お茶を淹れて、花瓶と一緒に縁側へ持っていく。
ふたりでお茶を飲みながら、百合の花の香りに包まれながら、なんということもない話をしていた流れで、
「千代さんはどうして結婚しなかったの?」
ふと気になって訊ねてみた。
「あら。気になる? ふふ、お相手がいなかったのよ」
千代さんは少し首をかしげて笑って答えた。
「でも、若いころ婚約したことがあったって、お祖父ちゃんから聞いたよ」
「ああ、そんなこともあったわねえ……」
千代さんが懐かしげに目を細める。
「でも、すぐにだめになっちゃったのよ。私が悪かったの」
「どうして……?」
こんなことを訊いてもいいかなと少し不安に思いつつ問うと、千代さんは少し目を伏せた。
横顔に、寂しげなかげが宿る。
その反応に、私はどきりとした。
悪いことを訊いてしまったかと不安になった。
ごめんなさい、無神経だった、この話はやめよう、と言いかけたとき、
千代さんがそっと口を開いた。
「――忘れられない人がいたのよ」
静かな、静かな声だった。
「『一生ひとりで生きていくつもりか、みんな心配してるんだぞ』って親戚から見合いをすすめられて、断りきれなくて、お会いしたの。とっても好い人で、あれよあれよと話が進んで、婚約までしたんだけれどね……」
千代さんが一瞬口をつぐみ、唇を震わせた。
「……それでも、どうしても、『あの人』のことが忘れられなくて、私がだめにしちゃったのよ」
風が吹き、花瓶に生けた真っ白な百合の花がかすかに揺れた。
「……どんな人だったの?」
問いかけた声は、自分でもびっくりするほど小さかった。きっと千代さんには聞こえなかったと思う。でも、千代さんは答えるように言葉を続けた。
「戦時中に出会った……昔この近くにあった陸軍の基地に配属された、特攻隊員の方だったの」
「特攻隊……」
日本史の授業で習ったことがある。頼りない記憶をなんとか呼び起こして、たずねた。
「その人は……死んじゃったの?」
千代さんは悲しそうに微笑んで、小さく、小さくうなずいた。
「出撃の前にお別れの挨拶にいらしてね、『君はきっと幸せになれる』って、言ってくれたの。それと、『君に幸あれ』って一言だけ書いた手紙を残して、南の空に……」
千代さんが胸元に手を入れて、巾着袋を引き出し、袋の中から何かを取り出した。
「彼がここで過ごしたのはほんの短い間だけだったから、私の手元にある思い出は、これだけ」
それは、一通の手紙と、一枚の写真。
手紙は、さっき千代さんが言っていた、『君に幸あれ』と書いてあるものだった。
そして、写真には、凛々しい顔つきに、明るい表情を浮かべた、私と変わらない年ごろの若い男の人が映っていた。
顔写真の下に、『石丸智志』という名前が書かれている。
「これはね、私が語り部をしていた特攻資料館で、掲示されている石丸さんのお写真を、カメラで撮らせていただいたものなの」
千代さんは、いとおしげな眼差しで写真を見つめ、やせた指先でその名前をそっと撫でる。
「ぼろぼろね……」
たしかにその写真と手紙は、古いものというのももちろんあるけれど、それ以上に、ずいぶんとすりきれていた。
「何十年も、巾着に入れて肌身離さず持っていたから……」
たった一枚の写真と手紙に、どれほどの想いが込められているのか、痛いほどに伝わってきて、私はもう何も言えなかった。
「ねえ、千夏ちゃん」
しばらく写真の中の男の人をじっと見つめていた千代さんが、ふいに口を開いた。
「お願いがあるの」
「うん……なあに?」
「私が死んだら、棺の中に、この手紙と写真を入れてちょうだい」
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「やめてよ、千代さん。死ぬなんて言わないで……」
震える声で訴えたけれど、千代さんは微笑んで緩く首を振った。
