そうだ。このスクリーンに映された海は、私がよく訪れた町の海だ。

 私の記憶は完全に消えるわけじゃない。きっかけさえあれば思い出すこともできる。
 しかし、思い出せる記憶もまた完全じゃない。
 断片的な記憶たちは私の頭の中でつながりがなく、それぞれが独立している。
 例えば、お母さんと一緒に食べたシュークリームがおいしかった思い出があるとする。
 私は町中でシュークリームを見かけると、おいしかった記憶はよみがえるが誰と一緒に食べたかは思い出せない。
 逆にお母さんとおいしいなにかを食べた記憶を思い出しても、そのなにかがシュークリームであることは忘れている。
 またある時はお母さんと一緒に食べたシュークリームを食べた場面は思い出せても、味の記憶が思い出せなかったりもする。
 こんな風に、私の記憶はシャボン玉がぷかぷかと浮かんでいるように不規則で、制御ができずに、いつのまにかパッと消えている。
 
 ザッ……、ザッ……。

 砂浜を踏む足音で意識が戻る。
 スクリーンの中では一人の男が現れる。
 おそらく大学生くらい。色の白い、すらりとした体格の男は服を着たまま、静かに海の中へと歩いていく。
 波が足首にあたる。それでも男は進むことを止めない。
 海面がすねを超え、膝まで差し掛かると、カメラの左端から突然一人の女の子が走ってきた。
 バシャバシャ、と水しぶきを上げながら海へと入ると、女の子は男の歩みを止めるように手をつかむ。
 しかし、手をつかまれたことでバランスを崩した男は足元を波にさらわれ、しりもちをつき、腕をつかんだままの女の子もまた海面へと倒れこんだ。
 カメラは慌てた様子で担がれ、ひどく揺れながら二人の元へと走り寄る。
 だが海面に入れないカメラは海辺で止まり、レンズをズームして二人の安否を確認する。
「え」
 声が漏れてしまい、慌てて口を手で押さえたが、幸い客は私一人だと思い出し、改めてスクリーンをじっと見つめる。
 間違いない。スクリーンいっぱいに映る頭まで濡らした女の子は、昔の私だ。
 すると、カメラが横へ移動する。
 その男の顔を見た瞬間、消えていたシャボン玉がまたぷくーっと膨らみ、宙に浮かんだ。
 びちょびちょになっている私を見て、ケラケラと笑っている男の名前は。

