に次期当主としての自覚を持たせるためだ」
「――……え……?」
思いも寄らぬ言葉に、ぽかんと口を開けて固まる。
思わず顔を上げると、兄上は冷静沈着ないつもの表情で僕を見つめていた。
依頼を断ったのは、僕に次期当主としての自覚を持たせるため……?
「お前が、逃げてきた“引き受け屋”を紹介するほど、彼の想いに心を動かされたのだろう? だったら、良い機会だ。都。彼の依頼は、お前が受けろ」
「なっ……! 兄上、何をおっしゃっているのですか!」
「家を出たからといって、当主の決定は覆せない。お前は父上の跡を継ぐんだ。“引き受け屋”になるための修行はもう終わっている。儀式は行えるだろう」
「それは……っ、でも、僕は一度失敗して……!」
「……やはり精神は鍛えなければいけないか。家を出て1年半、そろそろ満足しただろう。次期当主としての修行は早ければ早い方が良い。儀式を行ったら、家に戻ってこい」
「っ、僕は帰りません! 奏瀬は兄上が継げばいいでしょう!?」
僕の言い分を無視して話を進める兄上に、思わず声を荒げる。
僕が嫌いだから依頼を断ったわけじゃないのはいい。
だけど、僕に依頼を受けろだなんて、そんなの受け入れられるわけがない!
どうして僕が家を出たのか、兄上は何も分かっておられないんだ。
「高校を卒業しても、お前は変わっていないな。そんな子供のような駄々が通じると思っているのか? いい加減、大人になれ」
「兄上こそ、分からないのですか!? 僕は人の“想い”を奪って消し去るんです! そんな僕が、“引き受け屋”などできるわけがないでしょう!」
「おかしなことを言う。それが“引き受け屋”だろう」
「っ、どうして分かってくださらないのですか!?」
頭に血が上った僕には、兄上の落ち着きが苛立たしい。
何を言っても通じないのかと、会話すら諦めそうになる。
柿原の依頼を受けるよう、兄上を説得しに来た僕は、早速困難にぶつかって冷静さを失った。
このままでは考え直してもらうことなど不可能だ。
けれど、僕が儀式を行うことはできない。
どうにかして、兄上を説得しなければ……。
“引き受け屋”を家業とする奏瀬の次期当主に指名され、家を飛び出したのが1年前――いや、もう1年半前になる。
もう二度と戻ることはないと決めていた僕が、大学の夏休みに奏瀬本家へと戻ってきたのは、同じ大学に通う柿原が僕の兄の透に理不尽な理由で依頼を断られたからだ。
ところが、実際に話してみると、兄上が依頼を断った理由は僕が想像していたものと違った。
「よりによって、兄上が儀式をしろとを仰るなんて……っ」
兄上は、僕に柿原の依頼を受けろと言う。
それだけではなく、家に戻って次期当主になるための修行をするように、と。
どうして兄上がそんなことを仰るのか、僕には理解できない。
まさか、あの日の出来事を忘れたとでも言うのだろうか。
「都さん、透さん! 静かになさい。喧嘩してはいけないと言ったでしょう」
「母上……!」
「……申し訳ありません。お騒がせ致しました」
俯いて歯を食いしばっていた僕は、背後からぴしゃりと飛んできた声に驚いて振り向く。
カッとなって大声を出してしまったから、母上が注意しにやってきたらしい。
兄上が淡々と謝るものだから、僕も幾分か落ち着きを取り戻して、苦々しく「申し訳ありません」と続けた。
母上は部屋に入り、僕と兄上を仲裁するように座って、いつもは柔らかな微笑みが浮かぶ顔をキリリと引き締める。
「どうして喧嘩になったのですか?」
「それは……」
「私が都に、儀式を行うよう言ったのです。昨日依頼に来たお客様の中に、都の紹介を受けた学生がいたので」
「そうですか。都さん、間違いありませんね?」
「……はい」
心の中は未だ荒れているが、大人しく頷く。
「分かりました。それでは、もう一度話し合いなさい。また喧嘩になったら夕飯は抜きですからね」
「「はい」」
母上は有言実行すると身を持って知っているので、想いに身を任せないよう気を引き締めた。
一度深呼吸して心を落ち着かせると、複雑な想いを抱きながら兄上に向き直る。
裏庭から縁側を通って吹いてくる風が、暑い室内に涼しさをもたらした。
「俺の意見は変わらない。都、彼の依頼はお前が受けろ」
「……僕には、できません。兄上が一番よく分かっているはずでしょう」
「お前が儀式を行えない理由は無い。“引き受け屋”として必要な能力は備えているはずだ」
「何を……っ!」
また激情につられて声を荒げそうになり、ハッとして奥歯を噛み締めた。
膝の上に置いた手を固く握って、自分の呼吸を意識する。
想いの波が落ち着いた頃、僕は弱々しく昔の傷に触れた。
「兄上は、忘れてしまったのですか……? 僕が、兄上の“想い”を消してしまったことを……」
「忘れるわけがないだろう。何故そんなことを気にする?」
「っ、どうして分からないのですか。僕は、望まぬ“想い”まで消してしまうんですよ? 兄上の時のように……っ。僕はもう、奏瀬の力を使ってはいけないのです」
「都さん……」
あれは僕が小学6年生、兄上が高校1年生の時のこと。
奏瀬の力を制御することを目的として、幼少から修行をしていた僕は、12歳の誕生日にとある試練を課せられた。