「私はもう充分生きたもの、いつ死んだっておかしくないわ。きっともうすぐだって気がするの。……それにね」
千代さんの視線が、庭の向こうに広がる空へと向けられる。
怖いくらい綺麗に晴れた空だ。
「死ぬときには、あの方が迎えに来てくれるような気がするの……」
千代さんは空を見つめて、なぜだか嬉しそうに笑った。
「早く会いたい。ずうっとずうっと待っていたの、また会える日を……」
まるで少女のような、屈託のない笑顔と口調。
「私、幸せだったわ。好きなものを食べて、好きなことをして、好きなように生きた。もう充分……」
かすかに震える唇。
「もう充分でしょう? 石丸さん。私、頑張ったでしょう? 幸せになったのよ、あなたのいない世界で……」
千代さんがもらした『幸せ』という言葉に、それでも私は、どうしようもない寂しさを感じた。
千代さんの頬に、透明な涙がぽろりと伝った。
*
翌朝、千代さんはベッドの上で冷たくなっているところを発見された。
とても、とても幸せそうな微笑みを浮かべて。
「……石丸さんが、来てくれたんだね」
私は千代さんの手に手を重ねて、額を押し当てながら、そう声をかけた。
「よかったね、千代さん。やっと、やっと会えて、よかったね……」
私は千代さんの願い通り、棺の中で眠る千代さんの、組んだ手の下に、胸に抱くような形で、石丸さんの写真と手紙を置いた。
石丸さんの手紙には、千代さんへの優しい愛情があふれていた。
きっと石丸さんも千代さんを特別に想っていたのだろう。
戦争がなければ、きっと千代さんは石丸さんと結婚して、ずっと一緒にいられたんだろう。どちらかが命を終えるまでは、ずっと一緒に生きることができたんだろう。戦争さえなければ。
私はそのとき初めて、戦争の恐ろしさと、平和の尊さを知った。
千代さんが語り部をしていたという特攻資料館に、今度行ってみよう、絶対に行こうと決意した。
SIDE:千代 fin.
ふたりでお茶を飲みながら、百合の花の香りに包まれながら、なんということもない話をしていた流れで、
「千代さんはどうして結婚しなかったの?」
ふと気になって訊ねてみた。
「あら。気になる? ふふ、お相手がいなかったのよ」
千代さんは少し首をかしげて笑って答えた。
「でも、若いころ婚約したことがあったって、お祖父ちゃんから聞いたよ」
「ああ、そんなこともあったわねえ……」
千代さんが懐かしげに目を細める。
「でも、すぐにだめになっちゃったのよ。私が悪かったの」
「どうして……?」
こんなことを訊いてもいいかなと少し不安に思いつつ問うと、千代さんは少し目を伏せた。
横顔に、寂しげなかげが宿る。
その反応に、私はどきりとした。
悪いことを訊いてしまったかと不安になった。
ごめんなさい、無神経だった、この話はやめよう、と言いかけたとき、
千代さんがそっと口を開いた。
「――忘れられない人がいたのよ」
静かな、静かな声だった。
「『一生ひとりで生きていくつもりか、みんな心配してるんだぞ』って親戚から見合いをすすめられて、断りきれなくて、お会いしたの。とっても好い人で、あれよあれよと話が進んで、婚約までしたんだけれどね……」
千代さんが一瞬口をつぐみ、唇を震わせた。
「……それでも、どうしても、『あの人』のことが忘れられなくて、私がだめにしちゃったのよ」
風が吹き、花瓶に生けた真っ白な百合の花がかすかに揺れた。
「……どんな人だったの?」
問いかけた声は、自分でもびっくりするほど小さかった。きっと千代さんには聞こえなかったと思う。でも、千代さんは答えるように言葉を続けた。
「戦時中に出会った……昔この近くにあった陸軍の基地に配属された、特攻隊員の方だったの」
「特攻隊……」
日本史の授業で習ったことがある。頼りない記憶をなんとか呼び起こして、たずねた。