「純也……?」
「え、映画撮影?」
 海から出ると、頭にバンダナを巻いた大柄の男がタオルを差し出してくれた。
 私はタオルを受け取り、髪を拭いていると、大柄の男は純也が服を着たまま海に入っていた理由を説明して謝った。
「ごめんね、紛らわしいことして」
 紛らわしい。確かに私は、純也が入水自殺をしていると勘違いして、とっさに海に飛び入った。
 走り出す前に周りを見ていれば遠くで純也を撮影しているカメラに気づいたかもしれないのに。
 そう思うと、なんだが無性に恥ずかしくなった。電車で席をゆずろうと声をかけたが、断られた時のような気恥ずかしさだ。
「あ、いえ、私こそ……」
「わざわざ自殺なんかしねーって」
 そう言うと純也は犬のように首を振って髪の毛の水分を飛ばす。するとすぐ近くでカメラをさわっていた純也よりも線の細い男は純也の頭を思い切りはたく。
「水がつくだろ! ばか!」
「痛っ?!」
 そんな二人のやりとりを微妙な表情で見ている大柄の男の人は野田さん。いつもカメラをさわっている細い男の人は八木さん。
 二人は同じ大学の映画サークル仲間で、純也の自主映画撮影のスタッフらしい。
「あの、それで……、これは……?」
 3人の関係性の説明すると、純也は私の目の前で正座し、あとの二人は純也の両脇に立つ。
 なんだか重々しい雰囲気を醸し出す3人に、私も姿勢を正す。
 するといきなり純也は両手を前に出し、砂浜に八の字につける。
「お願いします! 俺の映画に出てください!」
「「お願いします!!」」
 純也は砂浜に頭をめり込ませ、後ろの二人も頭を下げた。
「えぇ、無理です」
「お願いします!」
「私演技とかできないし」
「演技しなくてもいいです! 自然体な感じでお願いします!」
「セリフも覚えられないし」
「全編アドリブで大丈夫です! お願いします!」
 だめだ。なにを言っても「お願いします」で跳ね返される。でも、本当に無理。
 できるできないって話じゃなくて、とにかくカメラに撮られるとか恥ずかしすぎる。
「ごめんなさい、私にはできません」
 私も頭を下げると、急に3人は静かになった。
 あれ、あきらめてくれたのかな。私は恐る恐る顔を上げると3人はカメラを中心に円陣を組んでいた。
「あ、あの……」
「八木、これさ……」
 すると、3人のひそひそ声が聞こえてくる。
「これって、普通のカメラじゃないよな?」
「これはフォルムカメラ。一度撮影した映像はフィルムに焼き付いているからもう消すことはできないんだ」
「じゃあ、今の俺が海に入るシーンは?」
「再撮影する必要がある」
「な、なんだって!!」
 そういうと、3人はちらっと私を見て、また話し出す。
「でも、今時フィルムって高いんだよな?」
「俺が使ってるフィルムは特にこだわっているから、通常よりもさらに高いなぁ」
「野田。俺たちの予算ってあとどれくらい残ってる?」
「もうほとんど残ってない。雀の涙だ」
「そうかー。だったらなおさら、さっきのシーンが使えればいいんだけどぉ」
「そうだなぁ。使えればいいんだけどぉ」
 そういうと、3人は再び私を見た。しかし今度はちらっ、ではなく、じーっとだ。
 3人の視線にしびれを切らし、私は砂浜をぐっと踏んで立ち上がる。
「わかった。わかりました! 映画に出ればいいんでしょ!」
 すると3人はよしっ! とガッツポーズをとり、ハイタッチをしあった。
 まんまと策にはまったのは面白くないが、こんなに喜んでもらえるなら受けてよかったかも、と思えた。
「けど、なにすればいいの?」
「うーん、そうだなぁ」
 純也は数秒だけ目をつむり、ぱっと目を開いた。
「俺の恋人役になってよ」
「恋人?!」
 やっぱり断りたいと思ったが、またしつこく粘られても嫌だと思い、私はゆっくりとうなずいた。
「そしたら今日はこんな格好だし、明日の朝十時にまたここにきてよ」
「ちょ、ちょっとまって」
 私はあわててポケットの中のメモ帳を取り出すが、海水でぐじゅぐじゅにふやけており、ペンはなくなっていた。
「私ちょっと、忘れっぽくて……」
 そういうと純也は野田さんの胸ポケットに刺さったネームペンを取り、私の手をつかむ。
「動くなよ」
 ペン先が手のひらをくすぐる。
「これで忘れないっしょ」
 得意げな純也。手のひらを見ると『明日 俺の彼女』とだけ書かれていた。
「意味わかんねーよ」と純也を叩く八木さん。
 そんな八木さんから逃げる純也。
 そんな2人を見ながら「ごめんね」と苦笑いを浮かべる野田さん。

 そんな3人を見ているうちに、なんだか可笑しくなってきて、私は笑いが止まらなくなった。

 
 海で出会った男女は恋に落ち、二人は同じ時を歩むようになる。

 字幕に続いて、スクリーンには私と純也がデートする映像が流れる。
 海辺の散歩したり、喫茶店でソーダを飲んだり、廃れたデパートのゲームセンターで遊んだり。
 それらはやはり、覚えていたり、覚えていなかったり。
 でも懐かしさと、恥ずかしさで身体がほくほくと熱くなってきた。

 そして、純也の屈託ない笑顔を見て、わかったことがある。

 それは、私は恋人役として純也と過ごす日々の中で、本当に純也のことを好きになっていったのだろう。
 これは思い出したことではなく、あくまで推論だ。
 その根拠は二つ。
 一つは、はじめはぎこちなかった私の笑顔がシーンが進むにつれ、とても柔らかくなり、心から楽しそうだと感じること。
 もう一つは今、スクリーン越しに純也に惹かれている自分に気づいたからだった。

 視界の隅でカバンの中が光ったのが見えた。
 観客はいないからいいか、と私はカバンを膝の上に置き、こっそりと通知を確認する。
『大丈夫?』
 メッセージの送り主である親友の名前と、画面に映る夏の景色を見て、私の記憶がまた呼び起こされる。

 