その内容は、兄・透の“想い”を昇華するというもの。
指定された“想い”は、池への苦手意識だった。
結果から言えば、指定された“想い”を昇華することには成功した。
ただ、僕はそれ以外の“想い”まで一緒に昇華してしまった。
それがどんな“想い”だったか言葉にするなら、“弟に対する愛情”と言えるだろう。
あの日から、兄上は僕への愛情を失った。
昔の僕は深く後悔し、悲しみに暮れながら二度と同じ過ちを犯さないように修行を続けたが、いざ儀式を行おうとするとあの時のことが蘇り、“想い”に触れることができなくなった。
それからどうなったかは、言うまでもないだろう。
今でも、鮮明に蘇る。
“想い”を昇華して目を開いた僕が見たのは、温もりが消えたガラス玉のような瞳。
「……たった一度の失敗で、何を言う。お前は奏瀬の中でも一番力に優れているのだ。そのような弱音を吐いて、救える者も見捨てるつもりか?」
「僕は見捨ててなど……力に優れていることが何だというのですか。僕はこんなもの、望んでいなかった……!」
「言葉が過ぎるぞ、都。お前はもう次期当主に決まっているのだ。勢い任せでも、この屋敷でそのようなことは口にするな」
「っ……僕は当主になるつもりなどありません。お話が終われば、すぐに出て行きます」
兄上を前にすると、無意識に体が強ばる。
じっと目を見ることができなくて、気付くと視線が逸れていることも多い。
過去に囚われている僕と、家のことを考えている兄上では、話が噛み合わなくて当然だ。
どちらも折れる気がないなら、話し合いは平行線のまま。
けれど、僕が諦めれば柿原は……柿原の妹は、救われない。
逃げるわけにはいかないんだ。
僕は、柿原の“想い”を知っているから。
「……このままでは、先程と同じだな。お前が何を言っても、“引き受け屋”は柿原氏の依頼を受けない。私が面談をして、彼には依頼内容に見合った支払い能力が無いと判断したからだ」
「なっ……ですが、時間をかければ柿原も」
「都。真奈美嬢とお会いしたことは?」
「いえ……ありません」
「私は電話越しだが、彼女と直接話をした。そして、彼女の恐怖を感じ取った。どういうことか、説明せずとも分かるな?」
兄上は凪いだ海のように静かな瞳で僕を見つめた。
僅かに緊張が走るが、僕の意識は兄上の言葉に傾く。
兄上は柿原の妹と電話で話して、彼女から“恐怖”を感じ取った。
それは単に、怖がっている様子だったから恐怖を感じているのだろうと察した、というような話ではない。
人の“想い”を扱う奏瀬の人間が口にする「“想い”を感じ取った」という言葉は、その人の“想い”が心に入り込んでくる――漠然とした感覚を感覚として感じる――ことを示す。
以前、僕も柿原と接触して彼の“想い”を感じ取ったが、あれは体の一部に触れなければできない芸当だ。
もちろん、電話越しに話しただけの兄上が柿原の妹と接触することは不可能。
つまり、兄上は僕が柿原と初めて会った時のように、彼女の声から“想い”を感じ取ったことになる。
そしてそれは通常、奏瀬の異能を濃く受け継いだ異端児である僕にしかできないこと。
「そんな……それほどまでに、根強い“想い”であると……?」
「本家の人間であれば、数回に分けて昇華することはできるだろう。しかし、その場合代金は跳ね上がる。富豪であっても、時間をかけなければいけないほどに」
「っ……!」
強い“想い”であるほど、奏瀬の人間が引き受けることも、昇華することも難しくなる。
それは儀式を行う者の“容量”や、相手の抵抗度合いが影響するからだ。
本来ありえないことが起こるほどに強い“想い”であれば、儀式を行う者が強烈な“想い”に呑み込まれる危険性もある。
僕が想定していたよりもずっと、柿原の妹の“想い”は根強く、儀式を行うことは限りなく困難である、ということだ。
“引き受け屋”一族、奏瀬の本家を訪ねた僕は、そこで柿原の妹が根強い“想い”を抱えている――昇華の儀式が困難である――ことを知った。
父上や兄上であれば、類を見ない柿原の妹の“想い”もなんとか昇華することはできるであろうが、その場合代金は一般人が払えないほど吊り上がる。
事態は、僕が「依頼を受けてやってください」と頼み込んでどうにかなるほど簡単ではなかった。
「大金を払えない柿原氏にとっても、深い“想い”を抱えている真奈美嬢にとっても、儀式が困難である我々にとっても、最善となるのは奏瀬の力に恵まれた都が儀式を行うことだ」
「……」
兄上のお言葉に、僕自身も納得してしまう。
それほど、筋が通った考えだった。
「我々にとっては未熟な次期当主を教育する良い機会となるし、都の修行であればこちらが代金を頂くことはない。金銭面の負担が無くなれば柿原氏は“引き受け屋”に依頼することが可能だろう。そして、真奈美嬢は負担を減らした上でより確実に“想い”を昇華できる」
僕の予想通り、兄上は柿原との面談で、よりよい方法を思案していたようだ。
今となっては、“兄上が僕を嫌っているから”などという理由で、柿原が依頼を断られたと考えていたことが恥ずかしい。
けれど、どんなに兄上の選択が正しいとしても、やはり僕には儀式など行えない。
もしも、あの時のように大切な“想い”を奪ってしまったら?