「その人は……死んじゃったの?」
千代さんは悲しそうに微笑んで、小さく、小さくうなずいた。
「出撃の前にお別れの挨拶にいらしてね、『君はきっと幸せになれる』って、言ってくれたの。それと、『君に幸あれ』って一言だけ書いた手紙を残して、南の空に……」
千代さんが胸元に手を入れて、巾着袋を引き出し、袋の中から何かを取り出した。
「彼がここで過ごしたのはほんの短い間だけだったから、私の手元にある思い出は、これだけ」
それは、一通の手紙と、一枚の写真。
手紙は、さっき千代さんが言っていた、『君に幸あれ』と書いてあるものだった。
そして、写真には、凛々しい顔つきに、明るい表情を浮かべた、私と変わらない年ごろの若い男の人が映っていた。
顔写真の下に、『石丸智志』という名前が書かれている。
「これはね、私が語り部をしていた特攻資料館で、掲示されている石丸さんのお写真を、カメラで撮らせていただいたものなの」
千代さんは、いとおしげな眼差しで写真を見つめ、やせた指先でその名前をそっと撫でる。
「ぼろぼろね……」
たしかにその写真と手紙は、古いものというのももちろんあるけれど、それ以上に、ずいぶんとすりきれていた。
「何十年も、巾着に入れて肌身離さず持っていたから……」
たった一枚の写真と手紙に、どれほどの想いが込められているのか、痛いほどに伝わってきて、私はもう何も言えなかった。
「ねえ、千夏ちゃん」
しばらく写真の中の男の人をじっと見つめていた千代さんが、ふいに口を開いた。
「お願いがあるの」
「うん……なあに?」
「私が死んだら、棺の中に、この手紙と写真を入れてちょうだい」
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「やめてよ、千代さん。死ぬなんて言わないで……」
震える声で訴えたけれど、千代さんは微笑んで緩く首を振った。
「私はもう充分生きたもの、いつ死んだっておかしくないわ。きっともうすぐだって気がするの。……それにね」
千代さんの視線が、庭の向こうに広がる空へと向けられる。
怖いくらい綺麗に晴れた空だ。
「死ぬときには、あの方が迎えに来てくれるような気がするの……」
千代さんは空を見つめて、なぜだか嬉しそうに笑った。
「早く会いたい。ずうっとずうっと待っていたの、また会える日を……」
まるで少女のような、屈託のない笑顔と口調。
「私、幸せだったわ。好きなものを食べて、好きなことをして、好きなように生きた。もう充分……」
かすかに震える唇。
「もう充分でしょう? 石丸さん。私、頑張ったでしょう? 幸せになったのよ、あなたのいない世界で……」
千代さんがもらした『幸せ』という言葉に、それでも私は、どうしようもない寂しさを感じた。
千代さんの頬に、透明な涙がぽろりと伝った。
*
翌朝、千代さんはベッドの上で冷たくなっているところを発見された。
とても、とても幸せそうな微笑みを浮かべて。
「……石丸さんが、来てくれたんだね」
私は千代さんの手に手を重ねて、額を押し当てながら、そう声をかけた。
「よかったね、千代さん。やっと、やっと会えて、よかったね……」
私は千代さんの願い通り、棺の中で眠る千代さんの、組んだ手の下に、胸に抱くような形で、石丸さんの写真と手紙を置いた。
石丸さんの手紙には、千代さんへの優しい愛情があふれていた。
きっと石丸さんも千代さんを特別に想っていたのだろう。
戦争がなければ、きっと千代さんは石丸さんと結婚して、ずっと一緒にいられたんだろう。どちらかが命を終えるまでは、ずっと一緒に生きることができたんだろう。戦争さえなければ。
私はそのとき初めて、戦争の恐ろしさと、平和の尊さを知った。
千代さんが語り部をしていたという特攻資料館に、今度行ってみよう、絶対に行こうと決意した。
SIDE:千代 fin.