「はいカット!」
 野田さんがカチンコを鳴らすと、私はふぅ、と息を吐いた。
 撮影が始まって二週間。少しは慣れたつもりだがまだ少し緊張してしまう。
「監督、つぎのシーンは?」
「そうだなぁ」
 純也は指であごをさわりながらしばらくあたりを見回すと、突然町の中で一番大きな山を指さす。
「次は山神公園にいこう!」
「はぁ?! こっから歩いて一時間以上かかるのに?!」
「そういう移動が必要なシーンはレンタカー借りてまとめて一日で撮影すれば……」
「いや、今撮るべき! 今から歩けばちょうどいい感じの夕日になる!」
 そういうと純也はぴゅーっと駆け出し、野田さんが追いかける。
 その日の撮影の内容はこんな風に純也の気まぐれで決まる。
 そもそもこの映画がどんなストーリーか出演している私でさえ、わかっていない。
 脚本も構成もなく、すべては監督であり主演の純也のみぞ知るのだ。
「ったく、カメラ重いんだぞっ……!」
 八木さんはぶつぶつと文句を言いながらカメラからフィルムやレンズを手早く外し、持ち運び用のカバンへしまう。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、俺はムキムキだからな」
 そういうと八木さんは半そでシャツを肩までめくり、二の腕を曲げて見せる。
 案の定、筋肉はぴくりとも動かなかったが、そんなことよりも八木さんの腕が私よりも細くて白くてきれいなことがちょっとショックだった。
「あれ、大学じゃけっこうウケるのに」
 八木さんはカバンを重そうに背負い、歩き出す。
「そういえばなんですけど」
 山神公園までの移動時間。坂道の先を歩く純也を追いかける野田さんと、私のとなりで汗をだらだらと流す八木さんを見て、前から聞きたかったことを思い出した。
「二人はどうして、純也に付き合ってるんですか?」
 この二週間で知った3人の関係性。
 3人は高校からの知り合いで、仲良くなったきっかけは不明だという。でも、3年間のほとんどを3人で過ごしたらしい。
 高校卒業後、映画が好きだった八木さんと野田さんは映画を学ぶ大学へ入学。純也は大学へ入学せずにフリーターになった。
 それから一年以上純也と連絡を取っていなかったが、ある日突然、純也が家にやってきてこう言った。
「俺と一緒に映画つくってくれ!」
 2人から状況を聞いて、私の頭の中で完璧にその時の映像が再現された。いかにも純也らしい。
 しかし、そんな純也の無茶なお願いを野田さんと八木さんは文句は言いつつも聞いているのが不思議だった。
 二人はいつも大学の課題に追われているし、夜にはバイトもしている。
 フィルムカメラだって大学の機材で、本来は校外への持ち出しは禁止されているが教授におでこの皮がめくれるほど土下座をしまくって特別に借りているらしい。
「どうして、かぁ」
 八木さんはしばらく考えて、独り言のように言葉を吐いた。
「友だちだからかなぁ」
「友だち?」
 私の声で我に返った八木さんは、恥ずかしそうに笑った。
「あぁ見えて、あいつもいろいろ抱えてるのよ。そういうのを全部言ってくれた。俺たちを頼ってくれた。だから俺たちは、あいつのために最後まで付き合うだけよ」
 八木さんはしたたる汗をぬぐって歩き出す。
 友だち。
 その言葉を聞いて、私の頭には理恵の笑顔が浮かんだ。
 理恵、元気かな。
 なんだか無性に理恵に会いたくなった。だけど、私といても理恵はもう前のように笑ってくれないかもしれない。
 あの時のように呆れられるかもしれない。
 そう思うと申し訳なくて、会わない方がいいんじゃないかって思ってしまう。
 気持ちが沈み、うつむきながら歩いていると、八木さんは前を向いたまま「それにさ」と続ける。
「友だちに迷惑かけられるのも、悪いもんじゃないよ」
 八木さんの言葉に顔を上げると、坂の上では自販機で買ったジュースをぐびぐびと飲む野田さんと2本のジュースを持った純也が立っていた。
「早く来ないとジュースがぬるくなるぞ! ひょろひょろ八木!」
 純也にあおられた八木さんは私の方へゆっくりと振り返り、ぎらりと目を光らせる。
「純也のああいうところだけは許さないけどな」
「え?」
「おらぁ!!」
 八木さんはその細い身体からは想像もつかない脚力で坂を登りきり、純也の頭を思い切り叩いた。
「迷惑、か」
 坂を上りながら私はだんだんと覚悟を決めて、頭をさする純也に言った。
「純也、明日の撮影休んでいい?」