一度消し去ってしまった“想い”は、二度と取り戻すことができない。
人は沢山の“想い”を抱えて生きるもの。
それがどんな想いであっても、勝手に人の“想い”を奪うことは許されないのだ。
「……僕には、」
「できないとは言わせぬぞ。お前がやらなければ、真奈美嬢はこの先も強い“想い”に苦しむことになる。“引き受け屋”は正当な理由無く代金を免除することはない。柿原氏も、妹を助けることができない無念に駆られるだろう」
「っ……!」
以前、不注意で感じ取ってしまった柿原の“想い”が胸に蘇る。
あの時も、あいつは苦しんでいた。
大切に想っている家族を救えず、何もできない自分が悔しくて、少しでも希望があるなら縋りたいと、そのように想って。
僕が依頼を引き受けなかったら、柿原は希望を失い、さらに苦しむのだろう。
彼の妹も、声に乗るほど強烈な“想い”を1人で抱えて、どうにもできずに苦しみ続けるのだろうか。
僕は、柿原の無念を、妹への深い愛情を知りながら、彼を……彼らを、見捨てるのか――……?
「……っ、考えさせて、ください……」
絞り出した声は、震えていた。
これが、今の僕にできる精一杯だ。
人の想いを天秤にかけながら、すぐに頷くことができない自分が情けない。
「……母上、以上です。お手間を取らせました。今日は夕飯の支度をするのでしょう? もうお戻りいただいて結構です」
「そうですか、分かりました。都さん、よく頑張りましたね。透さんも、喧嘩にならないよう工夫してえらいわ」
「……ありがとうございます」
「それでは、母は行きますね。夕飯ができるまで、仲良く待っているんですよ」
「はい」
いつもの、柔らかな口調に戻った母上に僕は言葉を返すことができなかった。
顔を伏せたまま、衣擦れの音や足音が遠ざかっていくのを聞いて、母上が離れていく様子を知る。
「……都」
「はい……?」
静まりかえった部屋に、裏庭の草木がさざめく音が響く。
名前を呼ばれて顔を上げると、兄上は僕に向かって口を開いた。
「奏瀬は、“想い”を昇華する。それ故に、お前の儀式に対する恐れも、やろうと思えば簡単に消し去ってしまえる」
「……はい」
「だが、俺も父上もお前の恐れを昇華しようとは思わない。……お前自身も、そうしようとしなかったからこそ、今も恐れを抱えているのだろう」
目を伏せる兄上が、何を言おうとしているのか想像もつかない。
今まで、僕は罪の意識があって兄上を避けていたから、あの時に関する話をする機会もなかった。
思えば、あの日以来初めてだ。
こうやって、きちんと話をするのは。
「お前は未熟だ。だが……ちゃんと教えを守って、己の“想い”から逃げずにいる。……失敗を忘れるな。恐れに立ち向かえ。今まで泣かなかったお前なら、乗り越えられる」
「……! 兄上……」
「夕飯まで、まだ時間がある。父上も今はお疲れだろう。お前は部屋に戻って休め」
「……はい。失礼致します」
兄上のお言葉が、胸にじんと染みこむ。
頭を下げて、隣の自室に戻った僕は、1人、部屋の中央で正座しながら昔のことを思い出した。
『どうした、都。こんな庭の隅でうずくまって。もうすぐ夕飯の時間だぞ』
『兄上……何でもありません。夕飯は、あとでいただきます』
『それでは、母上が心配なさるぞ。何でもないというなら、顔を上げろ』
『! それは……』
いつのことだったか、裏庭の隅で小さくなって座っていた僕のところに、兄上がやってきたことがある。
『――友達と喧嘩をしたのか。酷いことを言ったから、後悔しているのか?』
『……はい。カッとなって、言いすぎてしまって……でも、あいつも悪いんです! 次はぼくの番だったのに、いつまでたってもボールを渡してくれないから』