 次の日。私は撮影を休んで学校へ行った。
 上靴にはき替え、階段を上がり、教室ではなく屋上へと向かう。
 屋上へと続く銀色の扉を開けると、夏の青く澄んだ空が広がった。
 そこにはすでに柵にもたれる理恵の姿があった。
「理恵」
 名前を呼ぶと、理恵は私の顔を見て表情を曇らせる。それは私が理恵の名前を忘れてしまった時と同じ表情だった。
 心臓がすーっと冷める思いだ。
 秘密を打ち明けるのはとても怖い。
 否定されたり、軽んじられたり、変な同情をされたり、励まされたりするのが嫌だった。
 だからってどんな反応をしてほしいのかも、わかっていない。
 だけど。
 このままなにもせずに理恵のことを忘れてしまうことの方が怖かった。
「あのね、私実は……」
 私はスカートをぎゅっと握り、話し出す。
 どうして二週間も学校を休んでいたのか。休んでいる間なにをしていたのか。そして、自身の病気のことを。
 理恵はなにも言わずに、静かに聞いていた。
 私がすべてを話し終えると、理恵は「そっか」と小さく呟く。そして、優しく微笑んだ。
「話してくれてありがとう」
「……え」
 理恵の反応は感謝だった。それは私が全く想像していなかったものだった。
「病気のことはなんとなくそうなのかなって思ってた。でも、病気かなーって人にあなた病気でしょ、ってこっちから言うのは違うでしょ?」
「それは、そうだね」
 私は苦笑し、理恵も笑った。
「でもね、なんか自分だけは特別だと思ってたんだ」
「特別?」
「いろんなことを忘れても、奏は私のことだけは忘れないって。だからあの時、奏が私の名前を忘れた時、私って奏にとって特別じゃなかったんだって、なんかすごいショックで、怖くて」
「違う! 理恵は私にとって特別だよ!」
「うん。わかってる。私もだよ。私も奏は特別。いや、私にこんなこという資格ない」
「え?」
「私、理恵が学校に来ていない間に、病気のこと調べたんだ。
 病気って自分の意志とは関係ないもんね。どれだけ大切でも、特別でも、ふっと記憶から抜け落ちることがある。
 私、理恵の病気のこと調べたんだ。まぁ素人がインターネットで調べた程度の知識だけどさ」
 理恵はそう言うと、私の手をそっと握った。
「ごめんね。奏の方が怖かったのに、私が奏から逃げちゃった」
 理恵の瞳が潤み、雫がほほをつたう。
 私は理恵のほほを手で拭う。すると、いつしか自分の涙があふれ出ていた。
 私たちはどちらからともなく、互いのことを抱きしめた。
「これからも私、理恵のこと忘れちゃうかもしれない。いろんなことで迷惑かけると思う。でも、絶対に思い出すから。だから、これからも友だちでいてください」
「当たり前じゃん。こっちだって迷惑かけてやる」
 私たちは笑いあって、体をはなす。すると、目を真っ赤にはらした私の顔を見て理恵はまた笑った。
「泣きすぎ」
「理恵こそ」
 始業のチャイムが鳴る。でも、こんな顔じゃ教室に戻れないねって言って、私たちは一時間目をサボった。

 私は理恵から来たメッセージを見て、ふふっと笑った。
 客が一人もいないとはいえ、返信をするのはマナー違反な気がする。映画が終わったらすぐに返信すると決めて、カバンにしまった。
 気がつけば、映画は夏祭りのシーンへ。
 浴衣を着た私と純也は人混みの中を歩きながら屋台をのぞく。
 射的や輪投げで遊んだり、かき氷や焼きそばを買ったり。
 おそらく屋台や夏祭りの運営に無許可で撮影をしたのだろう。スクリーンに映る映像はきちんと撮影されたというよりはほとんど盗撮に近い映像だった。だけどその分、よりリアルに楽しんでいる私と純也の雰囲気が伝わってくる
 場面が変わり、二人は夜の浜辺で手持ち花火をはじめた。
 火がついたろうそくに花火の先端を押し当て、火花が散った瞬間に純也が後ずさる。
 花火はぼっと勢いよく燃え、色のついた火花が噴出する。
 ハリーポッターが魔法の杖を振るように、手持ち花火を振って呪文を唱える純也。
 無邪気で、純粋で、バカみたいに明るいいつもどおりの純也。
 しかし、そんな純也の姿を見ても私はなにも思い出せない。
 今までの映画のシーンはどれも思い出せたのに、ましてやこんなに楽しそうな記憶ならすぐにでも思い出せそうなのに。
 なんだろう、この違和感は……。
 モヤモヤとしながらも、意識をまた映画の中へともどす。
 手持ち花火がなくなると、最後に二人は線香花火に火をつけた。
 先端の火がぷくーっと膨らみ、静かに爆ぜる。
 すると、純也は線香花火の先端を見たまま、つぶやいた。

『俺、奏と出会てよかった。奏のこと、好きだよ』

 このセリフは用意されたものか、その場のアドリブだったのか。
 そして物語のための嘘の言葉なのか、純也の本心の言葉なのか。
 今の私にはなにもわからない。
 いや、このセリフを言われた時の私にもわかっていなかったのかもしれない。
 スクリーンの中の私は、その言葉に驚いたのか線香花火の火種をぽとりと落とした。
 そして過去の私は、純也の言葉に答えることなく、消えた線香花火をじっと見つめたまま泣いていた。
 この涙は演技じゃない。そもそも私には演技で涙を流せるような器用なことはできない。
 じゃあどうして、私は好きな人に好きだと言われて、こんなに悲しそうに泣いているのだろう。
 純也の線香花火は最後まで落ちることなく、燃え尽きて消えた。

『奏は、きっと大丈夫だから』

 純也は私の頭をそっと撫でると、立ち上がり、夜の浜辺を歩いていった。

 そこで映画は幕を閉じた。

 館内に光が灯る。私は急に現実に引き戻されたような気分だった。
 すると出入り口の扉が開き、二人の男性が入ってきた。
「八木さんと、野田さん?」
「奏ちゃん。久しぶり」
 二人とも記憶の中の姿とは違っていた。
 ひょろひょろだった八木さんは服の上からわかるほど筋肉がつき、ガタイが良かった野田さんはより大きく、そして立派な髭をたくわえている。
「元気だった?」
「はい。相変わらず忘れたり覚えたりの毎日です」
「そっかそっか」
「二人は今も映画撮影を?」
「ああ。毎日大変だよ。映画会社ってのはどこもブラックだね
 そういって二人は肩を落として笑った。
 二人とも姿は変わっても、中身はあのころのままで安心する。
 私は二人を見た後、あたりを回す。
 八木さんと野田さん。ここにはあともう一人いるはずだ。私をここへ呼んだ映画チケットの送り主が。
 あの純也のことだ。スクリーンの横から完成試写会のようにでてくるとか、映写室からこっちを見下ろしているとか、そんな風に登場してくると思ったのだが、純也の姿はどこにもなかった。
「あの、純也は?」
 私の問いに、八木さんは息を静かに吐いて答えた。



「死んだよ。3年前に」



 死んだ。
 
 八木さんの口から発せられた3文字の言葉を聞いて、頭の中で記憶の扉がガチャリと音を立てて開いた。

 そうだ。そうだった。
 あれは、あの夏祭りの時だった。 

 夏祭りのシーンを撮り終わり、私たちは人気のない神社に寄って屋台で買った焼きそばやフランクフルトを食べていた。
「今日はもう終わり?」
「いや、もう1シーン。浜辺で花火してるシーンが撮りたい」
「花火なんてねーよ。今日はもう終わり」
 今日撮りたい、と駄々をこねる純也だったが、八木さんは断固として首を振った。
「だからそういう準備がいるものは前もって言っとけ」
「今思いついたんだからしょうがないだろ!」
「しょうがなくない!」
「しょうがない!」
 二人の言い合いはだんだんと白熱してきて、とうとう野田さんが「俺が買ってくるから」と仲裁してその場は収まった。
 野田さんがいなくなった後も、なんだか険悪な雰囲気が続いて、私は気まずくて飲み物買ってくる、といってその場を離れた。
 祭りはもう終盤で、屋台通りの人数は減ってきていた。
 半額になったりんご飴に惹かれつつも、首を振って前に進んだ。
 すでに焼きそばにじゃがバターにかき氷に焼き鳥まで食べてしまった。さすがにやばい。
 私は目的通り、4本の瓶ラムネを買って神社へともどる。
 それにしても八木さん、どうしたんだろう。
 純也のわがままは今に始まったことじゃない。むしろこれくらいはいつもどおりなのに。
 不思議に思いつつ石段をのぼりきると「奏には言わないでくれ」という純也の声が聞こえ、私はとっさに鳥居の陰に隠れた。
「言わないでくれって。お前はそれでいいのかよ?」
「いい。あいつには、あいつにだけは、俺のことを『もうすぐ死ぬやつ』なんて風に見られたくない」
 どういう意味? もうすぐ死ぬ?
 私はどくん、とはねる心臓を抑えて耳を傾ける。
「俺たちだって、お前のことそんな風に見てねえよ。だけど、約束しただろ? この映画の撮影期間内には絶対に死なないって」
「ああ」
「人通りの多い道を歩くのは常人だって体力をごっそり奪われる。それに夜も遅い。無理して撮影して、病気が悪化することだってあるだろ。残り少ない命なのに、もっと早く死ぬつもりかよ?」
 境内は沈黙に包まれる。
 病気? 残り少ない命……?
 一気に押し寄せる受け入れがたい情報に、呼吸が浅くなる。
「ごめん、いいすぎた……」
「いや、わがままいってるのはおれの方だからさ。急に俺の遺作を撮影してくれなんてお願い、お前たちにしか頼めなかったから」
 八木さんはたしかに、とやさしく笑った。
「でも、俺はさ……」
 それからの純也の声は聞くことができなかった。
 目にたまった涙をこぼさないように必死だったから。
 泣いたらダメだ。今泣けば、絶対にみんなに気づかれてしまう。
 それに、泣いて目が赤く腫れてしまうと、夏祭りのシーンと浜辺のシーンで私の顔が変わってしまう。
 私はふーっと長く息を吐いて気持ちを切り替え、二人の会話が終わったタイミングを見計らい、今来たように走って鳥居をくぐった。
「ただいまー! ラムネ買ってきたよ!」

 そうして私たちは浜辺へ向かい、手持ち花火で遊ぶシーンを撮影した。
 手持ち花火で無邪気に遊ぶ純也。そんな純也はもうすぐ死んでしまう。
 自分の秘密を知ってほしくない。
 その気持ちは、とてもよくわかる。だから私は知らないふりをするしかない。
 私はただ、純也の願いを叶えるしかない。

 そう思ったのに。

 純也に突然好きと言われ、我慢していた涙はあふれ、私の決心は簡単に崩れた。
 純也にいなくなってほしくない。純也に死んでほしくない。
 だから私は次の日から映画撮影に参加しなくなった。
 だって純也は映画撮影期間内には死なないんでしょ。
 だったら映画を完成させなければいいんだ。
 そうすれば、純也は死なないでしょ?

 子どものような屁理屈をならべて私は部屋に閉じこもった。
 しかし、そんな私のわがままは誰にも叶えられることはなかった。


 それから数か月後、純也は死んだ。

 私は泣いて、泣いて、そして、後悔した。
 どうして映画撮影をやめてしまったのだろう。
 どうして純也のそばを自ら離れてしまったのだろう。
 私の心は答えのないどうして、と埋まることのない寂しさでいっぱいになった。

 限界だった。

 私は幾度となく憎んだ自分の病気に情けなくもすがった。
 私は純也と出会った日から今日までの日記をはぎ取り、捨てた。
 純也との記憶を忘れるために。
 胸に大きな穴が空いたようで、私は呆然と立ち尽くす。
 人は時間を経て、大切な人の死を少しずつ受け入れていく。
 しかし、純也が死んだ事実から逃げてきた私には、純也の死を受け入れることができなかった。
 目頭がぎゅっと熱くなって、鼻の奥がツンとして、呼吸がどんどんと浅くなる。
「思い出させるようなことしてごめん」
 そんな私に、八木さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「今日ここに奏ちゃんを呼んだのは、純也との約束なんだ」
「約束?」
「うん。それに純也と奏ちゃんとの約束でもある」
 純也と私?
 すると、野田さんが映写室へ上がり、館内の明かりを少しだけ落としふたたび映写機を回す。
 スクリーンが照らされ、少しすると映像が始まった。
 そこには白いベッドに座る病院着を着た純也の姿があった。
 出会ったころよりもさらに痩せ、腕には点滴の管がついている。
「純也……」
 純也は神妙な面持ちで、カメラに向かって語りかける

『えー、この映像を見ているころには、きっと俺はこの世にいないだろう。……ぷっ』

 お決まりのセリフに純也は吹き出し、ケラケラと笑う。
「純也のこういうところ、本当にムカつくわぁ」
 八木さんはスクリーンを見ながら、目を細めて笑った。

『冗談はさておき、奏。お前急に撮影来なくなりやがって。俺の撮影スケジュールが全部パーだよ』
『お前スケジュールとか立てたことないだろ』

 カメラを撮影しているであろう当時の八木さんのツッコミに、純也は人差し指を口に当てた。

『静かに! まぁ、奏が来なくなった後すぐに俺が倒れちゃったから、結局撮影は中止になっただろうけど』

 そういって純也は笑った。

『俺さ、奏と同じ17歳のころに病気が発覚したんだ。もう治らない。20歳を超えることはないって。
 じゃあ生きてても意味ないじゃんって、大学受験もせずに高校卒業後はずっとボーっとしてた。
 でもさ、なんか急に怖くなって。
 このままなにもせずに、なにも残さないまま死んじゃって、誰にも思い出されないのって寂しいなって。
 そんな時にさ、とある映画を思い出したの。
 おれみたいにもうすぐ死ぬってわかったおじいさんが、死ぬまでにやりたいことを全部やるって話。
 監督の名前は忘れたけど、映画の物語は覚えてる。映画を見た時の感動は覚えてる。
 それってすごくね? って思って。それからすぐに八木と野田に連絡して、映画撮影を始めたんだ』

 隣を見ると、八木さんは静かに頷いた。

『けど正直、そんなすごい映画ができるわけないとも思ってて。
 二人には悪いけど最後の思い出作りというか、ごっこ遊びみたいな、そんな感覚だった。
 完成させなくても、死ぬまで楽しく生きれたらいいなって。
 そんな時、奏に出会った。
 あの時の奏、まじゾンビみたいな顔してたよな。こいつ暗すぎ! って思ったもん。
 だから映画撮影に誘った。まぁ完全にその場の勢い。
 でも、誘って正解だった。
 一緒に撮影するうちに、笑顔になっていく奏を見てて思ったんだ。
 俺はこの映画を、奏のために絶対に完成させようって』

 私の、ため?


『なのに奏が来なくなっちゃうんだもんなぁ~、なんて。
 ごめんな。余命のことちゃんと言わなくて。俺が悪かった』

 純也は申し訳なさそうに、頭を下げる。

『さて、そういうことでこの映画はまだ完成していない。だから、今から完成させようと思う』

 すると突然、八木さんは座席の後ろから見覚えのある大きなカバンを取り出し、慣れた手つきで三脚を立て、カメラのセッティングをはじめた。
「八木さん?」
「これ高かったんだよ。もう大学の機材借りれないから買ったの。ほんと、あいつには死んでも迷惑かけられっぱなしだよ」
 八木さんは言葉とは裏腹に、嬉しそうにレンズに目を当てる。
 私が戸惑うことが分かっていたように、純也は説明を始める。

『物語の筋書きはこう。
 余命少ない映画監督は遺作となる映画に出演する女優に恋をする。
 しかし、彼女に本当の想いを伝える前に監督は息を引き取る。
 数年後、大人になった女優は映画館で死んだはずの映画監督にスクリーン越しに再会する。
 そこで語られる監督の本心に、女優は本心で言葉を返す。
 俺が映画監督。女優は奏だ。
 最後の本心にセリフはない。大人になった奏がなんて返事をするのか天国で聞いているから』

 そういうと、純也は優しく微笑んだ。
 
『お前天国行けるの?』
『おまっ……! もうすぐ死ぬやつにそういうこと言う?!』

 八木さんの容赦ないコメントに突っ込む純也。そこで映像は一時停止された。
 映写室から野田さんが顔を出す。
「やっと、純也との最後の約束を果たせるよ」
「約束って? 映画を完成させること?」
「それともう一つ。奏ちゃんが20歳になったら、映画のチケットを贈ること」
「私が20歳になったら……」
 私はポケットから映画のチケットを取り出す。
 私が、20歳になったら。
「あっ」
 その瞬間、夕日の輝きが脳裏によぎった。


 そう。あれは、理恵に会おうと決心した日。
 純也の思惑通り、私たちが山神公園につくころにはとてもいい感じの景色になっていた。
 八木さんと野田さんが慌てて撮影準備を進め、私と純也は撮影場所として公園に設置された展望台に立った。
 柵から身を乗り出し、町を見下ろす。
 夕日が水平線にかかり、黄金色に輝く海と美しいオレンジ色の空に私は息をのんだ。
「そういえば、明日はなにか予定があるの?」
「予定というか、友だちに言いたいことがあって」
「言いたいこと?」
「でも、正直すごい緊張してる。やっぱやめようかな……」
「だったら、俺で練習すれば?」
「練習って」
 思いがけない提案に思わず笑ってしまったが、純也の顔を見て、私は小さく頷いた。
 練習だなんて思わない。
 私はただ、純也にも知っておいてほしいと思ったから。
「あのさ、私ね」
 そうして私は、純也に病気のことを告白した。
 しかし想像していたよりも、自分に起きた出来事や、自分の気持ちを言葉にするのは難しかった。
 話しているうちに、あれもこれもと話が脱線してしまい、結局、なにが言いたいのか自分でも分からなくなってしまう。
 これは、確かに練習しておいてよかったかもしれない。
 結局、長々と私は自分について語ってしまった。しかし。
「ふーん。奏も大変だねぇ」
 そんな私に対し、あまりにも短く、力の抜けた返答に、私も力が抜けた。
「そうなんですよ。大変なんですよ」
 遠くから波の音が聞こえる。
「なぁ、あのあたりじゃない? 俺たちが出会ったのって」
 純也はそう言って、海辺のあたりを指さす。
「そうそう」
「じゃああそこは覚えてる?」
 純也は町のあちこちを指さす。
 あの建物は一緒に行った喫茶店。その少し離れた建物はゲームセンター。
「けっこう覚えてんじゃん」
「そうなんだけどさ」
 私は長く息を吐いた。
 私はあの時の海の冷たさを思い出せない。
 喫茶店で何を食べたのか。ゲームセンターでなにをして遊んだのか。
 たぶんそうだろうと思い当たるものは思い浮かんでも、絶対にそれだという確信が持てない。
 そうやって私の記憶はだんだんとなくなっていく。
 今のこの時間だって。
「いつか忘れてしまうんだよね。いやだな」
「忘れたらいやだなって気持ちも忘れるだろ」
「そうかもだけど。私は、忘れたくないの。今の時間を」
 初めてだ。こんなにも素直に、思ったことをそのまましゃべるのは。
 私が静かに感動していると、純也はそうだ、と閃いた様子で私を見つめる。
「だったら奏が20歳になったら、この映画を見せてやるよ」
「20歳? なんで?」
「え? なんとなく」
 なんとなくかい、と冷めた目で見ると純也はごまかすようにケラケラと笑うので、私もつられて笑った。
 一緒に笑いながら、純也に伝えてよかった、と心から思った。

 
 そして、私は20歳になった。
 スクリーンに映る純也を私は改めて見つめる。
 あの頃は無邪気な年上だと思ってた。でも、スクリーンに映る純也は、ぜんぜん子どもだ。
 私はもう、大人になった。
 だから、わかることもある。あのころには気づかなかった純也の気持ち。

 純也、寂しかったんだよね。
 みんなと会えなくなることが。みんなに忘れられてしまうことが。
 ごめんね、純也。
 弱くて、ごめん。
 でも、私はもう大丈夫。
 だって私は20歳になったから。
 私、純也よりも年上だもん。
 だからもう逃げない。
 純也のこと、絶対に忘れない。
 どんなに強い風が吹いても、この風船だけは離さない。

 私は八木さんと野田さんを見て、小さく頷く。
「よーい、……スタート!」
 カンッとカチンコが鳴らされ、スクリーンに映像が流れる。

 帰り道。
 私はカレンダーアプリを起動した。
 画面を何度かスクロールし、9月4日を見つけると長押しして予定を入力する。

『9月4日:映画撮影』

 来年も、次の年も、忘れないように9月4日に同じ内容を入力した。
 結論から言えば、先ほどの映画撮影は中止となった。いわゆるリスケだ。
 改めてスクリーン越しに純也から告白を受けた私は、どうしようもなく泣いてしまって返事をすることができなかった。
 20歳だから、大人だから、と覚悟を決めるために自分に言い聞かせてみたけど、泣きじゃくる私を優しくなだめてくれた八木さんや野田さんと比べれば、私はまだまだ子どもだった。
 だから、もっと大人になったときに、改めてこの映画を完成させようと話し合った。
 毎年、純也の命日である9月4日に映画を撮影して、純也の墓参りをする。
 完成はいつになるか分からない。けど、いつか絶対に完成させる。
 それが八木さんと野田さんと約束した新しい約束だ。

 空を見上げると、半分が夜に染まり、遠くの空はまだ夕日が残っていた。
 あの時とはまた違う夕暮れの空を見つめながら、私は純也に語りかける。
「純也。
 私を映画撮影に誘ってくれてありがとう。
 私をたくさん笑わせてくれてありがとう。
 私との約束を果たしてくれてありがとう。
 私も、純也のことを忘れないって約束したいけど、正直自信がない。
 病気ってそういうもんだし。
 でもね、だからってあきらめないよ。
 残り少ない命の中でも、決して生きることを諦めなかった純也みたいに。
 私も、この病気とともに生きていく。
 だから、もし忘れてしまっても絶対に思い出す。この約束だけは絶対に守る。
 そのために努力もするし、頼れるものには全部頼る。
 そこも、純也を見習うよ。

 純也。

 私は、純也に会えて本当に良かった。
 純也のこと、心から愛してる」


 ……うーん、どうだろう。
 これが、20歳の私の答え。純也はOKを出してくれるかな。
 そんなことを考えながら、私は理恵に『9月4日になったら、私に映画撮影って伝えて』とメッセージを送った。
 するとすぐにハテナを浮かべたうさぎのスタンプが返ってきて、私は思わず噴き出した。
 

 

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